函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めた車中泊中心の「ぼうけんの旅」は今年で13 年目に突入。 車中泊の貧乏旅行の旅、今年で74歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 今年2026年も「ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです! 今年も「ぼうけんの旅」をよろしくお願いいたします。

2026年が明け今年は74歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!時々は自転車を積んでの軽バン一人旅の始まりです。

2014年03月

 今日3月31日、明日から4月、消費税が5%から8%へアップする日。いやいや、今日から
再びBS・NHKでは朝と夕2回に分けて「こころ旅」がリ・スタートする日です。春の旅として
愛知県から始め、ゴールは北海道。
いいですねぇ。60代を過ぎても自転車で旅をするのは。私も車に自転車積んで、あちこち旅
しながら時にはペダルをこいで坂を登って汗をかき、下りではスピードの出し過ぎに恐怖を覚
えたり、自転車は旅にはもってこい!です。
 毎朝と夕方、楽しみと同時に「行くぞ!!」という気持ちに奮い立たせてくれます。北海道で
は火野正平さんと一緒に走りたいです。

 さて、十字街の電停から再びお伝えします。下車した正面に函館市企業局水道部「アクロス
十字街
」があります。
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この建物です。玄関の正面に、昨日紹介した操車塔がありますね。ここでは市の水道事業の
一部を見学することも出来ます。そして、入り口には市のマンホールが飾られています。
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いいですね。カラーで、五稜郭の中に公会堂が描かれています。こんなのも。
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汚水蓋にこんな絵が描かれていたら、きれいに使わなくちゃ。
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フラッシュを使ったら、明るすぎて良く見えない。
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これは、戸井地区のマンホール。戸井はマグロの産地。大間よりも、マグロは獲れているのに、
大間というブランドだけが先行しています。実際は津軽海峡に線引きはなく、北海道側の戸井
の方がよく獲れているのですよ。
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旧丸井デパート、現在は函館市地域交流まちづくりセンター。その中で売られていたクッキー。
復元チンチン電車  箱館ハイカラ號」のサブレ。5枚入りで500円。
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とても美味しかったです。
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さて、十字街で下車して函館駅方向を振り向くと、思わぬ人物の像と対面します。まさか、
土佐の英雄がここに建つなんて?

維新のヒーロー、坂本龍馬です。台座の高さ2.5m。銅像の高さは3.5m、指先は右手の人
差し指まで入れると6mを軽く越します。
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坂本竜馬は蝦夷地に行くことを憧れていましたが、その前に殺害されます。しかし、亡くなる前に
姉の子(姉千鶴の息子高松太郎)を養子(坂本直に改名)にしています。その坂本直は海援隊や
亀山社中でも活躍しますが、戊辰戦争最後の戦いである箱館・五稜郭の戦いにも従軍、もちろん
新政府側として。その後は五稜郭・奉行所にも勤務しています。その後の坂本家は北海道開拓の
ために尽力し、北見市の発展に大きく貢献しています。

9代目の人物が直行さん。彼はそんな関係からここ函館に坂本龍馬記念館を開きました。
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この記念館、龍馬の生誕日と命日にちなみ2009年11月15日に開館しており、今年で5年目を
迎えます。
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龍馬と北海道・函館との関係が深かったのです。殺害されなければ、ここ函館にわたり
彼の残したものが必ずあったはずです。

そんな坂本竜馬が建つのもここ十字街の電停なのです。
それでは、明日は「北の銀座」と呼ばれた十字街・銀座通りを紹介します。
では、また 明日 

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 1920年代、大正の後半から昭和の初めにかけて函館は東京以北最大の都市でした。
1920年(大正9年)の第1回国勢調査で、人口は14.6万人、これは全国9位でした。今や
200万人に迫る勢いの札幌や東北最大の100万都市仙台よりも上回っていたのです。
その中心地が、これから紹介する十字街。

 北洋漁業の隆盛とともに全国から集まった海産物商人たちの問屋街を中心に、彼らの
集う飲食店、カフェなど、特に市電通りより1本駅前に近い南北に延びる通りは銀座通り
と呼ばれたほど。
最盛期、通りの両側には鉄筋コンクリート造り24棟、コンクリートブロック造り19棟、レンガ
造り15棟など66棟の耐火建築物が建ち並び、それはリトル東京ともいえるほどのモダンな
ビル街でもあったのでした。

まずは電停から。
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市電の路線図を見て、どの辺りか確認しましょう
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そして、ここの案内図。
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英語で市電の利用方法が書かれていますが、これは台湾人や韓国人のため。彼らは
ほとんど英語を話せますね。特に若い人たちは英語は普通に会話出来る。日本人の
若者も外国人と対等に英語が話せる時代になって欲しいですね。

ここにしかない、面白いもの。それがこれです。
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それこそ、十字の通りの角に設置されています。
何でしょうか?

答⇒操車塔といいます。
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Switch  Tower  と書かれていますね。
隣には詳しい案内板がありました。
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簡単にいうと、ポイント切り替えの場所です。路線図を見てお分かりのように、ここは分岐点。
ここで、南の谷地頭方面と北の函館どつくの2方向へ分かれます。東の駅前方向から来た電
車の線路をどちらかに切り替えなければいけない、その場所なのです。以前はここ以外に5か
所もあったのですが、次々廃線となって分岐点はここだけ。それに、1969年(昭和44年)自動
化となりこの操車塔は必要なくなったのですが、、市電の歴史を伝えるために残されているの
です。

さて、ここが北日本最大の繁華街であった証拠のビル、旧丸井デパートの建物を見ましょう。
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石造り緑色のドームを持つこの建物、現在は函館市地域交流まちづくりセンターとなっていて、
観光客への対応なども行っています。建設されたのは、1923年(大正12年)、関東大震災が起
きた年でした。
その年、丸井今井呉服店函館支店として3階建てのビルが建設され、1930年(昭和5年)にはさ
らに一部5階建てに増築されています。
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丸井今井呉服店の創業者である今井藤七は新潟・越後の出身。函館で商売を身に着け、
仲間とともに、当時は開拓されたばっかりの札幌で呉服店を開業します。きっと先見の明が
あったのでしょうね。人口は数千人で、函館よりもはるかに商圏は少ないが、北海道の中心
であり、北海道開拓使が設置され将来は函館をしのぐ大都市になる、と見込んだのでしょう。

しかし函館で修業したことを忘れてはいませんでした。成功した後の彼は、弟の良七が独立
する時にこの函館支店を出させたのです。函館への恩返しだったのですね。

1934年(昭和9年)の函館大火では、内部は全焼しますが建物は残ります。やがて、人口の
東部への移動などで商圏は北へ、東へ。ついに1969年(昭和44年)ここ十字街を離れ、五稜
郭公園電停前へ移ります。
建物にも老朽化や耐震性の問題もあり取り壊しの話もありましたが、再生工事が行われて今
の状態になっています。
ここで失敗。実はここに東京以北最古のエレベーターがあり、今も窓口に声を掛ければ試乗で
きるそうです。残念、帰って来て調べたら分かりました。後から気付いても遅いですね。

ここは函館駅から1.6km地点。
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乗って来た電車です。函館には水産会社がたくさんあって、乗車した電車もそうでした。
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降りたお客さんは、ほとんど台湾からの観光客。ずーっと席が近くだったので話す言葉で
分かりました。この電車、左へ曲がりますね。行き先が「谷地頭」と表示されているからです。

明日も、ここ十字街を紹介します。それではまた明日   

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さて、魚市場というくらいですから、海産物の市場が港にあります。が、仕事で何度か訪問
したことはありますが、入り口で警備員がチェックしており、行きづらく今回はパス。
そこで、電停から南方向の津軽海峡側へ向かうことにします。
まずは、電停から。
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昨日、紹介した函館信用金庫の本店がありますね。
ここから、南へ行くとレトロなレンガ造りの建物が目に付きます。それが、西本願寺函館別院
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法然の弟子の一人である親鸞(1173~1262)が始めた仏教の一つ、浄土真宗、別名一向宗
鎌倉時代のことです。その浄土真宗はいくつもの派に分かれているが、ここは西本願寺派。
たくさんの派に分かれたことを知ったら祖の親鸞は驚くか悲しむか?物静かに見つめています。
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隣にはりゅうこく幼稚園があり、たまたま園児たちが外のお散歩か?若い先生たちに連れられて
外へ出て来ました。ここは、いったん退散。不審者に間違われたら困ります。それにカメラ構えて
盗撮でもしているのでは?などとあらぬ疑いの目で見られてもイヤですからね。
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しばらくして、もう一度内部へ。実は、ここには碑が建っているのです。

実は、江戸時代から函館山山麓に住む市民たちにとって飲料水の確保は死活問題でした。
山の斜面や砂州の上に住む人々にとって飲料水は井戸水でした。本来は河川があれば良
いのですが、亀田川は当時函館湾に注いでおり、函館山からは小川一つ流れていなかった
からです。それでも高田屋嘉兵衛は、自費で大坂から職人を呼び寄せ市内に掘り抜き井戸
を7か所設けますが、増え続ける人口には追い付かない。

そこで、この人物が活躍します。この人、堀川乗経(ほりかわ じょうけい)。
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彼は、函館湾北側に注いでいた亀田川の水路を市街地である函館山山麓まで人工水路で
引っぱってくるという河川工事を始めます。時は開港してわずか4年後の1859年(安政6年)
5月でした。目的は、たびたび氾濫していた亀田川の治水と住民の悲願であった飲料水の
確保。
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その功績をたたえて建立されたのがこの碑。
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幕府の役人である鈴木重尚の「函港新渠碑」(かんこうしんきょひ)。渠の意味は「溝(みぞ)、
用水路」など。

しかし、急速な人口の増加は河川の汚濁を招き、1886年(明治19年)コレラで800人余りの
死者が出たことで、彼の造った水路は埋めたてられます。
3年後、その代りに近代水道が横浜に次いで日本で2番目の1889年(明治22年)誕生します。
多くの犠牲者が出ましたが、殺菌された清潔で美味しい水道水が、東京や大阪よりも早く市民
に供給されたのでした。なお、横浜は1887年(明治20年)のことです。

親鸞とそのはるか遠い時代の弟子である堀川乗経の碑がある場所。それが、ここ。
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函館山をバックに建っています。昔は「西川町」と呼ばれたのが理解出来ますね。
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函館の西を流れていた川があったからですね。ホントは人工水路でしたけど。
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駅から1.2km。赤レンガ倉庫群まで570m。の距離。
電車線路の近くのグリーンベルト、雪の中に建つこんな碑が。
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さらには、武藤善友の歌碑。
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山の手の  町に日のくれ  鳴りひびく  
               キリストの鐘  仏教の鐘
 
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むとう ぜんゆう (1900~1971) 山麓の称名寺の住職であり歌人でもあり、1969年には
函館文化賞も受賞しています。

近くには豊川稲荷神社もありますが、以前紹介しているのでパス。
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明日は「十字街」。戦前東京以北最大の繁華街があったところです。地方の銀座発祥の地でも
あります。

それでは、また明日  

 路面電車の旅、いよいよ後半戦。ここから函館山山麓に向けての路線は、開港後の函館の
歴史を感じさせる、とても楽しい旅となります。まずは、函館駅前の次の電停「市役所前」。
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市役所を見ましょう。昨日、ここの市議会で、対岸の大間原発工事の訴訟をすることを
全会一致で決めました。わずか23kmの距離、さえぎる山もない、海原が続くだけの津軽
海峡、それなのに市へ連絡もせずまったく無視して工事をしていることへの抗議であり、
市民の誰もが反対しているのに 。市民の一人として、怒りの声を出します。
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市電の路線図を見ましょう。
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駅前の次が市役所前、そして魚市場通、次の十字街で二方向へ分かれます。赤の路線が
谷地頭方向。青の路線が函館どつく方向へと。

おっ、電車が走ってきたぞ。シャッターを押すのが0.数秒遅かった。
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郵便局の広告電車ですね。

一方、これは市内のケーブルテレビ会社のNCV。
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駅から進むと、全国どこにでもある「大原簿記専門学校」。
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私の教え子の中にも通っていた生徒もいました。この学校、至る所にありますね。
学生の皆さん、しっかり勉強して資格を取って就職に結びつけて下さいね。応援していますよ。

市役所のある場所は、港と津軽海峡の間が一番狭いところ。もっとも狭い部分で800mも あり
ません。それに、このくびれた部分はもともとは海、それが砂州で函館山とつながった場所で、
それこそ地盤が弱いところでもあります。昔は高い建物は建てれないところでした。砂地だから
ですね。それに、高さもない。なにせ海抜1.2mの場所。
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実際、2011.3の東日本大震災では、函館湾からの津波により浸水、犠牲者1人を出して
います。

ここから駅前のかけては金融機関が集中しています。ご覧のように保険会社、信金などが
立ち並んでいます。
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そして、地元函館信用金庫。広告電車も走らせていますね。
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実は、この本店ビルを建てる前は、こんな歴史を感じる建物が本店だったのです。
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レンガ色のレトロな建物、最初は北陸銀行の前身である旧十二銀行函館支店として1926年
(大正15年)に建てられました。北陸銀行は富山市に本拠を置く銀行ですが、富山・大坂・京都
と箱館・松前とは北前船で江戸時代から結ばれていたし、明治期の蝦夷地開拓の時期には
富山県出身者が多く移住してきたなどの縁から、北海道には支店網を各地に持つことになりま
す。
函館へは小樽、札幌、旭川に次いで1917年(大正6年)進出しています。

1934年(昭和9年)の函館大火では周辺の建物がすべて焼失したにもかかわらず、この建物は
鉄筋コンクリート造りで、防雪兼防火シャッターまで備えていたために焼けることなく済みました。
1975年(昭和50年)まで北陸銀行の支店として使用された後に、函館信用金庫の本店となりま
すが、新ビルが建設後は空き家状態が続いていてもったいないですね。

というわけで、いよいよ後半戦。今後は明治、大正時代の建物が続く、まさに函館が北日本最大
の都市であった事を証明する地区へと入ります。
それでは、また明日からお楽しみに! 

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 さて、長い旅に出れない理由の最大なものは3月から始まった我が家の新築工事です。40
年、何度もリフォームして修理したり、増築したりしましたが、ついに建て直しを決意しました。
昨年3月退職を機に、もっともエコな家造りを目指し勉強し、辿り着いたのが、今回の家。

 光熱費をゼロに近づけることが目標です。初期投資が多少高くついても20年、30年後のラン
ニング・コスト(維持費)を抑えることで、逆に毎月の必要経費だった灯油代、ガス代、電気代な
どを出来るだけゼロにする。そのためには、今までの暖房器具である灯油ストーブ、もっとも寒
い季節は灯油代だけで月5万円も掛かった時もあったけど、そんなストーブを使用しない。ガス
コンロ、調理をする時のエネルギーのガスを使わない。電気は太陽光発電をし、自前で生産す
る。
そういうエコな家をしたい!が原点でした。図書館で30冊以上専門書を読み、もっとも理想に近
い家造りが出来そう、と。

それでは、今月の動きです。
これが、もっとも古い部分で40年あった我が家です。
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屋根の一部を壊していますね。これから左側を解体します。今までは窓は1層の二重窓。
つまり、一番冷気を伝える窓がガラス1枚、それを外側が透明ガラス、内側がすりガラスの
二重の窓で使用していました。厳冬期は外側の窓は結露し、ガチガチの氷が張っている状
態で、窓の隙間からは冷風が入り、とても寒かったのです。

まず、手作業で解体。
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長年断熱材に使われてきたグラス・ウールはボロボロ。いくら100mmから150mm、200mm
になってもグラス・ウールは長い間に湿り、腐り、水を吸って下へと落ちてくる。だから、グラス
・ウールではない断熱材が必要なのです。グラス・ウールは使わないつもりです。
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左側が解体する家。右側は完成するまでの間、8月まで住む家。完全に二分割されました。
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ブルが庭の一部を壊し、駐車場造り。庭木も無残にも一発でなぎ倒されます。
ちょっと寂しい。
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仮住まいの家の2階から写すと、こんな感じ。庭も作る時は丁寧に時間をかけて作業したが、
壊すとなると、あっという間。
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解体後の風景です。左側の家が取り壊されて、更地になってしまった。
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その後、地盤強化のために、杭打ちが実施されます。北海道は、冬地面は凍土となるため深く土地を掘り下げ固い地盤の上に高さH型のコンクリートの杭を打ちます。まずは、地盤調査のために高さが7m近い重機であるパイルドライバー(プロレス技ではないですよ)のドリルがどんどん地下に入っていきます。
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その穴の中に、高さ3mくらいのH型杭をその穴に入れます。
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以外と我が家の地盤は固く、3mの杭は頭を出しているほど。つまり、3m下の地盤は強固でこれ以上ドリルが入らないほどの固さだということ。中には10mも掘り下げて、3mの杭を3本重ねても足りないほど軟らかい地盤もあるといいます。担当者に聞いたら、極端なのは20mもドリルが入ってしまう軟弱な地盤もあるといいます。当然費用はかかります。
 それでも北海道の住宅は耐震性に優れています。寒さ対策から、本州の住宅に比べて窓の開口部が小さく、基礎も深いのがその理由です。
我が家では、昨年7月にスウェーデン式サウンディング法で地盤を調査したところ、3mという以外と固い地盤であることが分かって胸を撫で下ろしたところでした。それでも、支持杭を打つのが常道。
軟らかい地盤だと、地震ですぐに液状化となり家が傾きかねないからです。

 翌日は、いよいよ基礎を造るために土地を掘っていきますが、その前にヒートポンプの直径30cmほどの太いパイプを地下に埋め込みます。ショベルカーで土地を3mほど掘り下げて埋め込むわけです。
ヒートポンプとは、空気中や地中の熱エネルギーを有効活用して、暖房や給湯に使用するもので北ヨーロッパではかなり普及しているもの。本来は地下10m以上掘り下げていけば、年中温度は一定しているので、再生エネルギーの「地中熱」を活用して冷暖房が出来れば良いのですが、設備投資だけで数百万円もかかり、それは無理というもの。
それでも地下3mでも地上に比べれば夏涼しく、冬温暖なのが特長です。地下水がそうですね。夏は冷たく美味しい、冬は暖かくてまろやか。それは年中一定した温度だからです。夏、洞窟に入るとヒヤッとして冷房が効いているいるみたいですね。それと同じです。
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黒いパイプを埋め込んでいます。その前に午前中は埋め込む所を深く掘っていました。 作業を終えて、黒いパイプが2ヶ所出ていますね。残りの10mほどは地下3mに埋め込まれています。ショベルカーを運転していた方は「夏涼しいですよ」と誇らしげに云っていました。
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全体を見るとこうなります。
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というわけで、今後何回か我が家のエコハウス造りをブログで紹介していきます。完成するまでが楽しみです。旅とは直接関係ないですが、休みの日には近郊を旅してこれまたアップしていくつもり。長旅は完成までは無理ですね。出来るだけエネルギーを自然に頼り、自前で生産出来るように努めたいです。
北海道電力は何としても泊の原発を再稼働したく無理矢理動きまくっていますが、もう北海道電力とは縁を切りたい!のが本音です。1円も払いたくない!のが心にあります。
当然函館市民としては、昨日函館市議会が全会一致で決議した、津軽海峡の向こう側の大間原発の工事着工差し止め訴訟には賛成です。わずか23kmしか離れていないのに、市民の声を一言も聞かずに、全く無視しているのには腹が立ちます。

旅とは関係ないけど、旅しているといろいろな地方の問題があります。函館では、そんな大間原発のトラブルがあることを少しでも関心を持って接していただければ、と思い今日は書いた次第です。
 ではまた明日 !!

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 忘れていました。電停のこと。函館駅前の電停です。
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そして、もう一度函館駅を見ましょう。
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1902年(明治35年)函館駅が開業しますが、、場所はここより1.2km北の海岸町。実は当時
一部の住民が鉄道の乗り入れは危険である、という理由で反対されたからです。2年後の19
04年(明治37年)7月になってやっと現在地での開業にこぎつけます。同年10月には小樽へ
の鉄道も全通しています。

 さて、終戦直後の1945年(昭和20年)、函館市内で一番人が集まる場所、函館駅前に周辺
の農家の人々が生産された農作物を持ち寄り、駅前の広場の一角で野菜の立ち売りを始め
ました。理由は、農家の人たちは現金が必要だったため。種を買う、農機具を買うためには現
金がなくてはいけない、そのために自分の農地で獲れた作物を換金化しなければいけなかった
のです。
それは食糧不足に悩んでいた市民にとっても助かりました。食べることが何よりも一番大切な
時代だったからです。 
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手前は「駅二市場」。隣が以前渡島ドームと呼ばれる朝市が開かれていた場所だけど、
今は工事中。もうすぐ完成の見込みです。それでは、中に入って見ましょう。
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カニ、ホッケ、タラコ、スジコ、ウニなどの海産物が並んでいるのは、さすがに漁業の盛んな町
ですね。
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たくさんのお店が建ち並んでいますが、11時近くになるともう閉めた店も。
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函館市の「魚」に認定されているイカ

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台湾からの観光客もたくさんいて、中国語、時にはたどたどしい英語が飛び交っている。
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地元の人もいるけど、多くは観光客か?会話する言葉で分かりますね。
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朝市の隣に「どんぶり横丁」がある。
新鮮な海産物を出す飲食店がいくつも連なっています。
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おっ、寿司の「函太郎」もある。


というわけで、函館駅前の朝市を紹介しました。さすがに3月も26日を過ぎると暖かくなって
来ました。最高気温は13度とか、雪も融けて庭にはスイセンチューリップの球根の芽が出て
来ました。桜はまだまだだけど、春一番の花、福寿草が咲いていますし、フキノトウも出ていま
す。春はすぐ近く。

では、また明日   













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 さて、路面電車の旅いよいよ函館駅前となりました。最初に、駅前のデパートを紹介します。
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かつては北日本最大のデパートと云われた棒二森屋デパート。歴史は古く、始まりは開国
(1855年)の14年後の1869年。ペリーの来航により、半ば強引に鎖国が解かれたのが18
54年の日米和親条約。翌年、箱館は伊豆の下田とともに開港します。武士たちの間では
攘夷を叫び、外国を討とうとする連中がたくさん出てきますが、一方で商人たちは千載一遇
のチャンス、開港したばっかりの箱館で一旗揚げよう、という志に燃えた商人たちがわんさか
やって来ました。
その一人、1863年に大分出身の渡邊熊四郎は函館山山麓の西部地区で北海道初の洋品店
を開きます。その名が金森森屋洋物店。蝦夷地と呼ばれていた当時だが、この先洋服が流行
る、と踏んだのでしょう。実際、1968年の明治維新以後の文明開化では洋服を着るようになり
ます。
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1882年滋賀県出身の近江商人、萩野儀平は呉服を商いする棒二萩野商店を開きます。
その後両社は大いに発展しますが、1934年あの函館大火が起こります。山麓の西部地区
は焦土と化し、両ビルは焼け落ちました。そのころ、鉄道の開通に伴い函館駅前が繁華街
となる、と見込んだ両社は合併して、駅前の一等地に大きなデパートを建てました。
つまり1936年(昭和11年)6月12日、金森森屋百貨店+棒二萩野呉服店=棒二森屋となり
ました。
1937年10月1日、駅前に5階建ての大きなビルが完成し、戦前・戦後は北日本最大のデパ
ートとして、函館でも1970年代まで一番の賑わいを見せました。が、1970年代のオイルショ
ックと造船不況に見舞われ、駅前の経済上の地盤沈下、東部・北部への人口移動などで落
ち込みが激しく、ダイエーグループの一員となります。現在は福島市に本拠を置く、中合とい
うデパートが実質所有しています。
奥が本館、手前がアネックス。電車はここで大きく90度曲がります。上の電車は「函館信用
金庫」の広告電車、下は「美鈴コーヒー」。
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駅を見ましょう。まず、正面から。
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1902年(明治35年)に開業してから5代目の駅舎です。再来年には新幹線「新函館駅」と
高速電車で15分で結ばれる予定ですが、市民としては直接ここへ乗り入れて欲しかった。
サイドを見ましょう。
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一面ガラス張りで、残雪を反射してとてもきれいですね。
振り返ると、一つ手前の大門方面が見えます。
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左の建物、旧和光デパートは18階だけの新しい商業ビルに生まれ変わる予定。
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右側を見ると。
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左に北洋銀行のビルと、右にロワジールホテルが。
ここに、電車専用の信号がありました。
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×の赤色が光っています。進入禁止ですね。もちろん車も赤ですけどね。

というわけで、明日も函館駅前を詳しく見て行きます。
それでは、また明日 

昨日、Jリーグ史上初めての無観客試合が浦和レッズのホームの埼玉スタジアムで行われました。先日の差別横断幕の「Japanese only」に対しての処分でしたが、スポーツを愛する者にとってはとても悲しいことでした。
どのスポーツもそうですが、ルールを守る、フェアに試合するのは当たり前のことですが、一方で応援する側が対戦相手に対してリスペクトの心を持たずに、ただ勝利しさえすれば良い、という考えで応援している人たちもいます。そこにあるのは、相手に対して罵倒と批難のみ、まさに苛めと差別です。
私たちは、スポーツをする、見る、応援する、すべてにおいて相手を尊重し、称える心を持たなくては!2020年東京でオリンピック・パラリンピックが開催されますが、そこでは世界中の人々がやってきます。隣国の人々とも仲良く観戦・応援する寛大な精神をこれから身に付けていかなくては、と思いました。
1940年東京オリンピックが決定していましたが、戦争のために中止になりました。決して戦争をしてはいけない。スポーツは平和だからこそ出来るもの。平和のためのスポーツ、これはすべての競技に当てはまります。スポーツを愛する人々は、差別をなくし、平和を尊ぶスピリッツを持とう。それが、本当のフェア・プレーの精神なのだから。


さて、昨日のコメントにあったように、3年間函館で過ごしたtunoくんが神奈川県に引越し、新たな生活をスタートしたようです。高校生活を、知り合いが一人もいない北国で始めて早3年。十分エンジョイしましたね。大学生活も充実した4年間を過ごして下さいね。
春は卒業、就職、入学の季節。新たな人生の旅立ちの季節です。実際に日本一周のブログを見れば、旅をスタートしている旅人たちも大勢いますね。やっぱり、春は旅をスタートする最高の季節です。


五稜郭公園の続きです。まだ堀は完全凍結しています。いつになったら、水面が見えるのか?

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公園のすぐそばに私の母校があります。在学していたころは、函館東高校。今は市立函館高校。

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在学していたころは、普通科の高校としては校地面積が東日本最大、と云われていました。なにせ、野球場・サッカー場2面他にテニスコート・ハンドボールコート・バレーコート・プールおまけに公園まであったのですから。もっとも農業高校には敵いませんね。農場や牧場、森林、馬場まで持っている高校もありますからね。

周辺には高校がいくつもあります。隣は大妻女子高校。さすがに、女子高だけあって敷地内に入って写真は撮れない。その隣には北海道初の工業学校、函館工業高校が。

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明治時代に函館山山麓、今の青柳小学校の辺りに開校、初の商業学校だった函館商業高校同様道内の経済・工業の多くの人材を輩出してきた学校です。

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100年以上の歴史が見守っていますね。

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というわけで、スポーツの原点はみんなと仲良くプレー出来ること。
One for All All for One.
一人はみんなのために、みんなは一人のために。世界中の人がチームプレーをすれば、戦争は絶対起きないのに。
スポーツは平和の祭典です。平和だからこそ、スポーツが出来るのです。平和だから旅も出来る。
差別をなくそう!来週は再び浦和レッズのサポーターで埼玉スタジアムが埋め尽くされますことを祈ります。

では、また明日♪

我が国初めての洋式築城の函館五稜郭。他には長野県佐久市の龍岡城が、函館の6分の1のスケールであるだけ、それも一部の堀は埋め立てられているし、大部分は小学校の敷地になっていて立ち入り禁止の場所もある。それに比べると五稜郭は堀の外周1800mもある大きいもので、城というより、城塞都市に近いかも知れない。

まず、見ていきましょう。

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内側の石垣を過ぎると、見えて来ました。2010年復元された奉行所です。それでも3分の1しか復元されていない。当時と全く同じく再現されているため費用が莫大にかかるそうです。それでも、立派。函館市内の学校では無料で見学が出来る。地元を知ろう!と子供たちは無料となっている。もちろん高校生も。だから、完成してからは、11月ころ、幕末の日本史の授業の一環で、必ず生徒たちを連れて来ていました。

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建てた人物は、四国は大洲出身の武田斐三郎(たけだ あやさぶろう)。1827年の生まれ、大坂で緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、佐久間象山のもとで砲術・築城の仕方を学んだ。その能力の高さは幕府に召し抱えられて、1854年箱館にやってきたペリーとの折衝に当たるほど。なにせ、英語・オランダ語が対等に話せたのだから。
箱館では、奉行支配諸術調所教授役として、いわば先生として師弟の教育に携わる。大砲の国産化にも成功する。非常に頭の良い人物故に、いつからか観光ガイドが「頭をなでると、頭が良くなりますよ」と言ったため、頭の部分がテカテカ光っている。今日も台湾人観光客が大勢撫でていた。

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青空に五稜郭タワーが映えています。

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裏門へ行って見よう。

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当然だが、ここも完全に凍結していた。この堀の水、かつては奉行所の役人たちの飲料水にもなっていたほどだが、やがて悪臭が漂うような環境の悪さになる。しかし、1974年、今から40年前に水道水を取り入れる浄化工事が行われ、今は水も澄み、コイ・フナ・亀、そして誰か心ない人がリリースしたのだろう外来種のブルーギルが増えて来ている。困ったものですね。

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私が子供の頃は、ここ五稜郭は畑の中だった。その畑にはジャガイモが植えられ、秋になれば紫色のイモの花が辺り一面に咲いていた光景が目に浮かぶ。

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こんな「男爵いも」の碑も建っていた。

それでは、また明日も!

昨日21日はお彼岸でもありましたが、とてもお墓参りに行ける天候ではありませんでした。朝から暴風雪だったのです。24時間の降雪量は15cmとなり、3月の降雪量の合計が1953年の観測開始以来最高の96cmに達するという、とんでもない雪が降り、そしてその一部は今でも積雪しています。何度か暖かくなって溶けてはいるが、寒い日もあり、積雪量は平年より32cm多い、37cmとなっています。いつもだと5cm程度でほとんど雪がないはずなのに、今年はまだまだ雪が残っている、ということですね。
もっとも、岩手県久慈市では62cmも一気に降ったそうで、本当に三陸の被災地はお気の毒様です。雪は、もう結構ですね。西日本では桜が開花しているというのに、雪はもう、いらない。

さて、19日の雪解けの温暖な1日、五稜郭タワーでは私の母校の美術展が開かれていました。

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私が在学していた時は、函館東高校でしたが、同じ市立高校の北高校と合併し、市立函館高校と校名を変更して早10年くらいか?いずれにしても校舎の場所は変わりありませんので母校なのです。
それでは、彼ら現役の高校生の絵を鑑賞しましょう。全体像から。

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一つずつ見ていきましょう。

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高校生らしいエネルギッシュな作品にあふれていますね。いずれも、素晴らしいです。44歳以上も年下の後輩たちの作品に感動しましたね。

若者の絵画に心を洗われて、ウキウキと晴れ晴れした気持ちで外に出ましょう。五稜郭の堀へと。最初に、タワーを出てすぐ、箱館戦争の碑が建っています。

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何と、堀は凍結していました。3月は、冷え込んだ日が何日もあり、今日のようなプラス気温があっても溶けないで、厚い氷が残っています。氷の厚さは数十cm。昔は、ここで氷を取って売りに出していたほどですから。

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タワーが青空の中、一つだけにょきと建っていて、目立ちますね。

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そういえば、タワー内に全国のタワーが紹介してありました。高さではもちろん638m東京スカイツリーが一番ですが、他にもたくさんあるんですね。

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ということで、明日は堀の内側の奉行所を見学しましょう。
それでは、また明日♪

今日3月21日は春分の日。昼の時間と夜の時間が12時間ずつ、明日からは太陽が出ている時間がここ函館では朝1分夕1分ずつ計2分間長くなり、それは6月の夏至まで続きます。もっとも、その時間は北緯42度の函館の話で、緯度が高ければ高いほど昼間の時間は多くなります。北緯68度になると日が沈まない白夜になりますね。日本にはそんな高緯度地方はないですが、北緯45度以北の稚内などは夏至の頃は昼の時間が16時間くらいになるのです。函館でも15時間、夜が9時間ですから。

さて、せっかく春の兆しが見えてきたかな?と思っていたら、昨夜からまた雪。それも湿った重たい雪が10cm近く積もりました。見て下さい。旅の出番を待つ私の愛車のハイゼットに積もった雪。これを「名残雪(なごりゆき)」とは云わないですね。それは、桜咲く5月のゴールデンウイークに忘れたころに降ってくる雪のこと。北海道では、まだ春ではなく冬の季節ですね。イルカさんの「なごりゆき」は3月では早過ぎる。

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今日3月21日は、函館大火から80年です。1934年(昭和9年)、震災や空襲を除き、犠牲者2166名を出した20世紀最大の大火です。それを教訓にし、函館では大火を防ぐ様々なものを工夫しました。道幅の広いグリーンベルトがそうでしたね。もう一つがこれ。何か分かりますか?

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雪を被っていて、よく分かりませんね。雪をどかせます。そうすると、はっきり見えてきました。

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消火栓です。3方に水を出す口があります。つまり、火災が起きても一つの消火栓から3ヶ所から放水出来るということ。他の都市では大抵1つか、2つ。函館では大火以後3口の消火栓を設置したのです。

さて、19日の小春日和の五稜郭タワー内の土方歳三様。

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1869年5月戊辰戦争最後の戦いである箱館五稜郭の戦いで、戦死した土方。彼の骨は、今も函館の何処かに埋まったままです。銃弾で射たれ倒れた遺体は、新政府軍に首を取られまいとする部下たちによって遺体ごと市内の何処かに埋めて隠しました。だから、彼の骨は一つも発見されていません。
戦いはイギリスの最新鋭の武器で新政府軍の圧倒的優位で進められて、旧幕府軍は追い詰められます。こんな武器。

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菊の御紋がありますね。松前藩は新政府軍に加担したから敵側でした。会津で敗走した土方たちは蝦夷地、今の森町鷲の木海岸に上陸、松前藩が占領していた五稜郭を簡単に奪取。ここを拠点に「蝦夷共和国」を宣言します。
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これじゃ、敵うわけないですね。こんな大きな大砲の弾が飛んで来るのだから。どうやってディフェンスするのか?五稜郭に立て込もっていたんじゃ勝ち目がない、と考えた土方は市街戦に打って出ます。しかし、そこで待っていたのは一発の銃弾でした。

旧幕府軍の旧式な大砲。

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土方の「手植えの矢竹」がありました。

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と、いうわけでまた冬に戻った函館です。一面の銀世界、といいたいですがどんよりとした心が重くなる灰色の世界。もう、雪かきしたくない!

それでは、また明日♪

3月も3分の2が終了し、4月まであと11日。早く春らしくなって欲しいなぁと思って良く晴れた19日、五稜郭公園へ出掛けてみました。日差しは暖かく1時間も歩いたら汗ばむほど、台湾からの観光客も真冬用のジャケットを脱いでセーター姿で散策していました。

まずは、五稜郭公園電停にあった観光地図から。五稜郭タワーを目指して歩きます。

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電車線路のある中心街から、行啓通りを北に向かって歩きます。途中、歩道にはミニアートが置かれていました。普段は気が付かないものが、こうして旅人目線で歩くと目に止まります。

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こんな石もありました。

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横にはこのような説明がしてあった。早速触れて見る。

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他にも道路沿いに、色々なモニュメントが。

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ここは電車は通っていなくても、繁華街の一つ。大きなビルが立ち並んでいて、横の小路に入れば飲食店も多い。

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歩くこと数分で交差点へ。その角には、北海道新聞社のビルがある。道内最大の新聞、その部数100万部以上、全国的に見ても読売、朝日、毎日の3大紙、日経、産経の全国紙以外の地方紙では中日、西日本と並ぶ地方3大紙。フャイターズのヘルメットにも広告されていますね。

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公園に向かって歩くと見えてきました。100メートルを越す五稜郭タワーが堂々とそびえています。

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もっと近づいて見よう。

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五稜郭ラッピ店もあるぞ!函館と近郊にしかないB級グルメの王様、ラッキーピエロのことですね。シャレじゃないけど、事実経営者は王さんです。

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タワーの向かい側、道立美術館がある場所には、昔道内最古の商業学校である函館商業高校が建っていた。今は別な場所に移転したけどここにあったのです。

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水泳部が強くて、戦前は全国大会の常連校。どこで泳ぐのかって?それは決まってますね。五稜郭の堀で泳いでいたのです。他にもラグビー、サッカーなど運動部は北海道を代表するほどの強豪校だったのです。

昭和天皇も、皇太子時代に五稜郭を見学に訪れた記念碑もあります。

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それではタワーの中に入って見ましょう。1階フロアーはお土産物屋さんになっています。
おっ、見つけました。明日はこの人の特集。函館を最後の地にした土方歳三です。まんじゅうになっていました。

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今日から4回に分けて早春の五稜郭公園をお伝えします。それでは、また明日♪

 大門があったのは1908年から1934年までの話。その頃は電停の名も「大門」。
1908年は明治の大火により、色町の函館山山麓の蓬莱町が全焼し、当時これから
繁栄すると見込んだ函館駅前周辺の松風町のとなりの大森町へ移ってきた年。
1934年は昭和9年、20世紀最大の大火といわれた函館大火により大門も焼け落ち
てしまった年。その間北日本最大の遊郭として繁栄します。

ところが、戦後進駐してきたGHQは公娼廃止法でピンチになるが、警視庁は地区を
限定し、地図に赤い線で遊郭街を囲みます。これが、いわゆる「赤線」です。それも
1957年廃止されます。

しかし、大きな門はなくても、名は残る。今でも大門は北日本最大の屋台村として残っ
ています。
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それが、ここ大門横丁。2005年10月にオープンしています。
1970年代、オイルショック後の函館は、造船不況による函館の基幹産業の函館どっくの不振、
北洋漁業の衰退などで、函館最大の繁華街駅前・大門地区は穴の開いたようにどんどん店が
移転していった。それは第二の繁華街の五稜郭地区や新興の美原・亀田地区へ。美原・亀田
地区へは本州資本の長崎屋、イトーヨーカー堂が出来、明らかに人の移動も東部・北部へと変化
していたのだった。
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それを、止めるためにも若手の経営者が集まりここをオープンしたのだ。
今や観光客だけではなく地元の人地も利用する場所となっている。
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さすがに午前中は閑散としていて開いているお店は一つもなかった。当たり前ですね。午前
11時になっていないのだから。混み合うのは夜ですね。メインストリートの電車通りに出ました。
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たまたま電車が通りました。奥に写っているのは、棒二森屋デパート。

実は朝、ブログを1時間以上かけて丁寧に作ったのですが、どういうわけか 突然消えてしまい、
まさに茫然自失、ショックで落ち込みました。せっかく書き上げたこのデパートの歴史については
また明日お知らせします。

今日はこれまで。   右上の日本一周の応援クリックお願いします。最近落ち目です。

 まず最初に、電停の看板を見て下さい。松風町の横に、小さく大門と書かれていますね。
大門って、いったい何でしょうか?それは、文字通り大きな門があった、ということです。
だいもん、と呼んだ大きな門は遊郭のことです。江戸時代末期(1850年代)から明治時代
末期(20世紀初め)までは函館山山麓の西部地区、蓬莱町(現在の宝来町)や台町(現在
の船見町)にあり、それは東京・吉原に次ぐと云われ、東京以北最大の遊郭であったらしい。
 それが、1907年(明治40年)の大火で、ここ松風町と隣接する大森町に移ってきます。
子供の出入りを禁止するために、入場する際は、門をくぐらなければいけなかったのです。
巨大なコンクリートの門が出来た理由はそれだったのです。昔の写真を見ると、確かに現在
の大森交番付近に大きな門柱が道路の端に1本ずつ建っています。
その門は東京・吉原の大門(おおもん)を真似て造ったそうですが、函館ではだいもんと称さ
れて、今に名を伝えているわけです。
 60歳以上の方ならご存知と思うが、歌謡曲歌手の青江美奈(古いなぁ、知っていますか?)
三の「夕陽の街 函館」で「ここは函館大門あたり・・・」で出て来ます。
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その角にあるのが、レコード屋さんの「玉光堂」。しばらく前につぶれ、1階は封鎖されたまま。
寂しい限りです。かえって、その隣にある大手パチンコ屋さんが賑わっている。シネコンを入れて
駐車場もビルの中にあり、人で混み合っている。
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郊外に移転し、空地が増える中でいまだに頑張っているのが、昔からの味を保つ
弁慶力餅」の看板を出しているこのお店。
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函館駅前に行く途中にあるのが広いグリーンベルトのある道グリーンプラザ
実は3月21日は、1934年(昭和9年)死者2166名の犠牲を出した函館大火の日。道路幅を
広くし、燃えにくい樹木を植えて延焼を防ぐ「グリーンベルト」が出来たのは、この大火の後
です。そこを少し歩いて見ましょう。中央分離帯の広場にはこんな像が建っています。

「正義の味方」!月光仮面です。
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憎むな  殺すな  赦しましょう」と書かれています。
実はこの「月光仮面」の原作者は函館出身の川内康範(かわうちこうはん)さん。彼が寄贈
した像なのです。これまた、60歳前後の方なら、だれでもが知っている月光仮面です。
颯(はやて)のように 現れて 颯のように 去っていく 月光仮面は誰でしょう?」

皆さんご存知ですよね。
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グリーンベルトは最大55mの幅を取った道路で、火の粉が強い風にあおられても反対側に
届きにくい距離なのです。中央の分離帯には、水分を多く含む広葉樹が植えられ火の粉を
さえぎる壁の役目をはたしているのですね。
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東部地区を写しました。一方、西側を写すと。
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奥に赤レンガ造りの市役所が見えます。
近くに、卒業生の小林一輝君が経営するお店「フラッシュバック」があります。彼は学生時代
オートバイで日本1周、アメリカで古着を購入して売買、今や函館の青年実業家の代表格です。
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ここ以外に何店舗も経営しています。

1934年(昭和9年)の函館大火は、明治以降の日本では最大の犠牲者を出した大火です。
函館は幕末の開港で急速に町が発展し、函館港近くに木造家屋が密集していたため、ひと
たび出火すると大火災を引き起こしていました。100戸以上が焼失した大火は、明治期以降
だけで28回、その中でも1934年の大火は最大で、震災や空襲を除く大火としては明治以降
国内最悪の犠牲者を出しています。
死者2166名、焼死の他に避難する途中に木造の橋が燃えて川に転落したり、避難した海岸
で高波にさらわれた溺死もありました。たまたまその時は満潮だったのです。
当時の市街地の3分の1、延焼した家屋24186戸、全市民の半分の10万2000人が被災、その
被害額は現在の金額にすると約860億円相当だったのでした。

というわけで、今日は松風町の前半。明日は後半をお伝えします。

それでは、また  高知では桜が開花しましたね。函館では5月まで待たないと無理かな?

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 今日は、新川町の電停からスタートします。
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ここには、NHK函館放送局があります。以前は函館山山麓の、現在のロープウェイの駐車場
付近にあったのを、移転して来ました。
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道南一帯をカバーしていて、函館放送局独自の番組も持っているほどです。

 さて、新川町といえば、自由市場です。函館朝市、中島廉売と並ぶ函館を代表する市場の
一つ。始まりは朝市と同じ終戦時の混乱した時代というから1945年から1,2年か?いわゆる
闇市からスタートしている。やがて混乱から脱け出して世情が安定してくると、露天商169人が
集まり、現在の地に市場を建てたことが自由市場となる。建物としては、1951年(昭和26年)
開設、1971年(昭和46年)函館自由市場協同組合として組織化され、1995年(平成7年)秋に
は創業50周年の記念式典が執り行われました。
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ところが、その年の大晦日、年間で1.2を争う売り上げのある日(年末、年始)に備え
商品をうず高く積み上げていました。ところが、その日の深夜火事となり、なんと全焼
してしまいます。
しかし、翌1996年(平成8年)8月8日、新装オープンします。末広がりの八の数字が
三つ並ぶ年の日にリ・ニューアルしたのでした。
現在の店舗数は40。鮮魚店、塩干物店、青果店、食堂、喫茶店など。中には、市場で
買った食材を持ち込めば、その場で調理して食べさせてくれるお店もあります。
それでは、中に入って見ましょう。
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魚屋さんが多いですね。
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果物、野菜なども売っています。花屋さんもRIMG3217ありますね。




















ここで、食べることが出来ますね。メニューを見て分かる通り、海鮮物が多いですね。

ここを出て、次の電停に歩くと途中に大きなお寺があります。
成田山函館寺
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新東京国際空港のある千葉県成田市にある成田山新勝寺は、真言宗智山派の総本山、
毎年1000万人を越える参詣者を集めています。ここはその別院の一つです。

というわけで、明日はいよいよ「松風町」。昔、東京以北では最大の遊郭のあった大門と
呼ばれた地域です。実際、大きな門があり、そこで入場者をチェックしていたそうな。
では、また 

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