函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で11年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2024年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2024年が明け今年は72歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2015年08月

←応援クリックお願いします。

元ふるさと銀河線の駅だった本別駅から無料区間の自動車道路で白糠へ。
秘境駅訪問家の牛山さんの本で紹介されている秘境駅の古瀬駅へと向かう。

自動車道路降りて太平洋側へ、国道38号線を南下する。白糠町の馬主来(ぱしゅくる)から
内陸部へ入る。2kmほど農道を入ったところでナビは終わりを告げた。
古瀬駅付近です、と。
しかし、周囲は牧草地か原野。駅などどこにもない。農道から脇道へ入る砂利道を見つけ、多分
この道か?と進むことにした。

そしてやっとたどり着いたのがこの駅。
IMG_0226



















奥の建物は、保線区の詰所であって駅舎ではない。だから、錠が掛かっていて内部へ入ることは
出来ない。
板張りのホームだけで、待合室もない。
御覧のように、原野と森で人家は1軒もない。まさしく秘境駅そのもの!
駅の始まりは信号所で、開業は1987年の昭和62年4月1日とまだ28年しか経っていない新しい駅。
IMG_0227



















それにしても、ここで下車する人いるの?
IMG_0228



















たまたま列車がやって来ました。
でも、下車する乗客はもちろんいない。
周囲の農家の方だって、車を使って遠出するだろう。
どうして、この駅が出来たのか?不思議だ。

次に尺別(しゃくべつ)駅を訪ねる。
IMG_0230



















ここも探すのに苦労した駅。開業は、1920年(大正9年)第一次次世界大戦が終わり、日本は
戦勝国として出来たばっかりの国際連盟に加入して常任理事国となっている。
国際連盟の事務局次長に、前の5000円札の肖像画の新渡戸稲造氏が就任している。
そんな年にこの駅は出来た。
IMG_0229



















実は、ここの駅を終着駅として、内陸部へ延びる雄別炭鉱尺別鉄道があった。
それが、跨線橋を越えて向こうに見えるホームのさらに奥。雑草が茂っているけど、1970年4月
に廃止されるまで運行されていた。
石炭を運ぶだけではなく、人も乗せて動いていたのだ。

次に、直別(ちょくべつ)駅
IMG_0231



















場所は、釧路と十勝の境目辺り。直別川でもって東が釧路、西が十勝。旧音別町で今は釧路市。
ログハウスの建物がカワイイ。
開業は1907年(明治40年)、だから100年以上も昔。
12年前の2003年(平成15年)の9月26日の十勝沖地震で旧駅舎は倒壊し、その年の12月25日の
クリスマスの日に誕生した素敵な木造駅。

十勝管内に入って厚内(あつない)駅。ここの開業は1903年の明治36年のこと。
IMG_0232



















かつて建物の右側にはスナックがあった。それも今は閉じられ板で覆われている。
もちろん無人駅。
駅前は、商店が1軒だけ。
IMG_0233



















根室本線は、このあと帯広に向かって内陸部へと向かう。
こちらは、日高線を見学するために海岸沿いを進むので、ここでお別れ。
この日は旧忠類村の、今は幕別町となった道の駅「忠類」で車中泊します。

では、また!

←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


今年10月に廃止される予定の石北本線金華駅から、網走本線→池北線→第3セクターのふるさと
銀河線と名を変えて存続し、2006年4月20日を持って運行終了した路線の駅を訪ねて南下します。

まずは、国道242号線から国道39号線へ。北見市留辺蘂(るべしべ)町へ。さらに、国道242号線で
南下。置戸(おけと)町から池北峠(403m)を越えて十勝管内へ。

オーロラの見える日本1寒い陸別町へ。
日本1寒いと謳っているが、上川の幌加内町といい勝負!でどちらも最低気温マイナス40度を越える
ほど冬はしばれる。
しばれる」という意味、解りますか?ものすごい寒さを云うが、厳寒期でも函館では、どんなに寒くても
せいぜいマイナス10度程度。
それに比べたら、マイナス40度とは如何ほどか?想像もつかない寒さだが、実は個人的にはマイナス
47度を体験している。

36年も前もことだが、旧ソヴィエト連邦の極東の町ハバロフスクで経験。もちろん冬の12月末のこと。
飛行機のタラップ(一旦外に出る)降りたら、鼻毛がまたたく間に凍結してしまった。瞼も痛いほど。
体の表面の水分がある部分は、あっという間に凍ってしまったのだ。

新潟から飛んだので、防寒ズボンの下にはタイツを身に着けていなかった。だから、すね毛まで凍って
しまうありさま。

マイナス40度とは、信じられないくらいの寒さなのだ。

さて、陸別町の道の駅「オーロラタウン93りくべつ」に駐車する。
ここには日本1短い鉄道が走っている。
IMG_0212



















その名を「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」。

1907年(明治40年)から部分的に運行し、1912年(大正元年)に網走線全線開通する。
帯広郊外のワインで有名な池田町と北見経由で網走を結ぶ網走線、特に北見・池田間を
池北線と云った。
1989年(平成元年)にはJRは営業を手放し、北海道ちほく高原鉄道株式会社ふるさと銀河線
として運行を再開している。
それも18年でピリオドが打たれ、ここ陸別町ではわずか200mだけど旧銀河線の車両を使っての
運転体験が行われている。
IMG_0213



















向こうに見える家族は、この1両を運転していた。もちろんプロの運転手が付いて指導している。
IMG_0214



















18年前までここのホームを大勢の(?)乗客が乗り降りしていたのでしょう。
大勢とは、数人?数十人?それも1日の乗客の数。
とても新宿駅とか渋谷駅とか池袋駅の比ではないけど。
IMG_0215



















除雪のラッセル車もあった。
IMG_0216



















続いて、上利別(かみとしべつ)駅
IMG_0217



















1910年、明治43年9月22日の開業。超レトロな木造駅舎。
駅前は、地元住民の駐車場へと変わっていた。
IMG_0218



















ここにレールが敷かれていたはず。右側には、雑草に覆い尽くされているがホームの一部が垣間
見られる。

駅前の風景。
IMG_0219



















空地が多いし、空き家となった建物も多い。
IMG_0220



















半分潰れかかった家。
冬場は豪雪地帯だから、維持管理する人がいなければ雪の重みでつぶれてしまうのだろう。

続いて愛冠(あいかっぷ)駅
IMG_0221



















手前には、愛の泉があって、1円玉や5円玉などコインが沈んでいた。まるで、トレビの泉のよう。
たまたま若いカップルが来ていて投げ入れていた。レンタカーで道内を周遊しているみたい?

そして足寄(あしょろ)駅
IMG_0222



















松山千春で有名になったが、彼がいなかったらとても読めない難読地名。
駅舎は、飲食店になっている。

確か以前はなかった建物。ここは道の駅「あしょろ銀河ホール21」の敷地内。
ハリウッドをパクッた地元子供たちの足跡。
でも、楽しそう!
IMG_0223


































続いて仙美里(せんびり)駅
IMG_0224



















バスターミナルとなっていて、ちょうど十勝バスが出発する寸前だった。
駅内部には、軍馬の資料室があって戦前は軍馬が生産されていたことが分かる。

戦前のオリンピックでメダルを取ったバロン西選手のことも紹介されていた。
西竹一は陸軍の軍人で通称バロン西。1932年のロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越競技の
何と!ゴールドメダリスト。
彼の馬がここの生産だったらしい。

続いて本別駅
IMG_0225



















ここもバスターミナルになっている。

というわけで、全駅ではないがふるさと銀河線の駅をいくつか紹介しました。
明日は、根室本線の秘境駅を探訪します。

それでは、また明日!

←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


昨日は、「春の旅15」として掲載されましたが、本来は「夏の旅15」が正解。直後に誤りに気付き
すぐに訂正しましたが、直らず。
自分のブログは「夏の旅15」になりましたが、日本一周ブログ村を御覧の方は、「おかしい?」と
思った方もいるはずです。
改めて訂正とお詫びを致します。


さて、今日の16回目はタコ部屋強制労働建設された常紋トンネルを取り上げます。
ここは、結構有名な場所であり、かつネット上では心霊スポットとしても知られている場所でもあり
ます。

丸瀬布の道の駅「まるせっぷ」で車中泊。相変わらず長距離トラックが一晩中アイドリングしていて
うるさかった。どうして、エンジンを掛けっ放しにするのだろうか?
ガソリンはもったいないし、排気ガスはまき散らす、騒音を出すわ、近所迷惑だし、良いことは一つも
ない。
道の駅で車中泊すると、必ずと云っていいほどトラックのアイドリングの被害に会う。
もっとも、耳栓をして寝ていたからグッスリと寝ることは出来たが・・・。

対策としては、トラックと出来るだけ離れた場所に停めること。出来れば、トラックが駐車できない
場所を選ぶこと。道の駅以外で安心して車中泊できる場所を選ぶこと、などが考えられる。

さて、いつものように朝6時には起床し朝飯。
この日のメニューは、2枚の食パンをトーストしブルーベリージャムをつけ、ドリンクはコーヒーと
スープ。リンゴ1個。
あっさりしたものです。

最初に、遠軽駅を訪れる。
IMG_0202



















階段に描かれた花の絵がカワイイ。
数多く停められている自転車は、遠軽高校へ通学する汽車通生のもの。
周辺の各駅から汽車で通学して来て遠軽高校へ。
野球部は強く、北北海道大会を制して甲子園へ行ったり、ラグビーも花園へ行くなど強豪校に
なっている。1915年(大正4年)11月1日の開業だから、今年で100周年。

木造の駅舎は1932年(昭和7年)に建設されているから、もう83年目。
かつては、名寄線の始発駅でもあった道東の中心的な駅。

そして、スイッチバックの駅としても知られている。
旭川方面からやって来た列車は、遠軽駅で今度は逆向きにコースを変えて北見方面へと向かう。

次に、金華(かねはな)駅へ。開業は1914年(大正3年)のことで、遠軽駅開業の1年前。
駅舎は、1934年(昭和9年)に改築されているから81年も経っている。
IMG_0203



















北海道新聞では、「JRが今年10月に廃止する」と報道した駅なので、廃止される前に一度は見たい、
と思って訪れた。
IMG_0204



















名前の通り、以前は金が採掘された、という。
遠軽駅の郊外に、かつて金山のあった鴻之舞(こうのまい)鉱山があった。1973年まで金を生産して
いた住友鉱山だ。最盛期は1万3千人が働いていた。その系列の鉱山がここ金華だ。

現在定住されている方は、わずかに4世帯6名。
その中で、二人のかたとお話し出来た。
一人は、中年男性60歳くらいか?以前は近くに金山があって住宅もあった。駅前には旅館もあった、
農協もあった、近くにはトンネル工事の犠牲者の碑も建っているし、学校もあったんだ、と。

もう一人は、70歳を過ぎたおばあさん。一人暮らし。
わたしは、江差から嫁いできてもう50年以上。じいさんは亡くなってしまった。子供たちは北見に住ん
で家庭を持っている。冬は窓まで降る雪、マイナス30度の寒さで大変だ。温暖な道南がうらやましい。
かつては林業が盛んで、夫は営林署に勤めていた。住宅がたくさんあって駅員も大勢働いていた。
商店も何軒もあったんだ。近くの林道を行くとトンネル前に出るよ、と。

1時間近く話している時に、列車が入ってきた。
IMG_0208



















網走からやって来たディーゼル車。
IMG_0209



















見ると、ここが終着でここから折り返して網走へ向かう。

そういえば、ネット上にはこの先の常紋トンネルは幽霊が出る、運転手は怖い思いを何度も経験
した、とか心霊スポットのNO.1だ、とかいろいろと書かれていた。
だからか、トンネルを通過せずに、ここで折り返すのか?

下車した乗客は、もちろん一人もいない。乗車する人もいない。

近くにある慰霊碑に行って見た。
IMG_0206


































常紋トンネル工事殉職者追悼碑とある。

区間難所のここは標高347m、1912年(明治45年、大正元年)から工事を始め3年の歳月を要して
1914年(大正3年)に開通した。その距離、わずかに507m。
それだけ戦前の開拓・道路整備が十分ではなく、当時の難工事が偲ばれる。

主に、政治犯・思想犯を使い、さらに1910年強制的に併合した韓国からも多くの朝鮮人を連行して
凄惨極まるタコ部屋労働で建設された。

重労働と栄養失調とリンチで多くの労働者は倒れ、治療されることなく埋められていった。その数
百数十名。
山菜取りに来た近隣の住民は、人の骨を拾ったという。

その証拠に、1968年(昭和43年)の十勝沖地震の際、トンネル壁面が損傷し2年後に改修工事が
行われた。その時に、頭部損傷の人骨が発見されている。
人柱として、生きたまま埋められたのだ。
戦前にはあったことで、山の神を鎮めるために生きたままの人間を埋める、ということが行われて
いたのだ。
IMG_0207



















ここの広場は、金華小学校があった場所。
IMG_0205



















子供たちは大勢いたそうだ。
先ほどのおばあさんは、ここでたくさんの子供たちと運動会が行われていた話しを懐かしそうに話さ
れていた。
トンネルのある常紋地区からも子供たちは歩いて通っていた、と。

調べて見たら、当時は留辺蘂(るべしべ)町立のここ金華小学校は1977年(昭和52年)に閉校され
留辺蘂小学校に統合されている。
38年も前のことだ。

砂利道の林道をトンネルへと進んだ。
行けども行けども辿り着かないトンネル。途中、見晴らしの良い場所に出た。
IMG_0210



















昔は、ここが蒸気機関車を撮影するのに最高の場所だったらしい。
まさに熊の生息地域。いつ出て来てもおかしくない。

結局、このままラフロードの林道を通過、いつのまにか常紋峠を越えていた。
生野原(いくのはら)まで戻り、帰りは国道242号線で再び金華峠を越えて金華駅まで走った。

そんなわけで、常紋トンネルは戦前のタコ部屋強制労働として多数の犠牲者を出したトンネルだった。
今は、トンネル付近にあった集落は1軒もなく、自然に帰っている。
やがて、金華も無くなってしまうのだろう。
駅が廃止されて、生活する人もいなくなれば地名も消えてしまう。

過去に、悲しい歴史があったことを知ったトンネルと駅でした。

では、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


まずは、昨日紹介した蘭留駅をもう一度。
IMG_0192



















駅舎は、左の鏡の中に一部写っているが、1989年平成に入った年に建てられたモダンな建物。
旭川・名寄間はさすがに本数も多く、駅に滞在している間に何本も入線して来た。
複線のように見えるが、ここだけだと思う。
待ち合わせをするために、この駅部分だけ複線、あとは単線でもちろん非電化のディーゼル車。

さて、国道40号線を左折して上川国道と呼ばれる国道273号線へ、しばらくして渚滑(しょこつ)国道
とも呼ばれる最北の高層湿原である浮島湿原のある浮島峠の道と別れ、遠軽国道国道333号線へ。
国道333号線、3の数字が3つ並んでいてカッコイイ!
標高830mの北見峠を登る。

峠の上りで、自転車旅行者がいて登りのきつさからか押して歩いていた。峠一帯は熊が出るし、
時間も押し迫っていて陽が陰り暗くなってしまうだろう。
心配だったが、大丈夫登り切れただろうか?

厳しい上りと急な下り、となりには高速道路で無料で走れる旭川・紋別自動車道があるが、それを
使うと駅を通り過ぎてしまう。
秘境の地にあるからこそ秘境駅、地味に下道を走る。

現在は遠軽町だが、かつては白滝村だった白滝地区へ。
奥白滝駅もあったが、廃止され北見の国の最初の駅は上白滝駅
IMG_0193



















国道のそばにあるが、集落の人家は数軒のみ。
木造の駅舎があって、なぜかホッとする。

少し前に夕立ちがあって路面は濡れていたが、空を見ると虹が出ていた。
IMG_0194



















右側に、うっすらと虹が架かっているのがお分かりでしょう。
駅前のイチイ(おんこ)の木が大きく育っている。もしかして、手入れをしていないのかも?
西となりの駅である上川駅からの所要時間は1時間8分で、これは日本最長の時間。

旭川から北見へは、かなり距離があることが分かる。北見峠の周辺には集落がないからだ。
以前はあったが、今は廃村になってしまったから。
IMG_0195



















だから、奥白滝駅も廃止されたのだ。
ここが、北見地方最初の駅、ということになる。

次の白滝駅
IMG_0196



















ここは元白滝村の役場があった場所で、駅前には少しばかりだけど商店街が形成されていた。

もちろん無人駅。かつては、蒸気機関車の給水や列車交換などが行われていた駅。
駅舎の塔に時計と風見鶏があり、以前は村の中心だったことが分かる。
IMG_0197



















たまたま北見方面から入って来た列車からは、下車した乗客数名。
一人は女子高校生。駅に駐輪していた自転車に乗って自宅へと走っていった。
後は、歩いて帰宅。
時間は、午後5時を過ぎていた。

続いて旧白滝駅
IMG_0198



















御覧のように、農地に中にあるかのような駅。
1946年(昭和21年)に仮乗降場としてデビューし、待合室が出来たのは1952年(昭和27年)。
何と、私が誕生した年にこの建物が完成している。それから63年が経過しているのだ。
すごい!としか云いようがないほどの駅。
建物の中には、秘境駅マニアの方のノートがケースに入って置かれていた。
好きな人は何処にでもいるのですね。自分もそうだけど・・・。

それでも、左の電線と電柱があるのは国道沿いであることを示す。国道のすぐそばにある駅。
付近には、農家が1軒だけ。奥の方に見えますね。100mくらい離れているけど。

最後に、下白滝駅
IMG_0199



















ここは国道から少し農道を下りてたどり着く。
IMG_0200



















まさに山間(やまあい)の中の秘境駅。
上・旧・下の三つの白滝駅は、いずれも木造の駅舎であったことがうれしい。
白滝駅は大きな木造の立派な駅舎だったけど、今まで見てきたダルマ型の駅舎よりは、ずーっと
良い!

そんなわけで、オホーツク管内(以前は網走管内と呼んでいた)に入り、石北本線の秘境駅を4つ
探訪しました。
もっとも白滝駅は村の中心にあり、人家も多く秘境駅ではないけど。

石北本線とは、石狩と北見を結ぶ、という意味。
九州の面積の2倍以上、東北6県と新潟県を足した面積の北海道は、14ある振興局が一つ一つの県
みたいな広さがある。

渡島(おしま)・桧山(ひやま)道南胆振(いぶり)・日高・後志(しりべし)・石狩・空知(そらち)が
道央上川・留萌(るもい)・宗谷道北、そしてオホーツク・十勝・釧路・根室道東

北海道は広い!でっかいどう!

この日、さらに東の遠軽町丸瀬布(まるせっぷ)地区の道の駅「まるせっぷ」で車中泊。

明日は、今年秋に廃止されることなった金華(かねはな)駅を中心にお伝えします。
では、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


天塩川河川敷公園での車中泊、夜半から風が出てきて起きた時は小雨が降っていた。
またしても雨、晴天の日が2日と続くことがない。

まぁ、仕方がない。今日は朝から自転車で走るつもりだったけど、それは無理。
南へと下ることにしよう。

ということで、音威子府駅のソバを食べていなかったことに気付き、まずは東へと進路を取る。
9時前に音威子府駅へと到着。その頃になると、雨も止み、太陽が顔を出してきた。
いいぞ!今日は晴れるな!

9時開店のソバ屋さんの前には10人ほどの行列が出来ていた。やっぱり、人気があるんだな。
駅前の駐車場には、全国から車やオートバイで来ていて、ここのソバ人気は全国区であることが
理解出来た。
IMG_0177



















音威子府そばを提供しているお店。
おばさんの笑顔が素敵でした。
普段食しているソバとは、全然別物で、これが天然100%のソバのなのか!と感心した。

駅構内には、廃止された天北線の資料室があり、じっくりと見学した。
IMG_0172



















地図を見て分かるように、天北線はここ音威子府駅からオホーツク海へと出て、南稚内駅で
宗谷本線と合流して終着駅の稚内駅へ向かう路線だった。
IMG_0173



















しかし、1989年平成に入った年に廃止される。超赤字路線であったからだ。
沿線は、中頓別町・浜頓別町、猿払村と過疎化がどんどん進行している町村を通過するため
乗客が少なく、空気を運んでいる列車、とまで云われ廃止されることになった。

でも、列車を利用していた高校生、いわゆる汽車通学生たちにとっては、厳しい廃止だったはずだ。
列車の代わりににバスが走ることになったが、バス代金は高いし、遅れることだってある。
そんなことを感じた天北線の資料室。
IMG_0175



















この後、美深町の道の駅「森林公園びふかアイランド」で自転車を取出し、秘境駅を巡るサイクリング
へと。
まず最初に訪れたのが、「紋穂内(もんぼない)駅」
アイヌ語で「モ・ヌプナイ」、「子である川口に野原のある川」という意味。
IMG_0178



















ダルマ型の駅舎は、塗装が剥げ錆びつきて余りにも痛々しい。

ここまで辿り着くのが大変だった。国道40号線を南下して、最初の信号のある交差点を左折する
のだが、気温がどんどん上昇し暑くなってきたのと、左折後の道に駅の姿を全然見えない。
天塩川に架かる橋を渡り、広大な農地を横切ってやっと着いたのがこの駅。

まさしくここも秘境駅。正真正銘の秘境にある駅だ。一体誰が利用するのか?
調べて見たら、ここの駅の開業は、何と明治44年、1911年の11月3日だ。
今日では文化の日の祝日だが、戦前は明治天皇の誕生日。だから、開業の日を誕生日に合わせた
のか?
しかし、明治天皇はその翌年の7月30日に61歳で逝去されている。

木材の貨物輸送が盛んだったころに建てられたそうで、最初は木造の大きな駅舎だった、という。
ダルマ型車の周辺は、その跡地を思わせる。

次の初野駅も同様だった。
IMG_0179



















でも、ここの待合室の脇には通学用の自転車が2台置かれていて、多分高校生が通学している
ように思われる。夏休みに入る直前の、今日は終業式かな?
北海道の学校では、たいてい7月24日が終業式、8月18日が始業式。
その分、冬休みが長い。

この二つの駅は、宗谷本線の他の秘境駅同様、周囲は原野か畑の中。
そして、人家がある程度集まっている集落からかなり隔たった場所にある。どうしてこんなところに
駅が出来たのだろう?と疑問に思うけど、他の秘境駅も同じだ。
開業した時は、人が大勢までいかなくても、駅を設置する必要性があったからなのだろう。

初野駅の開業は、比較的新しく1959年、昭和34年だ。

次にかなり南下して「塩狩駅」へ。
IMG_0180



















途中、名寄市の道の駅「もち米の里 なよろ」に立ち寄りランチ、士別市のホテルで「HO」を使って
入浴。
日も西へ傾き始めた午後3時過ぎに到着したのが、ここ「塩狩駅」。
IMG_0181



















塩狩峠自体は、274mしかなくそれほど標高がない。
でも、ここは石狩国と天塩国の境であるし、日本第3位の石狩川と第4位の天塩川の分水界でもある。
ここより北が天塩川へ。ここより南が石狩川へと水が流れる、まさに水が二分される場所だ。

何よりも三浦綾子さん(1999年10月12日、77歳で亡くなっています)の小説「塩狩峠」は
有名。
よく学校の読書感想文に選定されているので、多くの方が読まれていると思います。
IMG_0182



















実際に会った話しで、1909年(明治42年)2月28日、塩狩峠に差し掛かった旅客列車が暴走する
事故が起こった。
その車両に乗り合わせていた国鉄の職員、長野政雄さんが暴走する客車の前に体を投げ出して
暴走を食い止めた。
下敷きとなった長野さんは殉職したが、これにより多くの乗客の命が救われている。
なお、当時駅はなく、事故のせいか15年後の1924年(大正13年)に開業している。

その実話を題材にして1966年、小説を書いたのが三浦綾子さんの「塩狩峠」。
IMG_0183



















北から南へと線路は続く。北は最北端の稚内駅へ。
南は、旭川、札幌、そして函館へとつながっている。今では、青函トンネルを通過して本州へ。
そして九州、JR最南端の鹿児島県枕崎線の西大山駅へとつながる。
IMG_0184



















たまたま列車が来ました。今では、ディーゼル車。
IMG_0186



















当時は、蒸気機関車でパワーもなかったし、雪もかなり積もっていたのでは?
IMG_0187



















標高274mとある。
長野さんの碑もある。
IMG_0188



















小高い丘の上には「塩狩峠記念館」もある。
三浦綾子さんの旧家を移転して復元したそうです。
IMG_0189



















最後に、「蘭留(らんる)駅」へ。開業は1898年(明治31年)と古い。
IMG_0190



















待合室はサウナ状態。
アイヌ語の「ラン・ル」、下る道という意味で、塩狩峠の麓にあるのでまさしく正解!
IMG_0191



















このあと、秘境駅の横綱級の石北本線白滝四兄弟の駅へと行く予定なので、国道40号線と
お別れする。蘭留駅のそばから左折し、国道450号線へと。

明日は、石北本線の白滝という地名が付く4つの駅を紹介します。
では、また明日!



←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


8月もあと1週間を残すばかり。西日本では大型の台風が上陸して被害も出ていますが、
函館ではもう秋風が吹いて夜は窓を閉めて寝ています。
お盆が過ぎて学校が始まると、もう秋。
残暑もあるが、季節的にはすでに秋の始まりです。

今日も始まりは、最果ての町、稚内市の北防波堤ドームから。
IMG_0160



















防波堤の上に上がって海を見ました。
日本海とオホーツク海に分かれるのが宗谷海峡。
北方は霧に包まれ視界は悪いが、野寒布(ノシャップ)岬方面は晴れている。
IMG_0161



















納沙布(ノサップ)岬は、根室市の東端にある日本最東端の岬だが、稚内市には、宗谷海峡に
面して二つの岬がある。
一つは、日本最北端の宗谷岬。もう一つは、利尻・礼文に近いノシャップ岬。

もう一度、北防波堤を見る。
IMG_0162



















宗谷海峡からの荒波を避けるための防波堤としてと、桟橋から駅までの乗り換え通路も確保
するために1931年(昭和6年)から5年間をかけて建設されたもの。

高さ14m、長さは何と!427mもある。
古代ギリシアの建築を彷彿させるエンタシス状の柱は70本。北海道遺産、そして土木遺産に
指定されている。

お決まり、最北端の宗谷岬へ。
IMG_0163



















観光客は、夏の到来とともに大勢来ていた。ライダーも多い。

残念ながらサハリンはガスで見えず。
3度来て、3度とも見えず。でも、4度目は見えるでしょう。
摩周湖も3回は霧で見えなかったが、4回目に訪れた時はその全貌が見えたから。
4回もチャンスがあれば、見えますよね!

宗谷丘陵へ行く。
IMG_0164



















ここは、日本有数の風力発電の地だが、日本でも数少ない氷河時代の跡が見える。

宗谷岬の南部に広がる標高400mまでのなだらかな丘陵地。
およそ2万年前の氷河期に形成されたもので、北から南に向けて標高が高くなり、緩やかに起伏
している。
深い谷はほとんど存在せず、明治時代の山火事によって大半の森は焼失した。
さらに寒冷地ゆえ気温が上がらず、北からの寒冷な強風が年中吹くため、100年を経過した現在
でも森は回復されていない。
IMG_0165



















宗谷岬ウインドファームは風力発電機が57基、総出力は57000kw、国内最大級である。

一方、宗谷岬牧場は1500ha、乳牛や肉牛を飼育している。
点々と見えるのは、宗谷黒牛。
IMG_0166



















ここは、誰も来ない地。
最北のフットパスコースも設定されていて、有名な白い道もある。
IMG_0167



















よくパンフレットなどに紹介される白い道。
晴れていれば、青い空とコラボしていてきれいなんだけど・・・残念です。
白いのは何か?というと。
IMG_0168



















ホタテの貝殻を砕いて敷き詰めています。

この後、再び豊富温泉へ。
IMG_0169



















前回紹介したように、大正14年(1925年)今から90年前のこと、石油採掘の際にガスと油を含んだ
温泉が噴出したのが始まり。
皮膚病に効果があり、全国からアトピーの患者さんたちが湯治に訪れている。

ふれあいセンターでの入浴料は510円。

晴れて来たので利尻富士が見えるかな?と日本海側へと行く。その途中の原野で見えた利尻山
IMG_0170



















最後は、今日の宿泊地の天塩町。
天塩川の河口付近に造られた河川敷公園。
IMG_0171



















やっと快晴に近いほど晴れ渡った日本海と利尻山。防波堤の手前は天塩川。
右端に風力発電の風車が多数1列に並んでいるのが見えますね。
サロベツ原野の風力発電。道路は、電柱ももちろん電線もない、原野の中を突っ走る一本道。

今晩はここで車中泊します。
明日も晴れるといいな!

では、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。



豊富駅駅前広場で車中泊したが、一晩中雨が降り続いていた。しかし、春の旅でも、夏の旅でも
雨の日が多い。
しかも1日だけではなく、雨の日が続いているのだ。まさしく本物の雨男なのだが、こうも雨が続くと
イヤになる。
何とか、今日は雨が上がって欲しいものだ。

雨の中を出発する。
まずは、宮の台展望台へと行く。
IMG_0146



















晴れていれば遠く、日本海の沖合に日本百名山の利尻山(1720m)のきれいな富士山のような
姿が見れるのに。残念・・・。
IMG_0147



















もちろん南側も同じで、ガスがかかっていて視界は1kmもない。

徳満駅、兜沼駅、勇知駅の三つの駅は、カメラには撮影されていない。なぜか?というと
カメラのバッテリーが充電不足のマークが出ていて、その間しばらく車で充電していたから。
三つの駅とも、秘境駅に近い駅だっただけにお伝えできないのが残念だが、7月のリアルタイムでの
ブログには、三つの駅を紹介しているので、是非御覧になっていただきたいです。
IMG_0148



















さて、最北の木造駅舎、最北の無人駅と云われる抜海(ばっかい)駅
集落は、約2kmほど西の日本海に面した漁村の旧抜海村。

日本海の荒波が迫る抜海漁港がある集落だが、今回は宗谷本線沿いに走っているのでスルー。
ここ抜海駅でしばし休憩する。

少々の手直しはしたが、開業当時(1924年、大正13年6月25日)の当時そのままの姿で駅舎。
IMG_0149



















駅の出入り口に、大きな板で「抜海駅」の文字が書かれている。
出入り口は二重になっているのは、冬の寒さや雪の侵入を防ぐため。
玄関フードのようなものだ。雪切り室というらしい。
IMG_0150



















こちら正面。勇知駅から道道510号線を北上してきたが、道路の両側は原野が続くばっかりで
人が生活している気配がまったくしない。
なぜか、夏でも寒々しい気持ちになってくる。これが、オートバイだと風をもろに受けて本当に寒い
だろう。
まさしく、日本最北端へとやって来た、気分にさせられる。
IMG_0151



















ここで、名古屋からやって来たサイクリストの若者と会う。もっとも、函館まで飛行機で来て、
函館から走り始めているが。それでも、あちこち寄って1000kmは越えた、と話していた。

晴れていれば、としつこいがここでも利尻富士の勇壮な姿が見えるのに・・・。

南稚内駅。ここは有人駅。もう、稚内市街地へと入っているので、駅前はホテルなどビルが
建っている。
かつては、ここが稚内駅。1923年(大正12年)に稚内港駅が出来、1939年(昭和14年)に稚内駅
となってからは、ここは南の文字が追加され、稚内南駅と改称された。

戦時下(1937年から日中戦争)で、当時日本領だった樺太(サハリン)からの連絡船が港へ着き、
その乗客・貨物とも駅へと直結するため、重要な駅だったからだろう。

1989年(平成元年)までオホーツク海周りの天北線の乗換駅として大きな役割を果たした。
IMG_0152



















最北端の駅「稚内駅」へ行く途中、今回の旅初めて洗濯をする。信号で止まった左側にコイン・
ランドリーがあったので、利用することにした。

さて、稚内駅
IMG_0153



















10年前に訪れた時と、まるで違った駅になった。

4年前の2011年(平成23年)にこの近代的な駅ビルが完成したが、どうも昔の駅のイメージが
ありすぎて、しっくりしない。
かろうじて、最果ての駅は、駅前広場の車止めくらいか?
戦前、サハリンとの連絡船が就航していた時は、この先の北防波堤ドームまでレールが伸びて
いたが、1945年で樺太がソヴィエト領となると連絡船は廃止され200mほど南へ戻り、ここが駅の
位置となった。

それにしても立派な駅だ。
IMG_0154



















まさしく終着駅だから、ターミナルビルだ。
駅前の風景も変わっていた。
IMG_0155



















奥の高いビルはホテル。
ここで、先ほどの抜海駅で出会った青年と再会。
IMG_0156



















二人で記念写真を撮る。
IMG_0158



















最後に、きた防波堤ドームを見る。
戦前、ここまで線路が来ていて連絡船に直結していたのだ。そして、ここは最北端ではなくこの先の
北緯55度の樺太が当時日本領。稚内は北緯45度だから、さらに10度も北だったのだ。
IMG_0159



















稚内中学の野球部がドームをランニングしている。
雨が降ろうが、このドームの中だったら濡れることはない。どのくらいあるのだろうか?
200m以上はありそう。

では、また明日!
明日は、駅を離れ最北端の宗谷岬へと向かいます。


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


北上するにつれて、秘境駅が次々と登場する宗谷本線。糠南駅の次の雄信内(おのっぷない)駅
IMG_0128



















どう見ても、読めない駅ですね。
開業が大正14年7月20日、というから1925年。今から90年前に駅が出来ているのです。

翌年12月25日には、大正天皇が逝去され昭和の時代へとなります。そんな時代、ここの
周辺は開拓農民が数多く生活していて駅の必要を感じたのでしょう。
IMG_0129



















ダルマ型の駅舎が多いが、ここだけはよくぞ木造駅舎が残ったものよ!と感心します。
「JR雄信内駅」の看板は、民営化された1988年以降に作られたものでしょうけど、駅舎そのものは
戦前からあるもの。
窓枠はアルミサッシに代わっているけど、建物自体は昔から変わらず。
思わず、ご苦労様!とねぎらいたくなります。

近くには、閉校となった雄信内小学校の跡地があった。
IMG_0130



















1937年(昭和12年)に開校し、1982年(昭和57年)に閉校となっている。
わずか45年の歴史だ。小学校にしては、短い校史だ。
IMG_0131


































駅前には、廃屋が数軒あるのみで人が生活している気配はまったくない。

雨が降り続けている中、ここと昨日紹介した糠南駅の間に、「上雄信内駅」が以前あったので
何か駅の部分が残っているかも?と砂利道の狭い道を走った。
1車線しかない農道、しかも雨でぬかるみになった道。
捜せど捜せど、駅はない。もう、完全に駅舎やホームは撤去してしまったのか?
とうとう、発見することは出来なかった。

次の安牛駅。ここは、牛山隆信さんの「秘境駅」の表紙を飾っている駅。
とにかく、すごい駅だった。
IMG_0136



















まず、原野の中に一本道の果て、遠くにダルマ型の駅が見えた。
電線はあるが、人家はまったくない。

駅のホームに立つ。
IMG_0135



















単線非電化の直線の線路が北へと延びる。
IMG_0134



















かつて、木造駅舎があったことを証明するコンクリートの土台がある地に設置されたダルマ型の
駅舎は錆びつき、ボロボロになって建っていた。

ここも、一体誰が利用するのか?
まさしく秘境駅そのものだ。
雨は止むことなく降り続けている。駅のホームに立っていると心も雨模様。寂しいなんて、ものじゃ
ない。
取り壊される寸前の駅舎を見て、悲しくなってしまう。
JRは、いずれ撤去して廃駅にするのだろう。そうなっても仕方がない駅だ。

近くに、またしても閉校となった小学校跡地があった。
安牛小学校。雄信内小学校同様、1982年に閉校、幌延町の中心にある幌延小学校に統合されて
いる。
IMG_0132



















こんな碑もあった。
IMG_0133


































牛に感謝する碑。
きっと、周辺では牧場が営まれていたのだ。もちろん今でも酪農が盛んな土地だけど、ここ安牛は
寒冷な土地、やせた土地なので畑が出来なかったのか?
農作物の栽培は出来ないが、放牧地や牧草地として農業を営んでいたのだろう。
駅名の安牛は、当然地名だけど牛に関係する地なので付けた名前か?
アイヌ語ではないのか?

駅周辺で、出会う人はもちろん誰一人いない。

ここは、天塩川の右岸。国道40号線とは、かなり隔たっている。
先ほどの雄信内駅へ行くのに、雄信内大橋を渡り、道道256号線を北上して駅巡りをしてきたが、
この先15km以上も橋がない。
橋があるのは、天塩町へと向かう国道232号線との分岐点になる天塩大橋があるのみ。

天塩川右岸は、まったくの原野そのもの。
地図を見ると、ところどころに天塩川を改修した後に残った河跡湖の三日月湖があるだけ。

人は定住しているのだろうか?と首をかしげたくなる。

次の、南幌延駅
IMG_0137



















駅の待合室が、踏切の向こう側に見える。
ホームは板張り。
道道のすぐそばにある駅だが、周辺には人家はない。
IMG_0138



















原野の中を、まっすぐな線路だけが走っている。

次の上幌延駅
IMG_0140



















ここにも閉校となった上幌延小学校跡があった。
IMG_0139



















草茫々の地にあった「幌延町教育発祥之地」。
ここも1982年に幌延小学校に統合されている。

発祥の地、とあるのはここから学校が始まったからか?一番最初に建てられた小学校なのかな?

幌延駅は、駅員さんもいる大きな駅。駅前には商店街もあった。
IMG_0141



















かつて日本海ルートの留萌と結ぶ羽幌線が出入りしていた駅だが、1987年(昭和62年)廃止されて
いる。
駅裏を見ると、跨線橋が見えるのは、その羽幌線の跡か?

続いて、またしても秘境駅の下沼駅
IMG_0142



















ここも、国道から外れていて人家はない。寂しい駅だ。

最後に、この日駅前で車中泊することにした豊富駅
IMG_0143



















ここには、石油発掘の折に温泉が出たという、「豊富温泉」が郊外にある。
皮膚病に効果あり、というので6kmほど内陸部にあるが行ってきた。

ホテルなどの建物がある集落のはずれに「ふれあいセンター」がある。入浴料510円。
IMG_0144



















自転車旅行者がお風呂に入っている。雨に濡れたツーリング車1台。

石油のような油が浮いた湯につかり、体も暖まり駅前のセイコーマートで買った弁当を夕食に
狭い車内食べる。キャンプ用のガスコンロで湯をつくり、暖かい味噌汁・スープを飲んで今日1日を
振り返る。

今日も、秘境駅ありました。それも一つではない。次々と現れる秘境駅。

でも、それって部外者の目線。地元の人にとっては、駅は大事な大事な交通機関なのだ。
かってに、秘境駅、と観光客の目線で煽り立てているだけかも?と反省。

観光地を訪れるのと変わりないのかも知れない。
そんなことを、冷静に雨が降り続けている夜感じました。

←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


北海道命名之地を見学した後、さらに宗谷本線沿いを北上する。
まずは、佐久駅へ。
開業は大正11年11月8日。1922年のことで、第一次世界大戦が終わり世界的に軍縮の時代へと
なったころだ。2年前の1920年には国際連盟に加盟して、1922年2月にはワシントン海軍軍縮条約
を締結している、そんな時代に開業した。
IMG_0114



















国道40号線から左折し、天塩川に架かる橋を渡る。
中川町の佐久集落。
無人駅だが、駅舎は大きい。「佐久ふるさと伝承館」が同居している駅だ。
館内には、昔の生活道具や農機具で主に開拓時代に使用されていたもの。
さらに、時代は大昔のアンモナイトの化石などミニ博物館のよう。

以前は、林業が盛んだったのだろう。周囲は山、山、山。
駅前には、歴史を感じさせる建物がいくつかあった。
まず、これは旅館だったのだろうか?
IMG_0115



















下見板張りの2階建て。コンクリート製の二つの集合煙突が目に付く。屋根にある尖がった槍
みたいなものは何だろう?
今は営業しておらず、何だったんだろう?と考える不思議な建物。

反対側には、赤レンガの大きな倉庫。
IMG_0116



















佐久という集落の歴史を、少し学習したい気持ちにさせてくれた。
林業と農業の盛んだったころの時代を知りたい!

次に、天塩中川駅へ。
IMG_0117



















ここの木造建築は、2012年というから今から3年前に建てられた新しいもの。
以前あった古い駅舎を、道林材を使いそっくり再現している。駅前の赤いポストがカワイイ。

ちなみに、「中川駅」は、神奈川県横浜市の市営地下鉄の駅なので、地域を表す天塩が頭について
いる。無人駅。ここも開業は1922年。今から93年前のこと。

駅舎内に入ると、とっても木の香りがしていい気分になる。画面の左側は集会場として地域の人々に
使われている、まさに町内会館みたいな地元住民に愛されている駅だ。

さて、ここから秘境駅連続です!
次に「歌内駅」を訪れる。天塩川沿いに道道541号線を北上する。天塩川を下流へと下る道だ。IMG_0118




















人家などない、まったく無人の地。
誰が利用するのか?どうしてここに駅があるのか?
とっても不思議な感じがする駅だ。
ここの開業は大正12年、1923年のことだ。92年前、駅が完成した時は大勢の人が一番列車を
歓迎したのだろう。
今、彼らは何処へ行ったのか?

周囲を見ると、冬期間牛に食べさせるための牧草地が広がる。
IMG_0119



















どこまでも伸びている牧草地。巻かれた牧草ロールが何十個、いや何百個も置かれている。
この後、テープで巻かれて雨風に耐えて冬を待つのだろう。
IMG_0120



















続いて「問寒別(といかんべつ)駅」
開業は1923年。駅前には、かつて大きな木造駅舎が存在したことを示すコンクリートの土台が
残っている。昔は、ここから幌延村営鉄道が炭坑や開拓地を往復していたのだ。

しかし、炭坑の閉山や離農者が相次ぎ1971年(昭和46年)に廃止されている。
IMG_0121



















ここは、小学校・駐在所・農協・ホクレンのガソリンスタンドがある、ある程度の集落。
IMG_0122



















次の「糠南(ぬかなん)駅」は、宗谷本線最強の秘境駅といってもいいくらいの駅だった。
IMG_0123



















開業は、1987年(昭和62年)というから比較的新しい駅だ。
そのころは、酪農や農業を志した人々が大勢いて新駅の設置を求めたのだろうか?

問寒別駅から西へ農道を走ること5kmほど、一応舗装はされているが、人家はまったくない。
辺り一面牧草地。
駅舎はなく、ホームセンターで売っている物置が1個板のホームの横に設置されている。
ということは、誰か利用する人がいるから待合室を設けたのだろう。

特に冬場に外で待つのは危険だから、物置でも中で待ってもらいたいからなのだろうか?
でも、誰が乗車するの?

まして、時刻表を御覧下さい。温度計があるのは、冬用のため?
IMG_0124


































上り2本、下り3本のみ。
三つ南の中川町には、中川商業高校があるから上りの7:29は高校生の通学用か?
下りの18:48はその下校用かな?
下りの7:13と14:45は?7駅先に豊富高校があるから、その通学用か?
上りの16:15はその下校?でも時間が早すぎる。

もちろんこれ以外にも列車は走っているが、その多くは通過していく。通り過ぎるのだ。
IMG_0127



















ホームにいたら遮断機の音がして、あっという間に特急列車が通過していった。

ホームに立って周囲を見る。
IMG_0126



















牧草地以外に何もない。
人家までは何kmもある。一体誰が利用するの?と何度も首をかしげたくなる駅であった。

さらにこのあと北上します。
次々と、とんでもないほどの秘境駅が登場します。

では、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


昨夜夜半から降り出した雨は、土砂降りとなった。ここ天塩川リバーサイドキャンプ場には、
自転車旅行の二人がテントを張っていたけど、大丈夫だろうか?
予報では、今日1日雨のマークが出ている。

車の中で、出発の用意をして朝6時にスタート。
雨の中、ゆっくりと慎重にハンドルを握り、天塩川温泉の次の駅「咲来(さっくる)駅」を目指す。

IMG_0105



















アイヌ語から来ているだけに難読駅の一つだ。奥の黄色い小さな建物が待合室で、駅舎そのもの
はない。
開業は1912年(大正元年)1月5日のことだから、すでに1世紀以上も過ぎている、相当古い駅だ。
ホームにいたら、普通列車がやって来た。
IMG_0103



















1両編成のディーゼル車。乗客は男子高校生が一人だけ。早朝の7時だし、もちろん夏休み期間中
という事もあるが、寂しい限りだ。
IMG_0104



















誰も下車することもなく、次の天塩川温泉駅へと過ぎていった。

駅のすぐそばには、ライダーハウスがあったが、駐車しているバイクは1台もなし。
国道から離れているせいか、ここまでやってくるライダーはいないのか?

集落には、廃墟となった建物がいくつもあった。潰れた商店、農協、廃屋など見るも無残な
まさに限界集落そのものだ。

閉校となった咲来小学校があったが、記念碑もない。
IMG_0102



















「思い出 感動 夢 ありがとう」

閉校となってしばらく経つのだろう。
人が生活している人家は数軒のみだから、子供たちはいない。

続いて、音威子府(おといねっぷ)駅へ。
IMG_0107



















ここも開業は、咲来駅と同じ1912年11月5日。ここは、1989年(平成元年)に廃止された天北線
起点でもあったから、大きな駅で駅員さんも大勢いたはずだ。
この駅舎は、1990年(平成2年)に建てられたもので、森と匠の村を売りにする音威子府に相応しい
木造の駅舎だ。

かつては、オホーツク海経由で稚内まで走っていたが、幌延経由での現在の宗谷本線が出来ると
天北線と名は変わり地方ローカル線になり、やがて廃止されることに。

駅内部には、その天北線の資料室があります。

そして、駅内には全国人気のおそば屋さんがあるが、9時オープン。残念ながら、時間が早過ぎる。
稚内からの帰りに、もう一度寄っておそばを食べに来よう

ホームに立つ。
IMG_0106



















かつて、向こうのホームはオホーツク海に向かって走っていたのだろう。
今は使用されていないホーム。

駅前で、下を見ると音威子府のマンホールがあった。
IMG_0108



















天塩川とフクロウ。森と匠の村おといねっぷ、とある。

天塩川を下る方向で次の駅へと向かう。

筬島(おさしま)駅だ。
IMG_0109



















国道40号線から、天塩川に架かる橋を渡り、筬島の集落へ。
そのはずれにあったダルマ型の駅舎。
IMG_0110



















途中、道路沿いに「北海道命名の地」の看板があった。
その指示する道を進む。1車線しかない細くて険しい砂利道が、天塩川に向かって下って行く。
広い河原に着いたら、そこに碑があった。
IMG_0111



















幕末の1857年、幕府から命を受けた探検家、松浦武四郎は音威子府村筬島地区のアイヌ民族の
集落に立ち寄った際に、古老から「カイナ―」という言葉を教えてもらった、と「天塩日記」に書いて
いる。
カイとは、「この国に生まれたもの」と云う意味。ナーは敬語。

明治になり、開拓判官となった武四郎は、蝦夷地を日本の「北」、それに「カイ」、領土を示す「道」、
北加伊道」という案を明治政府に提出している。
これを基に、現在の北海道が誕生したのだ。

そんなことで、北海道知事の高橋はるみさんがこの碑を建てている。
IMG_0112



















宗谷本線が対岸を走っている。さすがに鉄道が走るから護岸工事されている。でも、こちら側は
自然のままの河原。
IMG_0113



















天塩川は、70km以上も蛇行を修正して直線に変えたが、それでも蛇行は見られる。ここもそうだ。
大きくカーブを描いて曲がっている。
雨は少し止んだが、水は澄んでいる。カヌー好きの人は、ここからスタートして漕ぎ出すだかも?

ヒグマの目撃情報もあるそうだから、自然豊かな土地。
150年前の幕末時代は、もっと危険があったのだろうな?と想像する。

歩くよりも川を下ったりする方が、早く進むことが出来た時代だ。
当時の人々の探検には、頭が下がる思いです。

とても冒険なんて、言えない。だから、平仮名で「ぼうけんの旅」としているのです。
恥ずかしくて、冒険と漢字を使えない自分がいるのです。
それでも、自分なりに「ぼうけんの旅」を、これからも続けて行きたい!と感じたここ北海道命名の地
でした。

では、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。

美深駅は大きいのでスルーし、そろそろ温泉でも入りたいな、と思っていたら美深の道の駅
森林公園びふかアイランド」に美深温泉があった。
早速、「HO」を活用し、無料で入浴。

さて今夜の寝床は、どこにするか?と思案。美深の道の駅のキャンプ場は、かなりの混み具合で
ここは止めておこう。
15km先の天塩川温泉のある「リバーサイド天塩川」なら空いてるはず、とさらに北へ針路を取る。
キャンプ場までの間に訪れたい駅が3つあった。

まずは、「恩根内(おんねない)駅」。
IMG_0091



















ここは、立派な駅舎だ。
1911年(明治44年)11月3日開駅の、古い歴史を持つ駅だ。
この建物、22年前の1994年(平成5年)に建てられたもの。
冬の暖房用に、石油ストーブが用意されているのは利用者にとってはありがたい。
道内、どこにでもあるホームタンクが見えますね。

駅前には、人家が数軒しかないし、国道からは少しそれている場所に立地している。

次に、国道40号線沿いにありながら見つけるのに苦労した駅の「豊清水駅」。
IMG_0092



















ナビは、国道沿いにあることを示しているが、国道の両側は深い森。
地図を見ながら辿り着いた駅は、国道から分かれた細い農道を行き、線路を横切ってやっと着いた。
周囲に人家はない。森と放牧地だろうか、草地が広がる。

13段の階段を登ってホームへ。
IMG_0093



















単線の宗谷本線だが両側に線路がある、ということはここで待ち合わせをするということか?
右に、もう1本あったが車止めで終わって草茫々。

駅舎を見る。
IMG_0094



















下見板張りの木造駅舎。大きな煙突が見える。
ホームで撮影していたら、特急列車がやって来てここで停まった。ここは無人駅で特急が停まる
ような駅ではないはず。
IMG_0095



















乗客が降りることはない。当たり前だが、人家がまったくない、こんな森の中で降ろされても
何処へも行けない。
間もなく上りの特急列車が、ホームの反対側をすごいスピードで通り抜けて行った。
待ち合わせだったんだ、と。
大都市の方は、ご存知ないでしょう。地方の単線では、いくら特急でも駅で別な列車が通り過ぎる
のを待ってから、また走り出す。
ここは、そのための駅だったのだ。
だから、ホームの両側に線路があったのだ。
IMG_0096



















特急に乗っている客は、ここで降りて秘境駅の雰囲気を味わう、なんてことはしない。
誰一人下りて来る客はいなかった。

この日の最後の秘境駅となる「天塩川温泉駅」へ行く。
国道から離れると、一面ソバ畑。
IMG_0097



















ものすごい広さだ。札幌ドーム何個分だろう?
正面に見えるのは音威富士(489m)。

天塩川温泉駅の駅舎は小さいこじんまりした建物。
赤い屋根に白い壁、緑のラインがあって、とても可愛らしい。
こんな駅でSTB(ステーション・ビバーク)もいいなぁ!と思った駅だ。
IMG_0098



















見ての通りの非電化単線で、まっすぐな線路が遠く稚内まで延びる。
キャンプ場は天塩川を渡る。
IMG_0099



















上流方向を見る。

天塩川は、かつては、全長300kmを越す日本で4本(信濃川、石狩川、利根川、とここ天塩川)
しかない川だったが、蛇行する河川を直線に修復して今は256km。
そのため、河川改修跡に出来た三日月湖が沿川に数多く見られる。
川の名の由来は、アイヌ語の「テッシ・オ・ペッ」から。梁のある川と云う意味。

北海道では、石狩川に次ぐ2番目の長さを誇る。
IMG_0100



















下流方向を見る。
コンクリート護岸工事の実施箇所が少なく、自然のままの川なのでカヌー愛好者には最高の
河川として知られている。

というわけで、この日は天塩川リバーサイドのキャンプ場の駐車場で車中泊。
ところが、陽が暮れた午後8時過ぎからポツポツと雨が降り出し、夜半には土砂降りへと変わる。

明日は、雨のマークも出ている。
じたばたしても仕方がない。雨が降ったら降ったまでよ。
おいらは、最強の雨男!とかなり自虐的。

明日も、雨の中を宗谷本線の秘境駅を見て周ります。
なにせ、秘境駅続出の宗谷本線!期待出来るぞ!

では、また明日!

←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。


母子里を後に道道668号線を東へ、途中の峠である名母トンネルを通過する。
きっと、名寄と母子里の頭を取って名母トンネルとしたのだろう。

最初に秘境駅として知られる「北星駅」を訪ねたかったが、車のナビは天塩川の対岸を指して
そこで、終了。これじゃ、橋の架かっていないところを渡れ、という指令みたいで無理!
ナビは天塩川の左岸で「北星駅」があるように伝えたが、実際は右岸にある。

橋もなく、対岸は深い森で駅の姿はまったく見えない。
そこで、橋があって一番近い「智恵文駅」を訪問することにした。
IMG_0081



















駅は、集落からかなり離れている。だからか?集落の子供たちの自転車が数台停まっているのは、
家から自転車で駅へ、汽車通して名寄の高校へ通うからなのだろう。

北海道なら何処でも見かける車掌車?コンテナ型車?ダルマ型車?の駅舎。
安上がりの駅だ。トラックで運搬して来て、クレーンで積んで降ろして設置するだけだから費用削減
にはなるが、廃駅にするのも簡単。
JR北海道は、いつでも廃駅に出来ますよ!と無言で伝えているようなものだ。

続いて、道の狭い農道を天塩川の上流へと向かう。
智恵文駅からおよそ3kmほどで辿り着いた駅、それが「北星駅」。
北海道らしい名前だが、本当に秘境駅の名にふさわしい。
IMG_0082



















人家は、写真で分かるように、駅前に農家が数軒あるのみ。
ここの農家の畑を除くと、周囲は森、森、森。
線路だけが真っ直ぐに延びている。

駅舎は、少し離れた場所にある木造の、まるで農家の納屋みたいな建物。
IMG_0083



















軒下の赤いホーローの看板には「毛織の北紡」文字がある。
真ん中には、五角形の星の形の中に〇、さらに紡の字が描かれている。
この看板、一体いつ頃に出来たのだろうか?10年ほど前の秘境駅訪問家の牛山隆信さんの本
にもあったが、どう見てもこの建物は50年以上も前のもの。
すごいものを見ることが出来た。

農道から道は、砂利道で50mほどか?
でも、利用する人はいるのだろうか?と真っ先に思った。どう考えてもいないでしょう?と。

先の「智恵文駅」は、集落のはずれにあったが、智恵文集落には小学校もあって、高校生が汽車通
するから利用価値はあるが、ここは誰が載るの?と不思議に思ったのだ。

多分、駅が出来た時代は汽車を利用する人がたくさんいたのでしょう。人家も結構あって、通勤や
通学に使われていたのだ、と思う。

蜘蛛の巣でおおわれた戸を、足でつぶしやっと開けた内部を見る。
これだけ蜘蛛の巣でおおわれていた、ということはこの1週間ばかり利用者はいない、はずだ。
中を見る。
IMG_0084



















冬の除雪のために、雪かきとダンプがある。一応、注意書きやポスターが貼られているが、それを
見る人はいるの?

とにかく、ここまでたどり着くのも大変だったが、この駅自体が存在していることにも驚いたのだ。
IMG_0085



















となりの駅「日進」にラベルが貼られているのは、以前は隣の駅は「智東駅」だったから。
その駅は廃駅(2004年、平成18年3月18日廃止、なお開駅は1924年、大正13年6月1日)となり、
今は日進駅がとなりとなったから。

今思えば、この「日進駅」にも行くべきだった。なぜ?行かなかったのか、返す返すも残念でたまらない。

続いて、智北(ちほく)駅
IMG_0086



















ここの開業は1987年(昭和62年)だから、北星駅とは63年も遅く駅が出来ている。
ちなみに、智恵文駅は明治44年11月3日。明治44年といったら1911年のこと。翌年には明治天皇が
逝去している、そんな時代に駅が開かれているのだ。

ここが、平成に近い時代の1987年とは、何か意味があるのだろう?
周囲は森と畑だけ。人家はまったく見当たらない。
IMG_0087



















東の名寄方向を望む。この先に今まで紹介した北星駅、智恵文駅がある。
針葉樹の深い森だけだ。それでも、手前の舗装された農道には踏切がある。

南を見ると、一面畑が広がる。
IMG_0088



















何を栽培しているのかな?
7月21日で、まだ葉が10数㎝だからこれから伸びるのだろう。葉物野菜かジャガイモ?
農作物もしっかり覚えなくちゃ!

青森県の田子町に行った時、初めてニンニクの葉を知ったが、最初は一体何だろう?と分からなかった。
農家の人に尋ねて知った次第で、畑を見て農作物をしっかり知らないとネ!
葉を見て、一目で分からなくては、しっかりと学習しよう!と反省しました。

最後に、南美深駅
IMG_0089



















ここも畑が広がる駅。木の板が並べてあるだけのホーム。
駅舎は、ホームから少し離れた場所にあった。
IMG_0090



















緑色のトタン板で囲まれた小さな建物。これが待合所。

このあと、さらに北へ!宗谷本線の秘境駅を探訪します。

では、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。

二日目となった夏の旅の宿泊地は、小平ダム公園。小平は、おびらと読みます。
留萌市の北にある町で、やはり漁業中心の町。
道の駅「おびら鰊番屋」のとなりには、かつての網元「旧花田家番屋」がある。

日本海に面した小平の町役場のある中心地からは、天塩炭鉱鉄道という私鉄が山間部に
向かって走っていたが、残念ながら1967年7月に廃線となっている。
今から50年近い昔のことだけど。

その天塩炭鉱鉄道の終着駅だった達布(たっぷ)の集落から、さらに山に向かって5km以上
進んだ場所に小平ダムがある。人造湖の名は「おびらしべ湖」という。

そのダムのあるおびらしべ湖の麓に公園がある。
IMG_0071



















市街地から遠く、またほとんど知られていないので車中泊の車もない。
この広大な緑の公園を独り占めだ。
トイレ、水道はしっかりと完備している。
ただし、LTEは届かず3Gのみの電波状態。
もちろん夜間の警察のパトロールもなかった。
その代り、ヒグマの出る地域でもある。そういえば、苫前町の三渓はここから直線距離で15km
ほどだ。

三渓とは、「三毛別(さんけべつ)羆事件」がちょうど100年前にあった場所。
1915年(大正4年)12月9日から14日にかけて、苫前村の三毛別(現在は三渓と変更)で体重340kg、
体長2.7mの超巨大ヒグマが数度に渡り開拓民7名を死亡させ、3名に重傷を負わせた事件のこと。

当時の現場には、巨大なヒグマの作り物が展示され、恐ろしさを復元させている。現場は人里離れ
た森の中で、10年前にバイクでツーリングして訪れたが、いつ出てもおかしくない雰囲気があり、すぐに現場を離れたことを思い出す。
IMG_0070



















ここは、クビナガリュウの骨が発見された場所でもあり、巨大なモニュメントもある。
ヒグマが出ても、恐竜が退治してくれる?なわけないよね。

ダムの上に上がって見よう。
IMG_0073



















素敵な公園でしょう。ここを独占できたのだから最高!です。もちろん無料だし、駐車場も広い。
とっておきの場所です。バイクや自転車のツーリングの方にもおすすめです。
IMG_0074



















雨が降っても東屋がふたつもあるから大丈夫!
ただ、コンビニはないし周辺に人家はまったくない。食料持参で来て下さい。

さて、道道742号線を北上して、国道239号線に合流、霧立峠(380m)を越えると、そこは上川。
留萌地方から上川地方へと入る。
峠を下り国道275号線に合流すると、やっと人家が見えてきた。ここは、幌加内(ほろかない)町

もともとは空知管内だったが、隣接する上川との結びつきが強いことから2010年、今から5年前に
空知から上川へと管轄が移動している。
南北に細長く50km以上もある。まるで、南米のチリのような地形。
北海道で、もっとも人口の少ない町であり、何よりも人口密度は日本一低い!
人口1575人(2015年3月)、人口密度2.05人。

最初に見つけた建物は、旧「添牛内(そえうしない)駅」。
IMG_0075



















とても駅だったとは思えない。
1922年に雨竜ダムの建設と伐採林の運搬を目的に深川から建設された。
ここ添牛内は1931年(昭和6年)開通。

知らなければ通り過ぎてしまう。多分、駅舎の跡だろう?と寄って見て初めて分かった次第。
1995年(平成7年)9月4日に廃線となってから、すでに20年の歳月が経過している。

続いて「朱鞠内駅」。
IMG_0077



















レールはここだけで、10mもない。奥の建物はバス・ターミナルで、駅舎ではない。
きれいなトイレも完備していて、待合室ではテレビも置いてあるが、果たして利用者は1日何人いる
のだろうか?

実際の線路は、背後の山の中腹を走っていた。そこで、歩いて捜して見たがなかなか見つからない。
人に聞こう、と思っても誰もいない。
本当に人口が希薄な地域だ。
もっとも、見つけても、草茫々でとても線路跡地とは思えない場所だっただろう。

朱鞠内(しゅまりない)湖へ行く。ここもダム湖で人造湖。IMG_0078




















美しい光景だが、ここには忌まわしい歴史が隠されている。
ここ雨竜第一ダムの建設には、多くの強制労働者がかかわり、多数の犠牲者が出ている。
その多くは、政治犯だったという。
旧湖畔駅近くの資料館には、その暗い歴史の闇が展示されている。
IMG_0079



















北海道電力の雨竜ダムとなっているが、北海道電力も何と罪作りなことか。
戦前は、強制労働でダムを造り、今は誰もが望まぬ原子力発電所を造り、しかも稼働せず放置して
すでに数年。それにも多額の維持費はかかる。
それが、われわれ道民の電気代から徴収しているのだから。
一刻も原発を止め、自然エネルギー豊富な北海道を再生エネルギーで電力生産して欲しい!

何よりも地熱発電は、世界のトップクラスなのだから、開発・研究を怠った責任は重い!
もちろん政府の政策もあるが、自然豊かな北海道で40%以上も原子力発電で賄おう、とした北電の
罪は大きいのだ!

旧深名線は、朱鞠内湖を時計回りで周って、旧母子里(もしり)駅へと向かうが、道路は通行止め。
旧深名線に沿うような形の雨竜第二ダムがある道道528号線は、超悪路で道路が決壊している。

仕方なく国道275号線で、母子里(もしり)へ。
IMG_0080



















旧母子里駅の発見は、まったく無理だった。どこに駅があったのか?は何処を捜しても見つから
ない。おまけに人もいない。
ここは、日本一寒い場所。1978年(昭和53年)2月17日、マイナス41.2度を記録しているまさに、
日本一極寒な地だ。
でも夏は暑い。この日、30度を軽く越えていただろう。歩くと汗が吹き出す。

ここは1931年(昭和6年)母子里尋常小学校として開校し、1993年(平成5年)に閉校となった母子里
小中学校。その2年後に深名線は廃線となっている。
体育館だけが残っているが、人家も少ない。利用している方はいるのだろうか?
2014年だけど、住民はわずかに35名。

というわけで深名線跡地を訪問したけど、すでに廃線となって20年経ってしまった今では、その
跡地を見つけることはほとんど無かった。
それでも、この路線の建設には、多くの強制労働者がかかわっている。

国内の思想犯、戦争に反対した人たちが国賊として逮捕され強制的に連行されてきたのだ。
それだけではない。1910年に強引に併合された韓国からも多くの朝鮮人たちが強制連行され、劣悪な
環境下で過酷なダム建設と鉄道建設工事に労働させられたのだ。

今は、日本一のソバの産地となった幌加内町だが、そんな負の遺産があったとは知らなかった。

本当に人がいない。何せ1平方キロメートルにわずかに2人しかいないのだから、人と会うことは稀な
のだ。


いつか、再び訪れて見たい。そんな気にさせたのがここ幌加内だし、母子里だった。

では、また明日!

←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。

増毛の名は、決してカツラメーカーの宣伝から来ているわけではない。
当たり前ですけどね。
でも、ネットで「増毛」を検索すると、一番に「無料増毛体験って何するの?」が来るし、2番目には
アデランスの会社が来ていて、やっと4番目に増毛観光情報局が来る。
あながち、増毛は「ぞうもう」と読んでいる人が多いからかも知れない?

さて、増毛(ましけ)町のマシケは、アイヌ語で「マシュケ」=カモメの多いところ、から名付けられて
いる。

今から260年前というから江戸時代の中ごろ、魚場が開かれている。道北で一番歴史のある町で、
漁業を中心に栄えてきた町である。

明治・大正・昭和にかけての建物が駅前に残り、重要文化財の「旧商家丸一本間家」など数多く見る
ことが出来る。
IMG_0058



















その本間家。
IMG_0059



















明治初期から営業を続けてきた天塩の国(道北)一の豪商、本間家。
内部は見学できる。

続いて、日本最北の酒蔵、國稀(くにまれ)酒造
IMG_0060



















日本酒好きにはたまらない。試飲も出来る。
たくさんの観光客が来ていたが、試飲コーナーでは、運転手をしているお父さんはもちろん酒を
飲むことは出来ない。その代り、お母さんが何度もいろいろな酒にチャレンジしていた。
子供は、「お母さん、美味しいの?」と尋ねると、「お父さん、ごめんね」と詫びながら、違う酒を
また飲む。
いいなぁ、助手席に座る人は!
IMG_0061



















久しぶりに見た杉玉。
春の旅では、鳥取県智頭町の町並みを歩いていたら軒並み杉玉だらけ。普通の民家でも
杉玉を下げていたのには、驚いた。

普通、酒屋さんだけですよね。詳しくは4月の「春の旅」を御覧下さい。

さて、留萌駅。ここだけは、駅員さんが二人いました。
スウェーデン人の青年をヘルプした時に一度寄ってはいるけど、今回改めて紹介します。
IMG_0064



















さすがに大きいビルだ。
ビルの左側には、地元FM局も入っている。

ここから、前回見学できなかった駅3つを見る。
恵比島駅、真布駅、峠下駅は紹介したけど、峠下駅から留萌駅までの3つの駅はまだ。

その前に、足元を見る。
IMG_0065



















留萌市のマンホールは、日没の光景か?
日本海に沈む夕日を描いた、多分黄金岬の景色でしょう。

留萌駅の一つ東の駅は「大和田駅」。
ここを、捜すのに手間取った。ナビでは、国道233号線しか教えてくれない。
しかし、国道のそばにはない。近くにはあるが、駅は見えない。
苦労して辿り着いた駅。
IMG_0066



















大和田は、昔の地主の名前。留萌炭田大和田炭鉱があった時代のことで、明治38年から昭和34
年間での間石炭を生産していた。
当時は、3000人を越える人口がここ大和田にあった、というから信じられない話。
今は、御覧のように人家はまったく見当たらない。
集落から、細い道を走ってやっと見つけた、ここも秘境駅の一つだ。

続いて、「藤山駅」。
IMG_0067



















アイヌ語じゃない駅が続く。
駅の敷地にあった藤山開拓の碑。ここは、開拓者の藤山要吉から駅名が付けられた。
駅舎は、事務室部分を取り壊して、待合室だけを残した駅舎。
大きなオンコの木がシンボルか?
ここは、国道沿いにあるから分かりやすい。

続いて「幌糠(ほろぬか)駅」。
ここも国道沿いではなく、道を選ばなくては辿り着けない。
IMG_0068



















それでも、ここの周辺には学校や農協もあって、一応集落の中心にある駅だ。
次の峠下駅は「夏の旅3」で外国人3人のサイクリストと出会った場所で、一度紹介しているから
スルーします。

さて、この日の寝床はというと?
IMG_0072



















何と!恐竜「クビナガリュウ」がいる小平(おびら)ダム公園

詳しくは、また明日!


←応援クリックお願いします。

←応援クリックお願いします。

終着駅の増毛駅をスタートし、最初の駅は「箸別(はしべつ)駅」。
IMG_0057



















増毛の隣の駅にもかかわらず、人家は少ない。これから日本海沿いに留萌線の増毛・留萌間
の7つの駅があるのだが、いずれも無人駅。しかも各集落ごとに駅はあるが、ほとんど利用者
はいない、という。
以前は多くの乗客を乗せて走った留萌線も、車社会になって汽車に乗る人は激減した。

次の「朱文別(しゅもんべつ)駅」。
IMG_0056



















続いて「舎熊(しゃぐま)駅」。
IMG_0051



















今までの二つの駅には駅舎はなかったが、ここにはコンテナ型の駅舎があった。
IMG_0047



















保線区の方たちによる線路工事が行われていた。
IMG_0050



















非電化の単線、しかも日本海沿いは山が海のすぐそばまである。集中豪雨があると土砂崩れが
発生し、線路は土砂で埋まりあっという間に運休する。
そのためにも、日常の保守点検は必要。
でも、来年にはこの方たちの仕事も必要なくなる。廃線となるのだ。

比較的大きな集落だったので、駅周辺を見る。

舎熊神社があった。今日は、運良くお祭りの日。
IMG_0045



















本殿には、地元の古老がいたので少しばかりお話を聞く。
IMG_0046



















昔は、たくさんの人が住んでいて列車も大勢の通学生でいっぱいだった。
高校へ通う手段は、留萌線の列車だけだったから。
増毛の人口は、昭和30年代の最盛期15000人近い人口からの3分の1の5000人弱へ激減した。

今いるのは高齢者ばっかり、と。
それでも、神輿を乗せたトラックなどお祭りの行列は進む。
IMG_0048



















今は、若い担ぎ手がいないのだろうか?後ろの青いトラックに神輿が縛られて乗せられている。
IMG_0049



















太鼓もトラックの上。最初と最後にお巡りさんがついて安全確保。
地元の氏子の方が、衣装を着て一緒に歩いて回っていた。
ご苦労様です。

続いて「信砂(のぶしゃ)駅」。
IMG_0052



















とても読めない駅名だ。
どれもアイヌ語から来ていて、意味はあるのだがそれを知る手掛かりはない。

となりの阿分駅のそばに閉校となった小学校があった。
IMG_0053



















まだまだ使用できる校舎だ。地元の施設に利用されていると思うが、子供たちがいないのは、
あまりも寂し過ぎる。

学校に隠れてしばらく分からなかった「阿分(あふん)駅」。
学校の近くに住んでいる方に尋ねて、やっとたどり着けた駅。
IMG_0055



















ここのプラットフォームに「鉄ちゃん」の若い二人の男性が列車を待っていた。
思いは同じ。廃線となると知って、夏休みの時期なので駆け付けた、と。

次々と鉄道が廃線となり、本当に悲しい。既には北海道では、鉄道の路線は最盛期と比べて半分と
なってしまった。過疎で人口が減少した地域であるローカルな路線は、切り捨てられているのだ。
深名線、瀬棚線、松前線、胆振線などなどたくさんある。

そして今、留萌線、日高線も同じ運命をたどるのか?

礼受(れうけ)駅」へ。
IMG_0054



















最後に、留萌駅の一つ手前の駅である「瀬越(せごし)駅」へ。
IMG_0063



















ここは、眼の前が砂浜海岸の海水浴場。
でも、列車を利用して来る海水浴客は誰もいない。
広い駐車場には、多くの車が停まっている。高校生は自転車で来る。
留萌駅からは3km地点。自転車だったら20分で来れる場所だ。

というわけで、来年2016年廃線となる留萌・増毛間の全駅を紹介しました。
この後、自転車で再び増毛駅まで戻り、増毛の町を散策し留萌駅へ行くが、それは明日の
お楽しみ。
では、また明日!


←応援クリックお願いします。

↑このページのトップヘ