函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で11年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2024年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2024年が明け今年は72歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2021年02月

2月27日土曜日、天気は晴れで気温は午前中太陽が上がるに連れて徐々に上昇し、雪も解け始めています。明日で2月が終わり、あさってからは3月だから、そろそろ春の訪れを感じさせて欲しい!のが道民の切実な願いです。もう雪と寒さは結構!早く来い!来い!春!!

今日も昼からラグビー・トップリーグで、12時からは東芝VSクボタで、ついにBS・NHKが放送します。これだけ世界中のトップ選手が来日してプレーしてのだから、放送しないなんてもったいない。
出来れば地上波でも放送してもらいたいけど、残念ながら地上波では昨日からスタートしたJリーグコンサドーレ札幌の試合でした。
でも、今日は午後からスポーツ三昧のテレビ観戦。12時からラグビー、2時からサッカー、4時からプロレス(CSのテレ朝2)と午後7時までじっくりとテレビの前ですが声援します。声を出しても良いのはテレビだけで、会場では声を出せませんからね。

さて、遊女たちの供養塔がある地蔵寺から少し歩くと山側に外国人墓地(ロシア人墓地)の案内板があります。前回はハリストス正教会の墓地でしたが、ここもロシア人だからハリストス正教会関係者かな?とも思ったけど、よくよく読むと幕末から来日して箱館で亡くなったロシア人は、必ずしもハリストス正教会の信者とは限らない。だからロシア人のみのお墓なのです。
最古のものは幕末の1858年(安政5年)のロシア海軍の航海士2名。現在ここの墓地にはロシア軍艦の乗組員25名とロシア人7名など全部で43のお墓があるといいます。
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やはり、ロシア人だから十字架は8つの端っこがある八端十字架。中央に見えるのは、お椀を伏せたような形の緑色で、ハリストス正教会と同じカラーです。
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やはり、ハリストス正教会の信者さんのロシア人もいるけど、信者さんじゃない人も埋葬されているのですね。在日ロシア人の関係者の墓地でもあるのです。函館にはロシア国立の大学もあるし、ロシア人も定住していますからね。
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その向かい側、海側にあるのが中国人墓地と函館中華山荘
中華山荘とは墓地の正式名称。一番古い墓石は1868年の明治元年。そういえば、函館には「中華会館」もあったのだから、中国人も多く住んでいたのです。
階段を降りて行って見ましょう。
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確かに、数は少ないけど「陳さん」とか中国人の方の名前があります。
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海が見える墓地は、故郷に通じているから墓地としては最高のロケーションなのかな?墓参りに来ても景色がきれいだと気持ちも落ち着きますし、お参りも癒されますよね。
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右側に細い道があって下に降りて行けそうです。歩いて行って見たら、閉じられた正門の前に出ました。こちらの海側が正門だったとは!見てお分かりのように、車は通れず歩くのみの細い道。レンガはイギリス積みですね。
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海抜20mくらいだろうか、函館湾と外海が見え、この日はとっても静かな凪状態であることが分かります。
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そのとなり、前回紹介した外国人墓地でもプロテスタントの墓地。こちらが正面だったのです。
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4つの端を持つ文字通りの十字の形の十字架がありました。ということで、外国人墓地はロシア人、フランス人、イギリス人、アメリカ人やさらには箱館に在住したデンマーク人などヨーロッパの人々、そして中国人とありました。朝鮮人や韓国人、イスラム教徒の墓地はないのか?いやいや前回紹介した旧函館検疫所の奥に、さらにキリスト教墓地や朝鮮人墓地もあるのですが、雪がまだ深いので今回はパス。暖かくなったらまた紹介します。
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帰り道、高龍寺の向かい側に「真言寺と不動明王立像」の看板が。
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幕末(1861~1864)に創建されたお寺ですが、見るからに最近建て直しされた近代的なお寺。
どう見えてもお寺に見えませんね。海の見える洒落たカフェ風。不動明王も見れません。
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ということで、魚見坂を下からずーっと上まで上がって来て紹介しました。
明日は、気温が8℃まで上昇し、晴れマークが付いているからまた西部地区を散策して来よう!と思っています。
「コロナ禍の函館」で、関心を持ったのが幕末から戦前の遊郭姿見坂の山ノ上遊郭、大火で焼失し蓬莱町へ、それも大火でさらに東へ移動し大門へ。
その姿形は100年以上も経過しているから残ってはいないけど、その形跡が少しでもあったら?と思って歩いてみたいです。

では、また!

2月25日木曜日、天気は曇り。朝起きると、ここのところ連日5㎝くらいの積雪で毎日雪かき。せっかく春の訪れを感じるようになったのにまた冬に逆戻りで、いつになったら春になるのか?まぁ、いつかは桜も咲くでしょうが・・・。

長い冬の間は旅にも出れず、することといったら毎日のルーティンの体操・ストレットとウォーキング。体をトレーニングする時間には1時間から2時間ほど。それと旅の学習として図書館から借りてきた本を読むことで、11月から2月の4か月間で100冊くらい読書。ジャンルは様々で、鉄道関係から小説、ヒグマの生態まで十分すぎるくらい読書三昧。それとテレビではスポーツの生中継がほとんどなかったから、その解消に映画を録画して鑑賞すること。BSやCSで関心あるものを録画して、じっくりと後から鑑賞しました。

長い冬が明けた4月初めから「ぼうけんの旅」2021年をスタートさせたいのですが、その前にコロナワクチン接種が4月から始まるので、それがいつになるのか?受けてから旅たちたいのですが、もしかしたら5月になるかも?で、それも気がかりです。まぁ、近いうちにワクチン接種するのは間違いないけど。

さて、前回の続きから。カトリックの墓地から少し歩くと「南部藩士の墓地」へ。
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そういえば、旧丸井デパート(現、函館市地域交流まちづくりセンター)の横の坂は「南部坂」でしたし、坂を上ると「南部陣屋跡」の碑もありましたから、箱館と南部藩の関係は深かったのです。
お墓には、「南部陣屋箱館詰藩士之墓」がありました。

江戸後期、ロシアの南下政策で日本近海に軍艦を出してきたロシアに対し、蝦夷地の防衛任務を寒さに強いみちのく諸藩に充てさせました。津軽藩とか秋田藩とか、その中でも盛岡に城を構える南部藩は箱館を拠点に活動しますが、それでも蝦夷地の寒さは別格で寒さに耐えれずに亡くなる兵士もいたのです。
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そのとなりは、「函館キリスト教会共同墓地」。市内各所にあるプロテスタントの教会の墓地です。
昨年4月に函館市内のキリスト教会巡りをして、市内には27か所の教会があることを発見(自転車で探しました!中には普通の民家も教会になっていて、プロテスタントは牧師の数ほど教会があることが分かりました。blog 2020年4月を検索すると見れます。)
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十字架のお墓もあるけど、普通の墓もありますね。
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そのとなりは、「プロテスタントの外国人墓地」。第1号は江戸時代末期の1854年。日米和親条約で開港した箱館にやってきたペリー艦隊、その乗組員のウオルフ51歳とレミック19歳の2名が亡くなります。ペリーはその埋葬場所を箱館奉行に求めたところ、仕方なく提供した場所がここで、そこは元来火葬場であって当時の箱館の人たちは荼毘所と称していて、亡くなると火葬にしていた場所でした。
その他、ドイツの代理領事やデンマークの領事、イギリス人など40墓埋葬されていますね。
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海の見える絶景の場所だから、故郷の海と繋がっているので安心して永遠の眠りについたのでしょうか?それとも遠く離れた異国の地、故郷を思い出して懐かしんで眠りについたのか?は分かりませんが。
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その向かい側、山側にある寺院は曹洞宗の地蔵寺。
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ここには、江戸時代末期の1864年に建てられた、引き取り手のない遊女たちを供養する有無両縁塔(うむりょうえんとう)があります。塔の文字が分るでしょうか?上から有、無、両、縁、塔とあります。
blog「コロナ禍の函館25」で紹介した姿見坂の上にあった「山ノ上遊郭」の遊女屋25軒が合同で建てたといいます。
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ズームして見ると、施主は「郭内遊女屋」で、下には廣田屋とか東屋、金子屋、田中屋などの店の名前が分かります。
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詳しくは、こちらの案内板をどうぞお読みください。
江戸時代末期から明治、大正、昭和前半にかけて、函館には東京以北最大と云われた遊郭があったのは事実で、遊女たちはおそらく東北各地の農村・漁村から人集めされてきたのでしょう。そして、故郷へ帰れずに亡くなる人も多かったのでは?
1854年の開港に伴い多くの商人たち、外国人たちが箱館に住み付きます。4年後の1858年から箱館奉行公認の遊郭となってスタートし、それは箱館の街が繁盛するほど遊郭も大きくなり、遊女たちも増えていったのです。中には、異人揚屋もあった、といいます。
市電でめぐる函館100選」には、「アメリカ人貿易事務官ライスは、おたまという遊郭の女性を自宅に引き入れています。」と書かれていて、まるで、長崎を舞台にした蝶々夫人か英国人大商人のグラバーの箱館版か?とも思われるような出来事です。
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墓地には、こんな人物のお墓もあります。こちらは「万平塚」。
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石川啄木が歌で紹介した、当時存在した函館のとある乞食、彼こそ函館の名物男の万平でした。
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さきほどの有無良縁塔の横には、たくさんのお地蔵さんが置かれていました。
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ただ、地蔵の顔は長年の風化により削られてハッキリとは見えませんが、それだけに150年以上も経過した悲し歴史を感じさせます。
江戸末期から昭和前半の戦前まで、函館は北日本最大の都市として経済的に繁栄し10大都市の一つにも数えられましたし、各国の領事館も置かれ国際都市でもあったのですが、その反面、貧しき民の中でもさらに貧困の子だくさんの農村部の子女たちは売られ買われて、ここの遊郭に連れてこられたのでしょう。

「日本史資料」では、「貧困農家の娘が「身売り」までする惨状は、深刻な社会問題となった。」とあります。飢饉や大凶作が相次ぎ、娘を売らなければいけないほど困窮したのでしょう。
その資料を載せますので、どうぞお読みください。
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地蔵寺から出て、少し歩くと。
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その向こうに、赤煉瓦壁が続く瓦屋根の立派な屋敷が見えました。何でしょう?次回は、この屋敷を紹介することにします。
では、また!


















2月23日火曜日、天気は朝から猛吹雪で積雪は5㎝ほど。せっかく雪が解けて、アスファルトの路面が見えてきたし、春一番のクリスマス・ローズの花もちょこっとだけど出てきたのに、また冬に逆戻り。
春はまだまだ遠いですね。でも、もう少しの辛抱です。近くまでやってきているには間違いなし。
来週からは3月ですからね。今シーズン最後の冬将軍の暴れん坊ぶりだったと思えば、次に来るのは春の便りの、例えば福寿草の花が咲くことでしょう。まさに、春を告げる幸福の花!春はもう少しです。

さて、高龍寺のフランス積みの赤煉瓦壁の塀沿いに歩くと左右に分かれた2本道にでます。まずは山側の左の道を歩いて100ⅿほど。海側を見るとロシア正教会八端十字架が見える墓地に出ます。
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真ん中の白い柱と緑の屋根のお墓をズームして見ましょう。
それよりも、その手前にあるお墓の方がハッキリと八端十字架が理解でしますね。その理由については、すでにハリストス正教会を紹介した昨年の12月30日付けの「コロナ禍の函館5」で紹介済みですので、省略しますが。
多分、この一角がハリストス正教会の信者さんたちの墓地になっているのでしょう。あとから正面に回って確認することにします。
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その先に見えた赤い屋根とピンク色の壁の木造建築物!何でしょう?何やら素敵な建物ですね。
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坂を下って正面に回ると、「函館検疫所台町措置場(旧函館消毒所)跡」とありますよ。
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1885年(明治18年)、内務省は防疫体制の強化を図るため、当時の主要6港(函館、横浜、神戸、下関、長崎、新潟)に日本最初の常設消毒所を建設した、と。
開港して、さらに明治時代には多くの外国人がやってきたから、検疫の必要性があったのですね。
函館は、特に戦後の昭和20年(1945年)樺太など旧植民地から多くの引揚者が戻ってきたときに、医療活動などに当たっていた、と。
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函館ガイドのバイブル「市電でめぐる函館100選」では、ここに隔離棟があって函館俘虜収容所があったそうです。「俘虜の数は当初約800名、終戦時の記録ではイギリス人、アメリカ人、オランダ人、オーストラリア人など約1600人を数えました。」と。俘虜とは捕虜のことで、きっと、飛行機が墜落して助かったパイロットや、または戦前から日本各地で生活していた外国人などでしょうね。
昭和17年で、収容所は香川県善通寺、大阪、東京に次いで全国4番目だった、とのことです。
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もちろん建物はリフォームしていて、壁も化粧直しを何度も行っているはずです。
この辺りは、冬期間は北西の季節風がまともに当たる場所だから、潮風で錆び付くし痛みも激しいでしょうね。
函館は三方を海に囲まれているから、車庫に入れていない車の痛みは早く、下回りの錆び付きは早いのです。滅多に上陸しないけど台風が来た時や強烈な海風があった時は、海側に近い家の庭の植物は枯れてしまうこともあるからです。
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冬、こんな穏やかな凪状態の海はめずらしい!すでに函館湾の外側で津軽海峡の風と潮流を受ける場所なのに!
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現在はこの建物は「ティーショップ 夕日」のなっていて観光客を受け入れていますが、この冬は来ているのでしょうか?自分が訪れた時はまだ開店前でしたが。
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目の前の海、写真の左側は木古内町サラキ岬沖にあたっていて、江戸幕府の海軍の保有した洋式軍艦の威臨丸
(かいりんまる)が沈没した場所です。
1855年にオランダで製造されて長崎海軍伝習所の練習艦へ。戊辰戦時は榎本武揚の指揮下へ入るも、銚子沖で暴風雨に遭い新政府軍に拿捕され、明治時代は開拓使の輸送船になっていました。が、その輸送途中の1871年(明治4年)にサラキ岬沖で暴風雨により沈没したのです。
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検疫所からは海側(下の道)を歩きます。すぐに「ハリストス正教会墓地」の門柱がありました。やっぱり、ここはハリストス正教会の信徒の墓地だったのです。
20年前になりますが、職場の先輩が亡くなりましたが、彼はハリストス正教会の信者でしたので、私は教会で葬式などのお手伝い。埋葬は墓地内なら土葬も可能で、彼の亡骸は棺に入れて土葬しました。
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きっと、この中のどこかに埋まっているのですね。
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この辺は、「外国人墓地」と呼ばれていて、各宗派の墓地が連続してあります。となりはカトリックの「シャルトル聖パウロ修道女会墓地」。
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12月29日付けの「コロナ禍の函館4」で紹介した八幡坂にある修道院は、彼女らが建設したもので、日本初の白百合学園発祥の地でもあります。その彼女らが眠る墓地です。
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今は深い真っ白な雪の下で、永遠の眠りについているんですね。
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次も外国人墓地を紹介していきます。

土曜、日曜はラグビー観戦で明け暮れました。2019年のラグビー・ワールドカップに出場した強豪チームの、特にニュージーランド、南アフリカ、オーストラリアなどから20数名の世界トップクラスの選手が来日、中には世界1の選手も(ボーデン・バレット)。
全試合録画して見ましたが、実に面白く、ハラハラ、ワクワク!思わず画面に向かって声を出すほど!
これは来週からも土日は見なきゃ!と思った次第です。でも残念なことに地上波やBSは放送しないのです。ラグビーは、まだマイナースポーツなのでしょうか?
バレットなどイケメンでもあるし、華麗なプレーはルールを知らない女性でも絶対!心を揺さぶられるんじゃないか、と思うのですが。

まぁ、我が家でも妻はまったくスポーツ音痴で興味なし。仕方がないですね。一人で寂しくテレビの画面を見て応援しますか?
では、また!

2月21日日曜日、天気は晴れ。寒い時や雪が降る時もあるけど、少しずつですが春に近づいていっているんだな!を実感しています。我が家の庭では、雪が解けて日当たりの良い場所では、春一番の花であるクリスマス・ローズの花がほんの少しですが咲き始めました。まだ花弁は開いていないし弱弱しい感じがするけど、いよいよこれから春へ!を感じました。
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雪が解けて、最初の花のクリスマス・ローズ、その後はクロッカス、スイセン、ムスカリとどんどん咲いてきますね。長い間待ってたぜ!春‼ 

さて、魚見坂の上を歩いていきますと、閉校になった西小学校の校舎が見えてきました。
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さらにさかのぼると、高龍寺という名のお寺へ。以前お伝えした寺町通りの上にある寺です。
始まりは1633年というから江戸時代の初期で、函館の現存寺院としては一番古いお寺だそうです。
「はこだて歴史散歩」によれば、「幾度か火災に遭ったが、今の山門は明治44年(1911年)の落成で、総ケヤキ、彫刻が見事」とあります。
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詳しくは、こちらを。何度か移転していますね。明治2年の箱館戦争時は、箱館病院の分院として負傷者を受け入れていて、その数1340名あまり。ところが、新政府軍が乱入し旧幕府軍の会津兵士10数名を惨殺していったそうです。「勝てば官軍、負ければ賊軍」で、新政府軍の戦死者は丁寧に葬られていますが、旧幕府軍の戦死者は町中に放置され放しで、酷いものです。
寺ではその犠牲者を供養するために、後に旧会津藩士らにより供養碑が建てられています。

あとから紹介しますが、本堂は明治33年(1900年)の落成で、ケヤキとヒバを使用した素晴らしい建物で、大工の棟梁は越後の柏崎出身の名工と云われた人たちで、貴重な財産となっています。墓地には、歴史上の有名な人物も葬られていますね。
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横には、写真術の先駆者「横山松三郎の墓」もあるんですね。今だったら、ドローンを操縦可能な人は誰でも撮影できますが、明治初期の当時、日本初の気球からの航空撮影も行っていて、当時の函館は文明開化の最先端を行っていた町だったことがうかがえます。
高田屋嘉兵衛の親戚なんですね。
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横の赤煉瓦壁は、高さもあってすごい重厚感があります。多分?火災予防の壁でしょうか?
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イギリス積みの煉瓦造りだということが分かります。
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道路を横切って港が見える場所から撮影。港は函館漁港。その奥は函館港。この日は雲一つない最高の天気で、冬の冷たいけど透き通った空気で遠くもスッキリと見えています。
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ズームすると、駒ケ岳もクッキリ!山肌は真っ白に化粧されていいますよ。
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さて、山門から入りましょう。ホントに彫刻は素晴らしい!
「市電でめぐる函館100選」によると、「東北以北最大の山門」です。
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境内は広く2011年には、本堂など10件が国の登録有形文化財に指定されています。
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こちらは本堂。1907年(明治40年)の函館大火でも焼失しなかったのです。
多分冬期間中は、玄関フードならぬ板塀を巡らせていて夏とは違う入口です。
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鐘楼もありました。
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さらに魚見坂の上へ行こうとして、外へ出たら横の壁はフランス積みの煉瓦壁が長く続いていました。
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次回は、さらにこの坂を上り外国人墓地へ向かいます。
では、また!

昨日から始まったラグビー、トップリーグ。早速NTTコムのスコットランドからやってきたレイドロー大活躍しましたね。今日は、サントリーのニュージーランドからやって来たボーデン・バレットがどれだけ華麗なプレーを見せてくれるのか?楽しみです。それにしても、世界中のトップ選手が集っているのに、地上波やBSでの放送はなくCSのみ。Jスポーツしか放送しないのです。実にもったいない話です。

2月19日金曜日、天気は晴れ時々曇りで、気温は朝方はマイナスだったけど昼からはプラスになるでしょう。少しずつ春に近づいていっているかな?と思うけど、それは2月が終わってからの話題で、それまでは冬の季節が続いているから決して油断してはいけませんね。特に車の運転とか歩く際の注意とか、冬の心構えはまだ必要です。

それでも、うれしいことは明日からラグビーのトップリーグが始まること。世界中から超一流の選手が日本に集まり各チームで試合します。特にサントリーのニュージーランドからやってきたバレットは随所に華麗なプレーを魅せてくれることでしょう。
もちろんCSでのテレビ観戦ですが、それでも全試合中継してくれるからうれしい!のひとこと。当分楽しめます。

さて、魚見坂の入口で市電終点の「函館どつく前」にある入舟児童公園からお伝えします。魚見坂は山麓の一番北西側にあることが分かりますね。
坂表示の柱の横に石碑が立っています。
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これが「新選組最後の地」碑。
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その横に説明板があります。真ん中に交通安全の幟があって、影を作り見にくいですが。
幕末、西洋列強からの圧力に対し蝦夷地守備のために幕府は蝦夷地すべてを直轄地にします。当時の箱館奉行は港警備のために大砲を備えた弁天台場の築造をします。
開港から2年目の1856年、10万両の予算、設計者は五稜郭と同じ武田斐三郎氏、不等辺六角形(周囲684ⅿ)、完成は8年後の1864年でした。
お台場が使用されたのは、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争で、台場を占拠した旧幕府軍は新政府軍と砲撃戦を行うも完敗。箱館奉行の永井玄蕃ほか240名全員が降伏しました。時は1869年5月15日で、土方歳三が銃に撃たれて亡くなった日でもあります。
だから新選組最後の地とは、ここの弁天台場に陣取った連中に新選組の残り少なくなった残党がいたからですね。
その後、台場は陸軍管轄へ、さらに港埋め立てで昔の姿はまったくなくなりました。
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当時の箱館奉行の永井玄蕃(1816~1891)の肖像です。髪は切って洋風に、服装も洋服です。
本名は永井尚志(ながい なおゆき)で、生まれは三河の国だから愛知県。25歳で旗本の永井氏の養子へ。作家三島由紀夫の父方の高祖父にあたる人物です。
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蝦夷共和国総裁に選挙で選ばれた榎本武揚に仕え、箱館奉行として箱館の統治や外国との交渉を行っています。当時は、箱館にイギリス、アメリカ、フランス、ロシアなどの各国領事館がありましたからね。きっと語学が達者だったんですね。
ここ弁天台場で陣頭指揮を執って奮戦したが、降伏し投獄されます。3年後には恩赦で出獄し明治政府の役人へ。76歳で逝去しています。
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バックが女子トイレで、申し訳ありません。逆光もあって、これしか撮れなかったもので・・・。
弁天台場の写真が下に描かれていますね。ペリー来航後に港の一角を埋め立てて造られたもので、備え付けられた大砲は、伊豆で座礁したロシア軍艦の大砲、と書かれていますね。
当時は自前の大砲はなかったのでしょうか?それとも外国製の方が優れていたから?
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市電通りを渡り距離にして100ⅿちょっとで、弁天台場跡へ。幕末の頃は、この辺り港だったんですね。今は自転車が捨てられていて、台場の面影は全くありません。
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その横には、「函館どつく」の門柱があって、立ち入り禁止になっています。
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周囲を散策すると、赤煉瓦造りの倉庫がいくつもあります。ここのはかなり長く、100ⅿ近くありそう。
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全部で3か所発見しましたが、その造りは?よーく見ると。
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イギリス積みのレンガでした。短いブロックの段、その下が長いブロックの段で、その繰り返し。
1887年(明治20年)以降のレンガだということが分かります。
明治20年を境に、それ以前はフランス積み、それ以後はイギリス積みにと変わったそうです。
そういう意味では、「コロナ禍の函館29」で見た古民家の赤煉瓦壁はフランス積みだったから、相当古い時代にレンガ壁が出来たことが分かり驚きですね。
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港に出ました。この辺りはヨットハーバーになっていて、ヨットを駐艇する場所です。
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右奥にもレンガ倉庫群が見えていますね。ヨットの駐艇なんて、年間いくら費用がかかるのでしょうね?
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ズームしたら海上自衛隊の船がドックに入っています。すぐ近くの下北半島の大湊(むつ市)に基地があるから、定期点検かな?
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で、帰り市電通りの一角で見つけたマンションの陰に隠れた蔵。手前はコンビニだったけど潰れたみたい。「一に久しい」の家紋。
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日差しがまぶしく雪も解けています。やっぱり、函館には電車がとっても似合いますね。
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ということで、魚見坂の下半分は終了。次回からは魚見坂の上半分をお伝えします。
では、また!

2月18日木曜日、天気は晴れで今日は暖かくなりそうな模様。昨夜までに結構雪は降ったが、パウダースノーだからニュースで見た北陸辺りの重たい湿った雪とは違い、軽いから雪かきも重労働というわけではありません。
それでも我が家の通りは超高齢者通りだから、一番若い(?68歳の自分がですよ!)私が通りを雪かきしなくてはいけません。その距離は、幅4ⅿの道路をおそよ30ⅿほど。量は大したことないけど、やっぱりしんどいことは変わりありません。
超高齢者通りの内訳は、真向いのおばあちゃんは先月100歳を超え、内閣総理大臣賞を受賞するとか、となりは93歳だったかな?一人暮らしで1年前に入院していて、只今空き家。
斜め向かいは80歳を超えたおじいさんで、奥さんは2年前から入院中で帰って来ることはなさそう。我が家の左隣りは空き家になって10年以上で廃墟同然で、寒い冬でも野良猫が4匹暮らしています。。その隣には94歳のおばあさんが一人で暮らしています。ほとんど寝たきりで、生協から食事を宅配してもらっています。その隣は、69歳の娘さんが95歳を超えたおばあさんと2人暮らし。その向かいは老夫婦がすんでいたが、亡くなり10年前から空き家。
ということで、誰も雪かきをする人はいないのです。だからほとんど毎日のように、1時間ほどかけて雪かきに精を出しているわけです。まさに、今の日本の縮図みたいな通りです。当然働いている人はおらず、みんな年金生活者ですよ!

さて、鮮やかなピンク色をした建物の大正湯の向かい側には、こんな素敵な蔵を改造した民家がありました。蔵は分厚い壁だから、火事の際は燃え移らないから大丈夫でしょうが、冬は窓の面積が狭く寒そう!壁もヒンヤリしていそうで、結露が発生しやく暮らしにくいかも?それでも外気との断熱性は十分ありますね。厚さは20㎝以上あるから断熱効果はたっぷり!
屋根は瓦屋根で、北海道では珍しい。お寺や神社は瓦屋根ですが、一般住宅はほとんどトタン屋根が多く、瓦屋根の民家はよっぽど和風にこだわった家です。冬期間、屋根に積もった雪が解けて凍結して瓦を割るので、北海道には不向きな瓦屋根ではないでしょうか?
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こちらは珍しい純和風建築物。1階の格子窓の家、2階の内側の窓が障子、玄関が引き戸で、函館にはほとんどないと思っていましたが、あるんですね。でも、空き家でした。雪かきをしていないし、人が住んでいる気配がしません。
冬は、雪かきをしているかどうかで、住んでいる家と空き家の区別が見た目で分かりますからね。
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船見坂を下りて電車通りまで来ました。路駐している車が多いから、この辺は駐車禁止ではないのかな?そんなに車も通らないから停めているのでしょうね。
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ロードヒーティングもされていないから、それほど重要性のある通りではないみたい。
左側の家に煙突が見えますね。北海道の家の暖房は、今でも半分以上は灯油を使用していて、たいていはホームタンクといって、500リットルくらい入る大きなタンクを家の外側に設置しています。灯油だから価格はその時の原油価格で上がったり下がったりで不安定。

つまり石油ストーブに頼っている家庭が多いのです。でも、最近は灯油を使用してもセントラルヒーティングにして、パネルで暖房=暖かい空気が広がったり、オール電化の家庭では床暖房をしていて、家の中はどこも暖かく、本州の家よりはずーっと過ごしやすくなっています。
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少し歩くと市電の終点「函館どつく前」。この先は線路はありません。
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その向かい側にあるのが厳島神社
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江戸時代前期に創建された当社は弁天社という名前の神社で、場所はここではなく何度か変わったそうです。江戸時代も終盤の1866年(慶応2年)に現在地へ移り、1902年(明治35年)には現在の厳島神社となります。現在の建物は、1907年(明治40年)の大火で焼失後、1915年(大正4年)に再建されています。
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七福神の一つ弁財天も祀られているんですね。
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こちら弁財天・恵比寿堂
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となりに社務所があって、普段はここは無人ですね。
古くから海の守護神として、海上の安全を祈願する漁業者や商人から信頼を得ているから、江戸時代に北前船でやってきた北陸辺りの商人たちが創建したのでしょうね。
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その横は、前回紹介した魚見坂の入口。右の自転車屋さんの右の道を行くと、入舟漁港へ。
坂道になっているところから、ロードヒーティングが入っていて舗装路が見えていますね。
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何と、横の公園で発見!したものは「新選組最後の地」の碑。
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一体何が新選組の最期だったのか?土方はどうした?生きていたのか?
それについては、次回で詳しく紹介いたします。

では、また!


















2月16日火曜日、天気は昨夜から強風が吹きまくり、今朝は暴風雪へ変わり外出するのが怖いくらい。こんな日は1日家に引き込もって読書するとか、録画していた映画を鑑賞するとかして時間をつぶしますか?
昨夜録画したBSNHKの「127時間」は、10年ほど前にビデオを借りてきて見て面白かった作品なので午後からゆっくりと鑑賞しようかな、と思っています。
さて、寺町通りを歩いて隣の坂の「魚見坂」までやって来ました。
大きな坂としては、函館山山麓の中では最北西端にある坂で、名前の由来は魚見の名のように函館山裏側(山背泊方面)にやって来る魚群を見るのに便利な場所だった、らしい。
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坂の下側を見ると、右側は旧西小学校校舎。このまま下っていくと市電の終点「函館どつく前」に出ます。




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上を見ると、このまま緩やかに坂は上っていっていて、まもなく左側に高龍寺という函館市内の現存寺院としては最古のお寺が見えてきます。創始は江戸時代初期の1633年。
今回は、上には行かず下に降りることにします。



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西小学校の校舎を回るように横に道に進むと坂がありました。魚見坂と千歳坂の間にある船見坂です。地名は船見町で、文字通り函館港の船が良く見えることから名前がつけられたらしい。

下の右側にピンク色の家が見えますね。何だろう?
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上側を見ると、グランドがあるが以前は称名寺にぶち当たっていたので、昔は「称名寺の坂」と云われていたときもあったとか。確かに、地図を見るとわかります。でも、学校が出来たのでその坂はここで終わります。
右に坂の紹介と黄色の消火栓が見えますね。3か所に栓がある全国的にも珍しい消火栓です。大抵は赤色で栓は1ヵ所のみというのが普通。

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先程のピンク色の家。煙突があって、屋根にも窓があって、どうやら換気用に使われているようです。
答えは、どうやら?
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正面に回ると「大正湯」と書かれています。それにしても青空にピッタリと映えるピンクの建物!
左側の建物は、コインランドリーで洗濯機が6台設置されています。自動販売機もありますね。
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創業は大正3年というから1914年のことで、何と今年で107年目を迎える、どうやら実にレトロな銭湯です。ちなみに1914年は第1次世界大戦が始まった年で、日本はドイツに対し宣戦し中国の青島を占領しています。


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道路を挟んで向かい側には、蕎麦屋さんがありましたがその日は休業日でした。ガッカリ😖⤵️
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現在のピンク色の建物は、昭和2年に建てかえた時にお色直しをしたそうで、1927年のこと。あと6年で100周年を迎えますね。


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毎年開催されている映画の祭典である「函館港イルミナシオン映画祭」で、準グランプリ作品となった「パコダテ人」では、主人公(宮崎あおいが演じています)の家として、映画の舞台にもなったことがあるくらいです。


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玄関は、北国らしくフードがあって二重になっていますね。入浴料金は大人450円。

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市内弥生町にあり、一応年中無休ですが、利用時間は問い合わせた方がよろしいでしょう。
ネットを見たら定休日もあるとのことで、行くなら調べて方が無難ですよ。
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この写真を撮影した翌日にも訪れていて、スマホに写した3枚を最後に紹介します。
奥に見える同じくピンク色の家がご自宅でしょうね。
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ということで、今日は船見坂で見つけたレトロな銭湯「大正湯」を紹介いたしました。

では、また!











2月14日日曜日、天気は晴れで今日は今冬一番の最高気温になる予定で、最高気温8度とか。日の当たる場所では二けたになり、雪解けは一層早まりそう。このまま春に突入してくれればいいのですが、そうはいかないのが北国で、今週はまた寒波の襲来で積雪があり寒さの出戻りです。

さて、寺町通りのトップバッターである東本願寺船見支院の墓地を見学して、最初に目に留まったのがこの「武田斐三郎と妻の美那子の墓」。
武田斐三郎(1827~1880)は、箱館にとっては恩師のような存在。四国は伊予の国大洲藩の出身で、幕末に洋式城郭の五稜郭を設計・建築した人物で、科学者にして教育者、明治時代は陸軍軍人。緒方洪庵の適塾の卒業で、あのペリーとも会見していて、ペリーは斐三郎の学識の深さを褒めたたえた、といいます。
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妻の美那子は10歳年下。二人のお墓がここにあるとは知りませんでした。
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そして、以前お伝えした日本洋式帆船の第1号「箱館丸」の建造者にして、かつては高田屋嘉兵衛の造船所の船大工をしていた続豊治、彼のお墓もここにあったのですね。
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一番奥には、「御廟」という立派な大きなお墓がありました。
ここは本山のある京都市にある大谷派の親鸞聖人御廟と同じ造りで、遠い本山に行かなくてもここでお参りすることが出来る、といいます。京都以外で御廟があるのは函館だけだそうです。

雪かきをしていた人がいて尋ねると「教祖や住職、さらには共同墓地にもなっている」とのことで、たまたま中年女性3人組が参拝に来ていました。ご供花には新しいものもありますね。
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こちらが本堂。
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続いてとなりの実行寺(じつぎょうじ)へ。門柱を見ると日蓮宗のお寺ですね。
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説明を読むと、始まりは江戸時代の前半の明暦元年の1655年。
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ピンク色の壁が素敵ですね。右奥には閉校となった西小学校の校舎が見えています。
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入ってすぐ左側には七福神の一つである大黒様が祀られています。戸を開けて中に入りましょう。
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厳粛な雰囲気で、きちんと手を合わせて参拝しました。神様に見られているような。だから、賽銭泥棒なんて、罰当たりもいいところですよね(怒)!
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幕末にフランス軍艦の乗組員のための療養所になっています。というのも、乗員に壊血病が蔓延したため箱館奉行は彼らの上陸を許可し、ここのお寺に収容されたといいます。その間65日、フランス人は箱館で過ごすことになったのです。だから日仏親善函館発祥と書かれているのですね。
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日蓮ではないですね。日持上人とあります。13世紀の人物で、日蓮六老僧の一人。布教で、箱館にやって来たそうです。
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続いてとなりの称名寺へ。始まりは1644年というから江戸時代の前半で実行寺よりも11年も早い。
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説明を読むと、ここにも高田屋一族日本最初の官立気象観測所を開設した福士成豊日魯漁業の創設者の堤清六ら有名な方のお墓がありますね。でも、墓地内は雪が深くて歩きづらく残念ながら今回は断念しました。
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こちらも鉄筋コンクリート造りのお寺ですね。
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おっ、土方の供養碑もありますね。
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高田屋嘉兵衛顕彰碑には、淡路出身の嘉兵衛のことが書かれています。箱館を小さな寒村から大きな都市にさせる貢献をした大人物です。
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こちら土方歳三と新選組隊士の供養碑。お花は枯れていますが、土方歳三に関する場所には、いつも花が添えられていて、全国からファンが来ていることが分かります。ここだけではなく、碧血碑や戦死した場所である若松町の最期の地碑とかに。やっぱり、イケメンはいつの時代もモテるのです!
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第二次世界大戦では函館も空襲の被害を受けました。これはその慰霊碑です。
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ということで、幸坂から魚見坂までの横道は寺町通りになっていて、3か所のお寺巡りをしてきました。春のお彼岸にはまだ時間もあり、墓地は深い雪に埋もれていて早く春の到来を待ち望んでいるかのようです。冬の間はお参りしている人はおらず、純白の雪で覆われていて、訪れる人もまばらです。

次回は、なくなりつつある銭湯、西部地区で唯一といってもいいくらい営業している超レトロでとっても素敵な銭湯を紹介いたします。
では、また!



















2月12日金曜日、天気は朝から快晴で、気温はお昼頃にはプラス5℃くらいにまで上昇し、雪もかなり解けています。屋根からは、積もった雪が解けて水となって流れ出していて、今日でほとんどなくなりそう。だから、うれしいことに屋根の太陽光発電が稼働していて助かります。雪が少しでも積もると、まったく動かないので、屋根の雪が解けるとうれしいのです。
昨日、今日(2月11日、12日)と良い天気が続いたので、2日連続して午前中西部地区を散策。我が家からは車で15分くらいで行けるので、気軽に歩くことが出来ます。11日は風こそ冷たかったけど、晴天でカメラ撮影には持ってこいの日でした。

さて、ここは千歳坂。旧ロシア領事館のある幸坂の1本北西側にある坂です。見てお分かりのように、ロードヒーティングはされておらず雪が積もったままですね。
名前の由来は、「はこだて歴史散歩」によると、「千歳坂は幕末から明治初年にかけての古地図には記入されておらず、神楽坂の名があった。それは神明社の神楽殿に由来する名である。」と。
「明治10年代から千歳坂が用いられているが、それは神明社の松の木によるものらしく、それで別名松蔭坂という。」で、そこから千歳の松→千歳坂へとなった、という分かったようなわからないような。
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すぐに閉じられた銭湯「白山湯」がありました。昨日の「大黒湯」からはすぐ。
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滑らないように慎重に坂を上って行きます。それにしても良い天気です。冬らしく空気が乾いていて見晴らしが最高に良い!
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右の団地は、幸坂に面している道営のともえ団地。もともとは幸小学校のあった敷地です。
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さらに坂を上ります。右側に校舎が見えますね。
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西中学校です。でも、すでに閉校となっていて、函館山山麓にある中学校は1校のみで、山麓の南側にある青柳中学校(旧潮見中学校)。この西中学校も、かつては船見中学校で、以前お伝えした愛宕中学校と合併して西中学校になったのでした。
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その向かい側に、鯨のようなモニュメントがありますよ。鯨族供養塔と書かれています。
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市電でめぐる函館100選」によると、「捕鯨会社で長年鯨漁に従事していた天野太輔氏が1957年(昭和32年)建立したもので、「83歳になった天野氏は妻と我が子3人に先立たれたことと、生涯に親子連れも含めて2千数百頭ものクジラを捕獲し殺生したことを重ね合わせて、我が身の罪深さを痛感した。」そうで、それで碑の上にセミクジラの像を乗せたのでした。
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そういえば、ペリーが強引に開国を迫ったのは、鯨漁をするアメリカの漁業者たちの安全と補給を要求していたわけで、北太平洋ではクジラ漁は盛んに行われていたのですね。でも、日本では、鯨たちに供養塔を建てて供養しているのに、アメリカはそんなことは全くせず、逆に今は「日本は鯨を獲って残酷だ」などと言っているのは可笑しいですよね。

幕末、幕府がジョン万次郎を箱館に派遣して鯨漁を指導していたとは驚きです。
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左側が西中学校の校舎、右側の木々の間に鯨族供養塔があります。
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千歳坂の一番上はお寺にぶつかります。この寺は、東本願寺函館別院船見支院
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横の通りは寺町通りになっていて、いくつかのお寺が集中しています。
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以前、教会がいくつも集まる元町を紹介したときに、日本最初のコンクリート寺院の東本願寺函館別院をお伝えしましたが、ここはそこの墓地管理に建てられたもの。1926年(大正15年)に完成した建築物です。
どうやら有名な方のお墓もあるらしい。
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近代彫刻の先駆者の中原悌二郎のお墓もあるとか。
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ということで、次回はこのお寺を探ってみます。思わぬ人のお墓を発見しました。
では、また!

2月11日木曜日、天気は朝から晴れ。気温は9時まではマイナスだったけど、徐々に上昇し午後1時日の当たる場所ではプラス3℃くらいで、路面の雪が融けているところもありました。
明日はもっと気温は上がりプラス4℃とかで、少しずつですが春に近づいて行っている、という感じです。
さて、ここは市電通りから1本山側にある大黒通り
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かつては大勢の人で賑わった通りも、今は所有者の高齢化もあるし後継者がいないなど、シャッターを閉めたお店が多い。私が20代の頃は、この辺もかなりにぎやかだったことを記憶しています。

昔、銭湯だった「大黒湯」。でも、かなり以前から閉めています。多くの自宅に風呂をあるから、よっぽどじゃないと銭湯には行かないですよね。西部地区には40年前にはかなり銭湯があったけど、そのほとんどが閉めたり解体していて、今でも営業している銭湯は片手で数えるほど、というか1つか2つくらいじゃないでしょうか。
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営業しているうちに一度湯につかりたかったなぁ~、と。この近くには今も営業している素敵な戦闘がありますが、それはまた次の機会に紹介いたしますね。
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右側の蔵は、かなり重厚な建物ですね。何が収納されているのやら?でも、左の住居には人が住んでいる気配はなく無人のままです。西部地区には放置された歴史的建造物がたくさんあって、もったいないと思うのですが。
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市電通りの姿見坂入口です。右、マンションの奥に見えるピンク色の2階建ての建物は弁天町会館。明治のころは、この辺りは一番賑わった通りだったでしょうね。
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東京の吉原以北最大の遊郭があったところ、それがここ姿見坂の坂道。幕末の1865年には遊女329人もいたというから、とても想像がつきません。
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市電通りを歩いて帰る途中、レンガ造りの建物や和洋折衷の建物がいくつもあります。右の建物は車が駐車しているから生活している住居です。
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こんな純和風の建築物もありますが、冬は寒いだろうな!というのが自分の実感。やはり北海道の家は冬生活することを頭に入れて家造りをしなくてはいけません。断熱材がきちんと入っているか、それはどれくらいの厚さなのか?断熱材の材料は?暖房は何か?窓のガラスは何重か?など考えれば、古い建物に住むということは厳しいことなのです。やっぱり、冬に暖かい家に住みたいのです。
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ということで、30回目はあっさりと終了します。
残すところ西部地区の坂はあと数か所だから、太陽が差している暖かい日に再び訪れて見学して来たいです。
それでは、また!

2月9日火曜日、天気は雪時々晴れ。昨夜から降り続いた雪は、朝起きた時には20㎝以上に積り今朝も雪かきに1時間ほど汗を流しました。今年はホントに雪は多くて、昨年少なかっただけに余計に苦労します。早くはるにな~れ!と叫びたいですが、まだまだ続くぞ、冬は!

さて、旧ロシア領事館のある幸坂を下ってくると、赤煉瓦造りの蔵のある民家があります。蔵の一部は、青いトタンで貼られていますが。
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レンガの積み方を見ると、横の段は長いレンガと短いレンガの繰り返しで、これはフランス積みというやり方です。幕末から明治初期にかけてはフランス積みが主流で、やがて手間のかかるフランス積みよりもイギリス積みに変わっていったそうです。(「市電でめぐる函館100選」から)
その変わり目は、明治20年ころ。1887年辺りで、鹿鳴館で大仮装舞踏会が催された時代です。イギリス積みの方が合理的だったらしい。

車が入れない狭い道があって、ちょっとお邪魔しましょう。もし、不審者に間違われたら観光客のフリをして謝罪するつもりです。でも、ここは知り合いの家だったところなのです。
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台所用品が窓辺にあったから、てっきり人が生活しているのかな?と思ったけど、雪はかかれていないし、人の気配をまったくしません。左に曲がると、この細い道へ。左側は3軒が並ぶ長屋風の家。でも、雪かきしていないので人は住んでいません。右の家は私の昔の同僚が住んでいた家ですが、玄関は雪払いしています。が・・・。
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裏を見ると、生活感はなし。障子はボロボロだし、壁の板切れは一部剥がれていたり。これじゃ、冬は寒くて生活できないでしょう。
まだ独身だったころだから、40年以上前のことです。蔵があるからと、案内されて訪問。かなり歴史のある家でしたが、その後は音信不通になりしばらく訪れていませんでした。今はもう引っ越しされたのでしょうね。40年といったら、もしかしたら亡くなっておられるかも?
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こちらの赤煉瓦の壁を見てください。横方向をしっかりとご覧ください。幅のある長いレンガのとなりは短いレンガ。その繰り返しですね。長い、短い、長い、短いと交互に繰り返していますね。イギリス式は横の段は長い、長い、長いと続き、その下や上の段は短い、短い、短いの繰り返しでフランス式とは全然違います。
だから、このレンガ造りの壁は明治20年以前に建てられたもので、138年以上も前の時代です。

このころのフランスは落ち目の時代で、普仏戦争(1870~1871)でドイツに敗退する一方、イギリスは世界にまたがる大英帝国時代で、ビクトリア女王の下で世界中に植民地を所有していたのです。

だから、日本でもフランスからイギリスのやり方が幅を利かせるようになっていったのでしょうね。

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幸坂と弁天末広通りがぶつかり辺りの角地に来ました。ここは、昔小学校があった場所で、その学校の名前は坂の名前と同じ幸小学校。校歌が書かれた石碑。
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裏を見ると、明治16年(1883年)に開校。この碑は昭和58年(1983年)に創立100周年記念として建てられたものだということが分かります。
その中で、明治39年(1906年)に寒川分教場開く、とありますが、寒川(さむかわ)は函館山の裏側で、厳しい断崖絶壁の連続する場所の中で、一部ちょっとした緩やかな傾斜の広がった部分です。
幕末から明治にかけて富山県からの移住者が漁業を営み細々と生活していたところで、そこに幸小学校の分教場が子供たちのために出来たんですね。
残念なことに、昭和29年(1954年)の洞爺丸台風で壊滅的打撃を受けて無人となりました。
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若い時に、冬期間、寒川へトレッキングしたことがありました。ロープがぶら下がった急傾斜の崖を降りて寒川へ。夏だったら草ぼうぼうだし、マムシが出る地域で危険地帯だから冬に出かけたのです。
そこには確かに人が住んでいた跡がありましたし、、冷泉も湧いていて驚いたものでした。

学校があった場所は、ご覧のように7階建てのともえ団地となっていました。
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さらに降りて来たら野良猫発見!
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最近は高齢者が寂しさを紛らわすためにペットを飼う家庭が増えていて、それが犬派よりも、猫派が多いとか。
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我が家でも、猫を飼っていて2歳半になります。家猫の寿命は20年くらいとか、飼い主と猫のどちらが先に逝くか?
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大正館という名の我楽多屋さんですが、閉まっていますね。エレキギターを飾っていて、2階の窓はステンドグラス。この家も蔵を改造した家。
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大黒通りの角地にある大黒屋。閉店している模様ですが、昔はベトナム料理が美味しくて食べに来たこともあったのですが・・・。
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ということで、幸坂下まで降りてきました。
次回は、さらにこの周辺を探ってみたいと思います。
では、また!

2月7日日曜日、天気は曇りで気温は最高で3℃とか。でも、太陽が時々顔を出してくれることもあって、日の当たる場所ではプラス気温で雪が融けています。
21年のコロナは収まるどころか終息が見えない状況で、ワクチン接種をしても元通りになるのか?といったら無理っぽいような・・・。このコロナで世界は大きく変化して、生き残った人々による新しい世界になりそうな?そんな気もしています。でも、今年中には収まりそうもないコロナ禍は、どうなっていくのだろうか?まったく予想も出来ません。

さて、弥生坂に出ました。右側に「己巳の役海軍戦死碑」の道案内看板がありますね。坂の上を見ると、茶色の建物がありますが、これは老人ホーム。昔はグランドがあって愛宕中学校のもの。子供たちは、体育の時間は下の校舎から坂を登ってグランドまで来ていたんですね。
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下を見ると、かなりの急傾斜で港まで下がっています。でも、ここはロードヒーティングが入っているからまだ安心ですが。
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降りてくると、「咬菜園(こうさいえん)跡」の看板が。ここは、幕末に豪商の堺屋新三郎が造った箱館1の庭園があった場所。
1857年に堺屋が箱館奉行から1140余坪(3770平方メートル)の土地の払い下げを受けて、ここに庵を造り各地の名花名木を移植して四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民は箱館第一の名園と親しんだ、と書かれていますね。
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中島三郎助のモニュメントがありますね。幕府側のサムライで、浦賀奉行所与力をしていて、箱館へ来てからは蝦夷共和国箱館奉行並へ。箱館戦争では降伏を拒否し、長男・次男らとともに戦死。享年49歳。
中島町の由来になっている、まさにザ・サムライの人物です。
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江戸から逃れて、北海道に渡り五稜郭を占拠したものの、迫りくる新政府軍に対し彼らは玉砕の覚悟を決めたのでしょう。彼ら蝦夷共和国の主だった人々は、ここの庭園で今宵最後の酒を飲み交わしたといいます。別れの時を知っていたのでしょうね。
中島三郎助だけではなく、土方歳三も箱館戦争で戦死していますからね。彼は享年33歳でした。
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当時の写真が残っているんですね。箱館は幕末、外国人が住んでいたからカメラを所有していた人も多く、このように残っているんですね。山の斜面にはびっしりと家が立て込んでいて、当時の箱館は西部地区に人口が集中していたことが分かります。
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旧幕府軍武士たちが、ここで酒を飲み交わしたことが書かれています。
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現在は、個人の所有地で中に立ち入ることが出来ません。あくまで入口の看板だけを撮影するのみ。
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坂を少し降りると、教会がありました。屋根の上には十字架もありますね。正面のステンドグラスは大きく美しそう。
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でも、ここはウエディングチャペルで、教会ではありません。つまり結婚式場なんです。
ここでパイプオルガン奏者をしている方を知っていますが、コロナ以前は東京からも多数来ていたとか。函館湾を見下ろす教会で式を挙げたい!と。
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でも、今は市内のカップルでも式は延期したり、挙げなかったりしていますからね。
ピアノ教室を開いているオルガニストの先生も、今は仕事もなく大変でしょうね。
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その向かい側には、「箱館戦争ゆかりの地」と「咬菜園跡」の看板もありました。
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比較的大きな横道があったので、弥生坂から幸坂へと戻ります。途中で見かけた和洋折衷の函館スタイルの家です。確か民泊をしているけど、今は休業中の張り紙がありました。観光客が多い時は、民泊も流行りましたが今はホテルも休業中ですからね。
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2階は洋風、長屋風の家。
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現在も生活されている方がいますね。
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こちらも和洋折衷の函館スタイル。
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で、幸坂を下りていくと途中でレンガ造りの古民家を発見したのです。小路があって、昔は何家族も生活していたのでは?と思われる場所。それは次回にて紹介します。
では、また!

2月5日金曜日、天気は今日も朝から雪。昨日もおとといも積雪があり、毎日1時間は雪かきでいい加減あきてきたのを実感しますが、暦の上では立春を過ぎたけど北海道はまだまだ冬。2月いっぱいは雪かきをしなきゃいけません。早く来い!来い!春!!と叫びたいけど、飛沫が飛ぶからやめときます。
もっとも、函館でも市街地の中心以外は外を散歩してもほとんど人と出会わないし、すれ違ってもても距離を取れますから全然安心です。そこが大都市と違うところ。
ニュースで見れば、東京の渋谷とか大阪の道頓堀などは人であふれかえっていて、あれじゃソーシャル・ディスタンスなどは取れないし、感染の恐れあり、と強く思います。

さて、幸坂の一番上の山上大神宮の真下南側に公園がありましたね。名前を船見公園といいますが、公園の一角にあった石碑「ここぞ常盤小学校」。この公園、元は小学校の敷地だったのです。
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裏を見たら、「大正11年に創立、昭和45年に廃校 48年間の歴史」とあります。1922年から1970年まであった小学校です。その間、子供たちは毎日この幸坂を登って通学してきてたのですね。
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すぐ下には、先日お伝えした旧ロシア領事館と港が見えますね。
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ロシア領事館は屋根が老朽化していて、一部錆び付いているところも。
函館市は、この建物を売却する予定ですが、市民の間からは市の文化財指定を求める運動が起きていて署名もたくさん集まっています。
修理保全に多額の費用がかかるでしょうが、文化遺産ですので出来れ残してほしい建築物です。とりわけ函館はロシアとの関係が深いのだから、是非とも歴的建造物として市のレガシーにしてもらいたいです。
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造船会社の函館どつくには、海上自衛隊海上保安庁の船が一時修理に入っていますね。津軽海峡を挟んだ下北半島にはむつ市大湊に海上自衛隊の大きな基地がありますから、いつもここで点検や修理を行います。海上保安庁は函館に基地を持っていますから、いつも帰港しています。
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一方、駅前から五稜郭方面を見ると、高層のマンション、オフィスビルやホテル群。一番高い建物は五稜郭タワーですが、コロナのためにしばらく休業中。
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船見公園を横切り、名もなき坂へ。ロードヒーティングは入っていないどころか、除雪もしていません。車はどうやって上がってくるのやら?よっぽどの四駆じゃないと上れないでしょう。
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さらにその坂を横切り、車が入ってこれない歩行者のみの道を行きます。画面左側は、もう函館山の山林地帯。
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弥生坂に至る途中に、小さな公園があって石碑がいくつかあります。こちらは、人の名前がたくさん書かれていますが、何なのかは分かりません。多分、明治以降の戦争で亡くなった戦没者の名前か?
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その向かい側にある「己巳役(きしのえき)海軍戦死碑」。
1869年(明治2年)の箱館戦争で戦死した新政府軍の海軍の墓所。73名の戦死者が出ていて、奥の石碑にはその名前が書かれています。
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己巳役とは箱館戦争の別名で、戦争中に干支(えと)の十二支でいう暦が戊辰から己巳へ変わったから」(市電でめぐる函館100選」から)
右側にこの戦争に関わる重要人物がいますね。誰でしょう?
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まずは歴史が書かれています。旧幕府海軍の軍艦が新政府軍の軍艦「朝陽」を撃沈、とあります。
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松岡磐吉(まつおか ばんきち)は、旧幕府海軍の軍艦の艦長。新政府軍の戦死者を祀っているのに、旧幕府軍の軍人を紹介しているとは!?
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こちらは、おそらく新政府軍の戦死者のお墓でしょう。150年以上経過しているので、文字も薄れてきていて読みにくい。
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こちらにもあります。
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戦いが行われていたころ、ここは港が見えて格好の見張り所だったはず。住宅街になってかなりの年数が経過して、今は空き家となっている民家も多いし住民は高齢者ばっかり。
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30年以上前の話ですが、私が高校で勤めていたころの話です。ある悪さをした生徒の家を家庭訪問したのがこの辺り。坂を登って辿り着いたのが、この公園の横にある長屋でした。おばあさんと二人暮らしの彼は、両親に見放されて祖母と暮らしていたのです。
おばあさんの話では「冬に凍結して登れない坂を、私に代わって買い物してくれる優しい子なんですよ。」と。
ちょっぴり可哀そうな話でしたが、それでも仕事として伝えなければいけない自分もいて、つらい出来事だったことを思い出したのでした。

40年近く勤めればいろいろな出来事があって、市内を歩けば思い出すこともあって、今では懐かしいことでも、当時は心に突き刺さったこともありました。まぁ、私事ですが・・・。

では、また!

2月3日水曜日、天気は暴風雪。昨夜から降り続いた雪は朝起きた時点で積雪20㎝くらいで、今朝も1時間ほど雪かきに汗を流しましたが、今も降っていて午後にももう1回やらねばいけないほど。
それにしても今年は雪の量は多いし寒いし、コロナに加え二重、三重にも厳しい冬となっています。

さて、今日も坂巡りは続きます。今日は幸坂(さいわいざか)から。
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この長い坂の名前の由来は、坂の下は港を埋め立ててできた人口の土地で、新しい町名は「さいわい」町。それで、坂も「幸坂」と名付けられたとか。それまでは、この坂の一番上にある神社である旧神明社から「神明坂」と云われていたそうな。
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旧神明社は、この坂の上で現在の名は「山上大神宮」。この坂は、下から上まですべてロードヒーティングが入っているから雪はまったくないですね。でも、歩道には雪が積もっていて、歩行者には歩きづらい。車は走りやすいけど。
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上に向かって結構斜度はキツイ!この写真を見ても20度近くありそう。自転車は無理で、歩くだけでもヒーヒー。
坂のかなり上に来たら、旧「ロシア領事館」がありました。
レンガ造り2階建てで一部地下室ありのロシア領事館は、1910年(明治43年)に建築されています。
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現在は市の所有物になっていますが、新聞を見れば売却予定だとか。この建物を購入しても使い道はあるのでしょうか?建物自体は100年以上も経過していてかなりの修理修繕費用はかさむし、観光目的に利用してもこのコロナ禍で来年以降観光客が訪れるのでしょうか?
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私が高校生の時は「道南青年の家」として開放されていて、一度利用したことがあったけど、その時でもかなり古かったことを覚えています。その後は、しばらく閉館したままだから利用するとしたら相当なリフォームが必要なことでしょうね。
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さらに上ってきました。眼下に函館湾が見えます。右の公園は「船見公園」で、結構広い。それもそのはず、昔は小学校があって敷地は広いのです。芝生の広場、トイレ、水道も完備しているから夏はテントも張れそうだけど、ここは市街地だからダメでしょうね。
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ということで、坂の一番上は先ほど登場した旧神明社で、現在は山上大神宮。
創建は古く、室町時代初期の応安年間(1368~1375)、藤坊という修験者が始めたというから、650年くらい以前の話です。場所はここではなく函館山の向かい側の市街地の北東側の亀田赤井川村の神明山。
その後、江戸時代前半の1655年に函館山南側の立待岬がある辺り(昔は尻澤辺村、今の住吉町)に移転、さらに移転を重ねてここへ来たのは1876年(明治9年)以降。
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8代目神職は土佐藩出身で、何と坂本龍馬や武市半平太と親戚関係があったとか!

また、ここには戊辰戦争寺の旧幕府軍側の一つである桑名藩主である松平定敬(さだあき)の御座所として使用されていたところでもあるのです。会津藩主松平容保の弟にあたる定敬は、桑名藩が早くから新政府軍に降参していて藩主だけが逃亡して箱館へ。藩主としてもプライドか榎本武揚率いる「蝦夷共和国」には加わらず、箱館戦争佐中の4月にアメリカ船で横浜に逃亡したのでした。

今の政治家もそうだけど、2代目や3代目に当たる世襲で政治家になっている人は多いですよね。まっやく役に立たないマスクに600億円以上も捨てた前の首相とか。小さい時から大事に育てられているから、いざというときに弱腰になって、最後は人々を置いて逃げる。徳川最後の将軍15代慶喜がそうでしたね。まったくだらしがない!鳥羽伏見の戦いで敵前逃亡しているのだから!(怒)
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階段の下までロードヒーティングされているから車は登りやすいけど、停めておくには車止めが必要なほどの斜度です。
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歴史にもしも?というのはないけど、箱館戦争の時に開陽丸が沈まずフランスやイギリスが味方してくれたら、アジアで初めて選挙で選ばれた人たちによる大統領制の「蝦夷共和国」が箱館を首都として成立し、北海道が独立国になっていたかも?知れません。
あくまでも仮定の話ですし、そうはならなかったのですが・・・。
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絵馬には、「合格!」の文字がたくさんあって受験生が多く参拝しています。
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バックは、函館山の森林地帯。
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歴史にもしも?は絶対にありえないけど、北海道が独立していたら「農業漁業王国・国際観光国」として、人口も同規模なニュージーランドやデンマークのような国造りが出来たのでは?と思うのですが。製品は、中国、台湾、香港やシンガポールへ、もちろん東京などの日本の大都市へ、安全で安心の新鮮な1次産品を高値で輸出して外貨を獲得! 世界1の雪質のスキー場を持つ北海道へ世界中からスキーヤーを呼ぶ!大自然の残る土地をセールスポイントして世界中から観光客を!政治的には永世中立国として東アジアのスイスのような存在、なんて途方もないはかない夢ですが・・・。
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奥にはステージも見えますが、利用されているのだろうか?
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手水鉢(ちょうずばち)は、完全に凍結していて、その上に雪が積もり役に立ちませんね。
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ということで、幸坂を途中から上まで上って紹介しました。次は幸坂の下へ降りていきます。
では、また!






















2月1日月曜日、天気は曇り時々曇晴れで、昨日比べて気温は上がり午後には雨が降るとの予報。昨日は、2日前以上に雪が降り朝から雪かき。それでも、また降って積もり午後にも再び雪かきで、計2時間近く汗を流しました。雪自体は粉雪で軽く、重たいベタ雪によりは楽ですが、体にはきつかった1日でした。

さて、1月の暖かい日に巡った西部地区。ここは市電「大町」で、弥生坂の下に位置しています。
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1ブロック歩いてとなりの常盤坂へ。左隣りの建物は相当年季の入った木造建築で、築何十年?もしくは100年近く経ったものでしょうか?正面に回ってよーく拝見しましょう。
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左の建物は、昔の医院風に見えますね。右は何かの商店かな?いずれにしても人が住んでいる気配は全くなく、無人のまま数十年も放置されている感じです。
所有権の問題もありますけど、何かに役立てられたら?と思うのですが。西部地区には、こんなリノベーションしたら今でも活用できる建物があちこちに残っているのですから、もったいない話です。
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海側に歩いていくと、日本初の洋式帆船の「箱館丸」のレプリカが展示されています。
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1854年の日米和親条約で開港した箱館、奉行所は来航する外国船籍との交渉や港警備のためにも奉行所
専属の船が必要との考えから、ここ箱館で日本人の手になる船を造りました。それが、この船。
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船大工の続 豊治(つづき とよじ)さんが手がけたんですね。
重さは約56トンで、風の力を推進力にした帆船で、だから大きなマストが2本ありますね。
当時の箱館の造船技術では、まだ蒸気の力で動く蒸気船は造れなかったのでしょう。
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現在は三笠市に住まわれる6代目の続さんのご子孫の方が寄贈してくださったんですね。
昭和63年というから1988年のことで、バブル絶頂期の時代。もう32年も前のことです。
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湾を見ると、波もなく穏やかな凪状態。湾に面していくつも建てられたホテル群は、今稼働しているのでしょうか?いつもは毎年500万人以上宿泊する函館観光も、昨年から激減してホテルも閑散としているし、閉めているところもあるのだから、とても心配です。
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湾の北西側を見ると、どつくの造船会社と西埠頭には海上自衛隊の船が停泊していますね。
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箱館丸の角を曲がると常盤坂の真下へ出てきます。坂を登ろうと1本目の横道を見ると、何やら古風な建築物が目に留まりました。こちらは、北海道の住宅で第1号となった重要文化財の指定(1971年 昭和46年)の太刀川家住宅。左側には1915年(大正4年)に完成したモスグリーン色の洋館です。
洋館の方は、現在も使用されているとのことで、実に築106年の建物。もちろん、修理修繕はしていると思われますが、それにしてもすごい!
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太刀川家は、幕末に越後からやってきて米穀商から手広く商売を広げてた大商人。
この建物、木造ではなくレンガ造りの耐火建築です。さすがに大火の多かった戦前の函館では、このような火災に耐える建築物、例えばレンガ造りやコンクリート製などが建築物が出来たのでしょうね。
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その隣にも、レトロな3階建ての木造建築物がありました。これは面白い建物!
いつも私が大事な資料としている、いわば西部地区散策のバイブル的存在の「市電でめぐる函館100選」(新函館ライブラリー)によると、こちらの建物は「かつての堤商会の本拠地だった建物」で、堤商会とは、「これなくして函館の発展は語れないという北洋漁業の中核企業であるニチロの前身にあたる」会社です。
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淡いブルー色の素敵な建物ですね。こちらが堤商会の本拠地だたっとは!堤商会は、五稜郭にある北洋資料館で知ってはいたものの、こちらの建物がその本社だったとは!

それでは、常盤坂を上って行きましょう。
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この坂、雪道でロードヒーティングはしていませんね。歩道は雪が積もり、車道はツルツル路面で滑りやすく歩き辛い。
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で、ある程度上まで来たので、横にトラバースして次の姿見坂へ。
名前の由来は、「はこだて歴史散歩」によると、「姿見とは、上にあった遊郭にちなむな。遊郭は1803年、18軒が料理茶屋を出願して許可されたのが始まりで、のちに山ノ上遊郭と称した。正式に売女渡世が許されたのは1858年で、開港にともない三層楼の異人揚屋も出来た。」とのこと。
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「1865年のころには、郭内遊女屋25軒、遊女329人、引手茶屋21軒、男芸者5人、女芸者113人と盛んであった。1871年、郭内の切店(きりみせ)から出火して大火となり、蓬莱町(現在の宝来町)へ移った」とありますから、開港後の幕末は相当の遊郭街がこの坂にあったんですね。
今では、とても想像が出来ませんよ。
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ということで、東京以北最大の遊郭があった、らしい姿見坂。
次回はこの周辺をさらに歩いてみます。
では、また!


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