函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めた車中泊中心の「ぼうけんの旅」は今年で13 年目に突入。 車中泊の貧乏旅行の旅、今年で74歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 今年2026年も「ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです! 今年も「ぼうけんの旅」をよろしくお願いいたします。

2026年が明け今年は74歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!時々は自転車を積んでの軽バン一人旅の始まりです。

2015年02月

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昨日の続きです。昨日は突然PCの画面が消えてしまう事態となり非常にあわてました。
今までも何度かあったのですが、せっかく作り上げた作品があっという間に消えるなんて・・・
ショックもいいとこです。今日はうまくいくように祈ります。

さて、銭亀沢中学校の近く、道道のそばにあった豊原神社
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木造の水色の鳥居に豊原神社の額が掛かっている。この神社、いろいろ調べたが
どの系列の神社なのか?分からず仕舞い。一昨日も中央図書館へ行き地域史を
何冊か読んだが、出ていない。
どなたか、お分かりの方居りました教えていただければうれしいです。
左の柵がある階段を登っていきます。
雪で隠れているが、階段状になっています。
辿り着いた丘の上に神社の社殿がある。
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鰐口も賽銭箱もないシンプルな神社だ。雪を踏み分けて来た人はいない。誰か訪れる人は
いないのだろうか?
神社の向かい側にあった「昭和46年沿岸漁業構造改善対策事業 函館市管内6単協種苗 
供給センター」。
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でも、柵が閉じたままだ。昭和46年とは1971年のこと。今から44年も前のこと。それ以後
沿岸漁業の種苗というと、まず思いつくのがウニか?それともアワビコンブホタテ
などかな?
それを育てて供給している場所ですね?

そういえば、近くにはサケマス孵化場もありました。
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汐泊川右岸ですが、秋の間川を遡って来た鮭をここで獲って、奥の建物で孵化させて
ここのプールの池で大きくさせるのかな?
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今は、もう終了して閑散としていますが、秋の忙しい時期は賑やかなんでしょうね。
稚魚を川に流して4年で戻る、というが実際には流した稚魚の4%ほど。残りは無残にも
他の魚に食べられたり、生きていけないのです。

神社の下に、地元消防団の倉庫があった。きっと、消火作業を行うための道具がしまって
いるのでしょう。
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上に神社の建物が垣間見られる。その左横に赤レンガの建物の一部が写っているが、
これはトイレ。
実は、さらにその横にあったバス停があって、待合室もある。冬の寒い日、雪や雨が降って
いる時などの避難場所にもあるからでしょう。
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「銭亀沢中学校」と書かれたバス停。果たして、その時刻表は?
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朝7時の早い時間に3本出ています。ここから、市内の高校へ通学する生徒のためで
しょうね。1時間はかかるから、7時の出発、起床は6時前か?大変ですね。遠距離の
通学は。

というわけで、何とか消えずに終わりそうです。
それでは、また明日!

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またしても、PCの不調でせっかく完成した今日のブログすべて消えてしまいました。
1時間かけて作り上げたのに・・・。ショックです。
明日またもう一度チャレンジしますので、ご勘弁を 


ここは、汐泊川。その源は、戊辰戦争最後の戦いの箱館・五稜郭の戦いの前、現森町
鷲の木に上陸した土方歳三軍が、新政府側に味方する松前藩と戦い勝利した台場山
である。
鉄山まで冷い川の名で流れ、鉄山で温い川と合流した後は、亀尾地区を流れて津軽
海峡に注ぐ全長20.7km、流域面積140.6平方キロメートルの2級河川。
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2日前に紹介した白鳥のいる河川。暖かくなってシベリアに戻る日も近い。冬の間だけしか
見られない光景だが、それもあとわずか。白鳥たちの旅たちの日は、もうすぐ。
そこにあるバス停。
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国道278号線から、亀尾・鉄山方面への内陸部へと続く道道879号の米原古川線
国道に架かる橋のすぐそばにあるバス停「汐泊川橋」。
その時刻表はというと。
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銭亀沢中学校前行きは、何と平日18:26のみ。土曜・日曜はなし。
エェー!?これって、利用する人はいるの?
平日の午後6時26分だけ、しかも海側から山側へのみ1便だけとは?
驚きのバス停です!
それでは、その銭亀沢中学へ行って見ましょう。
歩いてすぐ、バス停から5分もかからない。
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銭亀沢地区で、唯一の中学校。
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かつては、サッカーが強く函館地区では強豪校だったが、今では子供数も減少し合同チーム
となって出場している、はず。サッカーだけではない。野球、バレーボールなどチームプレー
する球技は、人数がそろわず周辺の学校と合同チームを形成し大会に出場しているのが現状
だ。
しかし、この先どうなるのか?
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3階建ての校舎だが、生徒数は何人か?多分1学年1クラスか?
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自転車置き場があった。屋根付きの何十台も駐輪出来るスペースだが、夏場自転車通学
している生徒は何人いるのだろうか?
道道へ出て見た。
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直進すると、川汲(かっくみ)方面。汐泊川の源流の台場山がある方向だ。旧南茅部町
は、2004年函館市に編入されたが、コンブ漁で有名な漁業の町。
左折すると、通称ミルク・ロードを経て、函館空港、温泉街の湯川へ通じる。
ミルク・ロードは、牧場が幾つかあって観光名所の一つ函館牛乳のブランドで知られる
函館酪農公社の工場、さらにはソフトクリームの即売所がある。
夏になると、観光バスが何台も駐車し大賑わいする。確かに新鮮で美味しいソフトクリー
ムだ。

周辺を歩くと、豊原町会館があった。
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避難所にもなっていて、住民の人たちが利用する場所だが、その住民は何人いるのだ
ろうか?高齢者ばかりの地区のはず。
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ここは、元幼稚園だったのかな?遊具が設置されているけど、利用する子供たちはいるの?
鉄棒や滑り台を使う子はどれだけいるの?
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結構広いグランドだが、もともと小学校があったわけではない。古地図を見ても学校の
マークはない。
人家はほとんどない。川沿いに歩いたら、10年以上も放置された廃屋があった。
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周辺に人家は見当たらないですね。ここだけですが、それも相当古い時代に無人となって、
空き家になっている。
何とも淋しい光景でした。

これじゃ、1日1便のバスもうなずけるかな?それでも、それを利用する乗客はいるのかな?
と、哀しい気持ちで思いました。
ではまた次回!

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国道278号線沿いを函館市街地から東方向へと走る。元の根崎村にまず「川濯(かわすそ)
神社」を見学(2月12日)。その翌日13日は「ヘリコプター墜落慰霊碑と宇賀小学校跡地」。
14日は、「志海苔八幡神社」。15日は、「「アイヌの蜂起、コシャマインの戦いで陥落した志苔
館城跡」
と続きました。
今日は、さらに東へ。
汐泊川の手前には、1月31日に紹介した「石倉稲荷神社」がありますが、その1kmほど西側に
あるのが、今日お伝えする「銭亀八幡神社」です。
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まずは、「銭亀八幡神社」の石碑。国道沿いにあるので、見過ごすことはない。
駐車場は奥にあるので、狭い道だが車で入っても大丈夫。
30m先にあるのが、大鳥居。
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「八幡神社」の額が掛かる。
さらに、もう一つ鳥居がある。
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歴史によれば、大鳥居は天保5年というから1834年のこと。天保の改革を行う老中、水野
忠邦
の時代で、前年の1833年には餓死者20万人から30万人を出した天保の大飢饉があ
りました。
この鳥居は1802年に出来た、といいます。
が、いずれもコンクリート製の最近完成したような鳥居ですね。きっと、以前のは老朽化が
激しく取り壊して、最新の鳥居にしたのでしょう。(多分、想像ですが)

社殿に近づきました。
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1644年(正保元年)、当時の銭亀村の村民が協議の上、建立したといいます。
江戸時代、三代将軍の徳川家光の時代です。島原の乱(1637年~1938年)を平定し、鎖国が
完成し、日本は世界の歴史と離れていくころです。
函館より東の海岸を下海岸と呼びますが(京よりも遠ざかるので下、京に近づくと上ですね)、
銭亀地区のさらに東の石崎地区(昔は石崎村)は、北海道における和人の歴史の発祥の地
と云ってもいい最古の歴史があります。

それこそ、2月18日~19日まで紹介した石崎八幡神社には、1439年の出来事があった記録が
あるほどです。室町時代のことです。平家の落人が、海を渡り石崎村を漁村として開拓していっ
たのです。それほど、歴史がある地区。ここ銭亀地区も、相当古くから開けていたのでしょう。
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鰐口の代わりに鈴があります。緑色の八幡神社の額。現在の社殿は、1924年(大正13年)
7月13日に改築されています。
狛犬を見ましょう。
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かなり風化している。なにせ、海のそば。海岸から50mも離れていない。海からの強い潮風
と雨・雪による浸食によるものでしょうね。
となりに、小さな祠もありました。
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山側を見たら、季節保育園の「銭亀保育園」があった。
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季節保育園とは、夏コンブ漁の忙しい時などに開設する季節限定の保育園のこと。
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農漁村にはありますね。その代り農閑期や禁漁期などは閉鎖しているのでしょうね。

というわけで、旧銭亀地区の村社になっていた銭亀八幡神社を紹介しました。
それでは、また次回!

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2月に入り少しずつですが雪も融け、だんだんと気温も上昇して来ています。
今日、2月23日陽の当たる旧椴法華村、恵山山麓の南斜面で今年初めての
福寿草を発見しました。
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旧椴法華村は、旧恵山町のさらに東側、渡島地方では最東端に位置する2004年までは
唯一の人口1000人ほどの村でした。
1960年がピークで3799人、2010年では1275人と何と減少率は66%。0歳から14歳までの
子供人口は124人の9.7%。65歳以上の老年人口は460人の36.1%。
まさに、高齢者が多い準限界集落です。
その椴法華村については、後ほど紹介することにしますね。
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雪が融けて黄色の可愛らしい福寿草の花が開いていました。
うれしいですね。春を告げる花、第1号です。

場所は変わって、ここは汐泊川(しおどまりがわ)の河口。
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カメモがたくさん乱舞しています。右奥は、松前半島の知内町矢越岬。
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鴨と一緒にカモメもいる。きっと、えさになる小さな魚や水草が豊富なのかな?
この川はとってもきれいな川です。
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そして、ここ汐泊川には白鳥もいる。
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河口から300m付近。
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白鳥もカモ科の7種の水鳥の一つ。
遠くシベリアやオホーツク海沿岸で繁殖してから、冬期間は温暖な日本などへ渡りを
行います。
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真ん中の色が灰色のは、まだ幼鳥。やがて、真っ白に成長していきますね。
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器用に首を曲げている。すごい柔らかい。
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現在生きている空を飛ぶ鳥の中では、最大級の重量を有している鳥だそうです。
大鷲(おおわし)よりも重たいんですね。知らなかった。
オオハクチョウでは、全長140cm~165cmになります。
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羽が漂って、流れ着いた。
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寿命は、野生で最長20年。飼育状態では20年~30年とのこと。
北海道では、ウトナイ湖や大沼が有名。新潟県阿賀野市の瓢湖は2008年ラムサール条約
に指定。
青森県平内町では、「小湊のハクチョウおよび渡来地」として特別天然記念物になっています。

というわけで、今日は春間近をお伝えしました。


昨日お伝えした恐ろしい形相の狛犬を、もう一度見ましょう。
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神社に向かって左側。そして右側はというと。
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他の神社の狛犬とは、かなり違う。恐い人の顔のようでもある。

さて、昨日の「海底開発」が少しでも分かりました。
ここの神社の本社は、大阪・住吉大社。住吉大社の祭神を祀っている。それもただの海の神
だけではない。
・海の表面の神~「かみつつのおの大神」
・海の中ほどの神~「かなつつのおの大神」
・海底部の神~「そこつつのおの大神」
それぞれの守護神でもあったのです。だから、「海底開発」とは、海の底の神様のことですね。
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さまざまな石碑が建っている。
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これは、明治二十八年の灯篭。
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これは、何だろう。何も記されていない。

ここの神社は、海の神様以外に食べ物の神様や医薬の神様、さらには本殿の中には
巨大なキセルもあって、たばこの好きな神様でもあるようです。全部で10の神様を祀
っています。
随分と欲張りな神社ですね。きっと合併したから神様も多いのかな?

扉が閉まっていて、中には入れなかったが、毎年9月17日の例祭日には、公開されて
大漁旗がたくさん飾られる、とのこと。さすがに、住吉町は漁師町。昔から漁師さんたち
は、信仰が厚い!
海神が祀られているから「豊漁祈願」で大漁旗を飾るのですね。
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昭和13年と書いてある。
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明治8年に、尻沢辺村のちの住吉町の村社となり、明治37年12月には社殿を改築、と
あります。
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鰐口が見える。鈴もあるが、平べったい銅鑼(どら)のような形の鰐口。
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函館山七福神の一つである寿老人が祀られているが、寿老人とは長寿を授けてくれる老人
のこと。長生きしたい人は、拝んで下さい

鰐口の裏側を見ると。
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鈴が大小3個もある。鰐口には、文字も書いてあるが暗くてよく見えない。きっと歴史ある
ものなのでしょうね。
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近くには、「すずこの水」と呼ばれる美味しい湧水があるそうだけど、捜すことは出来なかった。
今度、5月に来てみよう。桜満開の時期に散策すれば、見つかるかもしれない。
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大正4年と記されている。
社務所もありました。
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というわけで、住三吉神社を久しぶりに訪問し、その歴史を知り再認識した次第です。
それでは、また次回!

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先日から伝えしている湯の浜で発見した「漁業場の石碑」がとても興味深かったので、
石碑の「尻沢辺村」、現在の住吉町を訪ねて見ました。
文献によれば、尻沢辺村は1800年(寛政12年)から相当額の漁業税を納めていたそ
うで、1825年(文政8年)とその翌年に住吉神社に御影石の鳥居が寄進されていて、今
はその残骸があり、当時の繁栄ぶりが偲ばれる、とか?
そこで、市電終点「谷地頭」から歩いて5分ほどの住三吉神社へと足を運びました。
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まず、目に付いたのがこの標識。近くの函館八幡宮の境内の池では、エゾヒキガエル
繁殖していて道路に飛び出してくるのか?
カエルの通行に注意!の案内。思わず笑ってしまう。
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神社の入り口に到着。函館山へと向かう参道は、ロードヒーティングが入っているのか?
雪がまったくない。
雪だるまさんがカワイイ!
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右手側には、住三吉神社の碑がある。
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昭和15年5月1日、函館市長 齋藤とある。戦前、1940年のこと。奥の建物は住慶(すみよし)
クリニックとその付属の老人ホーム。
左の碑は、というと。
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皇紀2600年記念」とある。皇紀2600年とは、神武天皇が即位してから2600年経過した
ことを祝ったものです。当時日本政府は、日本が長い歴史を持つ国であることを内外に示し、
また日中戦争の長期化とそれに伴う物資統制による銃後の国民生活の窮乏や疲弊感を、
様々な行事への参加で晴らそう、としていたのです。この碑もその一つ。

紀元節(現在の建国記念日2月11日)には、全国11万もの神社において大祭が行われ、
展覧会、体育大会など記念行事が外地を含めて全国各地で催された、そうです。

その翌年には、ついに太平洋戦争となりましたね。「マッサン」を見ていると、理不尽で酷い
時代だったこと分かります。戦前の戦意発揚のために使われたのでしょうね。

さて、鳥居の残骸はどこにあるの?とさらに上へ。
この参道、春になるとソメイヨシノの桜がきれいに咲いて美しいとのこと、今度来る時は5月
の連休のあたりに来たいです。
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ここからロードヒーティングがなく、雪が溶けずに積もっている。
実は住吉神社は、1934年(昭和9年)3月21日の死者2166名を出した函館大火で焼失し、
三吉(さんきち)神社跡地に仮の社殿を建立し三吉神社を合併して一緒に祀ることにしま
した。
大火の翌年の1935年(昭和10年)5月11日、合併後の神社の名を住三吉神社としていま
す。読み仮名は「すみよし じんじゃ」でも、漢字は住三吉神社です。
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何と、安永年間に再建されている記録があります。今日、中央図書館
の分厚い「北海道神社辞典」(確か?)に書いてありました。
安永年間とは1772年から1781年のこと。江戸時代後半で、10代将軍徳川家治の時のことで
す。 だからそれ以前に存在していた、ということ。

1803年(享和3年)、当時の箱館奉行が外国からの脅威が退散するように祈願し、石灯籠を奉納
しています。ただ、それは1934年の大火で破損したそうです。
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海底開発」?の碑があった。何?海底開発とは?
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今度調べて見ます。
これは、舞台だ。お祭りの時でも使用されるのでしょうね。
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すごい形相の狛犬発見!
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これぞ、モンスターだ。しかも子連れの。まるでタコのような、または長い爪か?足が石に
絡まっているし、顔は恐ろしい人間のようにも感じられる。夜見たら恐そう・・・。
もう一対を見ると。
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これまた恐ろしい! 左手が添えられている物体は何なのだ?
この対の狛犬は、他の神社の狛犬とは全然違うぞ。

ということで、続きはまた明日!

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昨日までお伝えした石倉八幡神社から海を見た027風景です。




















津軽海峡を挟んで、対岸に下北半島が見えます。よーく見ると画面の左側に、下北半島の
東端にある尻屋崎がうっすらとですが見えますね。
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ズームして見たら、下北で稼働しているたくさんの風力発電所が見えました。山の稜線上に、
一直線に風車が並んでいるのが見えますね。
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さらに、こちらは津軽半島。青森県の二つの半島が見える。1年に何回かあるが、よく
晴れた日には津軽富士の名を持つ名峰岩木山(1625m)が見える時もある。
滅多にないけど、たまに目にすることがあるんですよ。津軽半島の双コブの山々の間
に、飛び抜けて大きな、きれいな三角形の山が。それが、岩木山ですよ。

神社の見学を終えて石崎の集落を歩いたら、こんな家がありました。
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相当古い建物のように見える。それよりも古びた赤茶色の壁のレンガが渋い!
かなりの年代物だけど、何時建てられたのだろうか?
国道278号線に出たら、石崎小学校の案内板があった。
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進行方向へ向かって歩くことに。今までお伝えした石崎八幡神社のサイドにある急な坂
を登り、旧戸井線の道を横切り、学校の前に出た。
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グランドの向こうの遠くに立派な体育館がある。まずは、体育館を見ようと、道路沿いを歩く。
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途中、校門があったけど、学校名を知らせる表札がない。もしかしたら、数年前に閉校した
のかな?
校門も閉じられているし・・・。
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体育館は非常に立派。最近建築されたものではないかな?

校舎側に向かって歩いた。
こちらの校門には、学校名があった。
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今は、函館市立とあるが、1966年以前までは銭亀沢村立。さらに1902年以前は石崎村立。
函館市の教育資料編を調べて見たら、何と明治13年、1880年に開校している。
公立で開校しているから、石崎村立の石崎学校の名で。小学校の名ではない。ただの学校
の名が付いているだけ。
この年、公立の学校としては、湯川学校、宇賀学校が開校している。
湯川学校とは、下湯川村立だ。実は、私の母校である湯川小学校。学校が創立されて22年
後の1902年(明治35年)4月1日、上湯川村・下湯川村・亀尾村が合併し、湯川村へとなって
いる。
さらに、宇賀学校は、根崎村村立だ。ここも、1902年銭亀沢村・根崎村・志苔村・石崎村の
4村が合併し、銭亀沢村となっている。
宇賀小学校の跡地に関しては、先日お伝えした通りです。
それを証明するかのように、開校百周年の記念碑があった。
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その時、突然チャイムが鳴りました。授業が終了したんですね。ということは、学校はまだ
ある、ということ。駐車場を見たら、10台くらいあったので先生かたのですね。
閉校しているわけではなかった。早とちりでした。ごめんなさい!石崎小学校の子供たち、
先生たち。スミマセン!でした。

蛍雪百年」の裏に回ると。
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昭和55年(1980年)で開校百年だから、創立は1880年(明治13年)。国道278号線を走って
閉校となった学校がいくつもあったが、どの学校も開校は明治時代の初期。地域の人々は
学ぶ大切さを知っていたのでしょう。学校の必要性を!
017



















資料を見えていたら、函館での学校の事始めは何と1848(力永元年)。ペリーが来航する
6年も前のことでした。
佐々木作右衛門が、市内の鍛治町(昔は、それこそ名の通り鍛冶屋さんが多かったのでし
ょうね。例えば、馬の蹄鉄や農機具など)に私塾「藤村堂」を開設しています。
それから32年後、ここ漁村であった石崎村にも村民の祈願であった学校が出来たのです。

学ぶことは大切!それこそ学びました。
ありがとうございました!石崎地区の人々の皆さん!

それでは、また次回。

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昨日紹介した石崎八幡神社の鰐口、本物は函館市立博物館に所蔵されていますが、
神社には別物のレプリカ(?)がありました。
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分かりますよね。これは、まさに大きな鈴そのものです。これを、扁平にしたものが鰐口ですね。
天井の梁から太い縄が垂れ下がっていて、参拝する人は、この縄を振って鈴を鳴らしますね。

境内から、もう一度見て行きましょう。
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鳥居をくぐって、最初に見かけたのがこの碑。松代翁頌徳碑。
裏に回って見ます。
023



















松代孫兵衛翁が天保十二年(1841年)六月・・・という文字が見えます。きっと村の功労者
でしょう。さらに裏へ回り上を見たら、昭和4年建立の文字がある。1929年のことです。
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境内には、石崎町内会館もある。何と、自動ドアです。すごい!小さな田舎町(スミマセン)
なのに、自動ドアの会館とは!
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階段を登って、狛犬を見る。まずは、階段を登ってすぐ右にあった像。
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子連れ?足元にしがみついているのは子供? それにしても犬というよりは、ゴジラに近い
顔の表情だ。
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左の狛犬。石崎村の表記がある。
実は、1902年(明治35年)に、銭亀沢村・根崎村・志苔村・石崎村の4村は合併し、亀田郡
銭亀沢村となります。だから、この狛犬はそれ以前のもの。多分19世紀に作成されたもの
でしょうね。だから、ホントに古めかしい!
なお、それより以前の1880年(明治13年)に石崎学校が開校しています。
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お祭りだからか、日の丸の旗がクロスして立てられている。

昨日、平家の落人と伝えたが、平家の落ち武者は決して武士だけではない。平家の落人
の末裔が、すなわち平家一門の末裔であるという混同がある。
平家方に与(くみ)して落ちのびた者や平家の郎党や平家方に味方した武士の例もあって、
必ずしも平家の落人部落といっても血のつながりのない人もいる。
だから、昨日お伝えした平氏盛阿弥(へいし じょうあみ)は、津軽地方に平(たいら)を姓と
する豪族の、さらに分家らしい、その人物が永享十一年(1439年)に石崎八幡神社の鰐口
を寄進した、ということ。
だからといっても、それはここが平家の落人部落というわけではない。が、平氏を名乗る人物
がいたことは事実。しかも、15世紀前半の、当時蝦夷地に渡って来た和人の中ではかなり早
い歴史であったことに着目したい。
034


































神職の人が入って行きますね。

時系列に並べると、
14世紀後半から末にかけて、先日紹介した道南十二館の一つである志苔館が築造されて
いる。
1439年、平氏盛阿弥が石崎八幡神社に鰐口を寄進する。
1443年、室町時代の武将であり、陸奥・津軽十三湊付近を本拠地とした安藤盛季(あんどう
      もりすえ)が蝦夷地へ渡る。松前藩史の「新羅之記録」では、1443年(嘉吉3年)に
      現在の岩手県を支配していた南部義政に攻撃されて蝦夷地へ渡った、という記録
      が残っている。
1453年、河野政通(こうの まさみち)が宇須岸(うすけし  アイヌ語で湾の端を意味する
      ウショロケシ)と呼ばれた漁村に館を築く。それが箱の形をしていたので箱館となり、
      函館へ。
1457年、コシャマインの乱で、志苔館は陥落。(2月15日のブログ参照)

というわけで、平氏盛阿弥の蝦夷地へ渡った時代は、和人たちにとって最初の時代だったの
です。かなりの先駆者?それとも本州から逃げ延びざるを得なかったのか?
どちらにしても、和人の歴史の初期という事が出来ますね。
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1771年(明和8年)江戸時代後半です。現在の社地にご神体を安置しています。
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この奥の建物にご神体があります。
1876年(明治9年)村社となります。村の守り神となるわけです。
現在の社殿は、1948年(昭和23年に改築されています。

氏子の人たちが、中へ入って見なさい、といいます。後ろの方でじっくりと見学しました。
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40畳ほどの広さの本堂、前列に42歳になった厄年の青年(?)が5人座っています。
この顔ぶれの中では、一番若い人たちです。ご婦人が数人。みなさん、地元の方ばっかり。
この時点では、何とかシャッターを押せましたが、式が始まるとシーンとした緊張感が周囲を
包みこみ、とてもシャッターを押すことは出来なかった。
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ホントは、前方の亀や額、絵をアップで撮影したかったのですが・・・。

奥のご神体が奉られている建物が神主さんによってオープンとなりました。
この後、神職により参拝者全員に(さかき)の葉が手渡されて礼拝することに。
榊は、神と人との境目であることから境木の意味があって、木偏に神と書く神道の神事に
用いられる植物なんですね。
すごい、厳粛な雰囲気、咳一つ出せない厳かな時間帯でした。

というわけで、北海道の歴史の中では、和人が最初に登場する15世紀に早くも神社が
創建されたこと、さらに平氏と名乗る人物が鰐口を寄進したことなど驚くべき歴史があっ
た事を知り、興奮してます。
まだまだ知らないことがたくさんあります。
まさに、旅とは知ること成り!歴史を、文化を、食を、人物を。
今回改めて、そう感じました。
それでは、また次回 !

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昨日2月17日朝、旧戸井線を写真撮影しようと、国道278号線を我が家から東へと車を
飛ばしました。
旧銭亀沢村の石崎地区へ差し掛かったところ、何やら20人ほどの人数で行列がありま
した。これは、お祭りか?
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といっても、子供たちはいない。よく稚児たちの行列もありますよね。でも、歩道を行くのは
皆中年以降の男性ばかり。もっともこの日は平日で、子供たちは学校や幼稚園へ行って
いますね。といっても、子供の数はきわめて少ないですが。
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スニーカーを履いた手前の男性はお浄めか?塩を撒いている。
函館市街地から東へ行くに従って、積雪量はどんどん減っていく。路面にはほとんど雪は
ない。歩道に少しだけ残っているだけだ。
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神職の方が、軽トラックの荷台で太鼓を叩いているし、笛を吹いている方もいる。
軽トラには、幟が四方に付けられていて周りにも紅白の装飾が施されている。

ここ石崎地区は、昔石崎村でほとんどが漁業に従事している戸数200~300の地区。
沿岸部はご多分にもれず、どの地区も高齢者がかなり多い。
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ご婦人が何かを差し入れていた。男性二人が担いでいるのは、コンパクトな賽銭箱みたいな
箱。箱の周りには、寄付者の名前がぎっしりと書かれている。
聞いて見たら、お米を差し出している、とのこと。
行列の一番後ろを走る軽トラックも、同様に賽銭箱にお米がびっしりと入れられている。
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人々が、お米の入った白い紙袋を入れていっている。

行列が通り過ぎるのを拝んでいた方に聞いてみた。今日は、石崎八幡神社の春のお祭り
だそうだ。年に2回、春と夏2月17日と8月17日に行われる、とのこと。
早速、その石崎八幡神社へと行って見た。
今まで、この国道278号線を丹念にじっくりと調べてみたつもりだったが、調べれば調べる
ほど未知だったところが出て来る。
残念ながら、石崎八幡神社も名前すら知らなかったのだ。
国道から、少し50mほど山側に入るため気が付かなかったのかな?それに案内の看板も
なかった。
何とか探して、空地に車を止めて歩いていく。
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奥に、社殿に続く急な階段が見える。右には「石崎八幡神社」の石碑がある。
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ここで、ある高齢の方がいたので話をすることにした。
何と、「ここ石崎は、平家落人(へいけ おちゅうど)の人がいて、神社の鰐口(わにぐち)
を寄付しているんだ。700年の歴史があるんだ」と。
エッー、うそでしょう!と思ったけど、何人もの人が口々に同じことをいう。
その鰐口は、今函館市立博物館に収蔵されている、と。

後から調べて見ました。
確かに、その鰐口は市立博物館にあり「北海道指定有形文化財」となっている。
で、鰐口とは何か?というと、金属製の打楽器で本堂の梁などから下げて、布でよった太綱
で打ち鳴らす鈴を扁平にしたもの。
神社へ行くと、みなさん賽銭を入れる前に、正面の軒下から吊り下がった太い、まるで綱引き
にでも使用されるような縄を上下に揺らして鉦(かね)を鳴らしますよね。その鉦が鰐口です。
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実はその鰐口、1813年(文化10年)石崎村脇ノ沢の旧山神社地から掘り出されたもので、
石崎八幡神社に掛けられていたもの、と分かりました。

直径17.7cm、厚さ6.3cmの青銅製の鰐口には、
奉寄進夷嶋脇澤山神御寶 前施主 平氏盛阿弥 永享十一年三月日」とあります。
詳しく知りたい方は、石崎八幡神社または函館市立博物館のホームページをご覧になると
その鰐口の写真が分かります。

永享(えいきょう)十一年とは、1439年のこと。室町時代のことで、六代目の将軍足利義教(あし
かが よしのり)の時です。室町幕府が弱体化していき、各地で農民一揆が続発し、守護大名
が強大化、やがて戦国大名へとなります。飢饉や疫病が蔓延し社会不安となっていた時代
です。

平家は、その244年前の1185年壇ノ浦の戦いで滅亡していますが、平家の血を引く人々は
源氏の手が届かない辺ぴな場所へと逃げ延びます。いわゆる平家の落人部落。その場所は、
例えば、四国は徳島の山中の大歩危、小歩危といった人里離れた山峡の祖谷(いや)地方、
九州は宮崎県の椎葉(しいば)村、熊本県の五木(いつき)村。栃木県の湯西川だったり。
2年前に旅した能登半島の北端に近い輪島市、 下時国家上時国家もそうでした。

だから、平氏(へいし)の盛阿弥(じょうあみ)も、津軽地方に平(たいら)を姓とする豪族らしく、
その分家が「しょっぱい川」である津軽海峡を渡って来たことは、十分想像出来ますね。
平家の名を持つ人々が、京都から遠く津軽へと逃げ延びて来ていたのです。

その平氏盛阿弥が脇ノ沢神社へ鰐口を寄進したことは、十分考えられることです。
まして、盛阿弥(じょうあみ)の名は、念仏信仰に端を発する一つの文化階層に多く用いられた
らしく、地位の高い人物だったのでしょう。
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たまたま、お祭りの行列を発見しその神社を訪ねて人にい聞いたら、以上のことが分かった
のです。
近くの国道は何十回も通過していましたが、ここの神社は素通りしていました。
知らなかったのです。平家の人間が、ここの神社に鰐口を寄進していたなんて!

話は、さらに続きます。それは明日。では  

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昨日お伝えした、地図記号の標識である水準点または標準点をもう一度訪ねました。
雪が降って積もった日です。
DSCF1881



















周囲の土台が雪で隠れていますね。鳥居のマークや副標といた字が描かれていましたが。
さて、その隣の石碑です。
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従是西尻沢辺村漁業場」とあります。これより西が尻沢辺村と。
これより東が下湯川村。それでは、海に出て西と東を見ましょう。
まずは、東の下湯川村方面。現在の湯川温泉街と旧銭亀沢村や旧戸井村にあたる地域。
DSCF1879



















西方向を見ると。
DSCF1880



















函館山の麓まで続いている。そして、海岸は南に面していて、北の函館湾ではない。
ペリーが来航して、開港したのは湾側で、こちらの大森浜地区は逆サイドだ。
確かに、先日箱館歴史散歩の会の主宰者である中尾さんが指摘した通りに、ここから
西側は尻沢辺村にあたる。
それでは、その尻沢辺村が指摘通り現在の住吉町なのか?それを証明する石碑があ
るのか?
そこで、それを発見するために山麓南側に行って歩いて見ました。
立待岬(写真の左端)方面へ行って、町の長老に聞いたり、古いお寺の住職さんに尋
ねたりしましたが、誰も分かりません。
なにせ、この石碑は今から150年も前のこと。その時代のことを知っている人はいませ
んよね。

それが、青柳小学校を歩いた時、ホントに偶然だったがそれを証明する碑があったの
です。
青柳小学校については、後程詳しく紹介しましが、敷地内の一画にあった百周年の碑。
DSCF1859



















創立百周年記念」と書かれた碑、その裏側に回ると何やらたくさん書いてある。
DSCF1860



















昔の名前が「住吉小学校」それから「汐見小学校」へ。現在は青柳小学校へと変遷している。
その下に学校の歴史が書かれていた。
DSCF1861



















明治11年2月9日、住吉小学校が尻沢辺町(現在の住吉町)に開校・・・。と。
これで、理解出来ました。
中尾さんからは湾側の箱館とは違う村落だった、との説明でしたが、確かに南側の
住吉地区は、奉行所が設置された箱館とは行政地区が違っていたのですね。
幕末当時は、ここ函館山南麓は漁村である尻沢辺村だったのです。それも、海産物が
たくさん獲れた豊かな漁村だったとは?
知りませんでした。中尾さんの指摘したお陰で、いろいろと関心を持って調べることが
出来、うれしい限りです。ありがとうございました。

それにしても古い校舎の青柳小学校。
DSCF1851



















函館大火(昭和9年、1934年)後に建てられた校舎がいまだに残っています。この校舎は
体育館ですが、昨日お伝えした高盛小学校の体育館と似てませんか?同じ造りですよ。
それについても、また後日お伝えします。

では、また次回     暖かくなって、我が家の庭にはいろいろな珍しい鳥がやって
来ています。春が待ち遠しいですね。

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先日、湯の浜の海岸付近で発見した「漁場権の碑」の謎がやっと分かりました。「是より西は尻沢辺村・・・」の高さ1メートルほどの石碑のことです。昨日、函館山山麓を散策していたら、偶然その秘密が理解出来たのです。今日は、その一つである石碑のすぐそばにあった、まるで地図記号の水準点または三角点から紹介していきます。問題のこの記号の石。
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神社を示す鳥居マークが右側にあるが、副標の文字も見える。これは、国土地理院発行の2万5000分の1地図などの小縮尺の地図にある標高を示す場所にある水準点または三角点ではないか?

石は古い。もう出来てから数十年も経過しているし、最新の地図にはまったく載っていない。
でも、地図記号に違いない、と思う。早速市内が描かれている地図を調査して見ました。
近くでは、現在建設中の函館アリーナの周辺の坂の上公園にある。そこで、行って見た。
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ありました。
最初、何度も公園内を探したが見つからず、もう一度ゆっくりと公園の外側も歩いたら、フェンスの外側の崖のそばにありました。
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さらに、もっとあるのでは?と思い市内を探すことに。
自転車で20分くらいの場所、高盛小学校付近にあることが分かり発見しようと、急ぎました。
1935年、前年の函館大火(昭和9年3月)の後で、火災により多くの犠牲者が出たため、当時の内務省の指導により鉄筋コンクリート製の校舎を、市内5ヶ所に建設しました。
高盛小学校は青柳小学校とともに、その最初の建設された学校だったのです。
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この校舎の周辺にあるはずだ、と慎重に探しました。
実は、当日は平日の午前中で授業が行われているため、敷地内には入れない。ぐるっーと1周してみた。体育館が古い。年代物だ。
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後で調べたら、緊急避難場所も兼ねていたため木造ではなく、鉄筋コンクリート製の体育館を造ったそうだ。それにしても古い。カビが生えているかのよう。
暖房はどうなっているのか?よく見ると、ストーブの煙突があった。
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きっと、体育館の中に何台かの石油ストーブを設置しているのだろう。中で子供たちが動き回っている声が聞こえた。学校って、良いですね。子供の声が、元気あふれていて!
水準点または三角点はどこか?長い間探したらありました。
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敷地内でしたが、業者などが出入りする入り口のすぐそばに。さっと、行って撮影して来ました。
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縦横10cmほどの四角柱に十字が削られている。あの漁場権の石碑のそばの十字と同じだ。でも、ここにははっきりと三角点を示す案内板もあった。
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高盛小学校は、開校当時大森小学校と呼ばれたそうです。
竣工は1935年(昭和10年)12月。翌年に高盛小学校と改称しています。
当時はなんと2600人もの児童が通学していたそうです。 それでは明日は、いよいよ漁場権の石碑の謎の村が判明したことを紹介します。
では、次回!

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志海苔八幡神社の対岸、旧志苔川の左岸の高台にあるのが今日紹介する志苔館
(しのりかん)です。国道278号線は、函館市街地を走った後はしばらくの間、海岸段丘
の下の海岸線を走ります。
海岸段丘の上は、戦前国鉄の旧戸井線が走る予定でした。段丘の上は、なだらかな丘
が連続しているので、だからその土地を活用して函館空港の滑走路が建設されたので
すね。
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史跡 志苔館跡 と書かれた案内板と石碑。詳しく御覧なりたい方にズームして見ます。
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ここは、14世紀の後半から末にかけて建てられた中世の城館跡です。小林左衛門良景
によって築かれた道南の十二の館の一つです。
規模は、東西70m~80m、南北50m~65mの面積4100㎡の広さがあります。
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土塁の上の上がって見たら、結構広い。ただ、土塁のすぐそばまで工場や民家が隣接
している。
実は、ここの城跡の南西100m地点で、越前焼珠洲焼の大きな甕(かめ)3個の中から、
何と387,514枚の中国の銅銭が出土したのです。
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函館山が見える見晴らしの良い高台ですね。
古銭として40万個近い発見は、日本最大で「北海道志海苔中世遺構出土銭」として国の重要
文化財となっています。現在は、函館公園内の市立函館博物館に収蔵されています。
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松前藩の歴史を記録した「新羅之記録(しんらのきろく)」に道南十二の館が記されていて、
これらは渡党領主の館である、と。
分かりやすく説明すると、14世紀アイヌの土地であった蝦夷地は、水産物の宝庫だったが
そのお宝を狙い本州、特にみちのくから何人もの有力者が「しょっぱい川」の津軽海峡を
渡って来た。彼らは道南、函館周辺に12の城を築いた、ということです。
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戦前の1934年8月9日に史跡として指定されています。
ここでは、大量の小銭の他に、15世紀前半の青磁、白磁、珠洲焼(珠洲は石川県能登半島
の最北東端の町で、北前船の日本海経由で渡って来たのだろう)、越前焼、古瀬戸など数々
の陶磁器が出土しています。
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1456年というから、室町時代8代目将軍の足利義政の時です。アイヌの男性が和人の鍛冶屋
にマキリ(小刀)を注文しますが、その時口論となり和人はアイヌ青年を刺殺します。
そこから、渡島半島頭部の首領コシャマインを中心に和人たちに対して蜂起し戦争となりました。
これが、日本史に登場する有名なアイヌ人の反乱であるコシャマインの乱(1457年)
です。
ここ志苔館は、その時に落城、陥落しています。
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反乱が起きた翌年の1458年武田信弘はコシャマイン親子を弓矢で射殺し、アイヌ軍は崩壊、
敗北しています。
製鉄技術を持たなかったアイヌ人たちは、海産物や毛皮など自分たちの持ち物と和人たちの
鉄製品を交易していたが、言葉や文化の違いなどでさまざななトラブルがあったことでしょう。
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武田信弘は、若狭(福井県)武田氏の一族で、江差の近くの上ノ国花沢館主の蠣崎季繁
(かきざき のりしげ)の婿養子となり以後蠣崎氏を名乗ります。その後は松前守護職へ、
そして江戸時代松前氏と改称して松前藩を形成することになりました。
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奥の土地が低くなっていて、沢を形成しています。滑走路が出来る以前は志苔川(しのりかわ)
が流れていたが、今は滑走路の下を流す水路の水が細々と流れる程度。
対岸(函館山寄りに、昨日紹介した志海苔八幡神社があります。
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というわけで、今日は函館市近郊の中世の城郭であった志苔館とそれを落城したアイヌ人
コシャマインの乱、さらにはそれを鎮圧した後の松前氏の歴史を学習しましたね。
調べれば、今まで知らなかった歴史がたくさん埋もれています。勉強になりますねぇ。
これからも、歩ける限り歩き歴史を知っていきたい、旅をしたいです。
それでは、また次回 

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ここは一度訪問しています。昨年夏2014年7月4日のブログに載せていますが、その時は
真夏の緑生い茂るうっとうしいくらいの暑い季節。今回は冬の氷点下の寒い季節。
季節が変わると、見る風景も変わりので、もう一度訪問しました。
国道278号線を、出発点の函館駅から走ること約8km地点、津軽海峡に面した海沿いを走
ると山側に神社の石碑があります。
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ここから歩いて行って見よう。志海苔八幡神社
しのり”は漢字で書くと志苔志海苔・志濃里・志法などありますが、ここの神社は志海苔。
だけど、昔の地名は志苔村です。
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白い鳥居をくぐり階段を登ると、そこにある社殿。さらに近づいて見る。
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天正年間というから1573年~1591年の織田信長から豊臣秀吉の時代に、村の館主の
小林三左衛門が建てたそうで、今から500年以上も前の話。
1876年(明治9年)には、村の守護神になっています。つまり村社となるわけです。
現在の建物は、戦後の1949年(昭和24年)8月に改築されています。
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奥にあったのが、志海苔町会館。数台の駐車スペースがある。
境内の左側(西の方向)を見ると、
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小さな祠の横に、何やら金精様のよう大きな石が立っている。注連縄があって祀られている。
きっと安産の神を祀っているのかな?などと勝手に想像していたら、石の下に何やら文字が
彫ってある。
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よく見ると、「」の文字が見えた。その横は石。つまり力石。漁師の多いこの地区、昔
力自慢の漁師たちによって、祭りの時などにこの100kgはありそうな大きな石を持ち上げ
ていたのか?そんな力石でした。
あぁー、金精様なんて思ったのは大きな誤り、とんだ勘違いでした。

境内の右側を見ると。
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大正二年八月に造られた紀念碑。陸軍大将、志苔村の文字も見える。
大正2年というと、1913年のこと、今から100年以上も前のこと。
漢字ばっかりで、訳すのも面倒なので意味は分からないが、想像するに、八幡神社と軍
の関係で紀念したことか?八幡宮は応神天皇を祀った神社で、弓矢の守護神として武士
が尊んだ神社。軍神を祀っていますからね。

たまたま戸が開いたので内部を撮影出来ました。
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左側に架かっている額は「戊申詔書(ぼしんしょうしょ)」。
1908年(明治21年)10月14日に官報により発布された明治天皇の詔書です。(みことのり)
とは、天皇の命令、またはその命令を直接に伝える文書のこと。
日露戦争(1904年~1905年)後の社会的混乱などを是正し、今後の国家発展に際して必要な
道徳の標語を国民に示そうとしたもの、だそうです。
右側には「教育勅語」の大きな額があった。
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1980年(明治23年)10月30日、政府の教育方針を示す文書で、教育に関しての勅語です。
勅語とは、天皇の意思表示のことば。
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左右の壁には、様々な絵があって詳しく観察すればいろいろ意味が分かるけど、長く居たら
不審者と思われかねない。拝礼して早々に失礼しました。
感謝を込めてありがとうございました、と。

明日は、空港が完成たため埋め立てられて沢になった旧志苔(しのり)川左岸の城跡へと
向かいます。
14世紀に建てられた城です。どうぞお楽しみに!

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昨日の川濯(かわすみ)神社の社殿がある裏側は、柏の木が生い茂るちょっとした森になっ
ている。そこについている踏み分け道を歩くと、旧戸井線の今は市道となっている道路に出る。
旧線路跡地の二車線アスファルト道路を進むこと300メートルくらいか、海側に松の木の茂る
場所があった。
そこへ入り込むと、小さな慰霊碑があった。
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151号機殉職者慰霊碑」と書かれている。裏に回ると、何か説明文が書いてある。
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昭和35年2月24日午前9時50分、海上保安庁所属のシコルスキーS55型ヘリコプター151号機
が訓練中に突然墜落炎上4名が殉職したこと。3名が海上保安庁函館航空基地、1名は全日空
の職員。
函館空港が開港するのは1961年(昭和36年)のこと。やっと1200mの滑走路が完成している。
函館空港に関して有名な事件は二つある。一つは、1978年(昭和51年)当時ソヴィエト連邦の
戦闘機ミグ25でベレンコ中尉が亡命して来たことだろう。

二つ目は、1995年(平成7年)の全日空857便のハイジャック事件だろう。この年の3月オウム
真理教の東京地下鉄サリン事件があり、それを模倣して水の入った袋をサリンだ、といって空港
内でハイジャックした事件だ。乗客の中に歌手の加藤登紀子さんがいたことで一躍有名になった。
脱線したが、昭和35年だと函館空港空港はまだ建設中で、海上保安庁のヘリコプター基地は
まだない。
事故の原因は、2月冬の季節、天候も悪く、突然海からの突風が吹くことだってありうる。
今から半世紀上も前のこと、ヘリコプターの性能も今よりは悪く、墜落事故が起きた、ということか?
そして、ここはというと。
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当時、宇賀小学校の敷地があった場所。錆びついたグランドのフェンスが支柱だけ6本残って
いる。1本は今にも倒れそうで他の柱に寄り添うように倒れ掛かってる。
その横には、錆びて使用できない鉄棒が、誰も利用されずに残されていた。
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ここで、逆上がりなどやろうものなら途中でポキンと折れそうだ。
グランドは、ススキなど雑草が生い茂っていて、野球などとても出来やしない。
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遠くに見える松林へ行って見た。雑草を踏み分けて行ったら、野ばらトゲのある木に引っ掛か
ってズボンに傷がついてしまった。
海側に校門らしきものがあった。
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子供たちは海側の国道から歩いて坂を登り、ここへ来たのだろう。だから、校門の両側には
坂道があった。
東の方向。
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津軽海峡を挟んで、遠くに下北半島が見えた。国道は30mくらい下。
西側を見る。
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函館山が見えた。坂はどうなっているかというと。
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急な階段が下まで降りていた。
校門を入ると、すぐに碑があった。
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宇賀小学校跡、と書かれている。函館市長 矢野 康とある。
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沿革を要約すると、明治時代の初め子供たちのために学校が必要と、村民が258円を
出し合って学校を造った。明治13年9月13日志苔学校を、明治17年には根崎学校を。
明治23年には両校が統合し宇賀簡易科小学校へとなる。
しかし、昭和35年8月にはすぐ近くに1400m滑走路(現在の函館空港の前身)が完成した
ため騒音問題などで移転せざるを得なく、昭和47年(1972年)銭亀小学校と合併し、離れ
た場所に東小学校が完成した。そのため、1880年開校の92年という長い歴史を誇る宇賀
小学校を閉校する。
という事が書かれていた。

裏には、当時の校歌があった。
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今から135年も前のこと、当時ここは小さな漁村であったはず。漁師さんたちは、自分らの
子供のためには読み書き・そろばんなど最低限の教育が必要と考え学校の必要性を訴え
て建設されたのだろう。
村民自ら学校のための資金を出し合い、学校を建てるなんて、なんて素晴らしい人たちだ
ったんだろう、と思わず驚嘆してしまいました。驚きです!偉い!

というわけで、旧銭亀沢村さらには元旧根崎村の学校跡地を紹介しました。
それでは、また次回

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