2月25日木曜日、天気は曇り。朝起きると、ここのところ連日5㎝くらいの積雪で毎日雪かき。せっかく春の訪れを感じるようになったのにまた冬に逆戻りで、いつになったら春になるのか?まぁ、いつかは桜も咲くでしょうが・・・。

長い冬の間は旅にも出れず、することといったら毎日のルーティンの体操・ストレットとウォーキング。体をトレーニングする時間には1時間から2時間ほど。それと旅の学習として図書館から借りてきた本を読むことで、11月から2月の4か月間で100冊くらい読書。ジャンルは様々で、鉄道関係から小説、ヒグマの生態まで十分すぎるくらい読書三昧。それとテレビではスポーツの生中継がほとんどなかったから、その解消に映画を録画して鑑賞すること。BSやCSで関心あるものを録画して、じっくりと後から鑑賞しました。

長い冬が明けた4月初めから「ぼうけんの旅」2021年をスタートさせたいのですが、その前にコロナワクチン接種が4月から始まるので、それがいつになるのか?受けてから旅たちたいのですが、もしかしたら5月になるかも?で、それも気がかりです。まぁ、近いうちにワクチン接種するのは間違いないけど。

さて、前回の続きから。カトリックの墓地から少し歩くと「南部藩士の墓地」へ。
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そういえば、旧丸井デパート(現、函館市地域交流まちづくりセンター)の横の坂は「南部坂」でしたし、坂を上ると「南部陣屋跡」の碑もありましたから、箱館と南部藩の関係は深かったのです。
お墓には、「南部陣屋箱館詰藩士之墓」がありました。

江戸後期、ロシアの南下政策で日本近海に軍艦を出してきたロシアに対し、蝦夷地の防衛任務を寒さに強いみちのく諸藩に充てさせました。津軽藩とか秋田藩とか、その中でも盛岡に城を構える南部藩は箱館を拠点に活動しますが、それでも蝦夷地の寒さは別格で寒さに耐えれずに亡くなる兵士もいたのです。
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そのとなりは、「函館キリスト教会共同墓地」。市内各所にあるプロテスタントの教会の墓地です。
昨年4月に函館市内のキリスト教会巡りをして、市内には27か所の教会があることを発見(自転車で探しました!中には普通の民家も教会になっていて、プロテスタントは牧師の数ほど教会があることが分かりました。blog 2020年4月を検索すると見れます。)
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十字架のお墓もあるけど、普通の墓もありますね。
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そのとなりは、「プロテスタントの外国人墓地」。第1号は江戸時代末期の1854年。日米和親条約で開港した箱館にやってきたペリー艦隊、その乗組員のウオルフ51歳とレミック19歳の2名が亡くなります。ペリーはその埋葬場所を箱館奉行に求めたところ、仕方なく提供した場所がここで、そこは元来火葬場であって当時の箱館の人たちは荼毘所と称していて、亡くなると火葬にしていた場所でした。
その他、ドイツの代理領事やデンマークの領事、イギリス人など40墓埋葬されていますね。
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海の見える絶景の場所だから、故郷の海と繋がっているので安心して永遠の眠りについたのでしょうか?それとも遠く離れた異国の地、故郷を思い出して懐かしんで眠りについたのか?は分かりませんが。
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その向かい側、山側にある寺院は曹洞宗の地蔵寺。
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ここには、江戸時代末期の1864年に建てられた、引き取り手のない遊女たちを供養する有無両縁塔(うむりょうえんとう)があります。塔の文字が分るでしょうか?上から有、無、両、縁、塔とあります。
blog「コロナ禍の函館25」で紹介した姿見坂の上にあった「山ノ上遊郭」の遊女屋25軒が合同で建てたといいます。
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ズームして見ると、施主は「郭内遊女屋」で、下には廣田屋とか東屋、金子屋、田中屋などの店の名前が分かります。
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詳しくは、こちらの案内板をどうぞお読みください。
江戸時代末期から明治、大正、昭和前半にかけて、函館には東京以北最大と云われた遊郭があったのは事実で、遊女たちはおそらく東北各地の農村・漁村から人集めされてきたのでしょう。そして、故郷へ帰れずに亡くなる人も多かったのでは?
1854年の開港に伴い多くの商人たち、外国人たちが箱館に住み付きます。4年後の1858年から箱館奉行公認の遊郭となってスタートし、それは箱館の街が繁盛するほど遊郭も大きくなり、遊女たちも増えていったのです。中には、異人揚屋もあった、といいます。
市電でめぐる函館100選」には、「アメリカ人貿易事務官ライスは、おたまという遊郭の女性を自宅に引き入れています。」と書かれていて、まるで、長崎を舞台にした蝶々夫人か英国人大商人のグラバーの箱館版か?とも思われるような出来事です。
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墓地には、こんな人物のお墓もあります。こちらは「万平塚」。
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石川啄木が歌で紹介した、当時存在した函館のとある乞食、彼こそ函館の名物男の万平でした。
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さきほどの有無良縁塔の横には、たくさんのお地蔵さんが置かれていました。
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ただ、地蔵の顔は長年の風化により削られてハッキリとは見えませんが、それだけに150年以上も経過した悲し歴史を感じさせます。
江戸末期から昭和前半の戦前まで、函館は北日本最大の都市として経済的に繁栄し10大都市の一つにも数えられましたし、各国の領事館も置かれ国際都市でもあったのですが、その反面、貧しき民の中でもさらに貧困の子だくさんの農村部の子女たちは売られ買われて、ここの遊郭に連れてこられたのでしょう。

「日本史資料」では、「貧困農家の娘が「身売り」までする惨状は、深刻な社会問題となった。」とあります。飢饉や大凶作が相次ぎ、娘を売らなければいけないほど困窮したのでしょう。
その資料を載せますので、どうぞお読みください。
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地蔵寺から出て、少し歩くと。
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その向こうに、赤煉瓦壁が続く瓦屋根の立派な屋敷が見えました。何でしょう?次回は、この屋敷を紹介することにします。
では、また!