ここは住吉神社。壱岐の神社の総帥(そうすい、トップに立つという意味)です。神社のある
場所は、先に紹介した原の辻遺跡を流れる幡鉾(はたほこ)川の源流にあたり、古代より
神聖なところだ。神社は鬱蒼(うっそう)とした森の中にある。
境内の神池から発見された神鏡17面は、大陸からのが12面、和鏡が5面。平安時代から
室町時代までの貴重な文化財がある。看板の後ろに池が見える。

クスノキはあちこちにある。何か変な形?

大木が生い茂る太古からの森林の中に神社が存在しする。ムッ、とするような暑い気温
(37度)の中でも神聖な場所ゆえ、気持ちはキリッと引き締まる。
文永の役(1274年)の跡地。
13世紀のはじめ、モンゴル高原にチンギス・ハンが出て、モンゴル諸部族を統一し、
彼の孫の世代までにアジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築き上げた。これが
モンゴル帝国です。
孫のフビライ・ハンは朝鮮の高麗(こうらい)を子分に従え、日本(鎌倉幕府)にも使者
の派遣を要求(服従せよ、との命令)を、8代執権(幕府の代表)北条時宗(ほうじょう ときむね)
は拒否。それに対して高麗軍と合わせて約3万の軍勢で対馬・壱岐を侵略した。モンゴル
軍の騎馬による集団戦法と火薬の威力に圧倒された、という。
さらに北九州を襲撃、幕府は九州の御家人を動員しこれを迎え撃ったが、大苦戦。
しかし、折からの暴風雨の為、大打撃を受けて撤退したのが1274年の文永の役です。

幕府は、再度の侵入に備え御家人に命じて博多湾岸に石築地(いしついじ、石塁の
こと)を築き、防備につかせた。1281年には中国全土を征服したモンゴル軍(1271年
には国の名を元と改めています)はなんと14万人の大軍で攻撃してきた。しかし、この
時も大暴風雨により失敗に終わっています。これが1281年の弘安の役です。
この2度にわたる元軍の襲来を元寇(蒙古襲来)といいます。
元軍の中には、征服された朝鮮の高麗軍の他、南宋の軍が含まれます。ここは
その中国の兵隊たちとの戦いが行われた場所。唐人とは唐(遣唐使)つまり中国を
意味します。

平 景隆(たいらのかげたか)の墓があります。彼は1274年の文永の役の際、敗北、
自害しました。ここがその場所です。平景隆はこの地に城を築いて応戦したが、全滅した。

千人塚。蒙古襲来で命を落とした人々を埋葬したお墓です。対馬や壱岐には神風は
吹かなかったのです。島の人々は壊滅的打撃を受けています。日本本土の人々は神様の
風が吹いて助かった、というが、ここ壱岐や前に紹介した対馬ではそんなことは少しもなか
ったのです。
実は元寇の260年も前のこと、平安時代の1019年にも女真族(満州民族)により、
ここ壱岐と対馬は襲撃されています。これを刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼んでいます。

大きな損害を受けた壱岐だが、1281年の弘安の役では、壱岐島の戦いが勃発する。
壱岐島を占領した元軍と日本軍が激戦し、元軍を駆逐することに成功する。江戸時代に
入ると平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となって、その後明治維新まで続くことになる。

というわけで、今日は壱岐の歴史を学びました。壱岐は長崎県に所属しますが、地図
を見て分かる通り佐賀県に近いし、経済的には福岡県に依存している部分がある。現に
フェリーは福岡市から出航している。
麦焼酎発祥の地でもある。WTO(世界貿易機関)から壱岐焼酎として保護産地指定を
受けているほど。
さて、明日はすべての皆さんが思わず大声で、笑ってしまう
このブログ始まって以来の
最大の出来事(?)、サプライズの写真をお届けします
乞うご期待
場所は、先に紹介した原の辻遺跡を流れる幡鉾(はたほこ)川の源流にあたり、古代より
神聖なところだ。神社は鬱蒼(うっそう)とした森の中にある。
境内の神池から発見された神鏡17面は、大陸からのが12面、和鏡が5面。平安時代から
室町時代までの貴重な文化財がある。看板の後ろに池が見える。

クスノキはあちこちにある。何か変な形?


大木が生い茂る太古からの森林の中に神社が存在しする。ムッ、とするような暑い気温
(37度)の中でも神聖な場所ゆえ、気持ちはキリッと引き締まる。
文永の役(1274年)の跡地。
13世紀のはじめ、モンゴル高原にチンギス・ハンが出て、モンゴル諸部族を統一し、
彼の孫の世代までにアジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築き上げた。これが
モンゴル帝国です。
孫のフビライ・ハンは朝鮮の高麗(こうらい)を子分に従え、日本(鎌倉幕府)にも使者
の派遣を要求(服従せよ、との命令)を、8代執権(幕府の代表)北条時宗(ほうじょう ときむね)
は拒否。それに対して高麗軍と合わせて約3万の軍勢で対馬・壱岐を侵略した。モンゴル
軍の騎馬による集団戦法と火薬の威力に圧倒された、という。
さらに北九州を襲撃、幕府は九州の御家人を動員しこれを迎え撃ったが、大苦戦。
しかし、折からの暴風雨の為、大打撃を受けて撤退したのが1274年の文永の役です。

幕府は、再度の侵入に備え御家人に命じて博多湾岸に石築地(いしついじ、石塁の
こと)を築き、防備につかせた。1281年には中国全土を征服したモンゴル軍(1271年
には国の名を元と改めています)はなんと14万人の大軍で攻撃してきた。しかし、この
時も大暴風雨により失敗に終わっています。これが1281年の弘安の役です。
この2度にわたる元軍の襲来を元寇(蒙古襲来)といいます。
元軍の中には、征服された朝鮮の高麗軍の他、南宋の軍が含まれます。ここは
その中国の兵隊たちとの戦いが行われた場所。唐人とは唐(遣唐使)つまり中国を
意味します。

平 景隆(たいらのかげたか)の墓があります。彼は1274年の文永の役の際、敗北、
自害しました。ここがその場所です。平景隆はこの地に城を築いて応戦したが、全滅した。

千人塚。蒙古襲来で命を落とした人々を埋葬したお墓です。対馬や壱岐には神風は
吹かなかったのです。島の人々は壊滅的打撃を受けています。日本本土の人々は神様の
風が吹いて助かった、というが、ここ壱岐や前に紹介した対馬ではそんなことは少しもなか
ったのです。
実は元寇の260年も前のこと、平安時代の1019年にも女真族(満州民族)により、
ここ壱岐と対馬は襲撃されています。これを刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼んでいます。

大きな損害を受けた壱岐だが、1281年の弘安の役では、壱岐島の戦いが勃発する。
壱岐島を占領した元軍と日本軍が激戦し、元軍を駆逐することに成功する。江戸時代に
入ると平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となって、その後明治維新まで続くことになる。

というわけで、今日は壱岐の歴史を学びました。壱岐は長崎県に所属しますが、地図
を見て分かる通り佐賀県に近いし、経済的には福岡県に依存している部分がある。現に
フェリーは福岡市から出航している。
麦焼酎発祥の地でもある。WTO(世界貿易機関)から壱岐焼酎として保護産地指定を
受けているほど。
さて、明日はすべての皆さんが思わず大声で、笑ってしまう
このブログ始まって以来の最大の出来事(?)、サプライズの写真をお届けします
乞うご期待


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カツオがよく知っていました。


の経営者

































はビルの隙間に建っている。











ここはトレビの泉じゃないぞ!
















































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