函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で11年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2024年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2024年が明け今年は72歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2013年09月

 「あまちゃん」が終えて、今日からは朝ドラは見ていない。BSで7:45から始まる
火野正平の自転車の「こころ旅」は見ていますが。「あまちゃん」がないと、元気が
出て来ない。少し虚脱感がありますね。良くないことですが・・・。ただ、「こころ旅」を
見て、旅に出たい!気持ちが湧いてきています。
 今日で9月が終了。明日からは10月です。さあ、もう少し頑張ろうっと。

 函館西部地区にある大正時代を想起させる建物、といえばこれ。
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丸井デパート跡地です。現在は函館市の所有する「地域交流町作りセンター」になって
います。私が小学生だったころまで、ここは道内最大の老舗丸井デパートが営業していた
んだけど、五稜郭に移転した後はしばらく使用されていなく、幽霊ビルのような感じだった。
 丸井デパートは、1872年(明治5年)新潟県三条市出身の今井藤七さんが札幌で個人
商店の「今井商店」を開業したのが始まり。函館支店は1923年(大正12年)に営業開始し、
1934年(昭和9年)の函館大火で、写真のような地下1階、地上5階の鉄筋コンクリート製の
近代的デパートとして建て直され、函館の老舗デパートとして昭和30年代まで賑わっていま
した。ちょうど、北洋漁業のピークの頃ですね。
 しかし、西部地区は人口減→五稜郭へ移転。バブルの時に本店札幌の失敗、あらゆること
でエラーが重なり、支店はここ函館だけです。小樽の支店の閉鎖から始まり、旭川も、釧路も、
室蘭も閉鎖。今の経営は三越・伊勢丹ホールディングスに代わっています。

 十字街で面白いものを発見。これ、何でしょうか?
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答えは下の写真をご覧下さい。
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操車塔という建物です。何と国内最古で、市電のポイント切り替えのため手動で操作する
ところだったんですね。

最後に、大森稲荷神社
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商売繁盛などを願う神社ですが、創建は1660年代というから江戸時代の前半です。今から
350年も前ですね。戦前、大門遊郭があったころは相当賑わったそうです。赤い鳥居が印象的
ですね。
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それではまた明日  追加。昨日のハーフマラソンで、トップを走っていた川内優希選手と藤原新選手らの争いです。
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2番手グループ。
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結果、藤原選手の優勝。川内優希選手は4位でした。見てたら、走りたくなりました!

海猿といえば、映画で知られるように機動救難士による救助活動です。昨日は海上保安庁の船を紹介しましたが、海上保安庁とはいわば海上での警察にあたりますね。28日(土)函館空港の横にある第一管区海上保安函館航空基地では、基地施設やヘリコプターの一般公開を行っていました。

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このヘリコプターの名は「くまたか」といいます。行方不明者や救助にあたりますね。基地を見てたら、こんな施設がありました。

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クライミング施設ですね。いつも、こんなのでトレーニングをしているんですね。彼らの仕事は絶対、筋トレは必要ですものね。ところで、海の事故で何番へ電話するか、使っていますか?例えば、警察へは110番、消防へは119番、海上保安庁へは?建物に書いてありました。

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118番です。近くには函館空港が見えます。ターミナルのちょうど裏側にあたりますが、滑走路を挟んで、この位置です。

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たまたま、JALが飛ぼうとしていたので、

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写しました。すぐに飛んで行ってしまった。

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あっという間に遠くへ。

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というわけで、快晴の昨日、函館空港周辺をサイクリングしてカメラに納めました。今日は函館ハーフマラソンの日。埼玉県の高校職員の川内優希選手が走りますね。私も昔は走っていましたが、膝を痛めてからは走れなくなった。家の近くがコースになっているので応援しますか。
それでは、また明日!!

 今日でもって、ついに「あまちゃん」は終了しました。今まで、朝ドラは仕事もあったし
馬鹿にして見てこなかったです。何せ、朝は7時30分には出勤しているし毎日連続する
15分もののドラマなんて、見たいとも思わなかった。ドラマには関心がなかった、という
のがホントのところかな?実際、「半沢直樹」も1回も見なかったし、「北の国から」も知ら
なかったのです。今思えば、恥ずかしい話。
しかし、「あまちゃん」は違った。もっとも、今年4月退職して自由な時間が取れたのも、朝
テレビを見れる余裕があるからなのか、ついにはまってしまいました。BSで7時30分から、
そして今日はこの後8時から地上波で見ます。あと3分後。8時15分からまた、書きます。
今朝は2回も見ました。またまた感動!やっぱり、行くしかない!!
行きます。10月5日(土)朝9時10分発ノフェリーで、東北へ!

 さて、それまでの間函館の景観でお楽しみ下さい。今日は厳島神社の続き。
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神社の境内にあったのが、これ。弁財天とは、仏教に登場する神様だが、日本では神道の
神で、「七福神」の一員として宝船に乗り、縁起物を持っている七福神の中では紅一点の神
です。女性なんですね。一方、恵比寿様は「大漁と追福」の漁業の神様。時代とともに福の神
として、「商売繁盛」「五穀豊穣」をもたらす商業と農業の神となっています。七福神の6つの神
はインドや中国生まれだが、恵比寿様だけは唯一日本由来の神様です。

 ちなみに、他の神様は大黒天毘沙門天福禄寿寿老人布袋の神さまたちです。

 西埠頭へ行くと、船が泊まっていました。
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海上保安庁の船。函館空港の近くにはヘリポートもあり、一度仕事がらみで乗ったことが
ありました。最初は怖かったけど、空を飛べるのは楽しくて最後はもっと、もっと飛んでいたい
気持ちになったことを記憶しています。 
北海道大学水産学部の練習船「うしお丸」も停泊していました。
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私が小学生の頃、近所の人で初代のこの船の乗組員が誘ってくれて乗船したことがあります。
非常に狭かったが、その経験が子供のころに船乗りになりたい、夢を持たせてくれました。
外国航路の乗組員になって、世界中の海を駈け廻りたい、との思いがありました。遠い昔の話
ですが・・・。
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続いて「箱館丸」。1854年箱館奉行所が、開国に伴い蝦夷地警備のために地元の船大工
續(つづき)豊治に命じて造らせた、史上初の日本人創造設計による洋式帆船です。
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カッコいいですね。
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というわけで、今日は何と言っても「あまちゃん」最終回で、余韻が残りすぎていて明日から
朝ドラは見れないんじゃないか(といっても明日は日曜日でない。月曜日からの話)と少しだけ
心配です。なにげに、ふと「潮騒のメモリー」を口ずさんでいる自分がいて、笑ってしまう 
それにしても、楽天イーグルスの優勝といい今、東北が熱い、熱い!
 じぇ じぇ じぇ!!  それでは、また明日 

昨夜、東北楽天ゴールデン・イーグルスがついに初優勝しました。最後を締めくくったのは、田中将大投手。9年目にして初の優勝!おめでとうございます。
嬉しいですね。私は北海道ですので、もちろんファイターズを応援していますけど、素直にイーグルスの優勝を喜びます。東北の被災地の皆さんも元気をもらったでしょう。
選手たちも、言っていましたけど被災地はまだ完全に復興していません。津波で家を失った多くの人々がいまだに仮設住宅で暮らしています。そんな、被災地の方々も一緒に元気を、勇気をもらった、と思います。

「あまちゃん」も明日で終了。今、東北です!やっぱり東北を旅するのがいい!寒くなって来たけど、南(九州)に行くより今回は東北です。

さて、我が家の小さな庭では今春から、二十日大根、とうもろこし、にんじんなどの種を蒔き、育てた結果、失敗もあったけど、何とか少しは収穫出来ました。
まずは、失敗例のとうもろこし。虫に食われてしまって、中は腐っている。来年は、ちゃんと食べれるものを作らねば。

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にんじんのミニ畑。

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葉っぱはこのように、青々と50cmほどに伸びた。土の中では大きく育った姿を想像した・・・。土から引っこ抜くと、色々な形のにんじんが出て来た。果たして?

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上のにんじんは商品になれるくらいの大きさ。下のものは、とても売れない代物ですね。それでも、昨夜は、これらを調理して天ぷらを作りました。プランターで栽培しているシソも含めて。

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その結果の作品です。昨夜大部分は胃の中に収まりましたが、残っていたものを写しました。

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他に家にあった、さつまいも、なすびも加えて。
にんじんの葉っぱを天ぷらにするとパリパリしてとても食べやすく、美味しいですよ。150円で買ったにんじんの種を6月に植え、9月に収穫、100本以上育ちました。来年はもっと上手に育てたいです。
というわけで、今日は我が家のにんじんが大きくなったことを紹介しました。
それでは、また明日!!

「あまちゃん」を今朝見て感動し、あと2回を残すのみになると、もっと見たい!と名残
惜しい気持ちがどんどん強くなった。こうなったら、直接現地に行くしかないか!と今年
最後の「ぼうけんの旅」になる10月の旅はやっぱり東北にします。
 早速、「やるべきこと」が終了する10月4日の翌日の5日に、9時10分発大間行き
をネットで予約しました。ネットだと1割引きになるのですよ。ホントは九州へ旅立つ
つもりだったが、今年は東北で始まり、東北で締めるのが良い、との思いからまだ見
ぬみちのく一人旅に行ってきます。

 さて、おとといの高龍寺、もう一度見ましょう。今度は全体を写した写真を。
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立派な門ですね。道を挟んで向かい側にあるのが、天台宗真言寺。寺の中に不動明王
あるのだが、残念ながら見ることは出来ない。
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1861年というから、幕末の時代。開国して間もない頃に創立されている。お寺そのものは
対して特徴もなく、一見して民家のよう。
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実際、2階は住まいに使われているようだ。
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でも、ここの不動明王は函館市指定有形文化財になっていて、いつかは拝みたい代物です。

 函館には坂が多い、と良く宣伝していますが、それは西部地区の話です。函館山は市の西に
位置しています。100万年前は火山島だった函館山は、その後押し寄せる砂によって対岸の
陸地とつながり、陸繋島となった。だから、山から見る光景は扇形になった市内は平坦で、広い
平野部を構成している。函館湾と大森浜の一番狭い部分はわずか800mもなく、しかも海抜2m
ほど。湾岸部は海抜1mしかない。坂は函館山からのみで、当たり前だが20本以上ある坂は
どちらも東側、つまり市内中心部へと下がっている。
 その中で有名なのが、西高校から港へ下る八幡坂。チャーミーグリーンのCMで知られるように
なった。いつもたくさんの観光客が多く来ている。そんな数多くある坂の一番北側にあるのが、
魚見坂。湾側は造船会社の函館どつくの工場がある。まさに海に面している。坂の一番上は市の
斎場で、火葬場になっている。標高100mほど。坂も中でも一番距離がある。約2kmくらいか。
 火葬場から下へは、以前紹介したカトリック墓地、赤いお墓の天下の号外屋翁の墓プロテスタ
ント墓地
ハリストス正教会墓地ロシア人墓地中華山荘、そして今日紹介した高龍寺真言寺
そして旧西小学校弥生小学校と統合され、廃校になった校舎がそのまま残っている。
坂を降り切ったところが市電の終着駅の「函館どつく前」。その電停の前にあるのが、厳島神社だ。
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江戸時代前期に創建されている。現在の建物は1907年(明治40年)。大火の後に造られ
ている。海の守護神を祀る神社で、地元の漁師のみならず、松前、遠くは北陸(北前船で日
本海側から蝦夷地へやって来ていた)、大坂商人たちから尊崇され信仰されていたそうです。
詳しくはまた、明日 


昨夜、七飯町大中山コモンでプロレス大会があり、私の次男であるカツオが出場しました。

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対戦相手は、同じ函館出身で同じ年齢の「めんそーれ親父」(本名はY・N)。彼とは昨年倒産した沖縄プロレスで1年間一緒にプレーした仲でもあり、あうんの呼吸で安心して観戦することが出来た。

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結果は、カツオのフォール勝ちだったが、主催団体の北都プロレスについて紹介したい。

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団体を引っ張るのが、64歳のクレイン中條さん。彼は普段、化粧品販売で道内を走り回っている。プロレスは彼の道楽みたいなもので、本業の利益で興業の赤字を補填している。本人は根っからのプロレス好き、プレーは出来ないのでレフェリーをして少しでも関わりを持ちたい、と思っているようだ。試合中にオヤジギャクを言って、観客は苦笑する。それでも、何度もだじゃれを連発した。「椅子を使うのはイーす。」「箒(ほうき)は放棄せよ。」「鎌に構うな」とか・・・
会場は一瞬氷つき、その後笑いの渦に。
そんな、中條さんを慕って手弁当で選手が集まる。昨日も東京から何人も来ていた。

全4試合。前座にプロレスラーと地元チビッコ空手選手が対戦し、会場をホットにする。子供たちは天使だ。マスクマンのレスラーが小学生にやられて親は喜ぶ。第1試合の前から観衆は盛り上がっていた。第1試合は若手レスラ―の初々しい試合。未完成だが、元気あふれるプレーに拍手する。第2試合は女子プロレス。善と悪がはっきりしていて、応援とブーイングで観客は一体となり、大いに盛り上がる。
そして、第3試合は10年選手の二人。二人は高校を卒業後の18歳で、闘竜門へ入門、その団体は半年後ドラゴンゲートへ。カツオはそこで、5年間ほどプレーする。その後沖縄プロレスでマスクマンの「ウルトラマンゴー」へ変身する。今はみちのくプロレス所属。めんそーれ親父はドラゴンドアへ、倒産後メキシコで活動し沖縄プロレスで3年間活動、現在はフリー。そんな、二人の10年間の人生を凝縮したようなプロレスだった。
15分間のハーフタイム。観客席は南側が雛壇になっている。

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ちょうど、休憩時間だったので、空席が目立つがほぼ満員。客数は200人くらいか?北側は仕切られていて今までの写真では客は入っていないように見えているが、まるで後楽園ホールをミニ化したような感じ。

カツオは試合直後にもかかわらず売店へ。

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オリジナルTシャツが売れていた。若い女の子のファンがプレゼントを渡していた。チビッコにはサインをしていてアットホームな会場だ。
メインイベントはベテラン勢のタッグマッチ。その後に行われたのが全員参加のバトルロイヤル。

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真ん中に立っているのがクレイン中條さん。彼も一緒に参加し、会場全体が熱くなっていくのがこの団体の良いところ。道内すべての市町村を廻りたいとのこと。ちょうど七飯町で100市町村め、休憩時間に社会福祉協議会への募金活動も行っていて、集まった募金は町の担当者へ渡されていた。あと、74町村廻ると道内すべて巡回したことになるが、果たしてあと何年かかることか?皆さんの町へやって来た時は是非ご協力お願いします。

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ちなみに、12月7日(土)函館・桔梗の流通センターで18時30分より、みちのくプロレスの大会があります。函館の皆さんの応援お願いします。
そんなわけで、昨日は七飯町大中山で開かれたプロレスのお話でした。
それでは、また明日!!

 先日高校ラグビー全国大会北海道予選決勝で、またしても函館勢は涙を飲みました。
昨年、今年と函館代表のラ・サール高校が札幌山の手高校と決勝で対戦するも3-72
の大差で敗れました。札幌山の手高校はこれで、14年連続大阪・花園で開催される全
国大会出場です。函館勢は、有斗高校・工業高校・市立函館高校・ラサール高校と決勝
までは進出するも、ニュージーランドからの留学生を擁する山の手には敗北しています。
いつの日か、山の手を倒して函館の高校生が花園の舞台を踏んでもらいたいです。今の
ままでは、優秀な少年ラグビー・スクールの中学生が地元に残らず、札幌に行ってしまう。
もう、すでに何人もの生徒が山の手に行っています。

さて、函館山山麓には寺町があり、いくつかのお寺が並んで建っています。その端に建つ
函館最古のお寺が高龍寺です。1633年といえば、江戸時代の前半で3代将軍徳川家光
の時で、鎖国と幕藩体制が確立し、まさに江戸幕府270年体制が出来上がった時ですね。
その年、松前の曹洞宗のお寺である法源寺の末寺として箱館に建立されました。幾度か
移転しながら1879年(明治12年)に現在の地に建てられています。
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門が立派ですね。越後(新潟県)出身の名工たちの作品で素晴らしい凝った彫刻です。
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門の横には、このお寺の紹介と写真の先駆者「横山松三郎」のお墓があることを知らせる
案内板があります。5日ほど前にも紹介しましたが、函館は日本の写真発祥の地、江戸末期
、イギリス人やフランス人から学んだ日本の若者が取り入れたのです。そうえいば、土方歳三
の凛々しいイケメンの写真もありましたよね。今から150年も前の話です。
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本堂
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本堂の左側
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さらにその並びに
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箱館戦争(1869年5月)の時は、箱館病院の分院として多くの負傷兵を受け入れています。
箱館病院は、高松凌雲が医者として敵・味方分け隔てなく看病した病院として知られていま
すね。
ところが、新政府軍は、病院に乱入し負傷兵を殺傷し寺に放火、特に会津の兵は多数犠牲
になったそうです。
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横に、献樹として福島県知事のツツジがありました。
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というわけで、今日は函館最古のお寺である高龍寺を紹介しました。墓地には何人かの
幕末に活躍した有名な方のお墓があります。墓地の中まではあまり入りたくないのでこの
辺で終わりますが、関心のある方は一度訪れてみてはいかがですか?
それでは、また明日 

「あまちゃん」は今週で終わり、いよいよ佳境に入って来ました。NHK・BSで7:30からいつも見ています。そして、今日は、久しぶりに火野正平さんの自転車による「こころの旅」が始まりました。見ていたらむしょうに旅に出たくなった。どこでもいい、今すぐに自転車に乗って!!遠くに行くんだ!!という思いがますます強くなっていきます。
まずは、2週間後10月5日出発!ということでがまん、ガマン、我慢。それまで、やらなければならないことは完了しなくては、それが終わるのが10月4日。直ちに翌日スタート!の予定です。

さて、昨日は戦前、東京以北最大の遊郭があったことをお伝えしました。遊郭入り口には巨大な門があって、それで大門地区という名前がついたことを紹介しましたが、駅周辺の町名は若松町といいます。大門地区と隣接する若松地区を歩いていたら、昔若松小学校があったところに出くわしました。

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初代校長先生の像もありました。

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校歌もありました。

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今は子供たちが少なくなり、周辺の学校と統合し跡地は福祉センターとなっています。

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昔は、高砂町と言われていたんですね。あの、「たかさごや~」から来ています。

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そして、この福祉センターの小公園には、土方歳三最後の地があります。彼の35歳の人生終焉の地がここ一本木関門。新政府軍の銃弾に撃たれて亡くなりました。

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そして、なんと歳三桜もあります。彼の故郷、武州日野村(東京都日野市)から送られて来た桜です。

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拡大すると、

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というわけで、土方最後の地は以前紹介したことがありましたが、桜は知らなかったです。9月も後半、だんだん涼しくなって来ています。朝は寒いくらい、さすがにもう窓は開けて寝ていませんし、夏の肌掛け布団だけでは無理か?タオルケットも追加して掛けています。1日の寒暖の差が大きくなって来ています。最高気温と最低気温の差が10℃以上ありますね。風邪を引かぬように気を付けて過ごしましょう。
それでは、また明日!!

昨日紹介した、函館山山麓の墓地にあった遊郭で働き倒れて亡くなった遊女たちのお墓に関して、関連して大門の話を少ししました。それで、昨日調べに行ったので、紹介します。

「江戸の吉原以北最大の遊郭」と呼ばれたのが、函館山山麓の蓬莱町(現在市電宝来町付近)の遊郭、どれ程大きかったのか?想像も出来ないが、1908年(明治40年)8月25日の大火で多くの建物は焼失する。そのため遊郭は、西部地区から駅近くの大森町周辺へ移動した。それが、大門の始まり。
入り口には巨大な門が左右に二つあったという。今はない。
大平洋戦争時は遊郭の賑わいは冷え込んだが、1945年10月アメリカ軍の函館進駐で再び活況となる。1956年(昭和31年)5月売春防止法が出来るまで、警視庁が赤い線で囲んだエリアでのみ遊郭が営業許可された。いわゆる「赤線」である。
そんな、隠れた歴史があった、なんて知らなかった。まして、江戸・吉原に比する蓬莱遊郭があったとは。
大門の名があるか?探して歩いてみました。

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まずあったのは、「大門横丁」。居酒屋、ラーメン屋を中心に30店舗以上集まって形成されている。さすがに朝は閑散しており、10時ではオープンしている店は一つもなかった。

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でも夜は賑わっていますよ。駅からゆっくり散策していたら、見つけた美鈴(みすず)コーヒー。この写真にあるのは、1935年(昭和10年)の北海道初のコーヒー焙煎機。ここは1933年(昭和8年)からコーヒー販売を始めたそう。なお、函館は日本で最初にコーヒーが飲まれた町です。カレーライスが最初に食べられたところが、「五島軒(ごとうけん)」で、コーヒーもそう。開国時に西洋から伝わってきたのを、レシピを教わり、見よう見まねで創作したのでしょうね。なお、五島軒の創始者、若山さんは長崎県五島列島の出身なので、五島軒と名を付けたのです。

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市電松風町の電停付近から大森浜方向を見ました。「大門通り」の小さな看板がありました。

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帰りしな発見した「大門銀座」の名がついた通り。電車通りから1本海側へ入った通りで、銀座なんてものは何ひとつない。空き地が広がり、銀座と書かれた旗も破れていた。

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というわけで、かつては人であふれた函館駅からの通りの大門地区。デパートは3軒もあった。文化の中心である函館最大の書店だった「森文化堂」も本州資本に敗北し、10年以上前から潰れたまま放置されている。
柳小路という文字通り小さな路があり、昔は飲み屋がたくさんあったところも裏寂れて寂しい限り。そこに、「杉の子」という小さなお店がありました。

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ラグビー関係者が良く行くお店ですので紹介します。
駅から少し入ると空き地が広がり、更地になっていて駐車場ばかり。新幹線が開通しても賑わいを取り戻すことはあるのだろうか?大門と呼ばれて、私の子供の頃は函館で一番の繁華街だったこの町もやがては廃れていくのだろう。時代の流れとはいえ、寂しいですね。
そんなわけで、今日は、遊郭があった大門の歴史を少しだけ紹介しました。
それでは、また明日!!

 普通、お墓の色は黒か濃い灰色など自然な色を使用していますよね。日本だけ
ではなく、世界のお墓でもそう。キリスト教の十字の形をしているお墓でも白い木を
使っていますね。
 そんなお墓がもし真っ赤かの色を塗っていたら、目立つし驚きの眼で見られるで
しょう。例えば、こんなお墓があったら・・・
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 1894年(明治27年)函館にやって来た信濃助治(しなの すけじ)は着ていた衣類すべて
帽子・コート・足袋のはてまで赤ずくしでした。時代は、日清戦争の最中、11月「日本勝利」の
知らせを北海新聞の号外で函館市民にまいて「天下の号外屋」と称して売り出し、「赤報」と
呼ばれていたそうです。
本人は、赤い心は偽りの無い心、それは日本武道の精神を表すとして、常にすべて赤い色を
用いたそうです。
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それにしても、すごいお墓ですね。ここは外国人墓地がある、火葬場に向かう坂道にあります。
下の写真は「有無両縁塔」。
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 説明文を見ると、1864年(維新の4年前)、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない
遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔、と書かれています。
 そういえば、函館駅から南へ500mほど行った松風町という地名がありますが、通称「大門
と呼ばれている地域です。大きな門があったところですが、その門とは、遊郭の入り口のこと
なのです。戦後、禁止されるまで続いていたのです。
1859年、日米通商修好条約で開港になると、日本各地から商人が、またロシア・アメリカ・イギ
リス・フランスなど世界中から外国人が来て遊郭も賑わいを見せたそうです。
お墓には「遊女」の文字も見えます。そんな、悲しいお墓でもあります。手前には地蔵さんも鎮座
しています。
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万平塚」は、1906年(明治39年)頃、函館にいた名物男の乞食さんの名前「万平」のお墓
です。石川啄木の歌にも歌われていますね。
この時代の函館は、日本中からいろんな人物がやって来ていたことが分かります。
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堀川町という町名がありますが、堀川乗経から来ています。函館港に注ぐ亀田川を大森浜へ
進路を変えた人物でもあります。当時は、機械などない時代ですべて人力で掘ったのです。
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イギリス人ジョン・ミルンは日本の地震学の祖ですね。堀川乗経の娘トネと結婚しています。
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というわけで、今日は真っ赤なお墓などを紹介しました。こんなお墓もあるのですね。
それにしても、開国時や明治・大正の時代の函館は大きな町だったことが分かります。
実際、当時は東京以北では仙台に次ぐ、東日本を代表する大都会だったのです。もち
ろん札幌よりも。今では、すっかり地方中都市へなってしまいましたが。
札幌は、東京以北では最大の192万人、横浜(370万人)、大阪(266万人)、名古屋(223
万人)に次ぐ第4位の人口があります。昨日の新聞に載っていましたが、全国の地価調査
で、道内では唯一上昇している都市です。悲しいかな、函館は最盛期34万人いましたが、
現在は28万人を割り27.7万人です。かつては人口数ベスト10入りしていましたが、今では
やっと40番目くらいか?首都圏の都市にどんどん抜かれています。統計では10年後には
20万人を切るとのこと・・・新幹線の駅が出来たとしても心配が多過ぎる 

それでは、また明日 

 わが北海道日本ハムファイターズは、昨日も敗れ自力Vの可能性はおろか
クライマックス・シリーズ進出もほとんど望みなしになってきました。昨年はパ・
リーグ優勝したのに、今年はどうしたことか?残念です・・・
 その代りというか、東北楽天イーグルスの初優勝の可能性が大きく出てきま
したね。昨日はBSで楽天の試合見ていましたが、9回の裏にサヨナラ・ヒットで
劇的勝利!今年は東北にヴィクトリー・フラッグを持ち帰ってもらいましょう。

 さて、函館山麓北部の外国人墓地の続きです。ここはロシア正教徒の墓地。
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 ハリストスとは、ロシア語でキリストの意味。函館には開国に伴い領事館も出来ましたが、
生活した多くのロシア人は、1917年(大正6年)ロシア革命で亡命してきた貴族たちです。
 1613年から300年以上にわたって続いたロマノフ家の皇帝を頂くロシア帝国から、史上
初の社会主義国ソヴィエト連邦となったロシア。レーニン率いる共産党独裁のソヴィエトか
ら財産没収どころか、命の危険もあり、それまで支配階級だったたくさんの貴族たちを中心
とする人々が亡命を決意、極東ロシアから一番近い国際港である函館港に命からがら亡命
したのでした。
 1920年代は函館、湯川にはロシア人村が出来るほどでその数1000人以上の人々が住み
着いたそうです。私の父も高校時代(戦前の函館工業高校)は川原町のロシア人の家に下宿
していた、と生前話していました。大麦のロシアパンやボルシチなどを御馳走になったそうです。
 その彼らが信仰していたのが、母国のロシア正教。共産国となったソヴィエトでは宗教は禁止、
異国の地である日本で、函館でロシア正教を信仰し、祖国を思い教会を建設したのです。日本
初のロシア正教会であるハリストス正教会の誕生でした。
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ここハリストス正教会の墓地には、函館で亡くなったロシア人のお墓があります。
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一番上の写真を見てお分かりのように、十字架の形が違いますね。正教会系の十字架は
カトリック、プロテスタント系と違うのです。カトリックの胸で十字を切るのも違います。
向い側にあるのは、中国人墓地です。
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明治時代、函館には多くの中国人がやって来ます。中華会館もこの時代造られています。
函館は国際貿易港として、ビジネスに励む華僑が多く住んだのです。
その内部に、少しだけ入って見ました。キレイに花が咲いていました。
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外観が素敵ですね。
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 というわけで、函館山山麓の外国人墓地を紹介しました。さすがに、他の宗教の墓地は
なかったのですが、キリスト教のいろいろな宗派の、各教会別の墓地を見学出来ましたね。
 周辺には仏教寺院もあり、明日は開国前後の日本人墓地を見て行きます。
それでは、また明日 

 朝ドラの「あまちゃん」はそろそろ最終回に近づいてきましたね。最後は9月28日(土)
なので、あと8回。結末はどうなるのか?家にいる間すっかりはまってしまいました。
舞台となった岩手県三陸地方の三陸鉄道北リアス線も実際に見て、乗ってきたし、終了
後も応援したいですね!また、行きたくなりました。
個人的に家の事情でやらなければいけないことも、何とか10月4日(金)までに一旦終え
ることも出来そうなので、秋の旅はその後の10月5日か6日あたりにリスタート出来そう
です。しばらく長い旅が出来ず、もんもんとした時間を(その間いろいろ忙しかったのです
が)過ごしていましたが、もう大丈夫。次の旅、いよいよ夢の旅10の一つ、九州の離島
と行きます。その旅はリアルタイムでアップしていく予定です。

 さて、函館山麓の北部には外国人墓地がたくさんあります。古くは、1855年ぺりーの来航
時に箱館で亡くなった水兵2名が。開港でやってきた中国人華僑の人たち、明治維新後、
貿易活動で函館で働いていて亡くなった人など、多くの外国人のお墓があります。
キリスト教では、カトリックやプロテスタント各派、ロシア正教会。カトリックも教会ごとに分か
れています。
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カトリック教会(旧教)系のお墓です。
周辺を散策していたら、讃美歌が聞こえてきて、よく見たらお葬式(聖ヨハネ教会、イギリス
国教会系)でした。さすがにカメラを向けることは出来ず、シャッターは押すことははばかれ
ましたが、同じプロテスタント(新教)でも教会が違うと墓地も違いますね。

ここは、函館の社会福祉事業の先駆者スール・マリ・オネジムのお墓があります。
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1878年(明治11年)、フランスのシャルトル聖パウロ修道女会から派遣されて来たんですね。
なんと、全国の白百合学園の発祥の地である函館白百合学園を創設した女性なんですね。
知らなかったです。
門柱に「シャルトル聖パウロ修道女会墓地」と彫られています。
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 キリスト教墓地群の間に、南部(岩手県)藩のサムライたちのお墓があります。開国して函館
に外国人が来る、となって蝦夷地は幕府の直轄地へなりその警備に東北諸藩があたり、南部
藩も600人余りの人々が極寒の蝦夷地やって来ます。維新までの間に亡くなった12名の藩士
がお墓に祀られています。
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岩手県人会の文字が見えますね。
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プロテスタント墓地には、亡くなったペリー艦隊の50歳と19歳の水兵が埋葬されています。
他にデンマーク領事、ドイツの代理領事も。当時、イギリス・アメリカ・ロシア・オランダ・フラ
ンスだけではなく、ヨーロッパの主な国々の領事館が函館にあったことに気付きます。
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函館湾の向こうに北斗市、うっすらと駒ヶ岳も見えます。
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教会の墓地内では土葬も認められているんですね。この道のずーっと上には函館市営の
火葬場がありますが、土葬も範囲内では出来るのですね。世界では、水葬(インド・ガンジス
川に流すヒンズー教徒)、鳥葬(インド・ラマ教徒、ゾロアスター教徒など)をはじめ様々な埋葬
があります。ここ、昼間は観光客でいっぱいですが、夜はあまり訪れたくない場所ですね・・・
というわけで、明日もロシア正教会や中国など外国人墓地その2を続けます。
それでは、また明日 

 9月4日(水)に、箱館からアメリカに密航した新島襄についてお話ししました。
NHK日曜日の「八重の桜」で、オダギリ・ジョーが演じる同志社大学を創立した
新島 襄のことで新しい発見があったのでアップしました。
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喫茶店になっています。なかなか素敵なお店ですね。店の名前が「JOE」となっています。
朝早かったのか?まだ、オープンしてませんね。
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前に紹介したように新島七五三太(しめた)の名が、帰国後襄になったことが書かれていますね。
街中で見つけた、昨日特集した大正ロマンの建築物を紹介します。
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商店になっていますね。
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函館どつくの近くにライダーハウスがあります。この建物も洒落ています。
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右端にオートバイが駐車しているのが分かりますね。確か1泊900円ほど。相部屋・雑魚寝の
部屋ですが、貧乏旅行のライダー達にはありがたい存在ですね。私も道内をツーリングした時
、雨に降られた時などに利用したことがあります。地方自治体が旅行者のために建てたもの
などは無料か、500円以下の低料金のところもあります。女性専用の部屋もありますので、是非
利用してみてはいかがですか?
電柱の看板をご覧下さい。「海抜1m」と貼られていますが、2011.3.11の東日本大震災の時は
津波の被害を受けたのでしょうね。函館でも1名が犠牲になっています。
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同じく函館どつくの近くにある「大黒湯」の名の銭湯です。昨日は「大正湯」を紹介しましたが、
距離にして300mも離れていませんが、いかにも銭湯って感じがしますよね。この近くに「白山
」という銭湯もありましたが、閉じていました。残念!
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このような赤レンガの倉庫が何棟もあります。今も使用されているものもありますが、明治・大正・
昭和の初めの頃は大いに賑わっていたのでしょうね。時代を物語る建物ですね。

というわけで、観光用ガイドブックには載っていない、函館西部地区にある歴史的建造物を中心に
紹介しました。ゆっくり路地裏をあるけばまだまだあります。明日も知られていない函館の歴史を見
つけて紹介します。それでは、また明日 

 昨夜からPCの表紙変えました。今までは緑の島のヨットの桟橋でしたが、今日からは
7月美瑛の丘で写した光景をしばらく使います。快晴だとバックの十勝岳連峰がキレイに
映えていますが、残念ながら山は見えません。それでも、小麦畑の丘は絶景ですよね。
 ライトブルーの愛車が似合うでしょう。

 さて、函館山の麓に広がる西部地区には明治・大正時代に建設された建物がたくさん
あります。1934年(昭和9年)の大火で焼失したものもありますが、いまだに健在のものも
あり、ゆっくりと路地裏を歩くと発見します。例えば、これ
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西部地区は何十回も歩いているけど、これは初めて発見! 名前も文字通り「大正館」。
2階を拡大すると、
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いいですね。何に使用しているのかな?オーナーはエレキ・ギターが好きなんですね。
窓のステンドグラスも素人ぽくって良い味出してますね。
そして、銭湯も、その名も「大正湯」。
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今度、入りに来よう、っと。ピンク色が絵になる。
そばのナナカマドの実が少し赤っぽくなっていました。
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函館山の少し裏側に行くと検疫所があった。
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説明文を読むと、1885年(明治18年)に当時の日本の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、
長崎、新潟)に日本で最初に常設消毒所が建設されたのが始まりで、1896年(明治29年)
に函館検疫所として改称され業務を始め、特に終戦の年の1945年(昭和20年)には、樺太
(サハリン)方面からの引揚者の権益にあたり、医療・援護に活躍しました。
1992年(平成4年)に廃止されました。
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昨日は、台風18号が日本中を襲い多くの被害を出しました。被災者の方には本当に
お見舞い申し上げます。函館でも1日中雨が降っていましたが、被害もなく大丈夫でし
たが、皆さんはどうでしたか?予定した行動が取れなかったとか?電車が動かなかっ
た、とか外出を控えた、とか今年は特に自然災害が多いですね。
夕方、6時ころ我が家の2階からきれいな虹が見えました。左が(株)野口観光の啄木亭、
右がホテル平成館。マンション2棟。その間に虹が。
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左の方を見ると、
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今日は秋晴れの快晴。朝は冷え込み、窓の内側に水滴が付いていました。2週間もすると、10月ですね。それでは、また明日!!

1858年、日米修好通商条約が結ばれた翌年の1859年箱館は横浜、神戸、新潟、長崎とともに国際貿易港になりました。
1860年入港した外国船は64隻。内訳は商船30隻、捕鯨船21隻、軍艦13隻。19世紀アメリカの漁民たちは、鯨を捕るために北大平洋に繰り出していました。日本近海にも現れて港を利用することを要求し出します。条約締結後は、上陸しアメリカ領事館も出来ます。以前紹介した弥生小学校ですね。
条約締結以前鎖国を続ける幕府は、外国船の来航に対しては燃料や水、食料などを与えて退去させていましたが、1824年イギリスの捕鯨船との間でトラブルが相次ぎ、1825年異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)を出しています。沿岸に接近した異国船はすべて打ち払え、の命令です。
だから、捕鯨船が多いのは当時のアメリカがいかに鯨を捕ることが重要であったか、を物語ります。21世紀の今では日本の捕鯨に対し、批判しているのに。なぜ、鯨を捕ったのかは、油ですね。鯨油が重要な資源として利用されていたからです。

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現在海上自衛隊があるここには、箱館運上所がありました。いわば現在の税関にあたります。実際、維新後の1872年(明治5年)には函館税関と名称を改めています。以前紹介した、江戸時代中頃の松前藩の「沖の口番所」と同じく海外(江戸時代は津軽海峡を越えて入って来た人・物に対して)からの人物、商品をチェックする場所ですね。
当時、輸入はなく輸出は中国向け昆布が4分の1を占めており、ほかにいりこ、スルメ、干しアワビなど海産物が多かったそうです。

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150年ほど前の人々は、ここに上陸していたんですね。向かい側に、7月GLAYのライブが行われた緑の島が見えますね。今はまた元通りに戻りましたが、4年後また行うそうですから楽しみですね。

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対岸には、前回紹介したホテル・ラビスタベイ函館が見えます。函館山を見ると、

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坂の上、遠くに公会堂も見えますね。

函館は、北海道の写真発祥の地でもあります。

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この事についてはまた改めて説明します。同じ場所に、北海道警察派出所第1号を知らせる柱もありました。

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西部地区の函館税関は、1911年(明治44年)新築されます。木造ルネッサンス洋風建築の素晴らしく建築物でしたが、1972年(昭和47年)に取り壊され、海岸町中央埠頭に移ります。港湾合同庁舎が完成し、移動しています。
知らなかったことがたくさんありますね。今まで見過ごしていたことが、ゆっくり歩いて見ると思わぬ発見をします。今日は、開国の歴史の1ページを見た気がしました。
それでは、また明日!!

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