函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で11年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2024年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2024年が明け今年は72歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2013年07月

 天気が良くないですね。ここ10日ばかり雨が降ったり、曇りの日が多く、太陽が顔を
出していません。早くいい天気になって欲しいです。

 さて、米沢藩9代目藩主上杉治憲(はるのり)は10歳で養子として、はるばる九州
宮崎の地から山形米沢の地へやって来ます。17歳で藩政を任せられ、成功しますが、
それも28年で引退、35歳の時に隠居します。その時に名を鷹山(ようざん)とします。
隠居後も養子とした治広の後見役として、藩の政治を指導し72歳にその生涯を閉じま
した。武士としてより、政治家として日本の歴史に残る稀有な存在感を示しているのは、
ケネディ大統領がこの時代に民主主義を唱えたサムライが存在したことに驚き、賞賛
していることでもお分かりいただけるでしょう。
みずから木綿の服を着て質素倹約に励み節約、産業を起こして利潤を追求、藩財政の
再建に成功したのでした。

なせば成る  なさねばならぬ  何事も  成らぬは人の  成さぬなりけり

伝国の杜(もり)  米沢市上杉博物館が中にあります。上杉の歴史を学べるところです
が、到着した時は午後4時30分を過ぎていて時間がなく、翌日は朝5時起床し散歩したが、
9時開館までは待てず、とうとう見学することは出来ませんでした。
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この日は上杉神社に隣接する広大な駐車場で車中泊。市街地だったけど、うるさくなく
静かな夜を過ごし、気持ち良く朝を迎えることが出来た。
 実はここ米沢は、伊達正宗の生誕の地です。江戸時代上杉氏が治める前は、伊達氏
が室町時代から212年間城を構えて治めていました。だから500年近く城下町として繁栄
していたのです。
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上杉神社は6時開門。
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正面の扉は6時に開き、
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参拝することが出来ました。朝早くから散歩したり、お参りする方が多く、出会うたびに
「おはようございます」の挨拶があり、嬉しくなります。もちろん、こちらも「おはよう ござ
います」を返しますよ。
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上杉記念館です。旧上杉伯爵邸で、鶴鳴館と称されました。明治維新後、四民平等の
時代に武士階級はトップが華族、他は士族へ。大名は華族として貴族階級になったの
ですね。今は予約制の高級レストランになっています。米沢伝統の郷土料理を味わえ
ます。
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JR米沢駅です。7時前でしたが、通学の高校生が結構いました。朝早くからご苦労様です。
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昨日写真で紹介した直江兼続(なおえかねつぐ)についてひとこと。
米沢藩初代藩主となった上杉景勝とともに、直江津から会津、そして米沢へと行動をともに
しています。米沢の礎を築いた景勝の執政で、1588年豊臣秀吉から「天下の治世を任じ得る
人物
」と絶賛したほど。徳川家康から景勝にかけられた謀反の嫌疑にも理を持って堂々と反論。
これが世に有名な「直江状」です。君主・領民のために心血を注ぎ、60年の生涯を閉じるまで
米沢の礎を築いたのです。
明日は日本史から離れて久しぶりに自然の絶景をご覧下さい。山に行きます!
ではまた明日 

 先週から天候が不順で、雨の日が続いています。全国的にも集中豪雨で被害が
出ている地域もあって、しばらく太陽の光を望めないですね。早く晴れて欲しいです。
といっても、30度を越す真夏日にはなって欲しくないけど、(関東地方の皆さんは35
度も猛暑日もあるんですよね。暑くて苦しいほどですね。)
 さて、福島県から山形県入りし、ここ米沢市を紹介します。人口8.9万人。県庁のある
山形市25.4万人、鶴岡市13.6万人、酒田市11.1万人に次ぐ県下4番目の市です。何と
いっても上杉家の町で有名。
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とりわけ、米沢藩9代藩主の上杉治憲(はるのり)、上杉鷹山です。米沢藩中興の祖であり、
財政危機の中、取り潰される寸前の米沢藩を救った救世主でもあります。彼は、九州は日
向(ひゅうが)の国、今の宮崎県の高鍋藩秋月種美の次男として誕生、10歳の時に上杉重
定の養子となります。ところが、当時は藩政は苦境のさなか、その中で17歳で財政再建に
取り組みます。17歳といったら高校2年生の年ですよ。すごいですね。
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藩再興に成功するのは、米沢織、米沢鯉、ウコギの生産、笹野一刀彫などの産業を起こし、
質実剛健、質素倹約のすすめです。鷹山が築いた基礎が今も米沢を形成しているのです。
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これは有名な言葉ですね。
35歳で隠居。次期藩主の治広に家督を譲る際に申し渡した3か条の心得は、後にアメリカ
36代大統領となるJ・F・ケネディが賞賛し、民主主義の鏡だといったほどです。
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伝国の辞」には
一、国家は先祖より子孫へ伝候国家にして我私すべき物にはこれなく候
二、人民には国家に属したる人民いして我私すべき物にはこれ無く候
三、国家人民のためにたたる君にて君のためにたたる国家人民にはこれなく候
封建時代の江戸時代によくぞ民主主義を主張したと、感心します。

上杉家の家祖である上杉謙信。何度も登場していますね。彼の養子(姉の子)である景勝
米沢藩初代藩主。安土・桃山時代の大名で、1598年豊臣秀吉により会津120万石に国替え
され、五大老の一人になりますが、1600年関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対し、翌1601年米沢
30万石に減封されます。以後、江戸時代から明治維新まで272年間続きました。
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最後に景勝公と直江兼続の像。「天地人」の主人公ですね。直江については明日詳しく
お伝えします。それではまた明日

GLAYのコンサートも無事に終了したようでなによりです。最後は大雨が降ってきたそうですが、さすがにGLAYファンは若い人たちが多く、雨なんぞ気にするものかと、アンコールもかかり多いに盛り上がったそうです。近所の奥さんも(50代)チケットを買って見てきたそうで、すごい熱狂だったそうです。
さて、函館の日常に溶け込んでいるのが、市電です。1913年(大正2年)6月29日、北海道初の路面電車として運行を開始したのです。我が家から歩いて5分のところに、駒場車庫があり市電のスタート地点となっています。そこで、路面電車開業百年を祝い感謝祭が開かれたので、言って見ました。

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先着300名に記念品などがあたる抽選券が配られるので、早めに行ったものの遅く、人で溢れていました。
8月1日から始まる港祭りで運行される「花電車」です。電飾されていて、夜は華やかです。

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懐かしいものもありました。私の母校である函館東高校では学校祭に「あんどん行列」を前夜祭で行っていますが、それが展示されていました。今は市立函館高校と名を変えていますが、伝統行事は継続されていてOBとしては嬉しい限りです。

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低い床で、高齢者に乗りやすい新型電車「らっくる号」は環境と日とにやさしい市電として2002年から導入されています。超低床電車は2両走っています。

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そもそも1897年(明治30年)函館馬車鉄道株式会社が運行開始した馬車鉄道が始まりです。その後馬車鉄道の軌道を基に電化、移設の工事が行われて1913年に道初の電車が動いたわけです。1934年には、函館大火により電車48両および新川町の車両施設が焼失するという惨事もありました。戦時中の1943年函館市役所交通局と改称し、戦後は市交通局の名で公営企業としての役割を果たしています。

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最後に、冬季間線路の上を除雪するササラ電車が奥にありますね。その上の写真で大型自動車に電車用車輪を付けたのもありますが、市民にとってはササラ電車が懐かしい。大正時代当時の姿そのものを再現した「箱館ハイカラ号」があれば良かったのですが運行中とのこと、きっと異国情緒あふれる西部地区を走っていてGLAYファンはビックリしているかも?

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というわけで、路面電車を紹介しました。旅先では、鹿児島、熊本、長崎、松山、高知、広島、富山、東京、札幌などで乗って見ましたが、今現在日本では17都市しか運行されていないそうです。排気ガスを出さない、環境にやさしい路面電車を大切にしたいですね。
ではまた、明日♪


GLAYのライブ初日、何とか雨も降らず成功裏に終わったようです。今週の土・日の函館は
函館競馬場での競馬だけではなく、近郊の大沼湖水祭りなど夏休みに入ってすごい賑わい。
湯川の温泉街は観光客であふれています。我が家は湯川温泉街の外れにあり、買い物など
外に出かけると、観光客らしき人たちは一目で分かります。今年は昨年と比較してかなり増え
ていますね。良いことです。
 さて只見の河井継之助記念館を見学した後、国道252号線を北上、カルデラ湖の沼沢湖を
見て、会津柳津(あいずやないづ)の町へ。ここには日本3大虚空蔵菩薩の圓蔵寺(えんぞうじ)
があります。
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ここの町は門前町。江戸時代から参詣するために、旅館、お土産物屋、飲食店などがあり、
車を止めて町を散歩して見たら、今もたくさんありました。
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お年寄りを中心に多くのお参り客がいました。
日本の3大虚空蔵菩薩とは?ここ福島県河沼郡柳津町の圓蔵寺の他に、茨城県那珂郡
東海村の日高寺、千葉県鴨川市清澄の清澄寺の三つです。
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807年徳一大師によって創建された、と伝えられています。弘法大師、空海は804年31歳で
唐(中国)に渡り、修行し帰国。弘法大師は、霊地を求めて刻んだ菩薩の像を海に投げ、それ
は越後の海より只見川をさかのぼり柳津にたどり着いたそうです。土地の老人が、その像を拾
い上げ斧で切ろうとしたところ、突然大音響を発したので老人は驚き、その像を割るのをやめま
した。その夜、夢の中で白髪の老人が現れ「その像は唐からの霊像なり、大師が訪ねて来た時
はそれをささげるべし」と告げました。当時大師は会津地方を歩いており、老人の話を聞いて、
自分の彫った像と巡り合い、非常に喜び、弟子によりここ柳津に寺を建立したそうです。
以上、ここでいただいた難しい言葉で書かれた文章のプリントを、何度も読み分かりやすく書き
ました。が、理解出来ましたか?ほとんど漢字だらけの1回読んだだけでは理解不能の文章で、
やっと自分でも分かるようになりました。時間がかかったなあ・・・。
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というわけで、福島県奥会津地方の町、柳津(やないづ)から大きなお寺を発見、思わぬ
歴史が分かりました。有名な観光地でなくても、驚きの場所もあるんですね。ここの町を
散歩して、いかにも門前町ってこんな感じなのかと思いました。田舎の町にも感じるもの
があります。今回はそんな柳津からお伝えしました。
ではまた明日   

 幕末の長岡藩家老河井継之助は戊辰戦争の一つ、北越の戦いで負傷し八十里越
越えて会津只見へ逃れます。しかし、傷の状態が悪化し塩沢村(現在の只見町塩沢地
区)の医師矢沢宗益宅で息を引き取りました。塩沢の村人たちは、この長岡藩士を火葬
し、骨を集め、村の医王寺に手厚く埋葬したのです。
 今日は、ラストサムライ河井継之助とその記念館を紹介します。
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7.4万石の長岡藩の藩士で中級武士の河井代右衛門の長男として1827年に誕生、「八重の桜」
の八重の兄である山本覚馬とともに、佐久間象山の下で学んでいます。江戸や西国への遊学を
通じて様々な師に出会い、黒船来航に揺れ動く全国の情勢について知見を広めました。
1865年、郡の奉行に登用されると、次々と改革を実行、町奉行、奉行、家老に進み藩政改革は
大いに成功していきましたが、時は幕末、明治維新、戊辰戦争へ。
 戊辰戦争では、河井継之助は「武装中立」の立場を貫こうとしますが、西軍との交渉は決裂し
会津藩を守るために奥羽越列藩同盟に加わり、長岡藩を率いて北越戦争に突入します。当時
日本に3門しかなかった機関銃のガトリング砲を2門持ち応戦するも、数に勝る新政府軍の前に
敗戦、長岡城下の戦いで負傷し会津に逃れます。その時に険しい八十里越えを越えることになる
のです。
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 継之助が担架に乗せられて八十里越を越えた際に詠んだ自嘲の句があります。
八十里 腰抜け武士の 越す峠
1868年、傷の悪化により42歳の生涯を閉じました。
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戊辰戦争では、新しい日本を創ろうとした薩摩・長州を中心とした西軍は天皇の軍として「官軍
を名乗り、旧幕府軍を天皇に逆らう「賊軍」とののしります。会津藩は新政府に対し恭順(事実上
の降伏)を示しますが、「錦の御旗}を持つ新政府軍は許さず徹底的に会津城を攻撃します。
中立の立場をとった長岡藩へも中立は認めず新政府軍と戦わざるを得ない状況を作ったのです。

下の写真は付属の建物「塩の博物館」の模型です。山中でも塩が生産されるのは長野県大鹿村
でも紹介しましたが、決して岩塩ではない、とのこと。では一体どうして?昔海であったところが閉
じ込められて、長い間に結晶となったのか?
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 というわけで、河井継之助記念館を見学し、改めて幕末のラストサムライ河井継之助をリスペクト
したのでした。  

 今朝は曇り空、明日は?今日雨マークがついているけど雨は降っていない。明日も
降らないで欲しいですね。新聞・ニュースでは「GLAYファン続々来函」の記事が。
いよいよ、明日、明後日となったGLAYの野外コンサート成功して、と願います。函館出身
では北島三郎をしのぐほどの力を持つGLAY、2日間で5万人を集めるといいます。すでに
函館のホテルの収容数1日2万人は、すべて予約で満杯。郊外のキャンプ場も、近郊の
ホテル、宿泊施設もいっぱい。はては札幌・登別からの0泊2日のツアーもあるそうです。
国際観光都市函館は、日本中から、いや世界中から観光客を呼ばなくては?
 ちなみに国際空港である函館空港には、昨年比3.7倍の台湾からの旅行者が来ていま
す。台湾のエバー航空と復興航空の2社が函館まで直通で運行する台湾便は6月までで
5.1万人となっています。大きな声で話す中国人は台湾からのお客さんだったんですね。

さて、新潟県最後の夜は、魚沼市の旧広瀬町にある道の駅「いりひろせ」。駐車している
車は1台もなく、一人ぼっちで夜を明かしました。山間部だけに、さすがに夜は冷え込みま
した。国道252号線を走り県境となっている六十里越トンネルを越すと、そこは福島県。
 浅草岳(1585.5m)を最高峰とした県境の山々が立ちふさがっています。長いトンネルの
向こうには巨大な人口湖の田子倉湖が見えた。
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残雪は道路のすぐそばにあり、つい1週間前までは通行止めだったそうです。ゴールデン・
ウイーク前には開通したかったそうですが、今年は雪が多く、また5月になっても降雪があり
開通が伸びたそうです。道路はトンネル以外にスノーシェイドという雪よけの、片側だけのトン
ネルが多くあります。山側は壁、谷側は柱が林立し、外の景色は見えるけどトンネルの屋根を
伝わってきた雪融け水がゴーゴーと谷側に流れ下っています。
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遠くのスノーシェイドが見えますね。東京電力の水力発電所の高圧電線も見えます。
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只見川を堰き止めて造られたダムです。源流は群馬県の至仏岳(2228.1m)を頂上とする
尾瀬ヶ原。至仏岳から南に流れるのが利根川です。只見川は福島県を下り、新潟県では
阿賀野川と名を変え、日本海に注いでいます。日本の川を代表する2つの大河である利根
川と阿賀野川の源流がここにあるのですね。すごい山深いところです。
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田子倉ダムは堤高145m、重力式ダム。湖底にはかつてのマタギの里田子倉の集落が沈んで
います。
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前に農村歌舞伎で紹介した桧枝岐村へは深い山を越えて国道289号線でつながっていますが、
相当険しいです。もしかしたら雪のために通行止めになっているかも?実際桧枝岐村から新潟
県銀山湖を通り、魚沼市までの国道352号線は積雪がまだあるため通行止めでした。

ヒネサユリ咲く会津のマッターホルンと呼ばれる蒲生岳(828m)。ヒメサユリは小さな可憐な白い
花が咲く初夏の花です。形がマッターホルンに似ているからかな?
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というわけで現在福島県只見町。東西に結構長い町で、さらに東へ行くと、幕末の志士である
長岡藩の河井継之助記念館があります。明日はラストサムライ~奥会津・只見に眠る幕末の
傑人、司馬遼太郎の作品「」の主人公でもある長岡藩家老河井継之助について詳しくお伝え
します。それでは よい週末を!もう夏休みに入っている方もおりますね。

 今日は朝からすごい雨 午後にはもっと大雨に   なるとのこと。
さて昨日に続き上越市から。
そもそも春日山の由来は、平安時代の中頃の958年越後の国の平和を願い、当時の国司
(知事みたいな存在ですね。越後地方を管轄する朝廷から派遣された役人)である藤原為信
が奈良の春日大社の分霊をリクエストし、越後の総鎮守の神様として、当時の針ヶ峰(今の
春日山)に祀ったことから始まります。
1381年室町時代、越後守護代の長尾高景が春日山城を増築する際に、現在の場所に移転
して建て替えられたそうです。
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うっそうとした杉林のの中の参道を一人の老人が坂を登って行きます。
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越後の守護上杉氏の氏神であった春日神社。春日山神社とは違います。後者は、明治維新後
高田藩の藩士小川澄晴が、上杉謙信を祀るために創建したもので、春日山城の中腹に鎮座し
ます。一方、春日神社は春日山を下りて謙信の菩提寺である林泉寺のとなりにあります。

高田城へと向かいます。上越市は直江津市と高田市が合併したことは前にお伝えした通り。春日
山城は旧直江津市のあります。車で20分もかからないところ、平野部にある平城です。春日山城
山城ですね。謙信にとっては戦うためのお城です。一方、平和の時代の江戸時代、お城は行政
の中心地として支配するための建築物です。
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高田城三重櫓(やぐら)。天守閣や石垣は築かれなかったものの、越後地方最大の雄藩に
ふさわしい三重櫓がシンボルでした。ここに見える三重櫓は、1993年(平成5年)に史実にの
っとり復元されたもの。
1610年氏に替わり、松平忠輝(1592年徳川家康の六男として誕生)が高田城を築き入城
するが在城わずか2年で改易(藩廃止)となり、1616年伊勢の国(三重県)朝熊山(あさまやま)
へ配流(飛ばされる)の身となる。25歳であった。
妻の五郎八(いろは)姫は伊達正宗の娘で、8歳で婚約している。
13歳で松平忠輝に嫁いだ五郎八姫の結婚生活はわずかに10年、高田に嫁いで2年で江戸の
伊達家屋敷に移り、1620年には仙台へ移り66歳まで生きたという。
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堀がきれいですね。周辺は公園になっていて、博物館・美術館・図書館・文学館、さらには
上越教育大学附属中学や上越総合技術高校もあり、さらに市営陸上競技場・野球場もあ
ります。石垣がないのはわずか4か月の工事だったためです。すべて土塁と堀によって城
郭が造られています。
市の観光パンフレットによれば、春は「日本三大夜桜」と称される4000本余りの桜が咲くし、
夏は「東洋1」のハスが堀を埋め尽くすそうです。

上越市出身の小林古径(こばやし こけい)は日本画家。東京の旧邸宅を移築復元した屋敷。
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上越市を後にして越後地方の内陸部へ。途中山間部で見た大杉。
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米どころ新潟でも、山が多くこのように棚田を作っているところも。まだ田植えは行われて
いなかった。
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というわけで、新潟県は広くこの日も新潟県北東部まで行くのが精いっぱい。三ケタ国道や
県道を走り、山また山の新潟県。明日は福島県へ。ではまた明日 

 昨日のブログに、柏稜高校野球部キャプテンから心暖まるコメントが届きました。
甲子園まで、あと二歩のところで敗退、チームメイトや応援してくれた方々への感謝
の気持ちなどを書いていて、本当にご苦労様とお伝えしたいです。良く頑張りました!
残りの高校生活、進路のことも含めて悔い残さずに過ごしてくれること祈ります。

さて今日も林泉寺からお伝えしますが、実は2時間前にブログ完成目前でした。また
全てあっという間に消えました。前回も完成まじかに消えることがありましたが、今回
は原因が分かりました。左手をキーボードの下に置いて、右手で打っていますが、左
手の手のひらの一部がCtriとFnキーに触れて一瞬の間に消去、というショッキングな
出来事になったのです。
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墓所の入り口です。この後詳しく紹介しますが、この後は後ほど・・・。

この奥にお墓がいくつもあります。
謙信公のお墓です。1578年(天正6年)3月49歳で、春日山城で亡くなりました。
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となりにあるのが川中島の戦いで戦死した者たちを供養する塔です。甲斐の国の武田信玄
と川中島(現在の長野県長野市、信濃川の長野県での呼び名千曲川)では5度にわたる戦い
があり、たくさんの戦死者を出しました。
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ここの墓所には、歴代5つの藩主のお墓もあります。室町時代の長尾氏、謙信の祖父である
長尾能景(よしかげ)と父の為景(ためかげ)。上杉謙信。安土桃山時代の堀秀重(ほり ひで
しげ)、秀治(ひではる)、秀政(ひでまさ)。江戸時代の松平綱賢(つなかた)。彼は一代限りで
した。継いだ榊原(さかきばら)政賢(まさたか)と政岺(まさみね)。他に歴代住職のお墓もあり
ます。
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山門の上には龍の絵が描かれています。ポンと手を打つと龍の鳴き声が聞こえます。
きっと板の反響して鳴るのでしょうね。
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険しい表情で見守る仁王像。
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本堂には「林泉寺」の大きな額がかかっています。
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宝物館(ほうもつかん)は、1971年(昭和46年)開館。林泉寺を菩提寺として上杉謙信公を
はじめ歴代各大名のゆかりの品々が多数展示されています。
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エントランスに立つ館長さん、詳しく説明してくれてありがたかったです。一つ一つ丁寧に
説明し、謙信の偉大さが理解出来ました。
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鐘楼と山門。
先程、自転車で出かけたら、野球部のO君にばったり、ある事情で学校へ行くそうです。
2度もの延長戦で勝利、特に準々決勝では延長10回の裏2塁打を放ち、勝利のホーム
インをしたO君は「悔いはない」と言っていました。キャプテン同様、残りの実質5か月楽し
んで生活して下さい。
ではまた明日  

上杉謙信公の菩提寺である越後春日山林泉寺を詳しく紹介します。菩提寺とは、先祖
代々の位牌を収めてあるお寺をいいます。菩提の意味は、煩悩を絶って得た、無上の悟り
の境地、という意味で極楽往生すること、もっとわかりやすく説明すると、「死後に思い残す
ことも無く、安らかに死ぬ」ということですね。
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上の写真は惣門(そうもん)。上杉謙信公によって春日山城から移築された、往時を今に
伝える唯一の門。舗装路の横に入場門があり、500円支払う。9時10分前に到着したので、
10分ほど周辺を散歩して一番乗り。門番(?)のおばさんが面白い人で、「どこから来たの?
函館は良い町でしょう」とか朝から笑って、楽しくお話し出来ました。嬉しいですね。

山門(さんもん)。上杉謙信公建立の山門は江戸時代末期の地震によって焼失、大正時代
に再建されて大きな額が再び掲げられています。
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春日山」の文字をアップすると、
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裏側には「第一義」の謙信直筆の大きな額があります。
謙信は林泉寺の和尚さんから様々なことを学び、その一つに「第一義」の真意を得ます。
一番大事なのは「」である、との意味で「人間の行いのうちで、すべての人々によって良い
とされるもの」です。例えば「義を見てせざるは勇なきなり」とか。
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上杉謙信公は、1530年春日山城で、越前守護代であった父長尾為景(ながおためかげ)公
と母である虎御前(とらごぜん)の間に誕生しています。
室町時代は幕府の下に、各地区に守護大名がいました。甲斐の国には、名門武田氏、謙信
と後に5度もの川中島の戦いをする武田信玄は有名ですね。周防の国(山口県)の大内氏、
薩摩の国の島津氏とか。その下に位置するのが守護代です。さらにその下には国人(こくじん
)が。室町時代後半、戦国時代は下剋上の時代。下の者が力尽くで大名を倒してのし上がる
ようになることはご存じの通りです。
謙信は7歳からここ林泉寺で学問を学びます。19歳で春日山城主となり、上杉家を相続し、関東
管領職を継ぎ、武将として確固たる地位を確立していったのです。

本堂です。1997年(平成9年)、開基(1497年創建)500年を記念して建立された新しい建物です。
釈迦牟尼仏をはじめさまざまな菩薩像など、謙信公の像も祀られています。
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謙信の祖父にあたる越後の守護代としていた長尾能景(よしかげ)公が、1497年に亡き父
重景(しげかげ)の17回忌にあたり長尾家の菩提寺として創建されたのが始まりです。
その後藩主は5代変わります。この本堂の屋根をご覧下さい。5つの藩主の家紋が順にあり
ます。左から、室町時代の長尾氏、上杉氏(謙信と景勝)家紋は竹に雀、真ん中に安土桃山
時代の氏、江戸時代に入り松平氏(三葉葵)、最後に榊原氏、と。

明日はさらに林泉寺を。広い境内と謙信のお墓も紹介します。ではまた明日  

昨日の続きで、上越市春日山から上杉謙信と2代目上杉景勝のお話からします。
生涯独身だった上杉謙信は姉の子を養子にもらいます。それが謙信亡き後の2代目と
なる上杉景勝です。ここは景勝屋敷跡。御館の乱(おだてのらん)は二人の養子である
勝利した景勝と敗北した三郎景虎の戦い。
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三の丸には敗れた上杉三郎景虎の屋敷があった。昨日も伝えたが、三郎景虎は北条氏康
の七男で、越後・相模同盟の人質だったものを謙信公が養子とした人で、記録によれば超
イケメンだったそうです。
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謙信の銅像が見える。
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」は毘沙門天、仏教の七福神の一つでもあり、軍神でもある。1990年代に自衛隊が
イラクに後方支援という形で派遣した部隊は、戦車などに毘の文字を使っていたことは
良く知られていますね。まさに、軍の神様だからです。
1969年(昭和44年)にNHK大河ドラマ「天と地と」の放映の折に建立されたのがこの像。
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春日山神社は、謙信公を祭神としている。旧高田藩のサムライ小川澄晴が浄財を募り、
創建した。
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朝早い時間だったが、上杉おもてなし武将隊といって上越市・春日山に来た観光客に無料で
ボランティア・ガイドする人達の中の一人の方(70代に見えた)、が熱心に説明してくれた。
ここの人たちはホントに上杉謙信が好きなんだな、と良く分かる。売店のおばちゃんも笑顔で
接してくれて、「おはようございます」の挨拶も心地よい。気持ちが良いです!
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ここ林泉寺は、謙信公の父である長尾能影(よしかげ)が父の菩提を弔うために創建した
長尾氏の菩提寺です。謙信は7歳から14歳まで、つまり元服するまでここのお寺の名僧で
ある天室光育(てんしつこういく)の下で文武の修行を積みました。荒っぽい(例えば織田
信長)のが多い戦国の武将の中で、数少ない教養が高く信仰心が深いのはここのお寺で
培ったからでしょう。お寺の境内の中にある墓地には謙信公や川中島の戦いで亡くなった
死者の供養塔があります。
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というわけで、明日はこの林泉寺を詳しく紹介したいと思います。
相変わらず本州は暑い日々が続いていますね。35度を超す猛暑日があった地域が
いくつもありましたが、函館は涼しいです。昨日の最高気温は26.4度、最低気温は
16.8度。夜は窓を閉めて寝ています。我が家は海から(津軽海峡)から400mで、さわ
やかな海風が感じられ、部屋にいるととっても気持ちいいです。だから、エアコンはまっ
たく必要ありません。さすがに外に出て陽の光を浴びると暑いな、と感じますが。
今朝は曇っていて肌寒いくらい。暑い地方の皆さん、熱中症にならないように気を付け
て生活して下さい。
ではまた明日! 

 上越市の春日山城は、戦国の名将上杉謙信公の城として今もその名をとどろかせ
ている。越後(新潟県)の守護大名上杉氏が戦時のために築いた城で、当時の県庁
にあたる守護所(現在の直江津駅南)から約4kmのところにあり、関東、信濃、北陸への
往来が一目で監視出来たからだ。
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時代は室町時代の後半、戦国時代に入っていた。上杉謙信は1530年、越後の守護代
長尾為影の末子として生まれ、14歳で元服(成人、大人になる)して長尾景虎と名乗り、
19歳で病弱な兄晴影に替わって越後守護代となる。越後統一後、信濃・関東・北陸への
出兵が生涯続くことになる。1561年、31歳の時鎌倉の鶴岡八幡宮で、上杉の名と関東
管領職
(関東地方の支配者)を上杉憲政から譲られ、上杉を名乗ることに。
1553年と1559年の2度に渡り上洛、天皇や足利将軍に会い深く信頼されていた。戦国の
名将、甲斐の国の武田信玄と5度も川中島で戦っていながら、信玄に救援の塩を送ったり
また領土的野心で戦をしたことは一度もなかったといわれるほど「」に篤い人であった。
1578年、関東出兵を前にして突然49歳の生涯を閉じてしまう。糖尿病の疑いあり。

1578年に謙信が亡くなると、養子である(謙信は最後まで独身、仏門に入っていたため結婚
せず)景勝(謙信の姉の子)と三郎景虎(北条氏康の七男で、同盟を結んだために人質として
謙信が養子にした)が、相続争い(御館の乱)し、景勝が勝利し、相続することになる。
ここは敗れた三郎景虎の屋敷があったところ。幟に毘の文字、謙信の兜に毘沙門の毘の文字
が描かれているのは仏教の戦の神毘沙門天からきていますね。
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標高100数十mの春日山の本丸のあった一番高いところで東の方角に上越市を見る。
北東の山は柏崎方向。左は日本海で直江津港が見える。上越市は主に直江津市と高田市
が合併し、さらに平成の大合併で周辺の町村を吸収し広大な面積かつ人口も20万人を越す
新潟県第3の都会となった。海沿いは臨海工業地帯。右側に江戸時代の高田城がある。
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 内陸部が旧高田市。徳川家康の六男である松平忠輝公が築いた城下町である。
1592年に生まれた忠輝は、8歳で伊達正宗の娘と婚約し、1610年越後福島城主となり
1611年に高田城を築き、入城する。
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謙信公の遺領を相続した景勝であったが、豊臣秀吉により1598年会津120万石へ移封となり、
秀吉の五大老となるが、1600年の関ヶ原の戦いで西軍についたため、出羽の国(山形県)米沢
30万石に減封となった。つまり飛ばされてしまった。わずか3年の間に直江津→会津→米沢と
変わる。その景勝をずっと支えたのが直江兼続(なおえかげつぐ)である。兜の前立てには「
の文字が書かれた、当時の時代では珍しい武将である。愛なんて良いですね。カッコいいね!
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南には百名山の一つ、スキー場でも有名な妙高山(2454m)の雪山が見える。
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というわけで、今日は戦国時代の名将上杉謙信の歴史を勉強しました。この後上杉景勝と
直江兼続の足跡をたどり米沢に行きますが、明日は上越市をもう少し見て、新潟県内を走り
福島県へ、そして山形県へと向かいます。
ではまた明日 
高校野球、私が前に勤めていた函館大柏稜高校とその前に28年間勤めた函館大有斗高校の
2校は甲子園を決める全国高校野球選手権大会南北海道大会準決勝でそれぞれ敗退しました。
残念でした。特に柏稜高校野野球部の生徒たちとは、少しの間でしたがトレーニング室で筋トレ
を一緒にやっていただけに「テレビを見て応援していました。良く頑張りました。もう少しだったけど
ご苦労様でした。お疲れさまでした。残りの高校生活悔いの残らないように!」と声を掛けたいです。
ブログを見ていた選手もいただけに、本当にありがとう!お疲れ! 

 5月に旅した東北地方が大雨のため大きな被害が出ています。ニュースを見て、
二か月前に通り過ぎた時は天気も良く穏やかな表情をみせていた土地も、雨が続
くと川は氾濫し農作物は壊滅的な打撃を受けていました。山形県寒河江市、南陽
市、福島県喜多方市、金山町など思い出がある土地に今回被害が出ていました。
これ以上雨が降らないこと、早く立ち直ってくれること祈ります。

昨日の引き続き、長野県大町から。
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大町青年会議所が主催して、空いている田んぼで「泥んこバレーボール大会」が開かれて
いました。たまたまこの日は日曜日、サイクリングを終えようとしていたら、近くで賑やかな
大きな声がスピーカーから流れていて、行ってみたらこれでした。
老いも若きも(年寄りはほとんどいませんでしたが)男女ともに、子供たちも含めて、参加者
みんな楽しそう!バレーなら少しは出来るので参加したかったです。
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小学生の子供たちもいますね。地元テレビ局も取材に来ていました。良いですね、こんな風に
j元を盛り上げるために地方の若者たちが頑張っているのは。応援したくなります。
北アルプスのふもとの町、大町から国道148号線を北上。新潟県に至る道を糸魚川街道、別名
千国街道といいます。
木崎湖・中綱湖・青木湖と小さな湖が三つ続きます。ここはその中でも一番小さな中綱湖にある
JR大糸線「簗場駅」。西側、つまり山側にはバブル時代に建設された別荘、スキー場、ホテルなど
の建物があるが、大部分はつぶれて無残な姿を見せています。いくつかは今も営業していますが
廃墟が目に付きます。
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中綱湖です。
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青木湖。
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葛葉峠(440m)を越えてついに新潟県へ。日本海に注ぐ姫川はフォッサマブナ地帯。西日本と
東日本を分ける断層がここ姫川沿いにあります。これが長野県諏訪湖を通り、静岡まで太平洋
にあで通過しています。中央構造線とは諏訪湖でクロスしています。フォッサマグナパークがあ
って初心者でも分かるように解説していました。RIMG1813




















糸魚川から日本海沿いに国道8号線を北東の方角へ。新潟県では県都新潟市(81.2万人)
長岡市(28.2万人)に続く県第三位の人口20.3万人の上越市へ。上杉謙信を祀る春日山
神社。
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この夜、謙信眠るここの公園の駐車場で車中泊。車中でブログ作成中に雨がしとしと、から
ザーザー降りへ。夜通し降っていましたが、最初の頃は不安でいっぱいだったのが、このこ
ろは全然気にならず、グッスリ寝れました。朝は雨もあがり少しは太陽も顔を出して晴れマ
ークへ。明日はここ春日山公園上杉謙信について紹介します。
ではまた明日 

 旅をしていない日、つまり家にいる間はのんびり過ごしています。普段は6時30分
頃に起床、朝食後NHK・BSの7:30からの「あまちゃん」を見る習慣がついてしまっ
た。面白くて、旅している間も、たまには見てました。岩手県北部地方が紹介されて
いて4月訪問した場所が登場すると、思い出して夢中になります。面白いですよね。
もっとも、働いていた時は朝の連続ドラマなど見る時間もなかったです。
 7:45からは火野正平さんが自転車で旅する「こころの旅」を8:00まで見ます。64歳
になられた火野さん、サイクリング車で全国各地を周っています。今週は長野県を走
っていて、5月に旅したところとかぶり懐かしく(それほど時間が経ったわけではない
けど)思いだして15分間見ています。
 ということで、退職した今だから出来ることで、働いている・学んでいる皆さんには申し
訳ないけど、ハッピーに生活しています。7月・8月たっぷりと充電して、9月また旅に出
たいです。といっても、9月までは長い間離れられない事情もあって、北海道・東北で
今まで訪れていない未知の土地を旅をしたいです。

 さて、長野県安曇野のちひろ美術館の続きからスタートします。
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庭が広々していてとっても素敵ですね。奥の建物が美術館です。
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 東京にもありますが、ちひろさんはここが気にいって、別荘を構えて絵を描いたのです。
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 別荘も公開しています。時間が早く、中には入れなかったけど、窓から写しました。
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時間まで庭園を散歩、色々な花が咲いていました。
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ポピーの赤い花が開いていますね。
エントランスも素敵です。もちろん内部は撮影禁止です。
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もう一度、庭園を。今度来る時はここの端っこに車を止めて車中泊したいな、と思わせる
ところでした。トイレも水道もあるし、幹線道路から外れていて閑静な場所なので、ぐっすり
寝れそうです。やっぱり、旅している時は安心して安全な場所で夜を明かしたいですよね。
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鑑賞後は、自転車を取り出し、周辺をサイクリング、。農道中心に気持ち良く走れました。
国道を走らず、脇にそれて県道、地方道、農道を走ると思わぬ発見があります。この日も
走っていて、立ち止まることが何度もあり、やっぱり自転車はいいな!とつくづく思いました。
 それでは、この日のサイクリング風景を。
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途中で、見つけた由緒ある神社。
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ここで、芸能を披露していたのでしょう。両面に見せるように舞台があります。
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相撲も取られたのだろう。今は子供たちも少なくなり、この土俵は使われているのだろうか?
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JR大町線の信濃松川駅は、建物がモダンですね。
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奥に北アルプス、飛騨山脈が見えます。これらの山間部に源がある高瀬川は南へ下り、松本市
犀川と合流し、長野市で千曲川となり、新潟県で信濃川と名を変えて日本海に注いでいます。
Uの字を描くように川は流れて、各地で合流して最後は日本一の川となってなるのですね。
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こちらの農家は広い水田を持ち、散村の形をとっています。富山県を旅していた時にも
このような農村風景を見たことがあります。一軒、一軒が離れていて家を守るかのように
防風林(防雪林)が家の周囲に植えられています。
雲り空でしたが、サイクリングするにはちょうど良く十分楽しめました。ロードレーサーも多く、
カッコいいユニフォームで身を包んだ若者、時々中年が、颯爽と追い越して行きました。
いいところです 
午後、大町市を越え3つの湖を見て、白馬へ、新潟県境を越えて糸魚川市へ日本海を北東
へ、最後は上越市へ行くことになります。その前に大町市で面白いものを見ることになりまし
た。それは明日紹介します。ではまた明日 

 昨日札幌・美瑛・富良野から2泊3日の旅を終えて帰宅、3日間の旅の記録は
昨日までのブログに載せましたのでご覧になったことと思います。今回は「ぼう
けんの旅」ではなく、家族旅行でしたので自分にとっては結構リッチな旅行でした。
ホントたまには家族サービスをしなくてはいけませんね。
 さて、長野県大鹿村を旅した時のことの続きです。映画「大鹿村騒動記」を見て
農村歌舞伎を知り、大鹿村はどこにある?から調査して、南アルプスの麓を訪れ
ようと、それも車でなくては難しいルート、今年5月函館を経って8日目になんとか
苦労しながらも訪れました。
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映画の中に登場した村の食堂「ディアイーター」の内部ですが、暗くて良く見えないですね。
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11時開店。二つの博物館(中央構造線博物館と村の資料館「ろくべん館)をじっくりと見学
して2時間(オープンの9時か11時まで、厚かましく昨日のチケットで両方入場出来ました。)
ここで、大鹿ジビエの鹿肉カレーを注文、その際に旅してて野菜不足になっていたので「野菜
サラダは大盛り」を、と。美味しかったです。バックのミュジーックに先日他界した忌野清志郎
の「太陽ののぼるところ」(だったかな?)をCDで聞いて、映画を思い出しながら食べていまし
た。

大鹿村はここまで。村からは県道を通り、伊那市へ。この峠がまたすさまじかったです。道が
狭く、険しく、考えると大鹿村はまさに陸の孤島状態なんだな、と。コンビニ1軒もない、という
よりコンビニは何軒か集まって成立するので、商品を運搬する労力を考えると採算が取れな
いのでしょうね。村にあるのはJA・農協の売店だけでした。
 伊那市から木曽路へ、松本市から安曇野市へ。ここは大宮熱田神宮。15年前にオートバイ
で訪ねた時に、ここで奉加帳に記入したら毎年ハガキが届き、もう一度行って見ようと、それで
訪問しました。
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うっそうとした神社の境内。
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この日は、安曇野市周辺に車中泊。周辺の道の駅2つを探したが、道路が混みあい夜寝るには
うるさ過ぎる、地図であちこち調べ河川敷のパークゴルフ場で寝ることにしました。仮設トイレが
あり、外には水道もある。道路から離れたところで静かである。誰も来ないだろう、ということで、
北アルプスの穂高岳槍ヶ岳が見える場所で一晩明かしました。近くには岩崎ちひろ美術館があ
ります。
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朝起きた時の、西側の光景です。
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雪山がきれいに見えますね。ちひろ美術館も見てみると。
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庭がきれいですね。明日に続きますので、ちひろファンはお楽しみに!

先程ラジオで聞いて応援していましたが、柏稜高校の野球部,全道大会2回戦で延長10回
逆転で勝利しましたね。おめどとうございます!監督の声も流れていましたよ。ブログによく
コメントしてくれるピッチャーのSTR君や同点打を打ったYくんも頑張りましたね。2日後の準
決勝も全力尽くして下さい!応援しています。

7月17日(水)天候晴れ、昨日宿泊した美瑛のペンション「薫風舎(くんぷうしゃ)」。食事がとっても美味しかったです。農家と兼業で、野菜はほとんど自家栽培、パン生地の小麦も自分の畑で栽培、夕食は最高でどんな★★★レストランよりも美味しい料理でした。

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小麦畑が延々と続いています。

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じゃがいも畑も遠く地平線の彼方まで。

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美瑛の美沢地区を山の上から撮影しました。

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十勝岳の麓の「青い池」へ。いつもと変わらぬ美しさ。

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白ひげの滝を見学。

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50mの橋の上から美瑛川を写すと、川は青々してました。アルミニウムの成分が土壌にあって、このように青い色が出るようです。

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最後に、中富良野町のファーム冨田での美しい花畑を連続して紹介します。

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富良野では戦争前の1940年代からラベンダーの生産が盛んでした。特に1970年までは、ほとんどの農家で、香料としての栽培をしていたが、1972年輸入物に圧されて国産品は売れず、1974年にはほとんどの農家が手放したそうです。しかし、冨田さんだけがわずか10アールだけだけど、栽培を続けていました。それは冨田さんの奥さんがラベンダーをつぶさないで、と泣いて止めたのでした。冨田さんも、自分の娘のように可愛く育てたラベンダー畑を転作することは出来なかったのです。
1976年「ディスカバー ジャパン」の宣伝で富良野の冨田さんのラベンダー畑が紹介されると、全国的に人気が出て、観光用として畑が復活、今や世界的なラベンダー観光農園として知られるようになりました。中国、韓国、台湾、東南アジアのタイ、インドネシアなど世界中から観光客が押し寄せるようになりました。この日も日本語より中国語の方が大きく聞こえるほどでしたよ。

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というわけで、3日間 札幌・美瑛・富良野と旅行した写真載せました。17日前はラベンダーの花はまだ一部しか咲いてなく、鮮やかなラベンダーカラーではなかったけど、今回は1年を通して最高の色が出ていたし、満開でした。ピークでしたね。暑かったけど、花がとってもきれいでした。
では、また明日♪♪♪

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