2015年01月
亀尾村の守護神である大山祗(づみ)神社
昨日の訂正をさせて下さい。湯川村は、旧亀尾村と上湯川村と下湯川村の3村が
合併して湯川村へとなりました。
現在の湯川温泉街は、昔は下湯川村だったということでしょうか?上は東京に近い
地域、下は東京か遠い地域を指す地域だと思っていたのですが・・・。
現在の上湯川は湯川よりも遠く離れた地域のはず。それなのに、上湯川とは?
疑問の一つです。どなたか教えていただければ嬉しいです。
さて、旧亀尾村の話。昨日は亀尾小・中学校の場所で、庵原菡斎(いよはら かんさい)
のことを取り上げましたが、もう一度彼には登場してもらいます。
庵原は、亀尾村にとっては神様みたいな存在なのですから。
そこで、学校から東へ200mほど行くと、汐泊川(しおどまりがわ) が90度蛇行している
場所に出ます。そこの小さな森、それこそ鎮守の森が大山祗神社です。
読みは、おおやまづみじんじゃ。づみは積みとも書くそうです。

となりの境内には「かめお菡斎まつり」のステージもある。

大山祗神社の総本山は、四国は伊予の国、愛媛県今治市、瀬戸内海に浮かぶ大三島
(おおみしま)宮浦にある大三島宮。もともとは山の神であり、のちに瀬戸内海に位置している
ことから水軍の神も兼ねています。現在は瀬戸内海に橋(西瀬戸自動車道)が架かり、本州
側(広島県尾道市)からも四国側(愛媛県今治市)からも行ける島になりましたね。
昔は、今治市ではなく大三島町として、瀬戸内海の数多い島の一つの自治体でした。
尾道市から因島大橋を渡り因島へ、橋で生口島へ、その次が大三島。
亀尾村の開祖である庵原菡斎が、幕末の1855年(安政2年)に海上の安全と開拓地の守護神
として、本山より分神したのが始まりです。
詳しくは、案内板を御覧下さい。

よく読むと、1439年(永享11年)に山神社として祀られています。当時は亀尾ではなく、
目名(めな)になっています。
目名とは、アイヌ語で「枝川が大きな川に合流する地点」という意味で、旧恵山町には女那
(めな)という漢字も当てはめて使用しているところもあります。
1439年というと、室町時代のこと。6代将軍足利義教(よしのり)の時、ヨーロッパでは、英仏
百年戦争の終盤を迎えるころで、ジャンヌ・ダルクがフランスを救ったころです。
そんな時代にも、本州から農民がここで農作業に従事していたのですね。
それだけ、ここ亀尾は汐泊川がもたらす肥沃な土地で、農作物の栽培には適した地だった
のです。
庵原菡斎は、1854年神社を再建し、翌1855年に亀尾と命名しています。
亀田地区の尾に当たっていることから、そう名付けたそうです。亀田とは函館市郊外を指す
地域で、今も亀田郡の名が残っています。

左の大きな電信柱のような柱を見ると、赤いサイレン付いていますが、これは上流の矢別ダム
の放流の時を知らせるもの。ダムからの放流時に川のそばにいたら危ないですよね。
裏に回って見ましょう。

夏になると、木々が茂り神社の建物は見えなくなってしまいます。
まさに、鎮守の森とは、ここをいいますね。

それでは、明日はここを登り本殿へと行って見ることにします。
それでは、また次回
ペリー来航時、幕府の開墾地があった旧亀尾村
函館市の東、函館の奥座敷ともいわれる湯川温泉街から小さな峠を二つ越えた
ところが旧亀尾村。
実は、市内の湯川町も昔は独立した村 だった。1902年(明治35年)というから今
から100年以上も前のこと、20世紀に入ったばかりで日露戦争の前のことです。
当時の亀尾村の人口は1036人。上湯川村と湯川村と亀尾村の3村が合併し湯川
村となります。
町となったのは、1936年( 昭和11年)。第二次世界大戦の5年前のことでした。
そこへ、足を運びました。
まず、峠を下りたところにあるのが亀尾小・中学校。
3階建ての校舎があるが、現在の児童数は3学級で28名。3学級とは、複式学級の形を
取っている。複式学級とは、1,2学年で1クラス。3,4学年で1クラス、5,6学年で1クラスと、
これで3学級。1学年平均4名か 5名の数。だから、特認校制度を採用している。
特認校とは、学区以外でも児童を受け付けていること。
街中の児童数の多いマンモス校よりも、自然豊かな亀尾地区で少人数教育を受けたい、
そんな子供たちを預かっている学校です。
校長、教頭含めて教職員6名。
保護者の車などで登校してくる児童の中には、いじめの被害にあっていた子もいたりして
事情は様々ですが、市内からも通学できる距離にあり、受け入れているのでしょう。
地の利を生かして、森林教育やソバの栽培学習など特色ある教育をしています。
二宮金次郎の像がありますね。
いつの時代の建てられたのでしょうか?学校は戦前はおろか、明治時代の初めのころか?
いやいや、もっと以前。江戸時代の末期のころか?それを証明する案内板がありました。
なんと、ここ亀尾には1854年(安政元年)、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが
来日し、日米和親条約を締結、箱館が開港した年ではないですか!そんな時代に幕府
のお役人がこんな山奥にやって来ているのです。
実際には翌年開港し、ぺりーも箱館にやってきます。
函館奉行の命令で御手作場(おてさくば)を開設、と書かれていますが、御手作場とは?
蝦夷地における幕府の開墾地のことです。ソバ、米、など穀物を栽培する、おそらく蝦夷地
おける開墾地としては、第1号ではないでしょうか?
それを実施したのが幕府のお役人であった庵原菡斎(いよはら かんさい)です。
そういえば、ここ亀尾地区には庵原町もあります。彼の名を取ったのでしょう。

巨大な赤松がこの160年以上もの歴史を見守っています。
明日も、私の故郷でもあるここ亀尾を紹介していきたい、と思います。
それでは、また!
ここはリオデジャネイロ・コルコバードのキリスト像?
アリエスの塔から延びる道があった。それが、これ熊通路。何と!熊の通り道とは!?

真っ白な道を歩いて行くと、なにやら前方に白い像が見えてくるではないか!
両手を広げた像だ。周囲は、夏だったら一面青紫色のラベンダー畑だけど、今は白い雪に
覆われている。
近づいてみよう。
オッー!キリストの像ではないか!
そういえば、ここはカトリックの園、フランスからやって切った故フィリップ・クロード神父の
建てた介護施設の広い公園の中であることを思いだす。
まるで、ブラジルはリオデジャネイロのコルコバードの巨大キリスト像を少しだけ思い出した。
本家のキリスト像は、1931年、ブラジル独立100周年を記念して、標高710mのコルコバード
の丘に建てられたもので、像の高さは30mもある。左右に広げられた両手は28mもあるが、
ここのはその10分の1くらいかな?
ここ函館の旭ケ丘に建つキリスト像は、南を向いて何かを祈っているのか?
威厳はありそう。両手で、ここの施設のみなさんをハグしてくれそうです。
じっと長いこと見つめていると、吸い込まれそうになる。はたまた、祈りをしたくなる。

誰もいない公園。キリスト像の周囲は様々な飾りで覆われている。
最後に、裏に回って見ると、こんな文字が書かれていた。
「我は復活なり 生命なり」
森閑とした丘の上に建つキリストは何を見ているのでしょう。彼の眼は、函館の市街地を
見守っています。
世界中の人たちへ、愛と平和を!届けたいのでしょう。
ここは、こころが癒される聖なる丘です。
では、また次回!
世界が見えるアニセスの丘から周囲を見る
雪に閉ざされて旅に出れない長い冬の間は、読書三昧に明け暮れている、と以前
お伝えしましたが、長い冬の楽しみの一つに映画を観賞する、という時間をたっぷり
と使う楽しみもある。
この3日間、毎日感動していました。
まず、「ニュー・シネマ・パラダイス」。
舞台はイタリアの貧困地帯南部シチリア島の、とある田舎町の映画館。時代は1960年
代、映画館に出入りしていた少年の物語です。
少年は田舎を出てローマで映画監督として成功し、30年ぶりに帰ると・・・。
もう一つは、「ヘルプ~こころがつなぐストーリー」。
1960年代のアメリカ南部ミシシッピ州の人種差別されていた黒人家政婦さんの物語。
ヘルプとは家政婦さんのこと。ある若い白人ジャーナリストのサポートもあり差別から立
ち上がって人間としての権利を持つようになるまでのストーリー。
三つ目は「シュガーマン」。
シュガーとは麻薬のこと。シュガーマンはその売人の意味。
ロドリゲスというアメリカ、デトロイトに住む売れない歌手の物語です。1970年代アメリカ
ではまったく売れず、肉体労働者として日銭を稼ぐ日々。でも、南アフリカでは大ヒットし
ていた。南アフリカでは「彼は死んだ」と思われていたが、ある記者が生存を確認し、招待
してコンサートを開く。そんな彼は、今もデトロイトで生きている。実話です。
という3本の映画、実際はテレビのスカパー、ムービーチャンネルで観賞したものですが、
たまに涙腺を揺らす感動ものと出会うときがあります。
今回はたまたまいい映画に当たりました。
さて、「アリエスの塔」。

フランス語ですが、ギリシア語の「純潔」から来ているそうで、英語ではアグネス。
丘の一番高い場所にその塔が建っている。そこから見える風景です。
南側を望む。津軽海峡を挟んで、対岸に下北半島が見える。
そして、なんとすぐ下に大容量の太陽光発電のパネルが設置されていた。全部で800kw
というからすごい発電量だ。設備投資もすごいけど、売電して利益もすごいはず。
ただ、最近は電力会社は買電を拒否している。北海道電力は、なんとしても泊原発を稼働
したく再生エネルギーの買い取りを拒絶しているので、少し心配です。
ズームして見ましょう。ここだと、ばっちりと発電出来ますね。何の障害物もない。
南からの太陽光をすべて受け止めれますね。

南東側を見ると、遠くに前回紹介していた本州に一番近い岬である汐首岬のある汐首山が
見える。海に突き出た山ですね。

木々はすっかり葉を落とし、裸の木になっている。落葉広葉樹の木は、冬寒々しい。
東側を見る。左側に、かつてあったスノーボード専用のゲレンデが見える。もう10年も
前だろうか、倒産してしまった。

北を見ると、亀田富士の名を持つ三森山(843m)がある。文字通り、三つの森があり
ますね。でも、近づくとゴツゴツした大きな岩ばかりで、とでも綺麗な山塊ではない。

さらに北側。奥に、1000mを越す袴腰岳が見える。

北西側。新幹線の駅となる「新函館北斗駅」がある方向です。「ふっくりんこ」や「きらら397」
などの米どころ函館平野の中心。

最後に西側、函館山方向。市街地が見える。平野部は文字通り、真っ平ら。平らな野ですね。
電停の最高地点は、「柏木町」で標高19mです。ここから見ると、函館山は陸繋島であることが
分かりますね。砂州でこちら側の丘陵地帯とつながっています。

というわけで、純潔を意味するアニエスの塔から360度の全景を眺めました。
それでは、また次回!
ここから世界が見える
函館市の郊外、丘の上に建つ特別介護老人ホームがある。それが社会福祉法人函館
カリタスの園が営む「旭ケ岡の家」 。
何棟かの施設が並ぶさらに丘の上、一番高い場所に塔が建っている。
それが、これ。

この施設、フランスからやって来たフィリップ・クロード神父が建てた施設です。
彼は、1953年パリのカトリック神学校を卒業し、翌1954年カトリック宣教師として来日して
います。
函館でカトリックの神父として活動、1961年函館元町カトリック教会主任司祭に就任し、文化
活動や社会福祉活動に情熱を傾けます。
1977年、函館市からの要請で、体の不自由なお年寄りのための施設を募金活動をしながら
建て、園長となります。それが、現在の特別養護老人ホーム旭ケ岡の家です。
ここは、その広大な施設の中の公園の一画。
近づいて見よう。

塔の名は「アニエスの塔」。アニエスとはフランス語で女性の名前で、ギリシア語の
「純潔」から来ている。英語ではアグネス。そういえば、アグネス・チャンという歌手もい
ますね。
確か?「ひなげしの花」という歌を、昔歌っていました。今はユニセフの活動をしていますね。
古代ローマ時代のキリスト教の聖人の一人にも数えられています。
塔の名は、そこから来ていると思います。

雪が積もる踏み分け道を登る。先日降った新雪の上に、だれか歩いた人がいますね。
塔の上から見た風景。
函館山が遠くに見える。

これは、ズームして撮影したので実際はもっと遠い。
左の建物は介護施設。グランドのように見えるのは畑かな?
そして、ここから世界が見えるのです。それは、この塔の四方に世界の主要都市との
距離が書かれている。

まずは、道内。旭川や札幌まで。宗谷海峡まで406km。
パラシュートがフランスの国旗である青、白、赤の三色旗ですね。昨日、パリで悲惨なテロ行為
がありましたけど、残酷な事件でした。クロード神父の出身国ですからね。犠牲になられた方に
心からお悔やみ申し上げます。
パラシュートの太陽さんが持っている板には「ココハ北緯41度48分、東経140度51分。ナント
9600kmモトンデキタモンダ」と書かれています。実は、フランスのナント市から9600kmあるの
です。きっとクロード神父の出身地なのでしょう。あとからナント市も登場しますよ。ここから
9600kmと出ていますから。
そのクロード神父は、残念ながら2012年12月に85歳で亡くなられました。
五稜郭公園を舞台にした野外劇の発案者であり、五稜郭を世界遺産登録を目指していました。
それだけに、とても残念です。
私の三男も幼稚園時代に、五稜郭公園の野外劇に参加していて、日本国内ではとても数少ない
文化活動として、さらに大きく発展する途上だっただけに、大きな痛手です。
でも、天国のクロード神父さん、野外劇は今も継続していますよ。

世界が出て来ましたね。パリまで9200km、ローマまで9400km、モロッコのカサブランカ
までは11100km。1万km以上もあるんですね。
ロンドンまで9100km、奥尻島までは120km。だから、こちらの方向は西から北西。
北方向を見よう。

北極点まで5569kmかな?スウェーデンの首都ストックホルムまで7700km。
駒ヶ岳まで32km、ただしここからは見えません。
東から東南方向を見よう。ハワイまで6400km、アルゼンチンの首都ブエノスアイレス
まで18300kmもある。ほぼ地球半周ですね。日本の真裏にありますからね。
ニューヨークまでも1万km以上ある。
南米最南端のホーン岬まで17500km、遠いなぁ・・・。

エベレスト山まである。南から南西方向です。

メッカの方向もある。でも、ここにはイスラム教徒は来ませんね。なにせ、ここはキリスト教
の施設。私のブログでは何度も登場している、函館西部地区の元町、カトリック元町教会
の司祭をしていた神父さんが建てた施設ですからね。

というわけで、「ここから世界が見える」ことが出来ましたか?
それでは、また次回!
本州まで17,5km かつて「海峡の架け橋」の夢があった汐首岬
昨日は、北海道で一番本州に近い汐首灯台を紹介しました。そこから、すぐ近くにあるのが本州との最短距離、わずか17,5kmの汐首岬です。 さて、昨日の汐首灯台から続きます。
汐首(しおくび)とは、アイヌ語でシリ・ポク、シリは山、ポクは下、という意味から来ているそうです。
確かに、山の下ですね。 海沿いを走る三桁国道である国道278号線の脇、すぐそばの高台にあるのが汐首灯台です。
道路から急なスロープを登ること5分ほどで標高50mの高台に到達する。汐首灯台の灯りは、津軽海峡の本州との一番近い場所を照らしている。 陽の光に照らされて眩しい対岸に下北半島が見える。
かつて、大間町との間にフェリーがあったここ戸井町。同じマグロが獲れても、大間産と戸井産では、ブランドが違うのか?ネームバリュ-が違うのか?値段がかなり違う。
同じ海で獲れているいるのに・・・。
毎年、年始のニュースの一つになっているのが、築地市場でもマグロの初競り。1昨年は大間産のマグロ1匹が、なんと1億5000万円もした、というニュースがあった。これが、戸井産だったら、幾らの値段がついただろうか?それとも、通常通りに競りが行われただろうか?
さて、灯台のとなりにあった門。 南側に面している崖っぷちにある、わずかな隙間に建っている2つの門柱。 まるで、学校の門のように見えるが、ここには学校はなかった。
昨日お伝えしたように、ここには灯台守りの職員住宅か、はたまた海峡を守備する軍事要塞基地の軍人たちの宿舎があったのか?どちらかでしょう。 なだらかな斜面には、林を伐採して耕地に変えて段々畑を作り、耕していた跡が見える。自分達が食べる分の野菜などを生産していたのでしょうね。 灯台から降りて国道へ出て、海沿いを歩いて見た。
旧戸井線の跡を示すように、国道の上の高台には、鉄道のトンネルが見えた。もちろん今は使用されていないが、かつてここを列車が通過するはずだったのだ。 よく見えないので、場所を変えて撮影した。 これだと良く見えますね。
右側は高波を避けるフェンス。片側1車線しかない国道278号線。海が時化ているいる時は、波が激しく道路まで押し寄せる。
だから、波が高い時に走行したらすぐに洗車しなければいけない。それに、車庫に入れずに、むき出しのまま駐車している車はすぐに錆び付いてしまう。
この近くにあった最短距離を示す看板。 かつて、ここに海峡橋計画の看板があったのだが・・・。
実際、1980年代末といえばバブルの絶頂期、北海道の汐首岬と青森県下北半島の大間崎を橋で結ぶ計画が、あったのです。国の第4次全国総合開発計画(4全総)に基づき検討された「青函インターブロック交流圏構想」の中で浮上した。「めざそう早期実現 本州北海道連絡橋」の看板が掲げられていたのもこの頃のこと。
今は撤去されているけど。
海がとてもきれい。 汚れていない海の透明度は高く、とてもキレイで泳いでいる魚が見えるほど澄んでいる。 東側の海を眺めると、遠くに武井(ムイ)の島が見えた。
岩だらけの無人島だが、ここの島を境に、アワビとウニが獲れるという。どちら側でアワビが獲れるのか、ウニが獲れるのかは忘れたが漁師たちにとっては大事な島。
島の岩場には神社も奉られています。 函館への帰り道、小さな船着き場があった。
1トンにも満たない小さな、多分昆布漁の漁船だろうか、岸に結ばれていた。夏になると、昆布漁が解禁されて朝早くから漁に出るのだ。 西からは、日本海を北上した対馬海流が津軽半島から入るし、東側からは北上した黒潮・日本海流と、北からは南下してきた寒流の親潮・千島海流が入り、暖流2本と寒流1本の双方が入り交じり良い漁場を形成している。
遠くに函館山と市街地が見えた。
というわけで、かつて「本州と北海道を繋ぐ夢の架け橋」の構想があったのです。津軽海峡大橋、あればいいですね。フェリーで90分かかる函館・大間間、それがわずか17,5kmだから20分もかからずに渡り終えることが出来るのです。いつか、そんな橋を渡って本州へと車を走らせたいな!と初夢?(元旦から1週間経過しているのに)しました。 それでは、また次回!
函館最南端の地、北海道で一番本州に近い灯台
今日1月7日(水曜日)、朝9時、外は猛吹雪です。道内各地に暴風雪警報が出ていて、外出は出来るだけ控えて、のニュースもあったほどだ。視界は100mもない。激しい西風に乗って、乾いた細かい雪が次から次からと天から降ってくる。軽い雪なので、雪かきは楽だったが風が強く目が開けられない。8時に雪かきして、1時間たったがもう積もっている。blog創った後に、また雪かきしなくてはいけない。これは、雪国の宿命ですね・・・。 雪にも負けず、風にも負けずスズメたちはエサを食べに来ます。頑張るなぁ♪
さて、函館市最南端の汐首灯台は本州にもっとも近い場所に設置されている。 明治時代のこと、明治21年(1888年)から明治26年(1893年)にかけて、北海道開拓使により全道各地20ヶ所に灯台が設置されたが、その最後20番目に設置されたのがここ汐首灯台。
1893年11月2日に点灯されている。灯台の建物の改築は、戦後の1958年(昭和33年)のこと。多分、現在の建物は、当時のものを修築して使用している、と思われる。すでに、半世紀以上も経過している。
橋桁のようなものが先ほどから見えるが、これが旧戸井線の橋桁。本州、下北半島の大間町までわずか17,5km。国際海峡である津軽海峡を防備するため、つまり軍事目的のために戸井線は1937年(昭和12年)に工事が着工された。五稜郭駅から東へ延びる全長約30kmほどの距離に9つの駅が出来る予定だった。
ここには汐首駅が出来る予定だったが・・・きっと名産のコンブが運ばれていた、と想像します。
が、物資の不足もあり1943年(昭和18年)に工事は中断され、結局未完のまま廃線となった”幻の鉄道”だ。 このコンクリートアーチ橋は有名ですね。廃線跡地では、道内の数少ないコンクリートアーチ橋です。
上士幌町の旧士幌線、十勝三股までの路線の内、糠平湖に架かっていたタウシュベツ川橋梁は、特に有名で、よく北海道の観光スポットとして紹介されていますね。ただし、かなりの秘境ですが。
風光明媚なこの土地、現在は恵山道立公園に指定されています。さて、急な階段を歩いて登ることにしよう。 鉄道が完成していたら、灯台は列車の上に見えていたことだろう。灯台が建っている場所は、海岸から50mの位置。だから、海峡を通過する船は、灯台の灯りがよく見えたはずだ。 ようやく到着。灯台の建物の高さは11m。 灯台の背後は、緩やかな斜面となって標高約300mの汐首山へと続いている。よく見ると、段々畑の跡だろうか?かつて、耕していただろう、ことが分かる。 灯台の東側には、こんな門柱と小さいが広場のような、それを囲むように石の塀が巡らされている。これは何だろうか? 想像するに、一つは、かつて駐在していた灯台の職員住宅があった。そこで、職員やその家族がその畑で農作物を耕していた。つまり、自給自足に近い形で生活していた。
二つ目は、軍事基地の役割も果たしていたので軍隊の基地があった。そこで、兵隊たちは畑を耕して食糧を生産していた。どちらにしても、狭く斜面になっているが、土地を有効利用しようとしていた、のでは?と考えました。 馬糞があちこちに落ちている。何度も踏んでしまった。もっとも乾いているので、靴が汚れることはないが。
ここは、旧戸井町の町営共同牧場の広大な土地で、数百頭の道産子がここにも来ていることが分かる。
それと、ここは熊の生活エリアでもある。山の上に行くと熊の糞も発見する時だってある。
金属的な音が聞こえた。上空を飛行機が飛んでいる。このコースで函館空港へ到着するのかな?普段は市内を横切って市街地から(私の家の真上を通過するのです)入るのだが、風の関係で東側の戸井から着陸することもあるのだろう。
というわけで、今日は函館市最南端で、かつ本州にもっとも近い灯台の汐首灯台を紹介しました。 それでは、また次回!
明治13年開校の戸井・汐首小学校、118年の歴史あり
函館から東へ海岸沿いをたどる道が国道278号線。
海岸段丘が続き、切り立った断崖がある交通不便な土地である。海岸沿いには逃げ道がなく、国道だけが唯一の道だ。
函館市から東へと、道を進めた。本州との最短距離にある旧戸井町。 2004年(平成16年)函館市に編入合併された今は、函館市戸井区。 60年前の1955年(昭和30年)がピークで、人口は8041人を数えた。子供たちも多く、海岸に沿って東西に延びる戸井には小学校は何校もあった。今日はその一つであった戸井・汐首小学校を訪ねた。 まずは、国道278号線をそれて汐首山(299,6m)へと道を進める。 すぐに、道は閉鎖される。山頂には、NTT始め無線電波塔が設置されていて一般の車は侵入禁止となっている。そこから撮した景色。 下に旧汐首小学校の校舎が見える。遠くには函館山と市街地を望む。ズームして見よう。 海岸に沿って集落が形成されている。漁業主体の集落であることが分かる。 ズームして見ると。 右に、釜谷富士と呼ばれる243mの山がある。とても富士山のようなきれいな形の山には見えないが、「全国の富士山」という本を図書館で見た時に、ここが紹介されていて、初めて知って驚いたことを思い出す。
海岸沿いの道の中では比較的穏やかな方で、波打ち際に旧国道が走り、山側にバイパスが走っている。
バイパスの道は、旧戸井線。
戦前、軍事目的で建設が始められたが、物資不足もあって途中で断念、敗北、ついに完成されなかった鉄道跡地。 先ほどから気づいていらっしゃるお方もいるでしょう。雪がないのです。函館市は、10cm以上も降雪があり市内は真っ白だが、東方面、つまり大平洋側は降雪量は非常に少ない。
だから、東へ行くほど雪がないのです。だから、この写真の山、旧村営共同牧場が設置された山だが、雪がまったく付いていない。なお、1960年(昭和35年)に汐首山麓につくられた牧場は、ほとんど放し飼いで道産子を飼育していて、周辺を歩くとあちこちに馬糞を見かける。
いったい、何頭の馬が放牧されているのだろうか?
近くの釜谷漁港から出港したばかりの漁船が見えた。遠くに函館市街地の高層とまではいかないが、ビル群が見える。 ズームして見ましょう。 函館山の後側に、隠れキリシタンの山、大千軒岳(1071,6m)の白い頂きが見える。澄みきった冬の空気だから見える、珍しい光景だ。 海岸よりも一段高い段丘状の、山の麓に旧汐首小学校があった。 1955年の戸井の人口は8041人だったが、30年後の1985年(昭和60年)には5163人、そして2000年(平成12年)には3893人となる。
急激な人口減、超高齢化と少子化は、戸井町の学校を次々と閉鎖に追い込んでいった。 漁業が盛んだった明治13年、1880年に開校した汐首小学校は、1980年(昭和55年)に100周年を迎えている。学校の正面には、その碑があった。

表の「飛翔二世紀」の題字の下には町長の名が見えた。その町長の娘さんとは、高校時代に同級生だったことがあった。当時は今より交通事情がかなり悪く、確か彼女は下宿していた。今こそ、車で1時間もかからずに行けるけど、当時は学校へ通うのも大変だったのです。 周辺を散策すると、当時の教職員の住宅があった。
都市部とは全然違いますね。
学校は、地域の文化センターであり、校長は集落の有力者の一人。祭り・寄合などの会合には顔を出させばならない。だから、地域に住まわなければいけない。
奥に校舎が見えますね。子供たちは、下の海沿いに広がる集落から坂を登り、この校舎へと毎日通っていたのです。
1880年、明治維新後から13年後に開校された北海道では歴史ある汐首小学校は、1950年(昭和25年)創立70周年を迎え、昭和55年の1980年創立100周年を迎え、盛大に祝賀をしています。
しかし、その18年後の1998年(平成10年)ついに、その歴史に幕を閉じたのです。函館市寄りの小安(おやす)小学校と合併し、戸井西小学校となります。
そして、その6年後の2004年(平成16年)、漁業の町として栄え、一時は本州・下北半島の大間町との間にフェリーまであった戸井町は、函館市に編入・合併されてしまったのです。
というわけで、今日は旧戸井町の汐首小学校跡地を訪ねました。
それでは、また次回!
スノーマンを造って感動!台湾人カップル
餌台を作ってから雀がたくさん来ているが、先日は見かけない鳥が1羽だけだがやって来た。図鑑(「野鳥」山と渓谷社)で調べたら「ヤマガラ」だった。
漢字で書くと、山雀でシジュウカラ目の仲間。首と腹の部分が茶色の色、頭が黒、背の羽の部分が灰色で、明らかにただのスズメとは違っていたので、これはカメラに収めようと構えた途端に翔んで行ってしまった。
それとは別に、冬になってスズメよりは少し大柄のヒヨドリがやって来ている。どの鳥も敏感で(当たり前ですね。鈍感だと生きていけません。)なかなかモデルにはなってくれない。庭の木に留まっているところを写したかったが、無理。
やっと、近くの電線に留まっているのを望遠でパチリしたのがこの写真です。 さて、昨日の続きです。五稜郭公園内の箱館奉行所。 ズームすると。 完成してから、確かもう5年。日本史の授業の一環として、何度も生徒たちを引率して訪れていた。一般の入場料は500円だが、函館市内の小・中・高の児童・生徒は無料で市内の多くの学校で見学に来ている。
良いですね。地域に歴史を学べる施設があれば、生きた授業になれますからね。ここは、まさに生きた教材です。
もちろん観光資源としても最適で、今まで五稜郭公園は歩くだけのコースだったけど、五稜郭タワーに昇り全景を見、奉行所で学べる、という五稜郭の景観と歴史を十分知ることが出来ます。 高さおよそ100㍍のタワー。 正門の橋の上から撮影。
遠くに見える電波塔は、函館中央警察署。あまりお世話になりたくないですね。 堀は完全に凍結している。戦前は、ここの氷が販売されていたそうです。
冷凍庫が普及していない戦前だと、氷の厚さもあって商品になっていたのですね。凍結した堀の氷は、切り出されて氷室に保管されて夏期間に売られていたのです。 対岸から見る公園内の土塁。6月になるとツツジの赤や白い花が咲いてとてもカラフルできれい。
6月だとフジの花も咲く。紫や白い花が藤棚からぶら下がるように咲きほころび、絵になる。
桜は5月。例年だとゴールデン・ウイークの前後か?北の大地にピンク色の花を咲かせる。 北の方角を見る。はるか遠くに道南最高峰の山、横津岳連峰が見える。ズームして見よう。 さらに、もっとズームして見ると。 雪がどのくらい積もっているのだろうか?以前はスキー場があって、何度も通っていたのだが、雪不足のため廃業したのは10年以上も前のことか?標高800㍍付近にはゴルフ場もあったが、既になくなりレジャ-ランドも廃墟と化した。25年も前のバブルの頃のこと。
最後に、雪だるま(スノーマン)をこしらえてエンジョイしていた台湾人カップル。 話したら、初めての北海道、そして雪に感動!! スノーマンを作りたかったとのこと。
雪だるまは、アニメや映画の世界で、実際にソフトでパウダーな雪で戯れるのは人生最初で、感激した!と。乾いた粉状の雪は雪だるまを作るには、難しいがそれでも固めて作った。うれしい!
若い台湾人カップルは、とても喜んでいた。喜んでモデルになってくれました。
こちらも、うれしいです。雪が初めての人は、白くてサラサラした雪に感動するのですね。昨夜降って積もった雪が、彼らを喜ばしてくれました。お互い握手してお別れしました。
雪を見たことも触れたこともない遠くの人たちが、一人でも多く函館を訪れることを祈ります。
寒い冬ですが、この雪に喜ぶ人に感謝です。 では、また次回!
ごきげんよう!
新春第1号、全面凍結している五稜郭公園
新しい年が始まって最初の日曜日、雲一つない快晴を迎え、早速外へと出掛けました。
まずは、新年営業開始の市立中央図書館へ。
長い冬に閉じ込められている雪国の生活の中で、冬季間こそ読書の冬! 秋じゃないです。読書の季節は冬です。2週間で最大10冊まで借りれるので、11月から50冊近く読んできました。内容は、春の旅に備えての紀行・地理・歴史を始め、小説などさまざま。
さて、その中央図書館に車を止めて、すぐ隣の五稜郭公園へと。
はば20㍍はあるだろうか、堀は完全に凍結しその上に昨夜降った真っ白い雪が積もっている。
南を見ると高さ100㍍ほどの五稜郭タワーがまぶしい。
東側を見る。裏門に架かる橋が見える、今日は、ここから入ることにしよう。
橋の上から西方向を写しました。
遠くに見えるのは、左が市立保健所。そのとなり、大きな丸い煉瓦色の建物と銀色の屋根が中央図書館です。
両方とも太陽光発電をしている。我が家もしているが、冬季間は屋根に雪が積もって発電はほとんどゼロ。外は太陽がサンサンと輝いているのに、もったいない。でも、保健所も図書館も大丈夫、発電しているようだ。
冬季間は夜6時に閉める、とのこと。まぁ、12月は4時を過ぎると暗くなったので閉鎖する午後6時は真っ暗。閉門してもよろしいでしょう。夏は8時くらいまで開いているのかな?
1周1815㍍の堀の内部にある奉行所。
幕末、建てられた物を図面通りに復元したものの、それでも予算の関係で3分の1まで。それでも17億円費やしたとのことだが、完全に復元するとしたらどのくらいかかるのやら?国指定の文化財ゆえ京都から呼んだ宮大工さんたちによる手作業の建築物です。
ここで幕末、榎本武揚や土方歳三がたて込もって新政府軍と戦ったんだな、一番上の太鼓櫓から土方は何を見ていたんだろう?と思うとワクワクしますね。
そして、維新後坂本龍馬の養子となった坂本直が仕事していたなんて・・・。今から150年ほど前、ここの大地の上で歴史上の人物である偉人たちの歴史が繰り広げられていたのですね。
冬にもかかわらず、多くの観光客が来ていました。聞こえるのは、日本語が少数で中国語が多数。
ここ五稜郭を建てた武田斐三郎の碑の前では、自撮りしている台湾からの観光客が、ワイワイ云って、楽しいそうに撮影している。若いカップルが多いなぁ。
五稜郭公園の話は、明日も続きます。
冬季間は旅に出ることが出来ないので、しばらくの間函館近郊の、ローカルな場所をや話題を紹介していきます。
それでは、また次回! ごきげんよう!
まずは、新年営業開始の市立中央図書館へ。
長い冬に閉じ込められている雪国の生活の中で、冬季間こそ読書の冬! 秋じゃないです。読書の季節は冬です。2週間で最大10冊まで借りれるので、11月から50冊近く読んできました。内容は、春の旅に備えての紀行・地理・歴史を始め、小説などさまざま。
さて、その中央図書館に車を止めて、すぐ隣の五稜郭公園へと。
はば20㍍はあるだろうか、堀は完全に凍結しその上に昨夜降った真っ白い雪が積もっている。
南を見ると高さ100㍍ほどの五稜郭タワーがまぶしい。
東側を見る。裏門に架かる橋が見える、今日は、ここから入ることにしよう。
橋の上から西方向を写しました。
遠くに見えるのは、左が市立保健所。そのとなり、大きな丸い煉瓦色の建物と銀色の屋根が中央図書館です。
両方とも太陽光発電をしている。我が家もしているが、冬季間は屋根に雪が積もって発電はほとんどゼロ。外は太陽がサンサンと輝いているのに、もったいない。でも、保健所も図書館も大丈夫、発電しているようだ。
冬季間は夜6時に閉める、とのこと。まぁ、12月は4時を過ぎると暗くなったので閉鎖する午後6時は真っ暗。閉門してもよろしいでしょう。夏は8時くらいまで開いているのかな?
1周1815㍍の堀の内部にある奉行所。
幕末、建てられた物を図面通りに復元したものの、それでも予算の関係で3分の1まで。それでも17億円費やしたとのことだが、完全に復元するとしたらどのくらいかかるのやら?国指定の文化財ゆえ京都から呼んだ宮大工さんたちによる手作業の建築物です。
ここで幕末、榎本武揚や土方歳三がたて込もって新政府軍と戦ったんだな、一番上の太鼓櫓から土方は何を見ていたんだろう?と思うとワクワクしますね。
そして、維新後坂本龍馬の養子となった坂本直が仕事していたなんて・・・。今から150年ほど前、ここの大地の上で歴史上の人物である偉人たちの歴史が繰り広げられていたのですね。
冬にもかかわらず、多くの観光客が来ていました。聞こえるのは、日本語が少数で中国語が多数。
ここ五稜郭を建てた武田斐三郎の碑の前では、自撮りしている台湾からの観光客が、ワイワイ云って、楽しいそうに撮影している。若いカップルが多いなぁ。
五稜郭公園の話は、明日も続きます。
冬季間は旅に出ることが出来ないので、しばらくの間函館近郊の、ローカルな場所をや話題を紹介していきます。
それでは、また次回! ごきげんよう!

























































