函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で12年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2025 年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2025年が明け今年は73歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2013年06月

6月30日(日)快晴。6時起床。5時のはずだったが、1時間寝坊してしまった。今日は、日ノ出公園から見える十勝岳連峰の最高峰、十勝岳(2077m)を登山することにしていたのに、寝坊するなんて、情けない。今日の登山は、先日急逝した大学時代のクラブの後輩であるK君の弔い登山である。天国に一番近いところで、叫んで来たいのだ。「安らかに眠って下さい」と。
最初に、昨夜の写したものから。

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6時30分を過ぎてもまだ明るい、残雪が見えますね。

上富良野町の全景です。のんびりした農村で、観光も盛んです。

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夕日が沈んだ後に撮影したので、はっきりとは分からないですね。
朝写すとこうなります。

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それでは、山に向かいます。

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中腹にある駐車場に車を止めるが、時間は8時を過ぎている。すでに満車状態で、辛うじて隅に駐車し、8時38分、入山届けを書いてスタート。

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岩場あり、雪渓ありかなりしんどいです。とくに昨日は8時間サイクリングしただけに、いくら違う筋肉を使うといっても、疲労は残っています。頂上が見えてきたけど、まだまだある。きつそうだなあ。

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かなり登ってきました。登りに3時間22分かかりましたよ。

そして山頂へ!下りはヘトヘト、3時間かかり途中雪融けの沢水足を冷やしました。6時間以上かけた登山は久しぶりです。

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というわけで、山頂で合掌しました。1年前のOB会で久しぶりに会って、最後握手してまた2年後に会おうね、と。それが、余りにも急な死で、驚いていますし、何よりも遺族の悲しみは大きすぎます。私よりも若く亡くなるなんて、早すぎますよ。
ここ数年職場の先輩、それも4,5歳上のまだ60代の方が何人も亡くなり、相次いで葬式がありショックを受けています。健康には気をつけて生活しよう!とつくづく思います。では、快晴の上富良野町日ノ出公園の丘にて。絶景の丘の上で今日も車中泊します。また、明日♪

6月29日(土)曇りのち晴れ。朝5時起床。日の出公園に上って見ました。東には十勝岳連峰が見えるはずだが、天気は良くない。

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ラベンダーは一部だけど紫色の花が咲いていました。ラベンダーカラーというんだけどね。

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8時美瑛駅着、近くの道の駅で駐車し、自転車を組み立てサイクリング開始。

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美瑛は丘ばっかりなので、平坦な道はない。登って、降りての繰り返し、だからギアをすべて使うことになる。登りは軽いギア、下りは重いギアを。サイクリング専用の自転車を持って来て良かったと、つくづく思いました。ママチャリじゃ、押してばっかりだ。最初に「ケンとメリーの丘」1973年に日産のスカイラインの宣伝で使用しました。

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丘からの景色のいいこと。絶景が続きます。それでは、

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そしてセブンスターの丘。JTの前身の日本専売公社時代の1970年代にCMに使ったそうです。

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拓進館といって有名な写真家が無料で提供している写真館です。前田さんという親子で美瑛に移り住み何十年も写真を撮り続けています。素晴らしい風景の写真が展示されていて感動。ところが、ここでも大きな中国語の声が聞こえた。美瑛に集団で観光に来ているんですね。昨日のキャンプ場にも中国人の家族連れがキャンプしていました。中国語には「ヒソヒソ話」という言葉はないんでしょうね。まあ、富裕層ですから、たくさんお金を消費して帰って下さいね。
丘で、中国人の若い上品なきれいな女性から「写真を撮って下さい」とたどたどしい日本語で云われたので、喜んで撮影しました。日中友好ですからね。少しだけ英語で話したけど、美瑛のようなところは中国にはない、と言っていました。


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今日は8時間自転車に乗っていたので、さすがに体は疲労したけど、心地好い疲れでした。美瑛の町の銭湯(420円)で汗を流した後は上富良野に戻り、日ノ出公園の丘の上で車中泊します。夕陽と十勝岳連峰の写真は明日お楽しみに!
ファイターズ9ー1でリードのテレビがお風呂屋さんで見ました。柏稜校高校野球部は決勝戦勝ったのかな?

今、上富良野の日ノ出キャンプ場でブログ作っています。ここは道内のキャンプ場でも★★★クラスの良いキャンプ場です。ファイターズのラジオ放送を聞きながらキーボードを打っています。
最初の写真は朝の由仁町じゃがいも畑から。

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石狩平野に入ってから広々とした農地が広がり、走っていてとても楽しいです。麦畑、ニンジンなどの野菜、そしてじゃがいもは花が咲いていて、もうすぐ食べ頃かな?
由仁から隣町の栗山町へ、15分ほど。

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さすがはファイターズの監督が同じ名前の町だからと、農園を持っている関係からか、町を歩いていたらこんな置物がメインストリートにありました。栗山公園に行くと、さらにこんな応援ボードが。

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町の至るところにファイターズの看板があり、町あげて応援する姿勢が見えます。
ここ栗山町には、「北の錦」という名の日本酒を製造する小林清酒があり、資料館を一般公開しています。

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午前中は栗山の町を散歩してファイターズを堪能しました。なにせ今や道民球団、北海道日本ハムファイターズですからね、今夜も8時現在7回表2ー1で勝っています。
午後から夕張に向かいました。上の写真は最盛期、夕張鹿鳴館と呼ばれた建物です。
石炭の歴史村を見学 1200円の入場料は高い!と最初思ったけど見応え十分、たっぷりと炭鉱の歴史を学びました。

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夕張の最盛期は人口11万人、高校は8校もあったのです。函館が16校ですからね。ところがエネルギー革命で石炭から石油に変わると、スクラップされ、今や炭鉱はゼロ。人口も1万人を切るところまできました。東京出身の若い鈴木市長が頑張っていますが、どうなることやら?見学してたら修学旅行の高校生が来ました。神奈川県の逗子開成高校と書いてました。
最後の写真は、富良野へ行く途中で見た廃校になった万字小学校の石碑。

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ここも万字炭鉱があったけど廃鉱へ、国鉄万字線も廃線、住民もほとんどいません。富良野のキャンプ場は6月末でも結構人はいます。ラベンダーを売りにして観光地となった富良野とスクラップされ赤字再建団体となった夕張、今日は暗と明の二つの町を少しだけですが見ました。外は寒くなって来ました。芝生の上にテーブルと椅子を置いてブログ作りは、この辺で終わることにします。ではまた、明日♪

昨日は25度を越えて夏日だったので、炎天下を歩くと汗が吹き出すほど暑かったが、今日は起きた時から涼しい何てものじゃなく、寒いくらいだった。実際3時千歳市での気温は13度で、これじゃライダーは震えながらツーリングしていたのでは、と心配になるほどでした。さて、上ノ国キャンプ場での昨夜、焚き火と陽が沈んで空が赤く染まった時間の7時30分ころの風景です。

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今朝、菜の花畑を写しました。残念ながら曇り空で6月3日に写した快晴の下、絶景の風景には及びません。

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上ノ国から北に10km、桧山管内の中心である江差へ行き、歩いて見ました。明治時代が最盛期、ニシンが大漁で全国から漁師・商人などが集まり、人口は5,5万人を越えたという。遊郭まで出来たそうです。
「江差の春は江戸にもない」と呼ばれたのは、江戸時代に北前船が日本海を北上して江差に来たからで、京都の文化が越前商人の手で江差にもたらしたものだ。当時で4万人。函館はまだ数千人の漁業をする寒村だった。現在の人口は9000人で、3年前に1万人を切り、どんどん減少している。当時を偲ぶ「えにしえ街道」を復活しようと、きれいな町並みが整備されました。

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明治の頃の郡役所が復元され、資料館になっていたので見学しました。とてもきれいな建物でしたが、ここで思わぬものを発見。土方歳三の「嘆きの松」があったのです。

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五稜郭の戦いの前、幕府の誇る最新の軍艦「開陽丸」がここ江差で座礁、沈没したのです。頼りにしていただけに、土方は松を叩いたそうです。だから叩いたところから曲がってしまった。写真をよーくご覧下さい。

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2時間ほど歩き疲れたので、厚沢部の蛾虫(がむし)温泉で入浴後、八雲町へ行く道ですごい岩山を見つけました。

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厚沢部から道道67号線を落部へ行く途中です。峠の山蕗トンネルを越えて銀婚湯温泉までいかない辺りです。


今日は午後から移動。北に向かうに連れて天気は悪化。どんよりした雲が低く空を覆い、今日は太陽は見ずじまい。途中の洞爺湖はいつもの羊蹄山が見えず。

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美笛峠のトンネル付近では一面霧、支笏湖では小雨まで降ってきました。晴れていれば、恵庭岳(1320m)が見えてきれいなんだけど、残念です。

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そんなわけで、上ノ国から300kmほど走り、空知管内の由仁町でキャンプしています。雨は降っていませんが、霧が覆っていて外は寒いです。明日は富良野へ向かう予定ですが、天気悪そう?ですね。
ではまた、明日♪

6月26日 晴れ、函館は午前中ガスの中、気温はどんどん暑くなってきているのに、海水がまだ寒く海岸沿いはガスで視界が悪い。太陽が隠れて今日は気温が低く、旅のスタートをためらわせるが、内陸部に入れば晴れているだろう、と思い1時30分にはスタートした。案の定沿岸部を少しだけ離れただけで、太陽が出ていた。厚沢部、江差、上ノ国に着く頃には汗ばむほど暑い。
最初に、大好きな上ノ国の町の文化遺産を紹介しましょう。

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最初の写真は、道内最古の仏教建築物、お寺である上国寺(じょうこくじ)。1758年の作だから250年以上も前に建築されたもので、松前藩、初代藩主松前慶広が祖先の武田信廣を弔うために開いたと伝えられる。

次に上ノ国八幡宮。上で紹介した武田信廣が1473年に創立している。現在の本殿は1669年の建立。

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拝殿の梁に施された見事な龍の彫刻をご覧下さい。

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次に道内最古の民家建築である旧笹浪家住宅。能登屋笹浪家五代目の久右衛門が漁を中心に財産を築き,19世紀前半の建築したと伝えられています。1857年土台替え、翌年に屋根の葺き替えを行った記録が残っていて重要文化財に指定されている。

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上ノ国には、円空が北海道で最初に掘った仏像もある。円空といえば、前に紹介したせたな町大成区の大田神社(日本1危険な神社でテレビでも紹介)のもあったが、ここのは十一面観音菩薩で道内最大の高さがある。ここを探すのに炎天下の中歩き、苦労しました。

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この建物の中にありました。恐る恐る戸を開け、靴を脱いで入ると、

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上ノ国の名前の由来は、15世紀頃には北海道南部の日本海側は上ノ国、大平洋側は下ノ国と称されていたそうで、まさに北海道発祥の地です。アイヌ語から来ている地名ではないですね。

天の川の河口を歩いていたら、カモメがいました。

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1週間前、オートバイで訪れた時まだ一面に咲いていなかった菜の花畑がきれいに咲いていました。

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4時まで暑かったのですが、このブログを作っていて時間が5時を過ぎ、今5:40 涼しくなってきました。このあと夕食、焚き火をします。道内のキャンプ場でも焚き火ができるところは限られています。ここは無料の上に焚き火台があり、温泉も近い。花沢温泉200円、露天風呂もありますよ。ではまた、明日♪

 昨日の続きの長野県伊那市高遠から。
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「高遠閣」の裏から写しましたが、樹木にさえぎられて良く見えないですね。
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空堀になっていますが、ここ高遠城は日本3大桜の名所として春には全国から観光客が集まり
ます。例年と比べ今年は1週間以上遅く、ちょうどG・Wあたりが見頃でたくさん人が来たそうです。
日本経済新聞が選定した「桜が似合うおすすめの城」のランキングでは1位青森県弘前城、2位
兵庫県姫路城に次いで3位に高遠城が入っています。

古くは諏訪氏の一族である高遠氏がこの地を支配していた(室町時代)が、戦国時代に入り、甲斐
の国の武田信玄が高遠氏を滅ぼして進出している。信玄は山本勘助に銘じて、高遠城を大改修
し現在のような城郭を作り上げたそうです。その後は1582年織田信長により滅びている。
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ツツジが咲いていてちょうど見ごろでした。

その後、中沢峠(1317m)・分杭(ぶんくい)峠(1420m)を越えて大鹿村へ行きますが、分杭峠は
ゼロ磁場があるパワースポットです。
 日本最大の断層である「中央構造線」が縦貫する分杭峠は、杭を分ける峠というように伊那市
長谷と下伊那郡大鹿村の境に位置し、「従是北高遠領」と刻まれた石柱が建てられ、現在は郡境と
なっています。また、古くから遠州(静岡県)秋葉神社へ至る秋葉街道の峠の一つでもあります。
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 というわけで、大鹿村へ行くわけですが、それはいつかまた紹介します。今日26日(水)午後より
北海道再発見の旅として15日間の旅をしてきます。北海道の何でも見てやろう!の精神で、
歴史はもとより、地理・文化・名物・産業・山などそれこそ何でも見よう!のスピリットです。毎年
この時期6月・7月は北海道を旅するのに最適なシーズンを利用してゆっくりと5年くらいかけて
見たい!と思い、出発します。
 旅するのにイヤな思いをするのは雨です。本州では梅雨のシーズンで、西日本では6月が12ケ
月の中で一番降水量が多いのです。最新の帝国書院「新詳高等地図」の日本の主な都市の月
平均気温・月降水量の統計を読むと、札幌の6月が51.4mmと年間通して最も少なく、つまり雨が
降らない月です。逆に宮崎417.5mm、京都229.9mm、広島258.1mm、熊本434.7mmなど西
日本の都市が一番雨が多い。札幌は宮崎の8分の1ほど。瀬戸内海の広島は5倍の雨が降る、
ということですね。
 つまり、北海道は春(3月~5月)は寒かったが、やっと温暖になり、さらに降水が少ないのが6月・
7月だということ。旅するには最高のシーズンであることが分かりますね。
 夜、最初のキャンプ地はどこか?それは今夜または明日の朝 では 

 上田城跡のある町の中心街から車で30分もかからない郊外にあるのが、無言館という名の
美術館です。戦前、芸術大学の学生だった人など絵画の好きな若者たちが戦死し、彼らの遺品
である残された絵を展示しているのがここです。だから無名の人たちであるが、絵が好きで戦場
に行く前に、恐らく最後の絵になるだろうと思って描いた作品がここに集められているのです。
 家族みんなが描かれた絵、当時は公開出来なかったであろう裸婦の絵、愛する彼女の絵とか・・・。
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 有名な絵は一つもなかったが、心を打たれ感動しました。ここは旅する目的の一つでも
ありました。嬉しかったです! 
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 ここから八ヶ岳連峰の峠である大門峠を越えて、茅野市行きます。無言館が位置するのは
上田駅から出ている私鉄の上田電鉄別所温泉行きの途中、「塩田町」。ここは塩田平という
独鈷山(とっこさん 1266.3m)の麓で、塩田城跡、塩田館、塩野神社、中禅寺など歴史を感じ
させる古い建築物が残る山里でもあります。ゆっくりと見たかったのですが、残念ながらカット
して、初めての有料道路である平井寺トンネル(乗用車200円)を通過、国道152号線(大門街
道)で白樺湖のある最高標高の大門峠(1441m)を越えて南下、茅野市へ。幹線道路である
国道20号線、通称甲州街道を横切り南アルプスへの道である杖突街道をさらに南下。杖突峠
(つえつきとうげ 1247m)では、北アルプスと八ヶ岳連峰を一望してさらに南下を続けます。

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奥の山は100名山の一つ、蓼科山(たてしなさん 2530.3m)。白樺湖はこの下に見えました。

杖突峠から見た長野県茅野市。人口5.6万人。
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城下町高遠(たかとう)に到着したのは午後5時過ぎ。城跡の公園に駐車して見学するも
すべての建物は営業終了し、閉じていました。残念!
城跡公園の駐車場で車中泊した翌日は朝5時起床し、公園内を散歩した。ここは元藩校
だったところです。
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 旧藩校「進徳館
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2週間前だったら駐車場へは入れなかっただろう。なにせここは桜の名所。広い駐車場は有料
となり全国から観光客がやってきていた。5月9日に紹介した秋田県角館のようなものだ。イヤ
それ以上かも知れない。しかし、桜が散ってしまった16日は駐車場にはほとんど車はなく、歩い
ている人は皆地元の人ばかりで閑散としていた。

高遠閣」登録有形文化財になっています。
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 高台にある城で、平山城のタイプ。
城にはその造られた場所から大きく3種類に分けられます。戦国時代は「山城」。戦場となること
を想定して高い山に城を築いた。岡山県高梁市の備中松山城や島根県津和野城はその典型。
見晴らしの良い山全体を城として使用していた。織田信長が岐阜城を山の頂上に築いたのは戦
いの真っ最中であったことからも理解出来ますね。
 「平山城」は支配する領地の小高い丘を中心に城を築いた。愛媛県松山城高知城、徳島県
丸亀城などがある。都市の真ん中に位置するが、戦いも想定して小高い丘の上に城を築いた。
 一方、戦国時代が終わり、平和な時代が続いた江戸時代は平地に広大な城を築いた。「平城」
。領地支配のため、大名はは山から降り平地に住んだ。江戸城箱館五稜郭松本城などがそ
うだ。高遠城はこの写真を見ても平山城であることが分かりますね。

 ということで、今日は上田市、高遠(現在は伊那市の一部に編入されました)を紹介しました。
明日は高遠から険しい峠をいくつも越えて大鹿村、上村を紹介したいと思っています。
ではまた 



晴天の日曜日、家の中にいるのはもったいない、サンサンとと輝く太陽に申し訳ないと思い、早速自転車で出掛けました。6月2日北斗市当別にあるトラピスト男子修道院へ行きましたので、今度は女子修道院へ、我が家から5kmほどのところです。
最初に、修道院の坂道を登る前に、近くにあった達磨太子へ、5mくらいのダルマさんが座っていました。

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明治時代に信仰の厚い地元の農家のおばさんが建立したそうで、彼女の碑もありました。

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さらに裏には剣を持った仁王様とドラゴンもあって、さながら張りぼてながらブッダランドみたい、といったら信仰している方達には失礼ですね。ごめんなさい。

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さて、坂道を登った所にあるトラピスチヌ女子修道院。最初に迎えてくれるのは聖ミカエル像。

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ラテン語ですが、フランス語ではミッシェル、英語ではマイケル。悪魔を退治するため聖なる剣を持っています。

続いて聖母マリア像。

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函館山も見える高台にありますね。標高は150mくらいかな?ここは1898年、明治31年に造られました。日清戦争が終了して3年後の時代、キリスト教信仰が認められるようになったとはいえ、まだ封建的な時代に日本最初の女性のための修道院が建設されたのです。聖ベネディクトの厳しい戒律を守りながら、日々祈りと労働に励んでいます。俗世間との交流を断ち、朝は4時起床、就寝は19時で日の出とともに起きて、日没とともに寝るという太陽とともに生活しています。

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庭園も綺麗に維持されています。日本では女子修道院は他に4ヶ所、計5ヶ所ありますが、男子修道院は函館市郊外のトラピスト男子修道院以外には大分県に1ヶ所の2ヶ所しかありません。

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そんな聖なる場所に突然甲高い大声が、しかも団体で聞こえてきた。中国人の団体客だ。「静粛」の漢字で(もちろん英語でも)書かれた看板があるにもかかわらず、辺り構わず大声で、まるで我が庭のように振る舞っていたのには、ムカッときますね。
函館は、国際観光都市ですので、たくさんの外国人観光客も来ますので、暖かく迎えるホスピタリティーを持たなければいけませんが、彼らの大声には閉口するときがありますね。
まあ、函館にたくさんお金を落としていって下さいね。

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最後に、修道院の近くには市民の森があり、子供達を連れた家族連れが来ていました。アジサイはまだ咲いていませんでしたが、赤いケシ(ポピー)の花がきれいでした。

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最後に、昨夜訃報のメールをもらいました。私の学生時代の部活動での1年後輩にあたる Kさんが60歳の若さで亡くなられたのです。昨年OB会で私のとなりに座って元気にしていただけに、とても残念です。学生時代は自転車で何度も一緒に走った仲だったので、思い出がたくさんありました。
ご冥福をお祈りします。

 昨日は真田十勇士について紹介しましたが、幸村(1567~1615)についてさらに
詳しく説明したいと思います。彼が活躍した時代は17世紀初め、江戸時代になる前
とその直後で、1600年関ヶ原の戦い1615年大坂夏の陣でした。
 一方、彼の父と祖父を紹介します。祖父の真田幸隆(1513~1574)は信濃の豪族
の血を引くが、武田信玄に従っていました。彼には5人の男の子がいましたが、長男・
信綱と次男・昌輝は1575年織田信長が足軽鉄砲隊を駆使して大勝して、武田信玄
(1521~1573)の子である勝頼の騎馬部隊を打ち破った、日本史の教科書にも登場
する有名な長篠の戦いで戦死したため、三男の昌幸が家督を相続しました。
 そこで、真田昌幸(1547~1611)が、武田家滅亡後、上田城を本拠地にして独立し
戦国大名として織田、上杉、北条、豊臣と次々と主君を変えていきます。
その昌幸の長男が幸村の兄である信之です。関ヶ原の戦いでは、父・幸村の西軍に対
して家康側の東軍に付きます。兄弟が袂を分かつ形で戦うことになります。

 最初の写真は真田家の最初の城跡で、上田市の北方にあります。
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小高い山の上に位置していますが、ここから2kmほど離れたところに真田氏歴史館があります。
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 この日は午前8時くらいから急激に気温が上昇、10時で30度近くへ昼過ぎには30度を超え、
上田市内をサイクリングしている時は暑くて大変でした。
 歴史館の下にはお屋敷公園があり、昔真田氏の居館だったところです。
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 神社になっていて六文銭の家紋がありますね。三途の川の渡し賃である6文の銭。
死後、棺に銭六文を入れることから、決死の奮戦を意味しています。
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 ちょうどツツジが満開時で、お祭りの最中でした。
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歴史館からナビで上田城まで10kmもなかったはず。人口15万人を超す、県庁のある長野市
(38.1万人)、松本市(24.3万人)に県第3の都市で新幹線も止まります。こんな時にナビがあると
便利ですね。音声案内で指示通り連れて行ってくれますからね。
 昨日紹介した真田十勇士が描かれています。
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本丸はなく、櫓が残っているだけです。真田神社があります。

東寅口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)。虎口とは城の通路の出口という意味で、南櫓、北櫓は
すでに移築復元されていたが、城門は1994年平成6年2月に復元され、東櫓門として完成しま
した。
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1600年9月15日の関ヶ原の戦いでは上田城に立てこもる昌幸・幸村父子はゲリラ戦など
軍略の限りをつくし中山道を行く徳川秀忠(2代将軍となる)を翻弄します。
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 上田駅にて。
城下町上田は、1583年に真田昌幸が信濃川の長野県での呼び名千曲川のほとりに上田城を
築いた時代から始まります。以後城を中心に武士や商人の町が計画的に建設され、城下町が
形成されていきます。
 江戸時代の上田は城下町宿場町としてこの地方の政治や経済の中心となり、人や物資が集散
し蚕の生産が始まります。
 21世紀の現在「歴史が薫る城下町・上田」として見応えありです。もう一度ゆっくりと歩いて見たい
です。温泉もたくさんあります。というわけで、昨日・今日上田の真田氏の歴史を紹介しました。
 
 ではまた明日   その前に続きもあります。
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昨日「道楽六月寄席」があり、落語、講談などを鑑賞して来ました。今回は遠く関西からも駆け付けてくれた出場者がいて大盛況でした。実は関係者にプロレス好きな人がいて誘われた、のと道南落語協会の会長さんが、前の職場の同僚だった先生のご主人なので、初めてでしたが行って来ました。楽しかったです。

 長野県上田市は、最初から上田という地名があったわけではなく、幸村の父である
真田昌幸が1583年城を築いた時に「上田城」と名付けたことによります。
1583年は、その前年に織田信長が本能寺の変で明智光秀により暗殺され、豊臣秀吉
が柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、信長の後継者としての地位を固め、大坂に城を築
き本拠地とした年でもあります。その前に父昌幸は甲斐の国の武将、名門武田信玄の
家来となり各地で戦い勝利しその名を知らせていました。
 そんな父を持つ次男幸村は1615年大坂夏の陣で、徳川家康の前に敗れて世を去る
ことになるが、彼には10人の強力な助っ人=サポーターがいたのです。
それが十勇士、10人のヒーローたち。実はフィクッションで、明治時代以降の立川文庫
という文庫本を発行する出版する会社が誕生させたのです。
 私が子供のころ、「少年サンデー」・「少年マガジン」などの週刊マンガ本でよく登場し
読みました。毎週ワクワクしながら、楽しみにしていたものでした。

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 根津甚八(ねづじんぱち)。同名の俳優がいましたね。
彼は真田幸村の影武者の一人となって、1615年大坂夏の陣で討ち死にされました。

望月六郎(もちづきろくろう)。火術が得意。早くから昌幸・幸村親子に従い、幸村の側近
として智謀をふるい、影武者にもなった。大坂冬の陣でも活躍した。
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御存知猿飛佐助(さるとびさすけ)。甲賀流忍術の名人。山中で猿と遊んでいるところを
戸沢白雲斎に見つかり忍者となる。その後鳥居峠(昨日紹介しました、群馬県と長野県の
境)で幸村と出会い家来となった。徳川家康の身辺を探ったり、三好清海入道と諸国漫遊
(放浪の旅に出る)し、天下の大泥棒である石川五右衛門と術を争ったこともある。サスケ
の名はここから広まり、プロレスラーにいたり、テレビ番組になったり、運動能力抜群の身軽
なアスリート系人物の代名詞になっていますね。
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筧 十蔵(かけいじゅうぞう)。鉄砲の名手で、鉄砲隊を率いて大坂冬の陣・夏の陣で活躍
した。その時に家康を狙撃したが、失敗に終わった。彼は右肩に銃を乗せていてスナイパー
であることが分かりますね。
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三好伊三入道(みよしいさにゅうどう)。兄に青海入道がいる。兄とともに幸村に従い
大坂の陣で戦うが、兄に負けず大男で怪力の持ち主である。鬼に金棒の意味が分かり
ますね。
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海野六郎(うんのろくろう)。十勇士のまとめ役で、10人の中では目立つ方ではないが、
頭を使って徳川方を大いに悩ました策士である。手に巻物を持っていることで知恵者である
ことが分かりますね。
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穴山小助(あなやまこすけ)。頭が非常に良く、槍の達人でもある。幸村の知恵袋であり、
幸村と容姿が似ていたために影武者として身代わりにもなった。
残念ながら、ここだけ像がなかった。修理中だったのかな?
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三好青海入道(みよしせいかいにゅうどう)。昌幸候と縁戚である。その縁で子の幸村に
仕えることとなった。身の丈6尺、約180cm。今なら2m近い高さか?この大男怪力の持ち主
で、この像を見てもお分かりのように巨大な岩を持ち上げている。太い樫の棒を振り回して戦
った。
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由利鎌之助(ゆりかまのすけ)。くさり鎌の名手である。穴山小助との一騎打ちで、生け捕り
にされて以来幸村の家来となった。大坂の陣では勇猛果敢に戦った。左手に鎌を持っていま
すね。
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最後に登場するのが、霧隠才蔵(きりがくれさいぞう)。彼は伊賀流の忍者。華麗な姿であっと
驚く術の使い手。上田の太郎山の霧から雲隠れの術を、神川の千古の淵ですいとんの術を身
につけた。大坂夏の陣ではその術で家康の寝首を狙ったが、失敗した。
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 というわけで、上田市にはこの真田十勇士の像があちこちに設置されています。だから、
探し出すのに自転車が役に立ちました。市内を駈け回り10人をすべて写真撮りに成功、嬉し
かったですね。
少しは興味を持ってもらえたでしょうか?戦国時代の武将の中では幸村が一番好きですね。
明日は上田市のお城跡などを紹介します。
ではまた明日 

 西日本は台風の影響があって大雨が続いていますが、北海道は台風も関係なく梅雨も
なく快適な気候です。特に6月は生活するには最高に良い気候ですね。
 旅をするにあたって、何が良し悪しを決めるのか?考えました。もちろん退職して自由な
身になったわけで、年中旅できますが、最高の旅の季節は?と考えた時にそれを決定付け
るのは気温だけではなく、降水量も関係する、ということです。暑さ・寒さだけではなく毎日
雨が降り続いていれば旅は楽しくなくなりますよね。それについては後程詳しくお話ししたいと
思います。旅するのにどの季節が最適か?をテーマに統計をもとに詳細に書くつもりです。

 さて、今日は今までの続き、群馬県から長野県までの旅物語です。
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 ブナのしずくと書かれた冷たい水が出ていて、とても冷たく美味しかったです。
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 落葉広葉樹林が、5月の初めになるとみずみずしい新しい緑色の葉を広げ、それが青い空と
マッチしてきれいですね。
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 土合駅です。関東地方の登山者には知られた超メジャーな無人駅ですね。なにせ、駅舎は
地上800mの景色の良い大自然の中にありながらも、列車が止まるプラットフォームは約500
段の階段を降りて行く地下にあるのだから。つまり、トンネルの中に駅がある、まるで地下鉄
の駅と理解した方が良いでしょうね。
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 3時間歩き続けてきたので、永遠に下に降り続けそうに見えるこの階段。降りていくのを
ためらいました。このまま下に降り続けたら戻って来れなくなるんじゃないか?地獄へ引き
ずられるんじゃないか?もしかしたら閻魔大王  が待っているんじゃないか?と心配?
し30段くらい降りてから引き換えし、まあイイヤ、ということで断念。
暗い中だし、景色が良くない、と理由付けてカット!
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 土合駅から移動、水上温泉を素通り、沼田市から国道145号線を西へ、この道を沼田街道
別名日本ロマンチック街道といいます。ドイツ南部、バイエルン地方にある古城巡りの名を借り
て名づけたそうです。いつか本物のロマンチック街道を自転車で走りたいですね。群馬県の山中、
県道55号線にある暮坂(くれさか)峠。標高1088m。明治時代の放浪の詩人若山牧水の碑が
建っています。40年前の学生時代、ここも自転車で通りました。 当時は舗装されておらず、
土の道でした。
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 昨夜は、ここ標高1561mの野反湖を見渡す富士見峠で夜を明かした。快晴だとそれこそ
富士山が見えるはずだったけど、ご覧のように遠くは霞んでいて見えず。残念でした。
夜は満点の星空が見えるかな?と期待したのだが、半分以上は曇り空で、少しだけしか見えず
これまた、残念。
朝方はさすがに冷えました。なにせ標高1500mを超えているんだからね。一般的には100m
につき0.5度は下がるのだから、地上よりは少なくても7.5度も低いのだ。実際にはこんなに
簡単にはいかないが、この光景を見てもお分かりでしょう。朝、野反湖を霧が覆っています。
 野反湖は、自然の湖のように思えますが、実はダム湖。東京電力が水力発電のために造った
人造湖です。だから一番奥に見える場所にダムの堤防があります。それを知った時はショック
でした。山の中の大自然かな?どうして出来たのかな?と想像していたのですが地図を見たら
何か不自然で、さらに細かい地図を見たらダム湖と分かりガッカリでした。
 それでもこの光景、自然の雄大さが理解出来ますね。1時間もしない内にこの霧は消えてしま
いました。
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中津川を堰き止めて造った野反湖、源流は群馬県にあります。ダムは長野県。川は流れて
日本海へ、河口は新潟県です。遠くの山は八間山(1935m)。もう少し暖かくなると、コマクサ・
ニッコウキスゲ・レンゲツツジなど高山植物が咲き乱れますが、さすがにまだ早かった。雪が
まだ残っていますものね。
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 なかなかいい景色でしょう。朝早かったので、こんな光景も見えたのです。

最後の3枚は、峠を降りて尻焼(しりやき)温泉へ。川の中から湯が湧き出ている。
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 そんなわけで、朝冷え込んだけどこの温泉(もちろん無料です)で暖まり、気温も上昇。体も
ホッカホカ。そのあと草津温泉をスルーし、鳥居峠を越えて長野県へ。戦国時代の一番ヒー
ローの真田幸村の里、上田市へ行きます。六文銭を家紋にした真田家。上田城、真田十勇士。
それはまた明日 

6月20日(木)天候 晴れ
上ノ国キャンプ場の近くに菜の花の群落があり、見に行こうとオートバイで朝9時過ぎ、サッカーの試合(対イタリア3ー4で惜しくも敗退)を見た後に出掛けました。函館平野は晴れていたが、厚沢部町との峠に近くなるにつれて曇りへ、峠では小雨模様。それでも江差の町は曇ってはいたが、雨の心配はなし。10km離れた隣町の上ノ国町へ。まず、夜明けの塔へ。塔の周辺にも菜の花があるはず・・・と思い出しながら行ったが。

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空がどんよりとしていることがお分かりでしょう。今にも降りだしそうな空模様です。塔から江差の町と奥尻島を写しました。残念ながら菜の花はほんの少しだけしか咲いていませんでした。

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群落のある風力発電をしている風車のもとへと足を延ばすと、全面ではないが、部分的に咲いていました。

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紫色の花はハマナスです。

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キャンプ場を覗いてみたら、誰もいませんでした。まだ早いのかな?

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そんなわけで、満開の辺り一面真黄色になるにはまだ早かったようです。空模様も心配なので、早めに切り替えて、道道5号線を木古内町方面へ。峠を降りて、木古内町鶴岡へ。明治の初め、北海道開拓のために文字通り山形県鶴岡から入植して開墾した土地で、ふるさとの名の鶴岡と名付けたそうです。

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近くの鶴岡小学校は残念ながら2年前に廃校となりました。お昼も過ぎたので、北海道新幹線が一番最初に止まる木古内駅のそばで、長いこと駅前食堂を営んできた「食堂 急行」の名物焼きそばを食べることにしました。新幹線駅が出来るために、移転せざるを得ないそうですが、おばさんは最後まで頑張る、といいます。美味しい焼きそば700円なり。周囲はすべて立ち退きしていることが、写真を見て分かるでしょう。

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7月末に北海道地区限定ですが、6時10分からのNHKのローカルニュースで特集番組が放送されるそうです。何度か食べましたが、いつも美味しく、おばさん長い間ご苦労様でした。

最後に木古内町サラキ岬にて。

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幕末、日本初めての軍艦「威臨丸」 。鎖国を解いた幕府は1857年にオランダに建造を依頼して出来た軍艦です。1860年勝海舟を乗せて大平洋横断、維新後は新政府の船として北海道へ屯田兵を運ぶ役目を果たす。1871年東京を出航し、ここサラキ岬沖で座礁、沈没という運命を辿った船です。

というわけで今日はツーリングしてエンジョイしました。函館に帰ると街中を走っていると汗をかくほどの暑さ。車も多く、信号で何度も止まり、トラックからは排気ガスをもろにかけられ、市内を走るにはオートバイは苦しみの連続です。でも海岸線を走っている時は風が冷たく、春・秋用のツーリング・ウエァーを着てても寒かったです。本日のツーリング距離は187km、燃費38km。
では、また明日♪♪♪。

 旅をしたのはひと月前でしたが、気温の変化に驚いています。G・W明けの5月8日に
スタートし、16日後の24日に帰って来たが、最初の頃は朝方寒くて震えていたことを思
い出します。4月の旅同様に、車中泊するのだからと、冬用の二重の羽毛寝袋、マットも
サーマレスト(アウトドア用品でご存知の方も多いはず。銀マットよりは100倍快適といわ
れる製品。)を使用し、寒さ対策は大丈夫!と自信を持って旅に臨んだのに、やっぱり寒さ
には勝てず、とりわけ青森・秋田山形の山中では朝方冷え込むことを想定できなかった。
 これは、反省点として次年度3月に西日本へ旅立つときは、新しい寝袋を用意して出発し
たい!と。いろいろ経験を積むことで、(もっとも今までにもこのような旅をしてきたのだが、)
旅をするたびに反省点が出てきます。次はもっと良い旅を!と。

 今日の最初の写真は谷川岳の麓から。
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 ここに車を止めて歩き出します。新緑の、晴天の中気持ち良く歩くのは最高の気持ちです。

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 この碑には1000人以上もの山での遭難者の名が刻まれています。遭難といってもほとんど
は滑落死です。山登りというより、岩登りなので、落ちて死んだ人の名が、年度ごと出身地別に
刻まれていて、北海道のクライマーも何人かいます。私が学生時代訪れた時は400人ほどでし
たが、40年過ぎた今は1000人を超えた死者の名が刻まれているのです。悲しい碑ですね。

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 歩き始めると気持ちの良い森が。新緑の季節だけに緑色が鮮やかです。

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 最初は簡易舗装された道で、雪もなく歩きやすい道です。車も通らず、平日朝早かったので、
6時過ぎかな?登山者も一人、二人くらいで、のんびりと歌を口ずさみながら歩きました。何の
歌かって?それは秘密 
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 険しい谷を挟んで白毛門岳(1720m)が見える。
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 谷川岳(1963m)の一の倉沢。説明には「多数の命を飲み込んだ魔の壁 1000m近い
落差の壁がそびえる」と書かれている。
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 何の花だろうか?高山植物の一つだろう。
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写真では良く分からないが、実際目の前にこの岩壁を見ると圧倒される。高く険しい。
でもクライマーにはあこがれの山。全国からこの岩壁を目指して集まるのだ。
より険しい厳しい岩を!登るために。

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向こうに朝日岳(1945m)のきれいな形の頂上が見えてきた。

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 昭和44年3月2日 旧清水越国道の石・・・が読める。謙信尾根とも云われており、戦国時代、
上杉謙信が関東へ出兵する時に、ここを通過している。その後も国道17号線が出来るまでは、
越後の農民たちは江戸へ米を出荷する際、馬に引かせてにここを通過している。だからここは
車も通過できるほどの車幅で、傾斜も急ではない。学生時代に自転車で、新潟県へ峠越えしよ
うとチャレンジしたが、ここまでは良かったが、この先は崩れており、通過出来なかった。今回も
同様、目の前に道が見えるのだけれど、崩壊した沢を渡ることは出来なかった。それでも行ける
ところまでは行こう、と思いどんどん突き進みます。

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 このような道を歩いて2時間近く、最後は断念。

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 奥に道が出来ていることは分かりますね。東京電力の電線が上空を走っているのも
見えます。結局ここまで歩いてきました。

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だんだん細くなってきて、道は途絶えてしまった。

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 というわけで、3時間を超えた谷川岳トレッキングを終えて帰りの道、山の花が咲いて
いました。白い花はコブシかな?黄色の花は何だろうか?
明日は帰りのトレッキングの続き、残りの写真と日本一の階段を持つ土合駅、1600mの
群馬県・長野県の県境にある野反湖(のぞりこ)を紹介します。この日の昼は30度を超す
暑さになり、寒暖の差が激しくそのたびに脱いだり、着たり。暑さのピークはTシャツ1枚で
過ごしました。
ではまた明日  

6月17日(月)曇り。日中、家から歩いて5分もかからない市民会館・市民体育館へ、何か良いショットがないかな?とスマホを持って散歩に出掛けました。
あります。あります。働いていた時は余裕がなかったのか、今はゆっくりと歩けて観察力がついたのか、それはわからないが、普段素通りしていたところに、こんなものがあったのか、と気づいたものがあったので紹介したいと思います。

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最初の花はアルメリア。我が家にも咲いていますが、20cmほどのピンク色の可憐な花です。周囲にはパンジーの花。

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アメリカ杉の別名を持つセコイアです。大きくなると100mを越す大木になり、幹をくり貫いて車が通る写真がカリフォルニア辺りにありますね。
ツバメがたくさん翔んでいるな、と思ったらやっぱりツバメの巣がありました。

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ちょうど近くの保育園の子供たちが散歩にやって来て、保育士さんから教えてもらってました。

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公園の木々はまだまだあります。

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函館市の木であるイチイ、通称オンコもあります。

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石楠花(しゃくなげ)の花も咲いていました。

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ツツジの花も綺麗に咲いていました。

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花時計もきれに咲いてます。

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公園の周囲を歩くと、街路樹ならぬ街路花として菖蒲(アヤメ)の花が。

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さらにサクラソウの仲間のプリムラ・マラコイデスが群れをなして、きれいに咲いていました。

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家の近所の街路樹を観察すると、プラタナスの木の下には町内会で植えたマリーゴールドの花が咲いていた。

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最後に北海道の夏を代表する大きな花であるルピナスまで咲いていた。

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というわけで、時間のゆとり(心のゆとり)が出来ると普段見逃していたものが眼に止まり、思わぬ発見があります。
時間が出来た今、放置していて雑草だらけになっていた庭の一部を、畑にするため耕して野菜も作っています。雨の今日は晴耕雨読。貯めておいた本を読みます。のんびり過ごすのは良いですね。
作戦立てて次の旅に備えています。予定では26日ないしは27日出発です。
ではまた明日♪♪♪

 久しぶりに5月に旅した信州・長野県への旅を思い出しながら書いてみたいと思います。
今週の函館における天気予報はしばらく雨マークがついており、ゆっくりと、過去の旅を
振り返り反省しながら、次回のより良い旅へとつなげていきたいです。

 さて、日光を出た後は、いろは坂、文字通りたくさんの坂を上って中禅寺湖へと上がって
いきます。日本の道100選の一つに選ばれています。
 昔は上りと下りの路は今のように別々ではなく、1本の道路だったんですね。だから、難路
と言われていました。今は上り(第二いろは坂)は2車線の一方通行ですから、私のような車
は遅い車線をトロトロ走っても大丈夫。第一いろは坂は下り専用。紅葉の時期などは渋滞し
ている時に猿がイタズラするそうです。怖いなあ、猿は顔も怖いし、食べ物をひったくるし・・・。

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 海抜1173mです。日光から500m以上も高度を上げてきましたね。

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 遠くに見えるのは女峰山(2483m)かな?2300級mの山々が連なっている。

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これは男体山(2486m)。日本100名山のひとつです。

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いろは坂を見ると、クネクネとカーブがたくさんあって難路であることがわかる。

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明智平でのワンショット。土砂崩れが激しく、相当荒れている。所々に防砂ダムが出来て
いる。

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日本3大名瀑の一つの華厳の滝はカットし、中禅寺湖へ。ここの標高は1269mある。
深さは163m。男体山の爆発による溶岩堰止湖だ。七飯の大沼と一緒です。七飯(ななえ)と
読みます。函館以外の人は読めないでしょう。先日のみちのくプロレス函館大会でも、最初に
歌を歌った気仙沼ジモーラモさんがスポンサーの一つであった、七飯高校ラグビー部OB会を
ななはん?ななめし?と言って「ななえ」とお客さんから指摘されていました。その七飯町にある
新日本3景の一つが大沼で、駒ヶ岳(1131m)の噴火により出来た溶岩堰止湖です。

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奥に華厳の滝があるが、滝を見るのに料金を取るなんて、他では有り得ない。時間もないし、
それに、北海道にはここより、すごい滝がいくつもある。

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 二荒山神社の中宮です。二荒山神社の一の宮は日光東照宮のとなりにありましたね。
ここが二の宮で、男体山山頂に奥の宮があります。登山道はここからスタート。いつかは
登りたいです。

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旅の安全を祈ります。

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神様の水も飲んで、出発。

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 金精峠にある金精トンネル。1860mあります。今回の旅では最高の高さです。実際この後の
下りで一気に1400mも標高500m以下に降りたために、耳がキーンとまるで飛行機に乗って降
りた後のような症状が出ました。

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男体山がずーっと後方に見えますね。金精峠を降りるとそこは群馬県。国道120号線
沼田街道を西へ。沼田市から北上、国道291号線を新潟県に向けて県境付近へ。この
日の寝床は、群馬・新潟県境の谷川岳連峰のJR土合駅

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 ここがJR土合駅から見た翌日の風景です。この日は駅の駐車場で車中泊。さすがに山の中
、朝方はからり冷え込みました。谷川岳のトレッキングは明日美しい写真とともにで紹介します。
雪山はキレイですね。
それでは、また明日 

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