函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めた車中泊中心の「ぼうけんの旅」は今年で13 年目に突入。 車中泊の貧乏旅行の旅、今年で74歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 今年2026年も「ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです! 今年も「ぼうけんの旅」をよろしくお願いいたします。

2026年が明け今年は74歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!時々は自転車を積んでの軽バン一人旅の始まりです。

2015年01月

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今月19日に紹介した「石倉稲荷神社の奥ノ院」、それの本宮はどこにあるの?との声が
あり、それでは、と訪ねることにしました。
奥ノ院は、沿岸部を東西の延びる旧銭亀沢村の海岸部分にあるわけではなく、文字通り
奥の山中、石倉山にありました。詳細は1.19をご覧ください。

湯川から車を走らせること20分ほど、サケの遡上する川である汐泊川の右岸より100m
ほど市内よりの場所に、本宮が存在します。
駐車場がなく、国道278号線の海寄りに空き地があったので、そこに駐車し歩くことに。
道路沿いにあり、赤い鳥居が目につくのでのですぐ分かります。
001



















総本山の京都伏見稲荷大社の千本鳥居に比べると比較にならないが、それでも4本の
朱色の大きな鳥居が並んでいる。右には、「石倉稲荷神社」の石碑も。
002



















階段の上に神社の本殿が見える。
ここは、1647年というから江戸時代3代将軍の徳川家光の時だから、今から470年も前の
話です。ここ銭亀沢村の商人、秋田屋蛯子太郎左衛門が商売繁盛のため京都伏見稲荷
大社から分霊して、石倉山に小さな祠を設けたのに始まります。
その後は、村の鎮守神として今に至っています。

階段を登ると、左右に狐の石像がある。
003



















寒いのか、毛糸のコートを羽織り、マフラーまでして首を暖めている。

稲荷神は、もともとは農業神。狐は稲荷と同一視され、古来より神聖とされていました。
なぜか?その理由①狐は穀物を食い荒らすネズミを捕食するから
その②狐の色や尻尾の形が実った稲穂に似ているから
だから、狐は神の使いとされました。

江戸時代には、商売の神ともなり狐は白くなります。そういえば、陶器製の白狐は各地で
見かけたことがありました。
だから、稲荷神社は、他の神社で見かける狛犬ではなく宝玉をくわえる狐の像になったの
ですね。
左の狐。
004


































頭に白い雪を被っているけど、フードをつけて可愛らしい。左右で同じファションだ。

稲荷、稲成りとか稲生りから来ている。まさに、お米の出来を司る神様だ。
俵を模した俵型の寿司が稲荷寿司。
でも、キツネは肉食動物で油揚げは食べない。
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額には「石倉稲荷神社」と金色で描かれている。
006



















商売の神様でもあるから、だからよくデパートの屋上にもあるのですね。

日本の神社で一番多いそうです。全国に8万社以上ある中で、稲荷神社は3.2万社も。
以下、2位 八幡神社2.5万社。  3位 伊勢神明社1.8万社。  4位 天満宮1.4万社。
5位 諏訪神社1.3万社  と続きます。
日本の神社は八百万(よおろず)の神、というくらいだから8,000,000もあるのかな?
なんて思っていたけど意外と少ないのですね。

後から調べたら、八幡神社は4.4万社あって日本で一番だという記事もあったけど、
どちらにしてもどこの町村に行っても、どこの田舎でも神社はありますからね。 

最後に、神社の裏手の土手をよじ登ってみたら、何と旧戸井線の跡地があった。
007



















きっと、夏場は草木が茫々でここまで辿り着けないだろう。冬場だから葉っぱが落ちて良く
見える。
真ん中の凹んだ左右に延びる道が、昔といっても戦前ですが軍事目的のための鉄道「戸井
線」の跡地。
稲荷神社の裏を走る予定だったとは!
思わぬ発見をしたことに稲荷神社の神様に感謝!狐の頭を撫でて来ました。

それでは、また明日    


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恵山町は、1906年(明治39年)尻岸内村として発足し、1964年(昭和39年)に町へ、
1985年(昭和60年)には、火山として有名な恵山から名を取り恵山町へと改め、
2004年 12月1日函館市へ編入されました。

尻岸内(シリキシナイ)とは、アイヌ語の「シリキシラリ ナイ」(岸壁に形象のある川、
という意味がある)から名付けられています。 戦前、1934年(昭和9年)の人口は
6618人、最盛期は1960年(昭和35年)で、この年1万人 を越え、10071人、しかし
函館市に編入された年は4510人と半減以下になっています。 現在はおそらく4000
人を切り3000人代へと激減している過疎の、漁業主体の町です。
唯一の高校であった恵山高校は、2009年3月31日を持って39年の歴史(開校は
1970年) に幕を閉じていて、旧町内には小学校と中学校はそれぞれ1校しかあり
ません。

1980年代末のバブル経済がピークを迎えていたころ、恵山町には夢のような大
レジャー 施設の構想がもたらされ、一部はそれが完成していて町民はバラ色の
恵山町を描かされ ていました。 その施設の成りの果てについては、後日紹介する
として、今日は恵山町の西端の集落で ある日浦集落を紹介していきます。

まずは、集落の守り神の日浦神社
008 



































国道278号線を集落へと左折してすぐ、右日浦神社、左日浦小学校の道案内があった。
境内の前の近くの空き地に車を止めて、真っ白な雪の上を歩きだす。
階段を何段登っただろうか?
009 



















高台にある日浦神社の額には「稲荷神社」と書かれていた。 
010 



















なぜか?五穀豊穣を願う神様「稲荷神社」なのだが、業業が中心の下海岸一帯には 
何か所もある。漁業も大漁を願って稲荷神社を建てたのだろうか?
今までもあちこちに稲荷神社があったことをご存じのことと思います。
神社のわずかな敷地から眺めた風景、その1・日浦漁港
011 



















高台の高さは30mくらいか?昨日紹介した日浦灯台が見えますね。
奥の陸地は下北半島。灯台の右の岩山は高さ20mほどの桂状節理の岩。昔、その間を
旧国道278号線が走っていたのだ。現在はずーっと右側にトンネルが出来て通行がかなり
楽になった。
風景その2・日浦の集落を見る。
012 



















この奥にも民家がある。
そこで、集落の奥にある、たどり着いた日浦小学校
013 



















今でも使用されているような体育館。そのとなりにある正面玄関に行って見よう。
014 



















恵山町立日浦小学校とあるから、廃校となったのは函館市に編入される2004年よりも
以前ですね。
柱に付けられていたプレートを見ると。
015 



















昭和61年に百周年の記念を祝っている。昭和61年は1986年。その100年前は1886年
だから、明治18年
なんとこの年の4月には小学校令等公布している、いわゆる学校令
この法律で、義務教育は4年制となっている。4年間の尋常小学校が出来た年である。
その上にさらに4年間の高等小学校が出来た。
そして1890年には教育勅語が出来る。この年の義務教育の就学率は、男子で65%、女子
で30%、平均は50%くらい。(日本史資料集から)
016 




















男子に関しては、三人に二人は学校に通っていたが、女子は3割しか読み書きを教わって
いない。この時代の子供たちの半分は学校へ通えなかった、ということだ。
義務教育でありながら、半分しか教育を受けられないなんて、明治の時代は本当に貧しい
時代だったんだな、と分かる。それと子供も6歳になると一人前の労働力なって、働かなくては
いけなかったのか?
そんな時代に、この日浦小学校が出来て、少なくても4年間の義務教育をここの集落の子供
たちは学べたのです。これは、すごいことですよ。
今から、130年も前の時代、寒村でしかない漁業の集落の日浦に小学校があったなんて、
驚きです。きっと、集落の人たちは、教育の必要性読み書きが大事であることを分かって
いたのですね。

学校のみぎとなりにお地蔵さんが並べられていました。
017
 


















集落の人に話を聞こうかな?と思ったけどだれ一人歩いておらず聞くことは出来ず。
残念。

ということで、今日は日浦の小学校の歴史に驚きを覚えました。
先生方はどうしてたのかな?おそらく、ここに住み着いて子供たちに教えていたのでしょう。
通勤なんて出来る時代じゃなかったのだから。多分国道も開通していなかったのでは?
函館へは舟で行っていた時代ですからね。

それでは、また明日  

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昨日から、旧恵山町について紹介しています。
朝の新聞では、恵山町では今”ごっこ”漁が最盛期を迎えている、との記事がありました。
ごっこ、とは布袋魚(ほていうお)のこと。布袋様に顔が似ていることから、そう名付けられた
そうですが、どう見ても顔はゴツイ!
産卵のために岸に寄りつく冬場が漁の盛りで、12月下旬から解禁されて沖合50mほどに
仕掛けた刺し網漁で捕獲しています。
凍てつく寒さの日が続く冬の鍋料理として恵山地区では、古くから食されて来たそうです。

その恵山地区の一番西側にあるのが、日浦漁港。
今日は、海に面した崖場に毅然と建っている孤高の灯台、日浦灯台を見ましょう。
104



















桂状節理の海食崖が連続する細く険しい遊歩道を日浦漁港から歩いていくと、太平洋を
望む海抜15mほどの岩場に建っています。
近づいて見ましょう。
103



















海上からは23mの高さ、塔の高さは9.5m。だから、ここは海抜13.5mです。
帰り際、危なっかしい岩場の上に何か碑が建っていました。何かな?と恐る恐る接近する。
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海に面した側に回ると、文字が彫られていた。何かな?
108



















奉修 金毘羅大権現」と。
金毘羅様は海上交通の守り神として、漁師たちや船員など海事関係者の崇拝を集めている
神様。通称「こんぴらさま」。
四国は香川県琴平町の金刀比羅宮を総本宮としている、まさに海の神様
107


































奉り修める、とは国語辞典によると「尊敬・恭順の意を表すために物を差し上げて、
自分を高めるための努力をする」という意味。

権現とは、仮に現れることで、仏教の仏様が日本の神様として姿を変えて現れた
ものを指す。
どちらにしても、神仏混合の仏様であり神様。海の神様に違いない。

歌にもありますね。
こんぴらふねふね  追い風(おいて)に帆かけて シュラシュシュシュ まわれば
四国は讃州・・・金毘羅大権現」と。
若い人は知っているかな?
106


































この日、海はどこまでも優しく穏やかだった。
109



















帰り道、日浦漁港を眺める。
105



















ここへは、何度も釣りにきたことがあった。冬場、チカ釣りを始めアイナメ(アブラコ)や
ドンコ(エゾイソアイナメ)、タコ  も釣れた時があった。

明日は、日浦の集落を紹介します。
それでは、またごきげんよう   

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今日は、いよいよ旧戸井町から旧恵山町へと進みます。戸井の東端の集落原木から
えさんの西端の日浦まで、原木日浦トンネルおよそ800mをくぐり抜ける。日浦集落を
紹介する前に、トンネルを抜けて海側に曲がると、すぐに日浦漁港があります。
096



















トンネルは左の山を通過している。奥に日浦の漁村が見えるが、それは明日。
旧国道は海岸沿いに海側の細く険しい道を、何回も曲がりくねっていた。
こんな崖の隙間を通過していていたのだ。
092



















その道路は、大波に洗われ削られて、決壊し修理もされずに放置されたまま。
093



















目の前の道路が、突然消えていますね。
094



















酷い状況です。壊れた橋を支えていたコンクリートが剥がれて赤茶色に錆びついた鉄筋が
むき出しになっている。
奥の道はアスファルトは既になくなり、コンクリートも崩れ落ちている。延々とこんな悲惨な
道路が続いているが、この先は歩くことすらままならない。余りにも危険過ぎる。かつては、
こんな道をバスが、トラックが、自動車が走っていたのです。

遠くを見たら、武井の島が見えた。
091



















原木集落と高台に廃校となった鎌歌小学校も見える。
この日の波は穏やか、まさに凪の状態だが、いったん時化(しけ)ると、海は大暴れする。
先ほどの道路を、あっという間に破壊してしまうのだ。
東側を見よう。
097


































岩肌に布海苔(ふのり)がこびり付いている。
養殖している場所では、よくブロックに付いたふのりを海の中で漁師の方たちが採取しているが、
これは、まさに自然のふのり。
098



















くぼみに海水が溜まっているのは、そこまで波が来ていた証だ。時化の時は、この岩山を越す
くらいの大波が来るのだろうか?
099



















前は、太平洋。南西側に下北半島の東端の尻屋崎が見えるが、この方向は水平線しか
見えない。
東側を見ると、火山活動を活発に続けている恵山(618m)が見える。道内の火山でも
要注意火山の一つだ。気象庁による常時観測対象の活火山で、渡島半島の東南端に位置
している。
101



















登山は出来るが、登山道の周囲には硫黄の臭いがプンプンするし、小さいけれど噴煙を
あげている場所もある。恵山道立公園に指定されているほか、新日本百名山北海道百
名山にも選定されている。

ズームして見よう。
100



















まさに、海から突き出た火山です。海岸線を走る道路は、この恵山によって寸断されている。
この写真の右端から先は道がない。後ほど紹介するが、あまりの急傾斜の崖のために道は
造れないのだ。海食崖によって、わずかな隙もなく山がストンと海に落ちている場所なのだ。
海沿いに道がないのは、道内では3か所。
一つはこれは有名な知床半島。半島を一周する道はないですね。もっとも国立公園内ですの
で、今後も一周道路は完成しないでしょう。
もう一つは、道南の知内町と福島町を結ぶ矢越岬で、ここと同じ海岸が険しい崖が続いている
ために道路は出来ません。
せたな町の尾花岬(大成地区太田集落から北桧山地区)も通行不能でしたが、2012年開通し
ましたので、残る未開通部分は、恵山を含めてこの3か所。
国道は、山側を迂回している。となり村の椴法華地区へは左側の峠を越えなくてはいけない。

さて、明日はここ日浦の海を照らす孤高の灯台を紹介します。太平洋に面し、荒波を受けて
何十年。無人の小さいけれど勇ましい、日浦灯台
では、また明日   今朝は久しぶりに雪かきをしました。

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武井(ムイ)の島のことで、その名の由来を調べたら次のことが分かりましたので、
お伝えします。
まずは、もう一度武井の島の全景を。最初は高さ約100mの高台にある展望台から。
050



















続いて、戸井漁港で写した水平方向。
069



















ムイとは、アイヌ語でオオバンヒザラ貝のことで、漢字で書くと「大判膝皿貝」とも書くそうです。
8枚の貝殻を持ち最大40cmまで成長するとのこと、図鑑で見たらかなりグロテスクな貝ですが、
ネットでは、食した人さらにはそのレシピも書いてありました。
昔、ムイとアワビがケンカしてお互いをののしりあったそうです。その結果の裁きで、島より東側
がムイの国、西側がアワビの国となった、そうな。
そんなアイヌの伝説にちなんで武井の島が存在しています。

そんなことを知りました。函館の隣町の戸井町のことですが、知らないことがたくさんありますね。
さて、そんな戸井町の歴史を知ろうと郷土館へ。
地図では、この大きな生涯学習センターの付近にあるのだが。
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3階建ての、戸井町では一番高い建物では?
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昔の町民憲章のプレートが飾られていた。1955年(昭和30年)には、人口8041人を数えた
戸井町もその後は減少へ、2000年(平成12年)には3893人となってしまった。
45年間で半減している。そして、2004年函館市に編入されてしまう。

漁業が盛んだったころの町の歴史を知るために、郷土館へ。
079



















無料です。小さいけれど図書館、ミニ体育館も併置してあり子供たちの放課後や休みの日
の場にもなっているところだ。
080



















イカだけではなく、イワシやサンマも光に群がるのですね。だから沿岸魚船にはたくさん
集魚灯が付いているんだ。今はLEDになっていますね。
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イワシがたくさん獲れたのは、次の大きな絵を見れば分かります。
082



















前浜で働く女性たち。上空で、無数のカメモが舞っているのを見ても豊漁だと分かります。
武井の島も描かれていますね。
083



















コンブは今も大事な海産物。最近はガゴメコンブが有名ですね。
ガゴメコンブは、主に函館東海岸に生育している珍しい昆布で、葉一面に複雑な凹凸模様が
あって、強い粘りが特徴。各種ミネラルが含まれていて健康食品、美容食品としての成分が
豊富にあるそうです。
それは食品だけではなく、化粧品や石鹸・シャンプーなどにも使用されているとのこと。
7月に入ると、早朝出漁して昆布取りし、前浜では昆布干しが始まりますね。
石を敷いた広場や庭には、獲れたてのコンブが干されている名物の一つです。

こんな大きな石もありました。
084


































道内では、4個しか発見されていない板碑。死者を弔うため、石には梵字や漢字で彫られた
文字があります。
鎌倉時代から室町時代というから、魚を求めて本州から渡ってきた和人たちのお墓の一つ
なのでしょうね。
それ以前から、アイヌ人たちは定住していましたが、下北半島からは潮流の流れに乗って
渡って来れますからね。
085



















500年以上も前に和人たちの館があったそうです。
しかし、アイヌ人の反乱によって滅ぼされた、とのこと。

縄文時代の人形。まるで、宇宙人のような形をしていますね。
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長さ10cmにも満たない人間に形をした鹿のツノの人形もありました。
2000年以上も昔の縄文人たちの貝塚から発見された、とのこと。道南の沿岸一帯では
本州から渡ってきた縄文の人々によって文化が開いていったのです。

ということで、戸井町編はこれにて終了。明日からは、東隣の町の恵山町へと移動して
あちこと歩いて紹介していきます。
触りとして、戸井町の東端にあるトンネルの前。
089



















奥にある舟着き場でもって道は終わり。あとは道路は決壊しています。
振り返ると武井の島が遠くに見える。
090



















それでは、トンネルを越えた次の町、旧恵山町は明日。
それでは、また次回    

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武井の島を見るために、一つは高い場所から全体を見渡そうと、まず展望台に登り
四つの岩山から成る草木1本すら生えていない岩山であることが分かり、もう一つは
水平方向から見るために戸井漁港へ行き、海上に突き出た岩山の武井の島を確認
することが出来ました。

武井の島を見た時に、東側に原木集落があることを紹介しましたが、今日はその集落
を訪ねます。
まずは、トンネルを抜けてすぐ、小高い丘の上にある小学校。でも、すでに廃校となって
いました。
062



















戸井町立鎌歌小学校。戸井町立、となってるところを見ると2004年よりも前のこと。
2004年から1年でも続いていれば、函館市立となっています。
急な階段を登って校舎へと向かおう。
063



















西側から校舎を見た。次に東側から見よう。
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陽がガラスに反射して眩しい。校舎の大きさからどう見ても規模は小さい。多分1学年1クラス
の学校だったのでしょう。
校庭を見ると、奥に小さな、バスケットボール1面も取れないくらいの体育館があった。
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これがグランドかな?と周囲を探索したら山側にグランドらしき広さの空地があった。
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もう草ぼうぼう。防風林の役目をしていたのか、松の木々が適当に成長していて不格好だ。
山側には、しばらく使用していない教員住宅があった。
もう10年以上も使用されておらず、玄関まで到達することも出来ない。夏だと雑草に覆われ
蜘蛛の巣があちこちにあって廃屋のように思われるだろう。
すでに廃屋寸前なんだけど。修理して維持管理してれば、生活も出来るのだけど誰も住まなく
なって10年じゃ家もガタが来る。家は人が生活して維持されるものだ、ということを今更ながら
実感した。
無人の家はすぐに朽ちる、ということ。
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校庭の奥から写したが、かつて6月の明るい陽射しの下で運動会が開かれていた時を
訪問したことがあった。集落の住民全員が参加して、それは村のお祭りのような感じだった。
お年寄りも集まって、子供数よりも多いくらい。いや、きっと高齢者の方が多かったに違いな
い。それは、今から20年も前のことだ。
それが、今では子供はゼロになってしまった。
066



















ここの集落には温泉がある。
ふれあい遊湯館」という名前の公共温泉施設。大人360円で入浴できる。
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鮭の遡上する川として道南では有名な原木川の流域、河口から200m位のところにある
天然の温泉で、1995年(平成6年)にオープンしている。
となりには、オートキャンプ場もある。
088



















もちろん今は閉鎖中。この建物はレストランがあるが、夏しか営業していない。
春・秋もキャンプ出来るのだけれど、道南の人々はキャンプをエンジョイする人が少ない
のかな?
オートバイや自転車で訪れた旅行者のためにリーズナブルな料金で利用できるキャン場
も奥にあるが・・・。知られていないこともあって利用者は少ない。

というわけで、原木集落を紹介しました。明日は、町の郷土館へと足を運びます。
それでは、また次回 

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島とは、何か?日本には6852もの島がありますが、島の大きさはどれくらいか?
そこで調べてみました。
島とは大陸の面積よりも小さく、四方を水域で囲まれた陸地を指す、と出ていました
が、これではあまりも大雑把。
国際連合の条約では、島には3つの定義がありました。
①自然に形成された陸地
②水に囲まれていること
③高潮時に水没しないこと

一方、日本の海上保安庁の定義は、海岸線の延長距離が100m以上の陸地を島、と
しています。

ならば、高さ57m、周囲720mの武井の島は明らかに島となりますね。
展望台からの島の全景です。
049



















かなり遠くに見えますね。ズームして見ましょう。
050



















逆光ですが、よく見ると3つの岩がくっ付いていて、手前の小さな岩山には鳥居が見えます。
きっと、航海の安全と大漁祈願の海の神様を祀っているのでしょう。
多分、金毘羅様かな?
展望台から、東方面を見ると。
051



















原木集落がある小さな湾が見える。海岸線は標高200m前後の険しい崖が続いている。
南東方向は、水平線が見え、無限に太平洋が広がっているかのようだ。
052
 


















西側を見ると、戸井町の中心地が見える。オツケの浜と呼ばれる砂浜海岸の湾に囲まれて
いる。この辺では珍しい小さいけど平野部がある。熊別川沿いの小さな堆積平野がだ。
053



















ズームして見ると。山の中腹に、前回紹介した日新中学校が、その下には旧町役場、現在は
函館市役所の戸井支庁が見える。
054








 










さらにズームして見ると。
055



















海岸線の上に宮川神社があり、その右横に例の看板だらけの怪しげな家が見える。
拡大すると分かります。
車が見える道路は、国道278号線のバイパス。その下にある大きな建物は学習センター
となっていたが、昔は確か商工会議所だったはず?
056



















左に目を移すと、お寺が3軒と墓地が見えた。いわゆる戸井の寺町通り。
今度は、武井の島をまじかに見るために戸井漁港へと行って見た。
071



















右の険しい岩山の上に武井の島展望台がある。ここは津軽海峡に面した漁港。
灯りがたくさんぶら下がっていることから、これはイカ釣り船か?
イカを吊り上げる機械は、函館市の東和電機製作所の製品。
世界でイカ釣り機メーカーは、たった3社しかなく(日本2社、韓国1社)、その中でも東和電機は
世界の何と70%を生産している。レアな産業ではあるけど世界トップの企業なのです。
1973年ころ、イカが豊漁だった時代、イカ釣り機メーカーは世界に40社ほどあったそうですが。
函館市が誇る世界的メーカーです。
068



















さすがは、かつて北洋漁業の基地であり水産都市でもあった函館の一企業ですね。
マグロの釣り機でも90%のシェアを誇る企業です。
067



















この険峻な岩山の上に展望台があります。
070



















そして、武井の島。
069



















小さいけど祠が見える。
075



















距離は100mくらいか?冬の日差しが眩しい。空気が冷たく澄みきっているためか、
夏と違い水蒸気が少なく乾燥しているからか、太陽はキラキラと輝いている。
けっして夏のようなギラギラではないが、冬の太陽の方が優しそう。
072



















今日は、内海も外海も穏やか。
074



















というわけで、今日は岩山だらけの無人島、武井の島を紹介しました。
では、また明日   


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昨日は戸井町の3軒続く寺町を歩きました。歴史と伝統のある本州の町では、全然
珍しくない、逆に3軒しかないお寺を寺町というのか?と思うお方もいるでしょう。
しかし、歴史の浅い北海道の、海にへばりつくような漁村、しかも過疎の寒村で
ある戸井町に古くからあるお寺が3軒も続いてきたこと、それだけ信心深い漁師
たちが檀家となって維持してきたことが記せ奇跡にも近く、それがうれしいのです。
今まで続いてきたこと、そしてこれからも存続することを願います。

ところが、戸井町唯一の高校、いや函館市の東側の海岸線、これを下海岸といい
ますが、いわゆる亀田半島の南側の海岸沿いに、ただ一つだけの高校である戸井
高校がありますが、それが今年2015年3月で以って廃校となるのです。

戸井町のさらに東隣町である恵山町にあった恵山高校は、すでに2009年に廃校と
なっていて、戸井高校も廃校となれば、周辺の中学生たちは親の車かバスで函館市
街地にある高校、公立8校・私立8校へ通わざるを得ないのです。
保護者にとってはかなり負担となる交通費、戸井高校の廃校は過疎地における教育
を問いています。

まずは、立派な校舎を御覧下さい。
042



















道立の普通科のみの男女共学の高校です。
3階建ての校舎には教室がいくつもありそうですが、現在は3学年のみの1クラスだけ。
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廃校にあるわけですから、1,2学年の生徒たちはいません。すでに募集停止しています。
男子11名女子6名合計17名だけの1クラスの高校。
クラブ活動もままならず、校舎の裏側に広がるグランド、テニス―コートは使用されず放置
されたまま。
とても残念です。
そして、校舎の裏にあった町立のプール。
044



















戸井町民プールとあります。
横のトイレの排気煙突が倒れたままに放置され、修理もなされていない。
それも当然、しばらく使用された形跡がないのです。
それは、玄関にシャッターが降りっ放しだし、窓もベニヤ板で封鎖されているのを見ても
お分かりですね。
045



















プールサイドを覗くとご覧の有様。
まったく維持されていない。
子供たちが少なくなって、それに屋根も架かっておらず、これじゃ夏の間だけしか利用
出来ない。夏だったら、前浜の海で泳いだ方がよっぽど楽しいそう。
それに、函館市の民間のスイミングスクールのバスがここまで来ていて、冬でも温水の
プールのあるスクールへ通う子供たちがいることも潰れた理由の一つ。

さて、そんな戸井町では唯一の観光資源でもある武井(ムイ)の島を見よう。
まずは、国道278号線沿いにあった看板から。
046



















国道を左折する。間もなく舗装路は途切れ、一車線しかない細い砂利道へ。
たどり着いた駐車場には、こんな看板があった。
047



















トンネルを越した東側からは全面舗装路だ。でも、西側の道は海側に落ちたら崖がある
一車線しかない悪路だからこそ到着したかいがあった、と一人無理に微笑む。

景観が良い。
特に海がキレイだ。なにせ恵山道立公園のエリアだ。
048



















上の写真は、東側の原木集落。この下はトンネルになっている。
それでは、車を止めて武井の島へと歩いて行こう。こんな散歩道。
059



















真冬の陽射しが優しい。柏の木の葉っぱがほとんど落ちていて、その落ち葉を踏み
しめて歩く。冷たいが心地よい風が頬にあたり、とても気持ちが安らぐ。
もちろん、ここでは熊に注意の看板はなく、安心して歩けます。
058



















ところどころに雪が溶けずに残っている。
階段もあって、降りたり登ったりしながら10分ほどで辿り着いた。
057



















展望台といっても、ただ屋根が架かっているだけの東屋だが、そこから見た武井の島
は明日詳しく紹介することにします。
それでは、また次回  


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原油価格がどんどん値下がりして、その結果ガソリンや灯油の値が下がって来ています。道内のニュースでは「ガソリン代130円代に突入」なんて報道されていましたが、我が家の近くのGSでは、何と120円を切る価格になりました。 これは驚きですよ!
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ゴールド会員とは、1000円で終身会員になれます。売り出し当初は、洗車代金1500円分を付けて会員募集をしていたので、十分元をとれています。この春、全国を旅するのに際しガソリン代がさらに安くなることを期待したいですね。 さて昨日は、戸井町の山中にある硫化鉱の鉱山跡地を探索しましたが、道南は各地に
鉱山の跡があります。
となりの旧恵山町には、戦前東洋最大と云われた硫黄鉱山もあったほどです。
同時に鉱山はすべて廃鉱となった今、鉱山町はゴーストタウンへ、かつては賑わって
いた集落も、家は朽ちて廃屋が何軒も、やがて廃村へと、そんな集落が各地に見られ
ます。
ゴーストタウンと化した集落の跡地もそのうち紹介していきましょう。
今日は、旧戸井町の中心街へと足を運びます。
021



















まずは、昨日と一昨日の瀬田来(せたらい)集落の小さな湾を隔てての対岸からの風景。
崖が海まで迫り、漁師たちの家が海沿いに1軒、1軒ずつ並んでいます。
かつては、船だけが交通手段、だから道路は山を削り、波打ち際に波消しブロックを置い
てから造っていったのでしょう。
ズームして見よう。
022



















旧戸井線跡のトンネルが見える。こんな地形では、トンネルを掘るしか線路は敷けなかった
のでしょうね。
元の町役場。現在は函館市の戸井支所になっている。
024



















めざそう早期実現 本州北海道連絡橋」の立看板がある。
実際に誘致活動をしているのですね。来年2016年3月末には新幹線が開通予定なのに、
ここにも本州と北海道を結ぶ道が出来るのか?
一体、どれだけの資金が必要なのか?

坂を登って戸井支所の上にある、町で2か所しかない中学校へと行って見た。
025



















日新(にっしん)中学校。函館市よりの西側に潮光(ちょうこう)中学校と、町には2つしかない。
026



















グランドは広い。特大ホームランを打つと津軽海峡まで届きそうだ。

寺町を行く。最初に浄土真宗のお寺。
027



















となりには曹洞宗のお寺の法泉寺。
028



















欄間や屋根の彫り物が立派ですね。何時の時代に建てられたものか?
029



















さらに隣の浄土宗の大隆寺。
030



















お寺が3軒続いているここは、戸井の寺町通り
031



































032



















高台にあるので、見晴らしもいい。前浜を見る。
033



















武井(ムイ)の島が見えた。
明日は、この島を紹介します。それでは、また次回  

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戸井町の名前ですが、アイヌ語で「チエトイベツ」 ”食べる土のある所”という意味
から来ています。食べる土とは?
独断で考えたのですが、広い範囲で海も入れて、食べれる土とは昆布のことか?とも思
ったのですが・・・。

それとも山中に本当に食べれる土があったのか?
そこで、食べる土を捜して戸井町の山中に入って見ました。場所は、弁才(べんざい)町。
国土地理院発行の2万5000分の1地図を参考に、まずは国道278号線と別れ戸井川の
源流へと北に針路を取る。

最初に集落のはずれにある日新(にっしん)小学校へ。
020



















3階建ての大きな校舎ですが、実際には空き教室が多いでしょう。戸井町内で小学校は
戸井西とここ日新だけ。わずか2校だけです。
校舎の脇に碑があったので近づいて見ましょう。
016



















もちろん現在は函館市立の小学校ですが、11年前までは戸井町立でした。
017



















創立百周年記念碑とある。表には校歌が刻まれているが、裏を見ると。
018



















昭和54年で百年を迎えている。昭和54年は1979年。だから、今年で136年目にあたる。
相当古い学校のひとつで、創立は1879年、明治12年のことだ。
この年の出来事は、4月、琉球藩および琉球王国を廃止している。いわゆる琉球処分
政府によりなされ沖縄県が設置された。2年前には西南戦争が終わり、西郷隆盛が鹿児島
の城山で自死している。
そんな年に、ここ戸井の一集落に小学校が産声を上げたのでした。
019



















この校舎は最近、といっても30年近くは経っているが、当時の校舎はどんなものだった
のだろうか?想像が出来ないですね。例えば、ガラス窓があったのか?暖房設備は?
授業は何時間?とか知りたいことがたくさんある。

さて、集落を北から南へと、最後は津軽海峡へと流れる戸井川を溯ることにします。
積雪が10cm、一部凍結している林道を時速20kmくらいでのんびり走ること15分ほど。
行き止まりとなった。
012



















クマに注意!」の看板がある。この閉鎖されている道は、汐首山の山頂にある電波塔に
達する。かつて、一度オフロード・バイクで走ったことがあって、汐首小学校のある場所から
山道に入り、馬糞が落ちている砂利道を登り、峠を下ったらここへ出た、ということが。
もう、20年以上も前のことです。その時は、バイクを倒して柵の下から脱出に成功したが、
そんな一苦労があったことを記憶しています。
ここで、戸井川は金堀沢川と分離している。
その分岐点で振り返ると。あった。川の向こうに穴倉が見えた。
崖の下が黒っぽく変色しているのが分かりますね。
015



















そこで、近づいて寄って見た。
013



















ここは、硫化鉱を掘る「日産」という会社の戸井鉱山。別に自動車の日産とは違いますよ。
1913年(大正2年)から操業を始めて、ここだけではなく周辺には14ヶ所。小さなものを含め
ると20ヶ所以上も坑口がある、といいます。
硫化鉱とは、鉄と硫黄の化合物で、加熱すると鉄と硫黄に分離することから鉄を採取する
ために採掘が始まったらしい。
1970年(昭和45年)に操業が破棄されるまでの間に、粗鉱2500トン、精鉱500トンが採掘され
たそうです。
坑口に近づいて見ました。
014



















支柱がボロボロで、ほとんどが朽ちている。とても中に入る気にはならない。
足を踏み入れたところで、ズボッ!と埋まってしまった。

靴はドロドロ、靴下も赤茶けた錆び付いた色に変色。ジーパンの裾も錆びついた色へ。
ウワッ―!大変だ。車に戻り、雑巾で拭いたり、靴は雪で泥を拭ったりして酷い目に遭って
しまった。
後で靴下は処分せざるをえず、靴は何度も洗い乾燥させて使用出来る状態に戻したが・・・。

勇気のあるお方、この坑口から中に入って見ませんか?
私は、とても怖くてここで撤退しました。いつ崩れてきてもおかしくないこの坑口。
今から100年以上も前に採掘が開始され、45年前に廃坑となった戸井鉱山。
廃坑となった鉱山を訪問するブロガーを見ると、戸井川や金堀沢川を上流へ向かうと何ヶ所
も坑口があるそうです。
ここは、廃坑マニアにとってはよく知られている場所なんですね。ブログを読むと、装備万全で
臨んでいて軽装では無理です。
といっても、廃坑を見るだけなら良いですが、坑口発見するまで沢を溯ったりして危険を伴うの
はお断りです。

というわけで、今日は戸井町の山中、硫化鉱を採掘していた坑口を少しだけ”ぼうけん”して
見ました。
では、また次回!ごきげんよう   

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昨日よりスタートした旧戸井町の紹介、昨日はとても怪しげな新興宗教か?と思わせる
建物を見ましたが、本当に不気味、胡散臭い家でしたね。
住み着いている高齢男性は、地域の誰とも交流をせずほとんど家の中に引きこもっている
状態で、一体何をしたくてあの意味不明な看板を何十枚も書いて見せつけているのでしょう
ね?
どう見ても怪しい!

さて、旧戸井町にはこんなひどいものばかりではなく、歴史的遺産も残っています。
今日紹介するのは、その一つ鉄道遺産となっている、旧戸井線跡地。何度かこのブログでも
取り上げて来ましたが、今日のは、実際にその土地を歩いてみた場所です。

前回は、本州にもっとも近い場所、下北半島大間町まで17.5kmという汐首岬と汐首灯台を
紹介した時に、コンクリート製の橋梁を見ました。
今日はその続きで、その時に東の端にトンネルが見えた、そのさらに向こう側からです。
001



















汐首岬のトンネルの東側出口。そこまで昇降用階段がついているが、普段は閉鎖している。
地元の漁師さんに聞いたら、「登れない、津波などイザという場合のみしか使用しない、地元
の人間しか使用出来ない」とのこと。
そこで、しばらく走り列車が走る予定だった線路用の土地を捜してみた。
それがここ。このコンクリート製の橋梁は、最近完成したものでしょう。比較的新しいものです
ね。
002



















この上に登って見た。
003



















昔の橋梁には、鉄筋がなく竹を使用していた、との記事があったが、戦前、戦時中は
それほど資材不足だったんですね。
004



















この道、以前訪れた時は草茫々だったけど、最近刈り取られて道が出来ていました。
土は、水分を含んでいて靴はドロドロになった。
005



















山側の壁は、コンクリートで固められている。これも戦後に出来たものでしょう。
海側は崖、標高30mほどか?
津軽海峡が良く見えた。
009



















望遠で撮影したが、対岸に下北半島が霞んではいるが見えますね。
海峡を太平洋側から日本海側へと横切る貨物船。
ここは国際海峡なので、どの国籍の船も航行可能。だから、時折北朝鮮の軍事船も
通過するそうです。たまに、潜水艦も。と聞かされた時があり、それを考えると少し怖い
ですね。
006



















単線が走るだけの細さ。ここを戦前蒸気機関車が走る予定だったのですね。
ここまでは線路は引けなくて、実際に走ったのは五稜郭駅から湯川駅までだったらしいけど、
その後は海沿いにここまで来るはずでした。
008



















新しい車のための道路が出来ているが、その橋の下に旧戸井線の橋梁の一部だった橋桁
が見えます。
町のシンボルは近海で獲れるタコ。その証拠に、旧戸井町のマンホールを見ると。
007



















カモメ武井(ムイ)の島タコが描かれた戸井町のマンホール。
高台に神社がありました。
010



















漁師町の集落なのに、稲荷神社。
011



















ここは、旧戸井町の瀬田来地区。
明日はさらに東へ行きます。
それでは、また次回!

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今日からしばらくの間、函館市の隣町であった旧戸井町を紹介していきたい、と思います。
旧戸井町は、今から11年前の2004年周辺の恵山町椴法華村南茅部町の4町村で函館
市へと編入されました。
当時の人口は、3810人(2004年11月)だから11年経過した今はもっと減少し、3500人を切
っているか、もしかしたら3000人を割り込んでいるかもしれないほどの過疎の町です。
もともとの函館市の東側にあり、以前のブログでも汐首岬や汐首灯台などで紹介していました
が、今日からはさらに戸井町の中心部へと入って行くことにします。

昔々は、私の生まれ故郷の亀尾村、現在生活している湯川町もさらに東隣の銭亀沢町もかつ
ては独立した自治体でしたが、教育・インフラ・交通網など様々な事情で函館市に合併せざるを
えず、編入されることになった歴史があるわけです。

地方の人口は、どんどん減少していっています。それは、特に子供の数の少なさに顕著に表
れているでしょう。学校の統廃合です。戸井町でも、先日は汐首小学校の廃校を取り上げまし
たが、今年3月で廃校になるのが戸井高校
すでに、隣町であった恵山町の恵山高校は廃校、戸井高校も2015年3月でもって廃校となりま
す。普通科の1学年1クラスの戸井高校は現在は3学年の男子11名、女子6名のわずか17名の
学校です。立派な校舎ですが、地域の子供たちの減少のためや、はたまたアクセスが便利とな
った今、市内の高校へ通学する生徒が増え、逆に地元の生徒数が減り廃校の運命となったわけ
です。

かつては、津軽海峡を隔てた下北半島の大間町との間でフェリーが就航していた時もありました。
1971年(昭和46年)のことです。
しかし、漁業以外に産業のない戸井町では、地域を存続するには函館市と合併せざるをえなか
ったのです。

今日からは、その戸井町を紹介していきます。
そして、今日は驚きの写真をお見せします。
神聖な宮川神社
034



















国道278号線の戸井バイパスは、旧戸井町の海側に沿って形成された市街地を迂回し
山側を走ります。そのバイパスの上りに差し掛かったあたり左側に「宮川神社」の看板が
あり、左折するとすぐに神社に到着します。
037



















境内にある狛犬は、風化されて顔の形が崩れている。海に近く、風は強い。おまけに潮風に
あたり、石やコンクリートはもろくなり崩れてきたのでしょう。
バイパスの上に架かる橋から写した風景です。
035



















遠くに武井(ムイ)の島が見える。周囲720m、高さ57mの岩だらけの無人島です。
境内には、戦没者の慰霊碑があった。戦争で亡くなった戸井出身の人々がたくさん書かれて
います。その数170名以上か?多くの方が戦争の犠牲になられたのですね。
036



















そんな神聖な神社の境内を散歩していたら、何やらケバケバしい看板が見えるではないですか!
それは、東隣の家。
040



















再臨とか、ビッグバン、霊魂不滅なんて言葉が看板に書かれ、中には全民母など意味の
分からない言葉もある。
039



















なんだ、これは?
表に周って見よう。誰か出て来たら一目散に逃げようと構えながらでもここは一般道だし
別に「山を撮影しているんだから」と、レンズを向けた。
038



















これは、何ですか?すごい!食中毒、金縛り、裸かぜ、脳放送?、睡眠・ヤク・・・。
おまけに大本営発表なんて・・・。
十字架があって、[MARIA」なんて書いてあるが・・・。
041



















キリスト教とは全然違う。クレイジーな家? オーマイゴット!!アンビリーバブル!
周辺には人通りがないので、中心部へ出かけて歩く人を捜した。が、いない。
やっと見つけたおばあさんに聞いたら、「地元の人じゃない。何年か前に、よそから入って来た
一人ものの男性が住み着いている」と。

変な看板を見かけてしまった。新興宗教?
とても怪しげな砦?家でした。

それでは、明日からは戸井の豊かな自然を紹介していきます。
また、次回 ごきげんよう!

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1966年 12月1日、湯の川温泉街の東側にある銭亀沢村は函館市に編入されました。
その銭亀沢村とは、14世紀後半に和人の城郭である志苔館(しのりかん)が建てられその
跡地があったり、中国の宋との交易により、宋の大量の貨幣が亀の中に収納された状態
で発見されたりした地域です。
きっと、村の名前は、銭の入った亀がある沢で見つかったことから、銭亀村と名付けたの
か?と思うのですが。

1960年代は、函館市のベッドタウンとして、漁業を営む人たちよりも函館市へ通勤・通学
する人たちが多かったからでしょう。当時の人口は8798人(1965年)。
1966年3月、私が中学1年生だった時のことです。当時は市の東端の湯川中学校1年生、
突然担任から「4月からは、となりの深堀中学へ行け。湯川中へは銭亀村の中学生が来る
からだ」と云われて、泣く泣く転校させられた記憶があります。
親の転勤でもないし、住所が変更されたわけでもないのに、2年生から転校とは、子供心に
ショックでした。

その銭亀沢村、海岸線に東へと延びる漁業主体の村の山間部に、石倉稲荷神社の奥の院
があります。石倉稲荷神社そのものは、海岸線の国道278号線沿いにありますが、そこから
山へ入ったところに奥の院は位置しています。
116



















赤い鳥居が続くのは稲荷神社の証拠、近くにそれを知らせる看板がありました。
115



















なんと、1647年(正保4年)というから、江戸幕府3代将軍徳川家光の時代。ヨーロッパ
では、イギリスで清教徒(ピューリタン)革命 (1642~1649)の最中。
日本とイギリスでは、全然違いますね。かたや封建的な武士が政治の権力を握り世襲に
よる将軍政治が展開され、世界に門戸を閉ざします。(家光の時代、鎖国の完成とキリスト
教禁止)。
かたや、独裁国王に対し、人民が立ち上がり国王チャールズ1世を斬首し、英史上初の
共和政治
(その後1660年王政復活、しかし国王は君臨すれども統治せず、の議会政治へ)
を打ち立てる。

島原の乱(1638年)を制圧し、長崎に出島を築き(1641年)江戸幕府の政治が安定したころ
に、銭亀沢村の秋田屋蛯子太郎左衛門が、京都の伏見稲荷大社より分霊して、ここ石倉山
に小さな祠を築いた、と。
その後は、村の鎮守神となって、約470年。
それでは、奥へ周って見ましょう。
117



















高さ7メートルほどの岩山の中に鳥居が彫られている。
ズームして見よう。
118



















稲荷神社らしく狐の置物がある。五穀豊穣を願う稲荷神社、きっと周辺では農業も行われ
ていて神頼みしていたのだろうか?
となりには、
121



















高さ1メートルくらいの岩にも二つの鳥居がある。
さらに岩山の裏側に周ると。
119



















ささやぶの奥に岩山を削り取った穴倉に祠が見えた。近づいて見よう。
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高さ1.5メートルちょっとの祠だけど、中を覗くと神の象徴だろうか鏡があった。
一人で来るには、不気味な場所だ。夜だと、絶対来ない!

最後に、こんな石碑もあった。
122


































昭和の文字が見えるが。記念植樹の碑か?

それでは、また次回 

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栃の木というと、栃木県の木になっていますね。栗のような実をつける落葉樹の高木で、
近縁種の西洋栃の木はフランス語で「マロニエ」と云われています。
その栃の木の珍しい記念樹がある、というので行って見ました。
亀尾地区のはずれ、盆地の隅っこ、背後は山という地形で、道路から細い枝道を入ること
数百メートル、そこにあるのが、栃の木大明神。
まずは、周辺の風景。
105



















奥の山は、三森山(843m)。いつも登場する亀田富士です。確かに富士山の形をして
いますね。盆地では、お米を生産している。最近の北海道のお米は美味しいですよ!
それは、水が美味しいから。
盆地を流れる汐泊川(しおどまりがわ)。護岸工事もなく自然に蛇行しながらゆったりと
流れている。
104



















護岸がコンクリートブロックで固められておらず、自然の流れのままなのが良いですね。
そこにあったのが、この大樹。
107



















別な角度からも見てみよう。
111



















地面からは二本の木がしっかりと根をおろしている。
112



















相当古い木なので、支え棒が必要。何か所で支えている。
113



















この木に関して説明している案内板がありました。
106



















昭和47年(1972年)で樹齢800年余りというから、現在の2015年の843年前、西暦1170年頃
です。時代は、平安時代の末期で、後白河天皇ころ。平清盛が太政大臣となり思いのままに
権力を駆使していた時代です。
地上2.5mで枝がお互いに連結するという連理木の名が付いている。

北海道開拓使長官の黒田清隆が巡視された際に、この木を見て感嘆されたとか。
厄除け霊木として「とちのきさん参り」が信仰された、とか。
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すぐそばには、神社がありました。
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栃木大明神と額に書かれている。
手元を見たら、確かに栃の木の実があった。
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自由にお持ちください、と。
白木神社ともいいますね。

黒田清隆という人物を調べてみた。幕末、薩摩藩の下級武士で箱館戦争(1869年)
では新政府軍の参謀として活躍が認められ、北海道開拓を指揮し開拓使の長官となる
(1870~1875)。
1888年から1889年まで、伊藤博文に次ぎ2代目の総理大臣までしている。
1889年(明治22年)2月には、大日本帝国憲法(明治憲法)を発布しているのだが・・・。

しかし、彼の素行は悪い。開拓使官有物払下げ事件を起こし、さらに酒乱。
なんと3歳から酒を飲んでいたという。(さすが、九州、薩摩の男!?)
1878年(明治11年)3月28日には、酒を飲んでの帰り、妻の出迎えが遅い、と逆上して殺害
してしまう事件を起こす。
この事件は、うやむやとなりもみ消される。
スキャンダルと疑獄事件で、同郷の人々は彼から離れ、最後は1900年(明治33年)脳出血で
死去している。
酒の飲み過ぎか?
皮肉なことに、彼の葬儀委員長は箱館戦争の敵側トップの榎本武揚。彼の命を助けたことから
榎本は明治政府の役人となり、最後は黒田の葬儀を取り仕切っている。

それにしても調べたらひどい男。北海道の歴史では、ケプロンなどお雇い外国人を利用して
北海道開拓の歴史に貢献した有力な政治家、と思っていただけに。
人間としては、酒におぼれただらしない人だったんですね。

最後に、汐泊川の清流を見て心を癒して終わることにします。
114



















では、また次回

昨日はすっかり落ち込んでしまいました。1時間以上もかけて作った作品が
あっという間に、すべて消去してしまったのですから・・・。
今までも何度か、そんなことがありましたが、昨日のケースは最悪でした。
どうしてなんでしょうね?

さて、気を取り直してもう一度チャレンジしてみます。
090 



































階段の数は数えなかったが、滑らないように手すりを掴みながら登りました。この時期、
凍った階段での滑落事故は多いですからね。気を付けなければ! 
091 



















神社の本殿が見えてきました。額を見ると。
095 



















大正6年8月12日、とある。
この年は西暦で1917年第一次世界大戦の間最中である。1914年6月のサラエボ
事件をきっかけにヨーロッパで始まった戦争は、日本も中国のドイツ領に進駐し参戦
することになりました。
そして、この1917年はロシアで革命が発生し、11月レーニン率いて、史上初の社会主義
政権が誕生します。ソヴィエト連邦です。
国内では、景気が悪化し労働者のストライキが続発、翌1918年には富山県で米騒動が、
それが1道、3府、38県にまで波及します。食べることすらままならない時代だったのですね。
 
欄間を見ると、両側には獅子(?)の彫り物がある。
098 



















これは左側。同じものが右側のもあります。
真ん中には龍の彫り物が。
099 



















赤い舌を出して、鼻息が荒そう・・・。
夜は、青い眼が光ったりして・・・、夜は訪れることは止めにしよう。
 
建物の周囲を歩いて見た。
094 



















汐泊川がここで90度曲がっている。小さな三角州 見える。
夏、木々が茂っていると視界が遮られて見えないが、葉っぱが落ちた冬は道路も見える。
上が上流。一方下流方向を見よう。
092 



















左から右へと流れている。だから、ここは右岸だ。右岸とは下流方向を見て右側を指す。
だから、南へ流れる川の右岸は、地図でいえば左側、西の方向だ。この汐泊川も蛇行し
ながら、最後は津軽海峡へと、つまり南へ流れるので右岸は西側、地図だと左側のこと。

よく、日本史で生徒に聞かれたことがあった。京都を流れる鴨川の東側に左京区があって、
西側に右京区があるのはなぜ?と。
それは、鞍馬山のある北側から南へと流れる鴨川 に立ち、つまり流れる南側に立つという
こと、そこでは左手側が左岸。右手側が右岸。だから、東だけど左京区、西だけど右京区、
なのですね。

 境内には、いろいろな石碑があった。
096 




















明治天皇と彫られている。
097 




















階段を降りて周囲を歩いたら、こんな大きな石碑があった。
100 



































明治時代に苦労してこの地を開墾した人のことが書かれている。
開拓した当時は 大変だったでしょうね。機械がなく、すべて人間の手で木を倒し、根を
掘り起し、鍬で耕し、ある時はヒグマと戦いながら。
ありがとうございます!先人たちのおかげです。感謝!

というわけで、何とかオッカナビックリ書き終えました。フッー・・・。
それでは、また次回 

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