函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で12年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2025 年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2025年が明け今年は73歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2013年03月

 ここは住吉神社。壱岐の神社の総帥(そうすい、トップに立つという意味)です。神社のある
場所は、先に紹介した原の辻遺跡を流れる幡鉾(はたほこ)川の源流にあたり、古代より
神聖なところだ。神社は鬱蒼(うっそう)とした森の中にある。
 境内の神池から発見された神鏡17面は、大陸からのが12面、和鏡が5面。平安時代から
室町時代までの貴重な文化財がある。看板の後ろに池が見える。
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クスノキはあちこちにある。何か変な形?
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 大木が生い茂る太古からの森林の中に神社が存在しする。ムッ、とするような暑い気温
(37度)の中でも神聖な場所ゆえ、気持ちはキリッと引き締まる。RIMG0664      





















 文永の役(1274年)の跡地。
13世紀のはじめ、モンゴル高原にチンギス・ハンが出て、モンゴル諸部族を統一し、
彼の孫の世代までにアジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築き上げた。これが
モンゴル帝国です。
 孫のフビライ・ハンは朝鮮の高麗(こうらい)を子分に従え、日本(鎌倉幕府)にも使者
の派遣を要求(服従せよ、との命令)を、8代執権(幕府の代表)北条時宗(ほうじょう ときむね)
は拒否。それに対して高麗軍と合わせて約3万の軍勢で対馬・壱岐を侵略した。モンゴル
軍の騎馬による集団戦法と火薬の威力に圧倒された、という。

 さらに北九州を襲撃、幕府は九州の御家人を動員しこれを迎え撃ったが、大苦戦。
しかし、折からの暴風雨の為、大打撃を受けて撤退したのが1274年の文永の役です。
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幕府は、再度の侵入に備え御家人に命じて博多湾岸に石築地(いしついじ、石塁の
こと)を築き、防備につかせた。1281年には中国全土を征服したモンゴル軍(1271年
には国の名を元と改めています)はなんと14万人の大軍で攻撃してきた。しかし、この
時も大暴風雨により失敗に終わっています。これが1281年の弘安の役です。
この2度にわたる元軍の襲来を元寇(蒙古襲来)といいます。

 元軍の中には、征服された朝鮮の高麗軍の他、南宋の軍が含まれます。ここは
その中国の兵隊たちとの戦いが行われた場所。唐人とは唐(遣唐使)つまり中国を
意味します。
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 平 景隆(たいらのかげたか)の墓があります。彼は1274年の文永の役の際、敗北、
自害しました。ここがその場所です。平景隆はこの地に城を築いて応戦したが、全滅した。
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千人塚。蒙古襲来で命を落とした人々を埋葬したお墓です。対馬や壱岐には神風は
吹かなかったのです。島の人々は壊滅的打撃を受けています。日本本土の人々は神様の
風が吹いて助かった、というが、ここ壱岐や前に紹介した対馬ではそんなことは少しもなか
ったのです。
 実は元寇の260年も前のこと、平安時代の1019年にも女真族(満州民族)により、
ここ壱岐と対馬は襲撃されています。これを刀伊の入寇(といのにゅうこう)と呼んでいます。
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 大きな損害を受けた壱岐だが、1281年の弘安の役では、壱岐島の戦いが勃発する。
壱岐島を占領した元軍と日本軍が激戦し、元軍を駆逐することに成功する。江戸時代に
入ると平戸松浦氏が治める平戸藩の一部となって、その後明治維新まで続くことになる。
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 というわけで、今日は壱岐の歴史を学びました。壱岐は長崎県に所属しますが、地図
を見て分かる通り佐賀県に近いし、経済的には福岡県に依存している部分がある。現に
フェリーは福岡市から出航している。
 麦焼酎発祥の地でもある。WTO(世界貿易機関)から壱岐焼酎として保護産地指定を
受けているほど。

さて、明日はすべての皆さんが思わず大声で笑ってしまうこのブログ始まって以来の
最大の出来事(?)、サプライズの写真をお届けします乞うご期待

 3月も今日は30日、明日で終り、4月からは新年度が始まります。ブログのコメントにもあったように、T君は今日東京に旅立ちますが、就職した人たちはもう既に研修に入って働いています。
 皆さん、しっかり頑張って下さい。厳しいこともたくさんあるけど、負けずに一歩ずつ前に進んで下さい!
 さて、朝起きたら辺り一面真っ白、雪景色でした。昨日タイヤ交換したばかりなのに
 昨日は暖かかったので昼間庭に出たら、

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 春を告げる花、福寿草の花が咲いていました。黄色の花が一番最初に咲きました。
 黄色の花の好きな人へ送ります。春を告げる一番花です

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 となりにはクロッカスが1輪だけだけど咲いていました。

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 チューリップの芽も出ました。春だ。

 旅立ちに備えて名刺を作りました。なかなかカッコ良いでしょう!? 2種類あります。

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 Y電器で、 100枚で550円の名刺用紙を購入、パソコンで作りました。

  最後に紹介します。
私の甥のラグビー ・トップリーグ ヤマハ発動機の笠原雄太 主将が今月号の「Tarzan」(ターザン)に載りました。是非御覧下さい!

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 左端のボディビルダーは鍛えすぎて医者の警告を無視したため、片方の眼を失明した人です。ちょっと異様ですよね。 カツオがよく知っていました。
「アスリートのオフトレ」を特集したページです。
 春だ!と言ってブログを打っていたら、外は吹雪(8:25頃、今は太陽が出て晴れて来ました。8:50)まあ少しずつ暖かくなっていますね
 3月に卒業した皆さん、元気に行こう!前へ  ファイト

  昨日に引き続き築地を歩きます。東京での最終回は聖路加病院(せいるかびょう
いん)を紹介します。その前に、最初に目にとまったのは「芥川龍之介 生誕の地」でした。
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 芥川龍之介は、1883年(明治16年)ここにあった(当時東京のど真ん中の築地に
牧場があったなんて信じられない)「乳牧舎」という名の乳牛を飼育する牧場の経営者
である新原敬三の長男として誕生しています。家庭の事情か生後7ヶ月で、母の長兄で
ある芥川道章に引き取られ、12歳の時に芥川家の養子となりました。
 東京大学在学中から文筆活動を始め、夏目漱石門下に入り、「地獄変」・「羅生門」・
「河童」・「ある阿呆の一生」などの名作を残したが、1927年(昭和2年)7月24日、35歳
で自害しました。NHKの「20世紀の映像」で彼を見た時、かなり神経質に見えましたが・・・。

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 病院ランキングで常にトップクラスにランクされている聖路加病院です。今年102歳を
迎える名誉病院長の日野原重明(ひのはら しげあき)さんでも有名な病院ですね。
 1902年(明治32年)アメリカ聖公会(聖公会は英国国教会のプロテスタント)の宣教師
ルドルフ・トイスラー博士により、東京と中央区明石町(築地のこと)にキリスト教精神の下
での診療と看護を実践するために創設されました。
初代理事長には、日本資本主義の父と呼ばれる、渋沢栄一がつきました。彼は第一国立
銀行や東京証券取引所、大阪紡績会社(1882年日本最大の機械制紡績工場)など企業
の設立・経営に関わるなどした明治時代を代表する人物の一人です。

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 聖路加の名の云われは、キリストの使徒であるパウロの協力者であり、新約聖書の
中の福音書の一つである「ルカによる福音書」の著者、聖人ルカを漢字で表したものです。
聖ルカは「コロサイ人への手紙」で「親愛なる医者のルカ」(4章14節)と書かれており、
キリスト教の国々では病院の名前によく使用されています。
 聖路加は「せいるか」と読みますが、今は「せいろか」の読みが定着しています。

 礼拝堂(チャペル)の中です。暗くて、良く見えませんが本当はステンドグラスが綺麗
なんですよ。礼拝堂の前の床のタイルにはハエ・ネズミなど伝染病を媒介する動物や
迷信を象徴するものとしてアラジンの魔法のランプがレリーフとして彫られています。
 これらを踏みつけることで、伝染病・迷信を退治し、前に進むことが出来る、との想い
からです。
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 礼拝堂の前は公園。ガン患者のためのホスピスとなっています。ホスピスを造ったのは
先に紹介した日野原重明先生です。
ホスピスとは、末期のガンなどの治療の困難な疾患にかかった患者とその家族に対して、
快適な生活を送れるようにサポート・ケアを提供する場を意味しています。 RIMG0704





















 聖路加タワーと呼ばれるツインの高層ビル(47階と38階)に上ります。もちろん高い47階
のビルに行きます。最上階からの眺めです。200m以上もの高さがあって、景観は抜群
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 地上15mを走る首都高速が左側に見え、すぐそばにクリーム色の友人のマンション
が見える。

 
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 遠くにお台場が見えるが、はっきりとしませんね。

 隅田川に架かる橋が見えますね。有名な「勝鬨橋(かちどきばし)」です。
川というよりは海を埋め立てた土地なので、海水ですね。勝鬨橋はかつては珍しい
可動橋(通る船のために開いたり、閉じたりする橋)でしたが、1980年には固定され
ました。1933年工事にかかり、1940年に完成しています。
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 最後の写真はPart 1 で最初に紹介した学校が真ん中に見える。ビルの間にある、って
感じですね。明るいブルーの屋根が目立ちますけど、何かな?
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 というわけで、東京シリーズ3回はこれにて終了。
明日はまた、壱岐の歴史を堪能します。では、また(o・・o)/~

  東京・築地の中を歩くことにしました。築地は世界最大の公設市場、と紹介しましたが、
取り扱う食べ物は、水産物を筆頭に青果、鳥・卵、漬物などほとんどの食品です。
 1923年の関東大震災前は、日本橋魚河岸にあったが、震災後は海軍省が所有していた
旧外国人居留地(築地居留地)の土地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したの
が始まりです。
 外国人居留地というのは、江戸時代末期開国したばかりの日本にアメリカ・イギリス・
フランスなど条約を結んだ国々の人々が定住した一定のエリアをいいます。
江戸の末期に締結した不平等条約です。治外法権といって、日本の法律が適用されな
かった時代でした。箱館にも外国人居留地はあったんですよ。
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生鮮品の良さ、食堂棟の美味しさがマスコミに取り上げられ、今では東京の一大観光地
となっていて、外国人観光客も多い。

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 左を歩いているのが、月島に住む私の友人。隣の迷子になっていた老婦人を
彼は案内している。写真ではわかりづらいが、人は多いし複雑で方向感覚を失っ
てしまう。とにかく広くて迷路みたいだ。

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 外国人観光客が多いのがわかるでしょう。
大和寿司」で20分並んで待ち、食べることにしました。カウンターの10人も座れば
満席になる縦に長く、横に狭い店で、真ん中の柱で分けて、2つの店を営んでいる。腰掛け
程度の簡単な椅子に座れば、後ろを通るのがやっとというくらいの狭さ。
 待っている間に台湾から来た可愛らしい若い女性3人組と話をした。もちろん英語で!
友人が私のことを「彼はインドネシアから来た」と言ったら最後まで信じていた。
なにせ彼は旅行会社の海外添乗員。世界中あちこち飛んでいる。たまたま休みの
日に会ったから良かったものの、訪ねる2週間前携帯に電話したら、ブラジルの
リオデジャネイロにいた。
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 たくさんの食堂街が並ぶ。寿司はネタが新鮮でもちろん美味しいが、それ以外でも
フレッシュな食材を使って色々な食堂があった。並んでいるところと閑散といているところ
の差がはっきりと分かる。
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 ここが牛丼の「吉野家」発祥の地の第1号店。1899年(明治32年)、なんと今から114
年も前のこと。「早く、上手く、安い」をモットーに牛丼屋を開業した。
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たくさんの食材を使うだけに、後始末も大事にしている。だから、慰霊のためか?
「玉子塚」・「すし塚」・「蝦塚」・「あんこう塚」・「活魚塚」などを造り、祀っている。
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「お歯黒獅子」 高さ2.2m  両耳の幅2.5m 総重量700kg   総漆塗り一木造り。
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獅子殿」 歯は金色だ。
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 上の3枚の写真は全てここ波除(なみよけ)神社の境内にあります。1659年(江戸
時代前半 4代将軍徳川家綱の時代)の創建、厄除けの神様です。
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市場の外の通りです。人と物であふれている。
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 有名なラーメン屋、「井上ラーメン」ここは20人以上並んでいて、カウンターだけではなく
外で食べている客もいた。もちろん立ったままで。隣のラーメン屋は客も少なく閑散として
いる、と比べると対照的だ。
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 というわけで、築地をあとにします。この日も気温は35度以上あり、暑かった。
築地本願寺の中の、冷房の効いたレストランで大盛りかき氷を食べて別なところに移動
しました。
 和の築地から、洋の素敵なところへ、何処でしょうか?それはまた明日のお楽しみに!

 壱岐市立一支国(いきこく)博物館(2000年(平成12年)11月24日開館)の展望台
から周囲を見ました。
東の方向を見ると、内海湾がきれいに見える。
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朝、早くに入館したので車は少ないです。壱岐の島にはフェリーか飛行機で渡る2通り
の方法があります。
ここは、弥生時代から現代までの壱岐と大陸・朝鮮半島の歴史が良く理解できます。
「魏志倭人伝」の世界をビュー・シアターでスクリーン鑑賞した後、4階の展望台で
このあと見学する「原の辻遺跡」を見ると、映像と実物が重なり感動しました。
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 遠くに高床式の住居・倉庫が見えますよね。「原の辻遺跡」です。1997年(平成9年)に
国の史跡に指定され、2000年11月24日には特別史跡となった。博物館のオープン日に
合わせたのでしょう。
 ここで、ムンクの「叫び」に似た人面石が発見され、すごいブームになりました。今はその
キャラが名物となり、クッキーやストラップになって売店で売られています。人面石クッキーは
一番人気だそうです。
 人面石は先祖の霊を鎮める儀式に用いられた、といいます。
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 水田が見えるが、ここはカルデラの跡。外輪山が周りを囲っている。中央に幡鉾川が
あるが、古代弥生時代には海から直接川をさかのぼり、写真の中央部の橋まで来た、
という。日本最古の船着き場の跡がある。

壱岐は本島とその周りの有人島4、無人島17を含めた長崎県の市である。人口は2.9万
人、島の面積は139km2で、全国で20番目の大きさだ。
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「原の辻遺跡」は国が指定した特別史跡で「原の辻一支国王都復元公園」となっている。
中央の高いタワーが先の博物館の展望台だ。
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 紀元前2~3世紀から紀元後3~4世紀、弥生時代前期から古墳時代初期に形成された
大規模多重環濠集落が復元されている。
「魏志倭人伝」に記された国の中で、国の場所と王都の位置が両方特定されているのは
国内では唯一この遺跡のみである。現在も発掘・調査中で古代史を書き換えるような発見
が相次いでいる。先に紹介した「人面石」などがそうだ。竿秤(さおばかり)に用いられた錘
(おもり)も出土している。

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 古代、春には田植え、秋には稲刈りを行う、水稲耕作が広く行われていた。竪穴式住居
からは米の他に麦も出土している。平な土地の多い壱岐は、山の多い対馬とは対照的です。
貝塚もあり、鹿・猪・馬を初め獣骨や魚の骨も出土している。
 ここから幡鉾川を下り内海湾へ、大海を旅して中国・挑戦・九州へ交流を深めたのだろう。
ウーン、感動!暑かったけれど、古代の人々の旅を想像してジーンときた。

東西南北ともに約1km四方に広がっている。総面積は100haにも及ぶ広大なものだ。
出土品には大陸系の品が多く、中国鏡、戦国式銅剣、銭貨、土器などがある。
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弥生時代では、吉野ヶ里遺跡(佐賀県)・登呂遺跡(静岡県)と並ぶ時代を代表する
遺跡だ。

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 次に訪れたのは安国寺(あんこくじ)。室町時代最初の年の1338年、幕府を開き征夷
大将軍となった足利尊氏と弟の足利直義(ただよし)は、平和祈願と元寇以来の戦死者
の菩提を弔うために、全国66の国と2つの島に安国寺建立を命じた。ここ壱岐では元々
あった海印寺を安国寺と改めた。
 この壱岐も対馬同様に元寇時はモンゴル軍により全滅させられた土地なのだ。壱岐も
対馬も神風は吹かなかったのだ。

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 「獅子窟(ししくつ)」の扁額(へんがく)が掛かる仏殿は、二重屋根の重厚な建築物だ。
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境内には杉の巨木がある。
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木の真下に立ち、上を見上げた。
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 大きな木だ。あなたは何百年もここの人々を見てきたんですね。元寇の時にたくさん
の壱岐の人たちが殺害されたことも見届けたんですね。
 ここ壱岐の歴史を感じた瞬間だった。

明日は再び、東京築地を紹介します。美味しかったお寿司屋さんも。
ではまた  see  you  tomorrow  ! 

 対馬・壱岐の旅は一旦止めて、今日は大都会東京で過ごした1日を紹介します。
ここは中央区月島、友人の15階のマンションから写しましたRIMG0678





















 すごい高層マンションが林立している。中央の学校はビルの隙間に建っている。
わずかなスペースに木が植えられているが、公園はどこにあるのだろうか?

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 流れる川は「隅田川」。あの「春のうららのすみだがわ~」で有名な東京の下町を
北から南へ流れる川です。「月島」の地名は、江戸時代 徳川家康のより、月見の名所に
因み「月の岬」と称された場所が、埋め立てられて島となり「月島」となったそうです。

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 下に見える月島の西仲通り商店街は別名「もんじゃストリート」といわれ、もんじゃ焼
のお店が75店も集中していて、観光客がたくさん来ています。最近では、今風に凝った
もんじゃ焼で、「いちごミルクもんじゃ」もあるそうですが・・・

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鰹 塚」 かつおを供養した慰霊碑的お墓ですね。カツオ!といえば我が家のカツオ
は28日から東北・東京で試合があるのでまた遠征に出かけます。

もんじゃ焼の歴史は、16世紀後半の安土桃山時代、茶で有名な千利休の「麸(ふ)
の焼」が起源で、明治時代に「どんどん焼」へ名を変え、今日へ至ります。
名前の由来は2つあって
① 焼く時に、タネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」→「もんじ」→「もんじゃ」
  となった。1819年の葛飾北斎(かつしか ほくさい)の北斎漫画には「文字焼き屋」
  の挿絵があります。
② 江戸の豪商のドラ息子で大酒飲みの門次郎から取った。

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 若い外国人旅行者がレンタサイクルで見学に訪れていました。ここ佃島(つくだじま)は
江戸時代の初期、将軍徳川家康に献上する魚を取るために、摂津(せっつ)の国(大阪府)
、西成郡佃村(大阪市西淀川区)の名主 森 孫右衛門(まごうえもん)とともに江戸へ33人
の漁師たちが移り住んだことから名付けられました。当時江戸湾に、隅田川からの土砂が
堆積して自然の島が出来ていたんですね。
 たまたま佃村を訪ねた徳川家康が漁民の保存食である魚の煮物をえらく気に入って、集団
移転をさせて佃煮を作らせたそうです。 
将軍のグルメに付き合わされて、強制的に移転させられた漁民たちに同情しますね。

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江戸時代はこのような水路が輸送の道でした。船だと人や馬が運ぶ荷車よりもたくさんの
荷物を運べますよね。

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 当時の灯台も残っています。奥に高層ビルがあるのが気になるけど、札幌の時計台
もこんなもんですね。ビルのあいだにちょこんとあって

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河川敷には散策路があり、このまま北上すると、柴又へ行って寅さんに会えるかも?
遠くに東京スカイツリーが見えますね。634mは武蔵(むさし)の国からとったのは皆さん
ご存知ですよね。

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 橋を渡って見ました。江戸時代、隅田川の川底に堆積する土砂が船の運搬に支障を
きたしていたため、浚渫(しゅんせつ)工事を行い、その際に生じた大量の土砂の処分の
ために生じた埋立地の人工島が、今の月島だったり佃島だったり、その名を残しています。

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 さてこのあと、築地(つきじ)へ足を運びます。築地市場は世界最大の市場です。公設の
卸売市場として面積23ha、7つの卸売業者、約1000の仲卸売業者(内820は水産業関係)
によってセリが行われている。

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 すごい人、店。当たり前だけど、函館の朝市とは比較にならない。外国人旅行者も
たくさんいて、今までの対馬・壱岐の離島とはすべての点で全然違う。お昼は友人に
ご馳走になりました。ここ築地で一番人気のお寿司屋さんに20分並び、津軽海峡で
捕れたマグロを始め美味しい寿司を食べました。
ここ築地に関してはまた後日お知らせします。

では、また  see  you  tomorrow ! 

 いよいよ壱岐に上陸、翌日は島のあちこちを見て回った。
最初に登場するのは見ての通りの古墳です。掛木(かけぎ)古墳。6世紀末頃に
築造された国が指定した史跡の古墳で、形から分類すると円墳である。
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県下では唯一の「くり抜き式家形石棺」を持つ古墳として有名。大きな石をくり抜いて
造ってあり、屋根の形をした蓋も同様な作りである。墳丘の直径は約30mもある。

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 出入り口の高さは1m50cmほどで頭を何度かぶつけた。1300年前の人の平均身長は
そのくらいか、もっと低かったのでは?それにしてもこのような大きな石をどのようにして
並べて上にのせたのだろうか? 棺の中には1円玉が何個か入れられていた。
罰当たりめ! ここはトレビの泉じゃないぞ!

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 ここ壱岐風土記の丘には古墳がたくさんあって歩いていける歴史散策コースが
作られている。写真のようにあちこちに古墳がある。

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笹塚(ささづか)古墳に行って見た。円盤状の台座に直径約40mの円墳がのった
二段築造の古墳である。亀の形をした金銅製品をはじめとした出土品のうち162点
が国の重要文化財に指定されている。
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 入り口が少し怖そう・・・。長崎県内の古墳の実に6割以上が、ここ壱岐にある。
なんと島には270基も古墳があるのだ。まるで古墳王国!
近くの百合畑(ゆりはた)古墳群には23基が集中しているが、そのほとんどは横穴
式石室
だ。池があって、そこには河童伝説もある。

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金で出来た亀の他にハート型のペンダントも出土した。
周辺には6世紀中頃に造られた双六(そうろく)古墳がある。ここは全長91mの県下
最大の前方後円墳だ。
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ここも大きな石をくり抜いて造った棺だ。
壱岐風土記の丘の古墳館。
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壱岐の2000年以上の歴史順を追って各家ごとに展示している。

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古墳を見学した後、壱岐の歴史を学習するため壱岐市立一支国(いきこく)博物館
行った。
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世界的建築家の故黒川紀章氏がデザインを手掛けた博物館で、周囲の山並みに
沿って曲線を描く、天然芝の屋根が印象的だ。見晴らし抜群だ。

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 中国の歴史書「魏志倭人伝」に「一支国(いきこく)」と記された壱岐。古代日本を物語る
貴重な資料が島内から多数出土しているが、これらを一堂に展示しているのがこの博物館
である。
 というわけで、壱岐シリーズ、歴史の奥深さを知る旅続きます。
ではまた 明日

 壱岐へ渡るフェリーは前日載せましたが、壱岐の話の前に対馬の何枚かの写真を
紹介します。
 対馬でも学校を訪問しました。
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対馬市立内院小学校です。
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 校舎の時計を見てもお分かりの通り時間は午後5時半、児童は何人いるのだろうか?
ここに来るまでにおばあさん一人に会っただけだった。

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小茂田浜神社。1274年の文永の役では、モンゴル軍25,000・高麗軍8,000の計33,000
の元寇軍のうち、約1,000騎がここ小茂田浜に上陸、それを迎え撃ったのは僅かに80騎
余り、激戦の末に全滅してしまった。

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 対馬側のリーダーは宗家初代の宗 資国(そう すけくに)。68歳の資国は軍神として
ここで神として祀られた。毎年11月に小茂田浜神社大祭がある。

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右下の鉄の塊は日露戦争時の大砲だそうです。昨日紹介した「万関橋」は明治時代の
後期、南下政策をとるロシアとの戦争に備えて瀬戸(運河)を人工的に開削したもの、と
伝えましたが、ここ対馬はロシアの対しての最前線基地だったのだ。

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 豆酸多久頭魂(つつたくずだま)神社の境内にあるクスノキ。幹周りは7.09mと対馬
では最大級の巨木です。

歴史の授業:日露戦争(1904~1905)の日本海海戦において、東郷平八郎率いる連合
艦隊は、ロシア帝国のバルチック艦隊を一方的に撃破し、この戦争の勝利を決定的なもの
にします。対馬沖・日本海を主戦場としたこの海戦は、世界史的にはBattle  of  Tsushima
対馬海戦)と呼ばれています。当時、アジアの大半はイギリス・フランスなどヨーロッパ列強
の植民地でした。虐げられていたアジアの人々は、日本のロシアに対しての勝利に大いに喜
んだのです。

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 なんとか八幡宮。名前は忘れました。八幡宮を名乗っているからには軍神を祀っている
のでしょう。なにせ、平安時代の10世紀、朝廷に認められた神社は西海道(九州)全体
で107社あったが、そのうち対馬には九州最多の29社、壱岐は24社あった。二つの島を
合わせて約半分占めている。
以上7枚は対馬での写真でした。次からは対馬の50km南の壱岐(いき)という島。佐賀県
まで約20kmの距離です。
           
 さて、壱岐に到着、最初に見学したのは「とぶふ」狼煙(のろし)台のことです。元寇時、
高台であるここでのろしを上げて九州北部を守る本隊に伝達した場所です。
九州・佐賀県の唐津方面がはっきりと見えました。
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逆光だが、壱岐の島全体が良く見える。対馬と違い高い山がなく、最高で200m
ほど、写している場所が一番高いので見晴らしは最高だ。ここは岳の辻展望台だ。

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遠くに見えるは九州です。原発で有名な玄海原子力発電所も肉眼ではっきりと見えた。
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というわけで、壱岐シリーズが始まりました。なにせ壱岐は「魏志倭人伝」の中の
「一支国(いきこく)」の王都でした。詳しくはまた後ほど

 3月21日は猛吹雪となり、一時は100m先も見えないほど、春はまだまだ
ですね。22日は一転雨降り、最近の天候は良くない。まぁ、少しずつ春に
近づいていくんだけれどね。
さて、昨年夏の、長崎県対馬の旅の続きです。下の写真は「万関橋」。
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 バスの中から撮った写真なので良く写ってはいないが、この狭い海峡は1900年
(明治33年)に人工的に開削され、韓国側と九州側を結ぶ近道となった。
 というのも対馬は地図を見ると分かるが、ものすごいリアス式海岸の江戸時代までは
ひとつの島だった。ところが、1672年に大船越瀬戸が出来た。短い運河のことですね。
そして、1900年に万関瀬戸が出来、南北に細長い対馬は3つの島に分離された。
現在では万関瀬戸から北を上島(かみじま)、それより南を下島(しもじま)と呼んでいる。
だから、写真に写る海は人の手により掘られたものなのです。
なぜか?それはロシアに対しての防備、つまり1904年日露戦争に備えるためだった。

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 海に鳥居が2本立っているここは「和多都美(わたつみ)神社
わたつみ、と打つと「海神」と出てきます。つまり、ここは海の神様を祀(まつ)っています。
古事記」に登場する海神の娘の豊玉(とよたま)姫を神としています。
 日本本土から朝鮮・中国へ渡る人々は、ここで海路の安全を祈願しながら航海を続けた
のでしょう。
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 本殿正面の5つの鳥居のうちの2本は海中に立ち、潮の干満によりその様相を
変えるそうです。この時は干潮時かな?
古くから竜宮伝説が残っており、確かに神話の時代を偲ばせる神秘的な雰囲気を
漂わせている。

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 そんな、閑静なミステリアスな場所に突然韓国語が響き渡ったのだ。大型バスが
到着し、大勢の韓国人観光客が降り、大声で喋り始めたのだった。
厳粛なところも一変に賑やかな有名観光地に様変わりした。
彼らはパチパチ写真を取ると、10分もしないうちにサッサとエアコンの効いた快適な
バスに戻っていった。
 写真は非常に珍しい3本の鳥居。上から見ると正三角形の形をしている。日本では
ここにしかない3本の鳥居だが、確かに日本中探してもここだけだろう、でもこのくらい
はどこでも、誰でも同じものを作れそう?だよね。
 神様の前で罰当たりかな?

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 海神(わたつみ)の娘の豊玉姫は「古事記に登場する女神と紹介したが、神話
の世界ですが、初代天皇である神武天皇の祖母にあたる。航海安全・安産・豊漁
など庶民にも身近な神様で、長い間島民に親しまれてきたそうです。
海の神様なら、自分にとっても大切な神様です。以前トライアスロンしていた時は海
で泳いでいたからね。  
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 手前の鳥居を入れて、5本の鳥居がわかりますか?海中に2本立っています。

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モデルになってみました。竜宮伝説があるなんて、しばらくここに居ようかな?
亀さんがやって来るかな?
暑くて10分も持たなかった。

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島から離れるフェリーの中で、朝鮮通信使の行列を再現するお祭りアリラン祭り
がありました。もう1日残っていれば、現場でゆっくりと堪能できたのに残念

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 というわけで、対馬から離れ壱岐に向かいます。山ばっかりの島がわかるでしょう。
フェリーの名前は「きずな]。壱岐・郷ノ浦港へ。

「魏志倭人伝」に「断崖絶壁が多く、山が深く、道は獣道のように細い。また、水田が少なく、
海産物を食し、朝鮮半島と日本本土を往来して交易を行っている」と書かれているように、
本当に山多く、平地はない土地である。

防人(さきもり)・・・
664年、対馬・壱岐・九州北部に配置された辺境に配置された守備兵のことです。初期の防人は
主に東国から徴発されました。武器や食料は自前で準備、任地に到着してから3年間を自給自足
しながら警戒にあたったため、農村では徴発により深刻な労働力不足が起こり、また生きて任地
から戻る保証もないため、防人本人にとっても、家族にとっても非常に重い負担だったのです。
「古事記」の中の「防人の歌」の大半は、望郷の念や故郷に残してきた親・妻・子どもたちへの
想いと惜別の情に満ちています。

次回は壱岐の島を取り上げます。では see  you  tomorrow !




 大田は大成の北、行き止まりの集落だ。函館からは大野新道を北上、
厚沢部・江差への国道227号線を中山峠(350m)経由で行く。江差で右折し
229号線を北へ、乙部・熊石と通り過ぎる。今はせたな町の大成地区の
宮野で左へ、道道740号線を大成の中心の都(みやこ)を通過し、どん詰まりの
大田に到着する。昨日紹介した大田山神社はそこにあります。
 今日はその帰り道、南下します。
最初の写真は今年2013年3月廃校となった平田内(ひらたない)小学校
27 今金町、せたな町 廃校巡り 車で 107




















隣に道の駅「てっくいランド」大成がある。海側には平浜海水浴場及びキャンプサイト
もある。国道229号線沿いに学校がある。
27 今金町、せたな町 廃校巡り 車で 108




















大成の人口は2428人、最盛期は1955年 7232人だから3分の1になった。実は
この1955年は久遠(くどう)村と貝取澗(かいとりま)村が合併して大成となった年だ。
町の発展を願って大成(たいせい)と名づけたが、漁業中心のこの町は、その後人口
はどんどん減っていく。唯一の大成高校も1972年に廃校となった。
子供たちは、山を越えて桧山北高校か函館市内の高校へ行く。

親子熊岩をご覧下さい。
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熊の子が親に手をさし伸ばしているように見えますよね。
大昔、飢餓に苦しむ親子の熊が海に転落し、それを見ていた海の神様が哀れんで
、親子の深い愛情を交わす姿を岩に変身させた、という伝説が残っています。

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奥の岬は尾花岬。その手前に大田の集落がある。海岸線はトンネルで続いている
ことが分かる。右の端に子の熊の立っている姿が見える。

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海の向こうに奥尻島が見える。

乙部町へ。姫川小学校だ。
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2011年、5kmほど離れた町の中心の乙部小学校へ統合され廃校となった。

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 中学校もあったが、2004年廃校へ、数少ない子供たちはスクールバスで町の
中心の学校へ通っている。大きな立派な学校の名の入った看板だ。姫の川なんて
とってもいいネーミングだけど、これもアイヌ語でしょうね。
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乙部町姫川から道道460号線を西へ、小さな山を越えて江差町へ、2007年
に廃校となった朝日小学校
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「夢・希望・ありがとう・旅立とう・未来へ」いい言葉ですね。
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板で閉鎖されています。周辺は純農村の風景が広がっている。中学校も同じ校舎
にあったけれど、2002年に廃校となった。
明治15年(1882年)の開校、実に124年の歴史のある学校だったのだ。
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朝日小学校から町道を西へ走り、厚沢部の町へ、道道67号線を八雲・落部(おとしべ)
方面へ抜ける道を通る。10km以上走って清水小学校へ。ここも中学校を併設していたが、
2007年ともに町の中心の厚沢部小・中学校に統合され廃校となった。
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現在は、本州からやって来た人が窯を作り、「ソロソロ窯」という工房を開いている。
先日北海道新聞に掲載されていたが、覚えているでしょうか?なかなか素敵な焼き物が
あります。
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清水からまた山越え、道道795号線で国道227号線の大野国道へ抜ける手前に
あるのが共和小学校
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ただ、いつ廃校になったのかは不明です。いろいろ調査して見たが、分からずじまい。
今度ゆっくり調べ直したいと思っています。
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 荒れ果てた校舎、昨年・今年のような冬豪雪に見舞われると潰れるないか、と心配
だ。グランドは付近の農家の農機具の駐車場となっているが、ブランコと鉄棒の跡が
学校であることが分かる。奥には体育館がある。
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 というわけで、今回のシリーズは終了。廃校を訪ねると昔の繁栄の跡がわかります。
人が多かった時代、当然子供たちもたくさんいたわけで、学校が造られた。産業が
発達すると、若者は都会へ、離農が進み過疎化になると廃校となる。周辺は高齢者
ばかり、後継者はおらず、少子化でますます過疎、そして限界集落へとなり、最後は
一人も住まない廃村となる。
 
 悲しい、寂しい歴史があるが、旅していてそんな郷愁を誘うのも廃校の校舎です。
さて、明日はどこへ?

 昨日学園の辞令交付式があり、正式に定年退職となりました。3月いっぱいはいろいろ
なところに顔を出さねばならず、事務手続きもあちこちであり残務処理に追われています。

 本日久しぶりに赤十字社の血液センンターで献血して来ました。69歳まで100回の献血
目指します。やっぱり健康が一番ですネ
出発はやはり、4月上旬。いざ、行かん!地平線の果へ!旅立ちの日はもうすぐだ 

 ここ大田山神社は2008年に地元北海道のSTV(日本テレビ系)で「日本
1危険な神社」と紹介されました。
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 いきなり45度の急傾斜の階段の上りが続く。御神体がある頂上近くまでとにかく
急斜面の上りだ。だから、最初からサポート用のロープが階段についているのが
お分かりでしょう。急勾配の階段だから降りる時もロープは必要。
付近一帯はヒグマ・ブヨ・蚊・ハチ・マムシに注意の表示もある。
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 石の階段がなくなると、土の道が続くが、あらゆるところにロープがある。
それだけ急だということ。この時は登りはしなかったが、以前来た時は最後まで
登った。40分はかかった。ラストはほぼ直角に近い7mの岩(北尋坊の崖)を鉄製
の鎖を頼りに懸垂で登らなければならず、大変な道のりだったことを記憶している。
上りも下りもロープなしではとても無理なところだ。降りる時は命懸け
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 鳥居のはるか上をご覧下さい。大きな岩がポコンと突き出ていますよね。その岩山に
掘った穴があって、そこに御神体があります。とにかく険しい道ですが、若者ならば1時間
はかからないはず。函館から車で2時間ちょっとでここの麓に着けますので、朝早く出発
すれば日帰りは十分可能です。
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 創立は1441年といわれています。1454年松前藩祖の武田信広がここ大田に上陸
した時に、航海の安全と神霊の加護として信仰されたのが始まり。
1660年江戸時代の前半、美濃の国(岐阜県)の僧侶・円空(えんくう)がこの地を訪れ
修行をし、多くの仏像を彫って一部が残っています。

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円空はナタ1本を持って全国を歩いて回り、何千という仏像を掘っている。各地で見る
ことが出来るが、現在まで4500体以上の円空仏が発見されているスーパー旅人でも
あったのだ。食事や宿泊を1体の仏像を彫ることで提供されるのだから、まさに
究極の貧乏旅行者です! 彼は好んで岩屋に住んだというからすごい!のひとこと。
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1857年に建設された北海道最古の灯台といえる「定燈籠(じょうとうろう)」
電気のない時代に、この篭(かご)の中にロウソクか油かで火を灯し、夜見えるように
漁船を助けるために作ったのだ。
 碑文によると、安芸の国(広島県)の行車・政四良という人物が奉納したという。
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海沿いに険しい岩山が迫り、長いこと大成の中心から道路が建設されなかった。
ここまでは船で来ていた、という。
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社殿は麓にある。大田神社または大田山神社、どちらでもいいのかな?
北海道本土の最西端にあり、道南五大霊場の一つでもある。
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1778年甲斐の国(山梨県)の僧・木喰(もくじき)が多くの仏像を作り、1789年には
民族学者の菅江真澄が大田山に登り、記録を残している。
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突端が尾花岬で未開通。いつ開通するのだろう?北海道3大未開通岬の一つ。

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山と海がとてもきれいなところです。コンビニはないので水・食料は大成の町であらかじめ
買ってくること。北海道では、どこへ行っても田舎のメシア・救世主のセイコーマートが
あります。
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 ちょっぴり危険を味わいたい方、是非山頂までの道のりをおすすめします。
日帰り出来るし、国民宿舎や民宿が10km離れた大成の町にあります。温泉も
あります(あわび山荘)。明日は函館への帰り道、あちこちに寄り道しながら紹介します。
ではまた see  you  tomorrow !

 シルクロードを探索した20世紀の探検家チェルスキーの言葉です。
人がもし旅をしなければ、どうして世界と人生の偉大さを知ることが出来よう

そう、旅をすることで、人は世界を知ったのだ。人が旅をして歴史を動かし、旅をして
地図を広げた。
 マルコポーロが、コロンブスが、マゼランが旅をして、ヨーロッパに日本のことを、
中国のことを、アメリカの存在を知らせた。松尾芭蕉がみちのくを旅し、東北が知られ、
間宮林蔵により蝦夷地が、樺太が分かった。
坂本龍馬は日本で初めての新婚旅行をしたし、土方歳三は旅をして箱館までやって来た。
旅は人を未知の世界に案内し、新たな発見をもたらす。
 もう40年以上前の学生時代、当時西ドイツから自転車で5年かけて旅してきた人と知り合った。
彼は話してくれた。「次の曲がり角、そこは知らない土地、だから旅をするんだ」と。

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 ここは旧大成町大田(おおた)小学校。2001年廃校となった。30年ほど前のことだが、
この大田小学校を卒業し、10km以上も離れた大成中学へ通い函館の私の勤める
高校へ通っていた生徒がいた。

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 7月のある時、妻と一緒に大成町の国民宿舎「あわび山荘」に旅行する機会があり、
クラスのその生徒に帰省しないか、と誘った。「行きます。もう一人大田出身がいるので
良いか?」と聞き返したので、もちろんO.K と4人でドライブして送り届けたことがあった。
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子供が誕生する前だったので、正確には32年前の1981年のこと。ちなみに、この年の
5月1日に結婚しました。2ヶ月後の話です。大田山神社のお祭りがあるのでこの秘境に
行ったわけです。
当時はこの学校も存続中で、子供たちも多くいました。

 実は12年後の1993年道南沖地震の津波で、送り届けた実家のお父さんが亡くなった
のです。それは彼が卒業して10年以上たった時のこと、それを知ったのはさらに5年
たった1998年のこと。バイクで旅し地元のおばさんたちに聞いてそのことを知ったからです。
そして、12年後の2010年9月に訪ねると学校はすでに廃校となっていました。

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 この日は波もなく穏やかな海でした。遠くに奥尻島が見える。

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護岸工事のおかげで立派な道路と港が整備されたが、人はどんどん離れていき、
2001年には廃校となった。

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 奥に見えるトンネルは北桧山の太櫓(ふとろ)と結ぶまだ未開通の道路。途中には
以前のブログで紹介した廃村となった集落の日中戸(にっちゅうべ)がある。
民家がすべて海岸沿いにあるのはすべて漁業を営んでいるから。左側の港に船を
留めている。
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 街灯がきれいに整備されているが、夜歩く人はいないのに必要あるの?
と思うが・・・。
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 震災の津波で亡くなった人たちへの鎮魂の碑です。奥尻では200人以上の方が
犠牲になりましたが、対岸のここ大成町大田集落でも多数亡くなっています。

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ここは大田山神社。テレビで「日本1危険な神社」として紹介されたことがある。
何が危ないのか?それは明日お話します!

 昨日は終業式、離任式に引き続き、夜は送別会もあり緊張した1日でした。が、皆様の心遣いがうれしく最高の日となりました。本当にありがとうございました。
 さすがに、前夜は寝つかれず何度も眼を覚まし朝を迎えました。
 たくさんの生徒たちや教職員の皆さんに祝福され、無事に38年間の最後の日を飾ることが出来ました。
ありがとうございました。

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こんなに花束いただいたことはないです。3週間で5つもお花いただきました。

餞別や色紙も、ありがとうございました。

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 翌朝の今、外はくもり空、先程まで雪もちらついていて北国の春はまだまだだな、とガッカリ
晴れていれば、今季初のサイクリングをしたかったのに、残念!

 まずは38年間なんとか無事に元気で終了しました。最後ゴールテープを切れたのも皆様のおかげです。このブログを読んでいる皆さんだけでなく、すべての皆様に心からの感謝を込めて
ありがとうございました




 

いつもと同じに出勤、誰もいない学校の中を歩きました。
毎日のように使ったトレーニング室

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昨日はK君との最後の筋トレ、この1ヶ月半で大きくパワーアップしました。

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卒業してから使用されていない教室へ行きました。4月になれば新しい生徒たちがやって来ます。

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もう教壇に立つこともないだろう
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さあ、気持ちを切り替えてリスタートしよう
北国にももうすぐ春の訪れだ!


2年D組の生徒たちから色紙のプレゼントありました。
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めっちゃうれしいです
みんな大好きだよ

花束もいただきました。何回花束もらってもうれしいです。

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机の上も中もすべて片付けました。こんな感じ

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このパソコン誰が使うのかな?
皆さん本当にありがとうございました

 廃校を訪ねる旅は続きます。
ここは今金町立豊田小学校。1999年に休校となり、2003年に廃校、今金小学校に
統合されました。
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今は地域のセンターとなっています。また、教員住宅は、町営住宅として町民へ
提供しています。前に紹介したピリカ温泉の管理人のお姉さんが家族とともに
ここで生活している、ことを話していました。
まだまだ使用できる立派な建物ですよね。周辺は米を栽培する農家が多く、のどかな
田園風景が広がります。

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道道232号線を西へ進むと愛知小学校へ、ここも2000年休校、2005年には廃校
となりました。
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 裏には「二宮金次郎(尊徳)」の像があります。昔はどこの学校にも置かれていたもの
でしたが、今は珍しくなりましたね。
地方の学校へ行くと校庭の片隅にまだ残っている学校もあります。
 若い人は知っていますか?二宮金次郎を?
薪を背負い、歩きながら勉強した、という昔の修身の典型的日本人の代表です。
修身とは、儒教学問のの一つで、当時の世相を表しています。お国のために働け、家では
親孝行せよ。寸暇を惜しんで勉学にいそしみなさい、という背景がありました。女性でいう
ならば「おしん」です。
貧しいけれど、辛抱して耐えよ!の時代でした。
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 まだ使用できますよね。

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 体育館も十分使用可能です。ただ、スポーツをする人がいないのです。高齢者
ばっかりだから。
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南へ下り、旧大成町へ。以前に紹介した若松地区です。会津藩の人たちが蝦夷地
と呼ばれたここ北海道を開拓して、住み着いたところです。米栽培を中心とした純農村
地区です。

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若松中学校です。小学校をまだ存続していますが、中学校は生徒数が減少し、
ついに廃校へ、中央奥に時計が見えますか?今金の栗城さんが寄贈したものです。
あの登山家で有名な栗城多史さんのお父さんです。
校舎は解体され、グランドだけが残っています。
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校歌の碑です。

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というわけで、今金・せたなの廃校シリーズは終わりに近づいていますが、もう少し
残っていますので明日?明後日?をお楽しみに!

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