函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で12年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2025 年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2025年が明け今年は73歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2015年03月

にほんブログ村 旅行ブログ 日本一周へ 積雪がゼロになってしばらく経過しましたが、ここ数日気温が10度を越え、昨日などは何と15度まで上昇、そうなると今まで土の中で眠っていた花たちが一斉に開花し我が家の庭をカラフルに彩っています。 水仙やチューリップはまだまだですが、春の早い時期に咲く花を紹介します。 春一番の花といったら、クロッカス。
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白い花だけではなく、紫色の花も。
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さらには、パンジー。
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昨年秋の購入し、越冬しました。冬の間、雪に埋もれていましたが、見事に開花。 仲間のビオラも同様に開花しています。
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桜が咲くのは4月末か5月のゴールデンウイーク辺りですが、桜草はこれからが旬。
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というわけで、春の花が咲き始めました。

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椴法華地区には、江戸時代にはお寺がなかったのです。だから、前回の椴法華村の
寺町の寺町はすべて明治時代に建てられたものばっかり。
それまでは、隣町の尻岸内まで歩いて峠を越えて行き、葬儀などを行っていたそうです。
そんなわけで、椴法華地区、今では人口1000人にも満たない小さな寒村ですが、お寺が
3つも連なっていたのでした。

さて、今日3月30日からついにBS・NHK「こころ旅」がリ・スタート。火野正平さんが再び
チャリンコに乗って和歌山県から北へ向かって出発しました。
そういう、自分も今週末の4月4日土曜日いよいよ待ちに待った「春の旅」スタートします!
4.4から旅のブログ始まりますので、乞うご期待!お楽しみに 

今日は、椴法華の数少ない砂浜海岸をお伝えします。
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右側、山が海まで迫っている。波消しブロックがあって、昔は海岸線に沿って細く険しい道
が続いていたが、今は左に長いトンネル(2本合わせて4km)が掘削されてとなりの集落と
つながっています。突端は銚子岬。「ちょうしみさき」と読むが、銚子なんて千葉県犬吠岬
を思い出しますね。
ズームして見よう。
一部荒波で損壊しているところもあるが、道路が付いていたことが分かりますね。
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一方、長大なトンネル。
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ここを自転車で走ると、長くて寒くなりおまけに時折通過するトラックに煽られて怖い!
天井にライトが付いているが、それほど明るくなく、4kmの道のりが暗闇の中を長時間
走っているかのようだ。
海を見よう。
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キレイな砂浜。果てしのない水平線、どこまで続いているのだろう?
南側を見ると、活火山恵山(618m)が見える。
前浜は「恵山魚田」と呼ばれる魚の宝庫。沖合では、イカ、タラなど。沿岸ではコンブ、ウニ
などが獲れる。
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毎年、この浜でサーフィンの大会が開かれている。
まさに、ここは北のサーフィンのメッカ、椴法華サーフビーチ
原っぱには、こんな看板があった。
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もう少し暖かくなると、道内から大勢のサーファーが訪れるけど、さすがに今はまだ寒い!
国道を挟んで山側にはこんなレストランがあった。
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きっと、海とサーフィンが好きで開店したのでしょうね。
とっても素敵な夢のあるお店でした。
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というわけで、椴法華サーフ・ビーチからお伝えしました。

春の旅スタートまで、あと5日!

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今日も椴法華地区を歩いて見ます。
まず、お寺が目に付きました。
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妙顕寺、日蓮宗のお寺です。創立は、1896年(明治29年)とのこと。日清戦争終了した
翌年開いていますね。
続いて、大きな山門のある大龍寺。開いたのは、1889年、明治22年7月5日です。
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このお寺、函館の高龍寺の末寺として建てられました。
山門から入って見ましょう。
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大きな門ですね。
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雪が多くて、参拝が出来なかった。入り口くらい除雪してもいいのに。
きっと、冬期間は誰も来ないのかな?
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次に光圓寺。これまた明治34年、1901年、20世紀に入った年に開いています。
函館の称名寺の許可を得て開いたそうです。
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寺町を形成している場所に、地区で唯一の小学校、椴法華小学校があります。
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創立は、1880年(明治13年)4月。4月5日が創立記念日になっています。
何と、1945年(昭和20年)7月15日のアメリカ軍の空襲で校舎が焼失しています。こんな
田舎の学校まで焼き尽くすことはないのに!ヒドイですね!

学校のピークは1959年(昭和34年)で、14学級、男子332名、女子338名の計670名と、
この頃は漁業も盛んでベビーブームの時だったのですね。平均すると1クラス48名の
マンモス学級だったのです。ギュウギュウ詰めの教室が想像出来ますね。
ちなみに、明治43年(1910年)の記録では、男子157名、女子117名の274名。
以前にもブログに載せましたが、明治の時代義務教育となりましたが、地方では女子には
教育はいらない、と学校へ通わせない今ではネグレクトの保護者が多かったのです。
資料を見ると明治6年、1873年では小学校への就学率はわずかに28%、72%が未就学者
です。28%の就学児童の内訳は、男子が75%で女子が25%で、いかに女子への偏見があ
った時代かということが分かります。

一方、椴法華中学校
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創立は、さすがに戦後。1947年(昭和22年)。4月1日に許可が下りて6月1日に開校、だから
6月1日が開校記念日。
ピーク時は1967年(昭和42年)で8学級、男子143名女子138名の計281名。
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平成に入り27年たった今は、全校生徒は何人なのだろうか?部活動は満足に行われている
のだろうか?
野球部が試合を出来るメンバーがいるのだろうか?サッカーで11名揃うのは無理なことか?
とても心配になります。

というわけで、旧椴法華村からお伝えしました。
ではまた次回    庭に花が咲いて来ました。


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椴法華村、その読みは「とどほっけ」、その意味は昔、この地から中国(唐)へ渡った法華教の
僧がいたことから、唐渡法華→椴法華となった。
という話がありますが、ホントのところはアイヌ語。トトポケ(岬の陰)という意味。
確かに恵山の山によって午後は陽が射さないので、まさに陰なのです。

その村の守り神は、八幡神社。 
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村社となっている。平地がほとんどない椴法華地区、急な階段を登って社殿へ向かう。
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社殿は、一部建てなおしたらしく新しい木材を使った部分がある。
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左右の狛犬を見よう。普通どこの神社も石造りだが、何と青銅製だ。近づいて細かく見よう。
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裏側には、寄贈者と製造元が書かれていた。
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何と!寄付した方は、広島県のお人。備後の国 、上竹田村。
製造は大阪の会社で、時代は昭和4年5月。1929年というから世界恐慌のあった年です。
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龍の彫り物がケバケバしい色。
この神社、創建は延宝(えんぽう)年間。延宝とは、1673年から1681年までで、江戸時代
の前半、4代将軍の徳川家綱の時代。1673年の出来事としては、初代市川団十郎が江戸
で初の歌舞伎を始めている。
そんな年に、当地の飯田與五右衛門が創立したそうな。
当時は、恵山山頂に奉祀されて、社号は恵山八幡宮。
屈強な漁師の男たちは参拝出来ても、老人や女性、子供たちはお参り出来ない。
そこで、19世紀前半、箱館で大きく稼いだ淡路出身の豪商の高田屋嘉兵衛が現在地に移
した、とのことです。

社殿の内部を撮影しました。
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ここは、元村稲荷神社秋葉神社を合祀しています。つまり、地元の二つの神社と合併
したわけです。というより吸収合併。
明治43年9月14日に元村稲荷神社を、さらに戦後の昭和22年10月18日に秋葉神社を
合併しています。
元村稲荷神社は文政年間(1818~1830 江戸時代11代将軍の徳川家斉の時代)に
創建されてるから、これまた古い神社だが氏子さんが少なくなって維持できなくなったの
だろうか?

秋葉神社に関しては、その総本山(静岡県浜松市最北の長野県県境付近)を2013年10月
に訪問しています。その時に知ったのが、東京の秋葉原の名の由来は、秋葉神社がある原
っぱがあった、とのこと。つまり、AKBの名は、秋葉神社から来ているのですね。
火の神様、秋葉神社は江戸にもあった、その場所が現在の秋葉原だったのです。
2013.10のブログをご覧いただけたら入れうれしいです。
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こんな小さな漁村でも、第二次世界大戦、太平洋戦争ではアメリカ軍の空襲があり村民4名が
犠牲にあっています。
この日は、函館空襲の日でもあり、全道各地で米軍機の機銃掃射を受けています。
椴法華では、灯台を攻撃し、その犠牲に4名が亡くなりました。
そして、日露戦争(1904~1905)の戦没紀念碑がありました。
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裏に回ると、21名の方の名が刻まれている。
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陸軍歩兵12名、陸軍砲兵2名、陸軍工兵3名、兵科4名の計21名。その内、戦死3名、負傷5名。
日露戦争に従軍し戦死した函館区の総数は陸軍85名、海軍3名の合計88名。
当時亀田郡は函館区内だったので、陸軍戦死者85名の内の3名は、ここ椴法華から出征した
若者だったのです。
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この物置には、毎年8月10日と11日に行われる八幡神社例大祭の時に使用される山車が
入っているのかな?

というわけで、人口1000人足らずの小さな魚村である椴法華地区の青銅で出来た狛犬を
拝見しました。青銅製は珍しいですね。
では、また次回! 

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昨日の続きの、恵山岬灯台公園から。場所を確認するため、古い地図が描かれた看板を
御覧下さい。
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今いる場所は、地図の左下。水無海浜温泉の坂を登ったところ。灯台の絵も出ていますね。
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様々な遊具がありましたけど、遊ぶ子供たちは一人もいない。それもそのはず雪が残り
まだ寒すぎるからだ。これじゃ、外で遊べない!
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そこで、椴法華漁港へ行くことにしました。車で5分くらいか?
途中の坂道で集落を見る。
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漁港が見える。裏側が崖、正面が海、わずかな平地にへばりつくようにして民家がある。
ズームして見ましょう。
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裏側の山が、もし土砂崩れでも起きたら恐い!海が津波だと、どこへ逃げるのか?
この辺一帯の漁村は、ほとんどこんな感じの民家が続く。

遠くの山を見ましょう。
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600mの丸山が見える。この山の山頂付近を林道が走っていて、以前オフロードバイクで通過
したことがあります。林道の両側は無数の白樺林、時折エゾシカの姿も見え感動したものです。
オフロードバイクだからこそ走れたけど、車じゃ無理の道だった。
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漁港に下り、漁船を見ます。
今は、陸揚げされて、修理でもしているのか、たくさんの船がある。
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まるで、汽車が走るレールのようだ。ここを通して、そのまま海へ出易くするのだろうか?
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沖合では、ホタテの養殖が盛んに行われているが、その解禁日まで待っているのかな?
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船外機付きの小さな船は、コンブ獲りに使用されるのでしょうか?
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高い場所に上がって、みて見よう。
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これは、一人か二人くらいしか乗れないのでは?
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ほとんどがヤマハの船外機。そういえば、今年のラグビー日本1は、ジュビロ・ヤマハ発動機
でした。甥の笠原雄太(七飯高校から流通経済大学、ポジションはフォワードのロック)が
昨年までキャプテンをしていて、今年は期待が持てました。清宮監督を迎い入れて年々上位
へ、ついに宿敵サントリー・サンゴリアスを破って初優勝しました。
ヤマハ強いぞ!
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どんな漁をしているのだろう?
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大きな船は、マグロ延縄漁船だったのですね。そういえば、津軽海峡はマグロが獲れる。
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というわけで、マグロ漁の盛んな椴法華漁港からお伝えしました。
それでは、また明日       

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朝起きたら、一面真っ白。今まで暖かい日が続いていたので一気に春到来か?とひそかに
期待していたのに、そうは問屋は卸さなかった。やっぱり、北海道では3月は冬の季節。
「マッサン」が終わった8時15分過ぎには、太陽が顔を出してきてうっすらと積もった雪も融け
るでしょうが、先日苦労してせっかく種を蒔いたミニ畑が少し心配です。
まぁ、仕方がないですね。3月に種まきなんて、早くやりすぎたかな?

さて、昨日の続きです。
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はるかなる太平洋を望む恵山岬灯台。灯台というのは、どこも孤高ですね。辺ぴな場所で
航海の安全を照らす光をもたらす灯台。
今まで見た中で、感動したのは岩手県重茂(おもえ)半島にある本州最東端の魹ケ崎(とど
がさき)灯台。(2013年5月のブログに記載しています)。下北半島最東端の尻屋崎(2013
年4月)。さらには、能登半島最北端の禄剛崎(ろくごうさき)(2013年10月)。秋田県男鹿半
島の最西端にある入道崎(にゅどうさき)(2013年10月)。同じくその二日後に青森県竜飛
崎など、あちこち訪問していますがどこも一人ぼっちでたたずんでいる、という感じでまさに
孤高の人、です。

散策していたら、こんな建物がありました。
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恵山岬灯台資料館ピカリン館。
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残念ながら、3月末までの冬期間閉鎖です。見たかったのに・・・。
北海道ではよくあること。人が来ないのですからね。
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人を寄せ付けない、岩肌が男性的な荒っぽい海岸線。
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いつかは行って見たい太平洋の向こう側。いつになることやら・・・?
こんな面白いオブジェがありました。
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流れ着いた材木を彫刻したのだろうか?「バンザイ」とある。
ホントに万歳しているような!?
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これまた荒々しい、山頂付近には草木一本すら生えていない恵山がそびえている。

というわけで、恵山岬からお伝えしました。
ではまた明日  

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本州では、桜の開花のニュースが聞こえています。西日本では、もう既に春なのですね。
気温が20度を越えたり、北海道では信じられない数字です。温暖な函館でもやっと、二桁
になったばかり。昨日が11度で、日の光が暖かくく感じたほどですから。
桜の花が咲くのは、5月のG・Wの時期か?まだまだですね。

さて、以前に恵山岬のワイルドな野天風呂を紹介しましたが、今日はその周辺をお伝えし、
春まだ遠い人里から離れた無人の灯台を取り上げます。

まずは、前回の水無海浜温泉の海岸から。
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岩がゴツゴツしていて、見るからに荒涼としている風景です。
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バブルの頃は、ここに旅館があったが、今は看板を撤去し営業していない。海を見渡せる
露天風呂が売りだったが・・・。
裏に見える崖を登ると、公共の宿「恵風(けいぷ)」がある。
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2004年函館市に編入される以前は、椴法華村の村営のホテルだったが、現在は函館市の
経営に代わっている。3階には、宿泊者だけが浸かれる温泉もある。
周辺を歩いて見ました。
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とっても、荒々しい海岸線だ。突端が見えるが、まったく道はない。踏み分け道すらない。
向こう側の旧恵山町御前(みさき)地区とは、活火山、恵山の険峻な崖がストンと太平洋
に落ち込み、人が歩ける道すらつながっていないのだ。
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前方は、水平線が遥か彼方まで広がる太平洋。まったく島影がみえない。
歩いて行くと、太平洋を見下ろす高台に、ポツンと凛々しい姿を見せる恵山岬灯台があった。
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なかなかカッコイイですね。
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この恵山岬灯台、点灯は今から125年前の1890年(明治23年)のこと。
前年の1889年に大日本帝国憲法が発布され、この年第1回衆議院議員総選挙が行われて
います。
4年後の1894年になると、日清戦争、14年後の1904年は日露戦争と戦争の道を歩んでいく
のです。
そんな時代に、灯台が建設され点灯したのです。
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北緯41度48分55秒、東経141度11分、00秒。光の届く距離は18カイリで33km。
地上から19mの高さにあり、水面からは44mの高さ。

オッ!ここにもエゾシカの足跡が。そして、糞まで発見!
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大豆くらいの大きさで、まるで大きな小豆(あずき)のようだ。草食だから、ほとんど臭いはない。
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周辺の山々に住んでいて、冬眠しないし、冬でも人里に出没しています。
以前、山の中をオフロードバイクで走行中、崖の山側から谷側へジャンプして走り去った姿
を見て、感動した時がありました。なんて、美しい姿なんだ!と。
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今は無人となった事務所ですかね?窓枠が板でふさがれています。
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というわけで、明日またよろしく!  

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石川啄木一族のお墓がある墓園には、さまざまなお墓がありましたので、紹介します。
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立待岬方面から墓園を望みます。右手にあるのは、昨日お伝えした石川啄木一族の
お墓と義弟の宮崎郁雨のお墓。
この坂を下っています。
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細菌学者の小池 毅(こいけ つよし 1874年~1898年)さん。
ペストが流行した台湾の地で、自らもペストにおかされ若くして(24歳)逝った、日本細菌学会
の隠れた先覚者です。
函館で開業医をしていた兄を頼りに、母とともに函館に来て弥生小学校へ入学、その後は軍医
へ。1897年(明治30年)ペストが大流行していた台湾(1895年の日清戦争後の下関条約で台湾
は日本領へ)で医療・研究に従事するも、不幸にも自らペストにおかされ、1898年(明治31年)
2月28日、24歳で亡くなります。
そんな立派な人が函館出身だったなんって知りませんでした。
野口英世かシュバイツァーか、といった偉人の一人ですね! すごい人がいたもんだ!
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育児の墓」もありました。
1868年というから明治元年、函館の槇山淳道という医者の提案で杉浦嘉七などが資金を
提供して、当時多かった窮民の子供たちや捨て子の面倒を見る「育児講」を建てたそうです。
いわゆる保護者が育児放棄(ネグレクト)した子供の施設みたいなものですね。
このお墓は、その育児講での養育中に不幸にも亡くなった子供たちのお墓です。
そんな可哀想な時代が150年ほど前にあったのですね。
育児講は、その後育児会社へ、さらに慈恵院、そして厚生院へと変わりました。
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函館山が見える海のそばの高台にある墓園です。
ロープウェイがもうすぐ山頂へ着きますね。
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函館犬猫病院院長の函館大典先生。そういえば、30年ほど前に、私の教え子に函館君
という生徒がいたことを思い出しました。きっと、由緒ある苗字なのでしょうね。
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たくさんの観音菩薩像が雪をかぶって置かれていました。
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1955年(昭和30年)というから今から60年前のことです。久村道南病院(現在の住慶クリニック
とその老人ホーム)の敷地内の大池で、23体の菩薩像が埋もれていたそうです。
そこで、供養のため称名寺地蔵堂に預け納めらましたが、1980年(昭和55年)8月16日病院改築
を機に再びここ地蔵堂に迎い入れて入魂の儀をし、当病院の守護菩薩として、病院関係者・患者
さんたちなど多数の方々に崇拝されているとのこと。
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実は、23体の菩薩は、1871年(明治4年)から1883年(明治16年)にかけて造られたもので、
背には「年月」と「海上安全」が書かれています。
これは、先ほど育児講で登場した資金を提供しスポンサーとなった杉浦嘉七が関係しています。
杉浦嘉七は、江戸時代の天保年間(1830年~1843年)の末期に十勝・幌泉の両場所の請負人
で、いわば網元か?福島屋の名で、本店を箱館に置いて営業していたそうです。
その福島屋の船子の航海安全と受難者の冥福を祈るためと商売繁盛を合わせて、この菩薩像
を造ったそうで、発見された病院は福島屋の別荘のあった場所だったのです。

その病院は、今こうなっています。
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以前のブログの「住三吉神社」の参道の右側にあった病院でしたね。

地蔵堂は、こんな建物。
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称名寺のものとは、知りませんでした。
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坂を下りて振り返ると、立待岬がくっきりと見える。
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あの小山の中腹に墓園の中に、石川啄木始め今日紹介したお墓が拡がっています。
東側を見ると、亀田半島が見える。
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波消しブロックの上には、日向ぼっこしているカモメたちが心地よく休んでいた。
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というわけで、今日はここまで。
それでは、また次回!


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函館山の南東端に立待岬があります。森昌子の歌にもありますが、津軽海峡に面し
た風光明媚な場所でもあり観光客がよく訪ねて来る場所でもあります。
そこへ、足を運んでみましょう!

市営の電車に乗って、終点「谷地頭」で下車。徒歩10分くらい。
途中で、可愛い雪だるま発見!
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まだ、2月の中旬だったので、市内には雪が残っていました。
岬に向かって歩くと、道路は積雪のため通行禁止。
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車両は通行禁止だけど、歩行者は、横から抜けて行ける。
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立待岬への矢印がありますね。幅50cmほどだが、何とかスルー出来そう。
雪道を踏みしめて坂道を登って行くと、100mくらいで石川啄木の墓地に到着。
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石川啄木は、知っての通り岩手県の生まれ。1886年2月20日岩手郡日戸村(当時)で
誕生、死没は1912年4月13日東京市小石川区(当時)で、わずか26歳の命でした。
ここ、立待岬の墓地には啄木と妻節子、3人の子たち、両親などが眠っています。
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東海の  小島の磯の  白砂に 
われ泣きぬれて  蟹とたわむる

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ふるさとの岩手の地を、石もて追われて逃げ延びて来た一族の墓です。

啄木が函館に住んだのは、1907年(明治40年)5月から9月までのわずか5か月。
それでも「死ぬ時は函館で」と彼が云っていたのは、文芸結社の苜蓿社(ぼくしゅくしゃ)の
同人ら仲間の温かい友情に支えながらでした。
離散した家族を呼び寄せ、明るく楽しく生活出来たのでした。9月の函館大火の時までは。
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墓地は、函館市内を見渡せる高台に建てられています。
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遠くに戸井方面、汐首岬が望める。
明治45年4月の死後の翌年1913年(大正2年)3月、啄木の遺骨は節子未亡人の希望で、
函館に移されましたが、彼女も2か月後の5月にこの世を去ります。
1926年(大正15年)8月、義弟の宮崎郁雨や函館市立図書館館長の岡田健三らの手で
墓碑が造られます。
それが、ここでした。
函館山も望むことが出来る地です。
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そして、そのとなりには、宮崎郁雨ら一族の墓地があります。
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宮崎郁雨(1885~1962)は歌人であり、石川啄木夫人節子の妹の夫でもあります。
つまり、二人の夫人は姉妹、啄木と郁雨は義兄弟ということですね。
義兄にあたる啄木一家を物心両面にわたってサポート、啄木の詩後も墓碑を建立、
さらに「啄木を語る会」も発足させています。
郁雨は、新潟県荒川村の出身。故郷で没落した父は、母の実家のある函館へ。
そこで、歌人仲間として啄木と出会います。
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郁雨は、啄木の家族(妻と子供たち)を託されて自家の貸家に居住させます。
1909年(明治42年)10月26日、節子の妹堀合ふきと結婚、啄木の借金150円(現在の
150万円くらい)も返済しています。
啄木の死後、函館図書館に啄木文庫を造っています。

私が子供のころ、湯川温泉街のはずれにバブルの頃に倒産した北海道拓殖銀行の厚生
施設「郁雨荘」がありました。そのころは、郁雨の意味が分からなかったのですが、宮崎
郁雨の名から取ったのですね。恥ずかしい限りです。

というわけで、義兄弟である石川啄木と宮崎郁雨の墓地を紹介しました。
それでは、また次回!

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今日も引き続き函館市立青柳小学校を紹介していきます。

青柳坂の上にある青柳小学校は、函館山の中腹の標高50mほどに位置するだけあって
見晴らしがとても良いです。2階の屋上に上がったらきっと素晴らしい景観が見れるでしょう。
夏、緑の島からの花火大会などキレイに見えるはず。夜景も美しいでしょうね。

さて、その青柳小学校の校庭に少しだけ入って見ましょう。
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行幸記念碑とあるこの碑。1934年(昭和9年)3月の大火の慰霊のために訪問されたの
でしょうね。死者2000人以上を出した最悪の大火、昭和天皇だけではなく、多くの方が
慰霊のため函館へ足を運んでいます。
以前のブログでも紹介したことがありますが、この年ベーブルースを始めとするアメリカ・
メジャーリーグの選手たちが来日し、日本各地で連戦後11月の肌寒い日青函連絡船で
来函、湯川球場で試合をしています。
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それほど昭和9年の函館大火は、世界的なビッグニュースであり悲惨な出来事だったのです。
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創立百周年記念の碑があります。38年前の1977年(昭和52年)に建てられたものです。
前身の住吉小学校と汐見小学校の校歌があります。
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沿革に、明治11年に創立されたことが書かれていますね。
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校庭から離れて周囲を歩いて見ましょう。
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山の斜面に建てられているだけあって、校舎の裏側、西側は高い崖になっている。
高さ5mはあるだろうか?冬の午後はあっという間に日が射さなくなってしまいそう。
山の陰に入ると3時過ぎには暗くなりそうです。
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冬の間は使用不可能のプール。というよりは、夏の短い間だけしか利用出来ない。
7月と8月の後半、9月の初めくらいかな?外のプールは利用期間がとても短い!

歩いていたら、こんな石碑があった。「函館工業教育発祥の地の碑
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明治40年8月函館大火の後、明治44年2月4日函館区立工業補修学校の設置をし、
同年5月15日旧住吉小学校の校舎(それこそここ青柳小学校)を仮に開校した、ことが
書かれています。
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周囲をさらに歩いて見ると。
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石川啄木が居住した地がありました。
そういえば、啄木の歌に、
函館の青柳町こそかなしけり 友の恋歌 矢車の花」がありましたね。
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この小路のどちらかに住んでいたのですね。
青柳坂の道路を見ると。
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右が青柳小学校の校舎。そして、なにやら素敵な家が左側に見えますね。
この建物、青柳坂に面する正面玄関の向かい側にある青柳町町会館。
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下見板張りの素敵な建築物ですね。
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玄関がまた凝った造りです。
市営住宅もカッコいい!こんな市営住宅なら住んでみたい!民間アパートよりはずっと
リーズナブルだし、備えもしっかりしているはず。
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昔、といっても明治時代から戦前までの話ですが、函館は日本の10大都市に入っていました。
東京以北最大の町だったのです。その頃の商人たちは大きな蔵を建てました。それが、市内の
あちこちに残っています。
例えば、ここ青柳町でも見られます。
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市内には、100を越える蔵があるそうで、山麓の西部地区を歩くだけでもいくつも発見出来
ますよ。
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最後に、唐草館という素敵な建物がありましたのでパチリ!
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淡い緑色の壁が良いですね。上下に開く窓が素敵ですね。
以前は、喫茶店でしたが今はどうなっているのでしょうか?詳しく拝見しませんでしたが、
観光客には見ていただきたい建物ですのでオープンしてもらいたいですね。

ということで、青柳小学校とその周辺をお伝えしました。
一月前の2月の中ごろでしたので、積雪が結構ありましたけど今は全くありません。
函館は道内では雪融けは早く、積雪ゼロ、我が家の庭ではクロッカスが咲いています。
早く来い!来い!春!!
ではまた次回!

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昨日、今日と今年初めて10度を越えて外出しても暖かく感じてきました。春間近です。
市内には、雪は全くなくなりましたが、今日のブログには雪がたくさん登場します。
一月前の2月、雪がまだまだ残る函館山山麓を散策したのをもとにアップしています。
今日は、1878年(明治11年)に開校して実に今年で138周年を迎える青柳小学校をお
伝えします。
場所は、青柳坂の上。
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明治11年2月9日、住吉学校として開校し、5年後の明治16年現青柳町に移転しています。
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ここは、青柳坂に面した教職員玄関。
南側に行くと、子供たちの玄関がある。この日は、「来賓入り口」と書かれた看板があり、
入学式のセレモニーがあったのか、または卒業式の練習?
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この校舎は新しいけど、右側(東側)の校舎は、見るからに古い。
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今は使用されていない門柱と階段があります。塗装されていない右側はさらに歴史を感じ
させる。
実は、右側のコンクリートむき出しの壁は体育館。
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この日は、日曜日でしたが子供たちが奏でる吹奏楽部の軽やかな演奏が聞こえてきました。
きっと、卒業式に演奏する練習日なのでしょうか?外から聞いていただけでしたが、とても上手
でしたよ。
この丸窓の体育館、実は、1934年(昭和9年)3月21日の函館大火後に建設されました。
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函館大火とは?1934年以前にも1000戸以上焼失した大火は10回以上ありましたが、
この年の大火は最大で、死者2166名、焼失家屋11105棟。1万を越えています。
函館山山麓の住吉町から出火した火は、最大風速39mの強風に煽られてまたたく間に
燃え広がり、市内中心部を焼き尽くしました。
死者の中には、溺死917名(川や海に飛び込みおぼれた人たち)、凍死217名もいます。
3日後が81回目の大火の日ですが、もう二度と起きて欲しくない出来事です。
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この校舎、大火後函館市で建築課の課長をしていた建築家の小南武一(1897~1976)さん
が設計していて、鉄筋コンクリート製の校舎です。
小南武一さんは、市立図書館や公民館など市内の公共建築を手がけた有名な方。
以前ブログでも紹介した高盛小学校もそうです。
竣工は1935年(昭和10年)12月。
この坂を登って行きましょう。
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ホントは校舎内部をお見せできれば、もっとレトロな素敵な校舎だと理解出来るのですが、
さすがにポット行って見せて下さい、とは言えませんね。
この校門、足跡がたくさんついていることから、ここも子供たちの通学路かな?
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こちらは、戦後の建築物でしょう?ね。耐震構造になっていますが、グランドを挟んで
向かい側の体育館が、戦前1935年の建築物でしょう。
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いかにも、古そう!
明日は、さらに周囲を見て行きます。
それでは、また次回!

まずは、世界三大夜景の一つ、函館山の山麓にある市電終点「谷地頭」電停。
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電停周辺には、明治時代からの古くから続いている老舗のお店がいくつもある。
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終点だけあって、線路はここで終わり。雪が積もった場所にはフェンスと×マークがある。
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そして、待合室があるのは、ここだけ。これだと雨が降った日や吹雪の日など助かる。
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谷地頭電停は、左下の端。終点は、他に、「湯の川」と「函館どつく前」がある。

ここは、海抜1m地点。だから、以前は大雨の日など、よく洪水が起きた。周囲の標高の高い
場所から雨水が集中するからだ。ここの電停付近が、まるで大きな沼みたいになったことも
しばしばあった。
最近は、津波の心配がある。大間付近の断層で地震が発生したら、函館市はもろに直撃を
受ける。もちろん、原発が爆発したら津波どころではないが。
だから、函館市民はもちろんのこと、道南の住民は皆大間原発には大反対!
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待合室で待っているお客さんがいました。暖かくて助かりますね。
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ここから、海側に向かって歩いて行きます。
まず目に止まったのは、「住吉町会館」。以前のブログに紹介しましたが、ここの昔の名は
尻沢辺村」。それを証明する石碑を発見!(2月17日 「漁業権の石碑の尻沢辺村発見!」)
の記事をお読みいただければうれしいです。
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ここは、海抜4mだから、いかに谷地頭電停が低地にあるかお分かりでしょう。
少し歩くと、大きなお寺がありました。その名は、高野山真言宗 北南山 高野寺
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なんと、ここは北海道三十三観音霊場の第一番札所です。すごい!ここから2000km以上
もの長い道のりがスタートするのだから。ここが出発点です。
境内に入って見ましょう。
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北海道の真言宗発祥の地でもあるここ高野寺。
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字がかすれて消えかかっているけど、何とか一番札所と読めます。
ここを、説明する案内板がありました。
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なんと、ここの御本尊の大日如来坐像は、国指定重要文化財。写真撮影は禁止されましたが、
しっかりと拝んできました。拝観料は無料です。
その坐像、なんと11世紀末から12世紀初期の作品で、作者は平安時代の仏師定朝とのこと。
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ここの創建は、明治17年(1884年)のこと。場所は違うが高野寺が建立されています。
お寺から頂いたパンフレットには、「明治17年、総本山金剛峯寺の直末寺として函館市
汐見町(現 護国神社付近)に北南山教王院高野寺が建立される。」と書いています。

国指定重要文化財の大日如来坐像は高さ158cmで、ヒノキ材の寄木造りに漆箔を施し
ている立派なものでした。
社務所も歴史ある建物で、内部を見学でき感謝です。
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最後に、お寺のパンフから。
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ということで、思わぬことで由緒あるお寺を見学出来、有意義な休日を過ごすことが出来
ました。
では、また次回!

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旧石崎村には、以前紹介した石崎八幡神社の他にも歴史のある神社があります。
石崎八幡神社は、北海道の和人の歴史のなかで最も古い歴史を持つ神社の一つでしたね。
15世紀の前半に津軽から渡ってきた平家落人が、この神社の鰐口を寄進している歴史が
ありましたからね。

同じ、石崎地区でも少しだけ西側に寄った地区が古川町。
国道278号線沿いにあるのが古川川濯(かわすみ)神社。川濯神社といったら、これまた
以前に、旧根崎村にもありました。同じ系列の神社ですね。

この神社、実は1765年に創建されています。
1765年と云えば、10代将軍の徳川家治(いえはる)の時代。1760年に9代将軍の家重が亡く
なり家治へ。1786年まで26年間将軍職に就いています。家治といえば、田沼意次時代。
足軽の子として生まれた意次は、家治の信任を得て1767年側用人になり、さらには1772年
老中を兼任し幕府の実権を掌握し産業の振興を図りますが、同時に賄賂・縁故の人事が横行
します。
ところが、冷害・浅間山の大噴火((1783年)・天明の大飢饉(1782年~1787年)と天災が相次
ぎ、それらの災いまで田沼の政治にされて、息子の意知(おきとも)は1783年江戸城内で暗殺、
意次も、家治の死後(1786年)老中を罷免されます。
そんな時代に創建されたのです。
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津軽海峡に面した山側に建てられています。国道沿いですが、南側が風光明媚な海岸で
景色に見とれていたら見逃してしまいます。山側を、気を付けて走行すると発見出来る、
と思いますが。
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2つの白い大きな鳥居の前に、何やら石碑がありました。
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政元紀念碑とあるが、これは明治天皇が崩御し、大正天皇へと代替わりしたことを紀念して
出来た石碑です。1912年、103年前のことです。明治45年7月30日、明治天皇が61歳で崩御
し、皇太子が大正天皇となります。年号も、大正となりました。
横を見たら、そのことが書かれていました。
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大正3年10月に、地元の青年会が建立したのですね。
今では、地元には青年と呼ばれる人たちは、数えるほどしかおらず、こんな立派な碑など
建てられないでしょう。

社殿に近づきましょう。
まずは、左右の狛犬。
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1765年の最初は、400m山奥の林の下に小さな祠を建立して祭祀したのが始まりだそうです。

社殿を見ます。
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この頃、漁民が移住して来て、人口が増加し明治時代の初期に現在地に移遷しています。
改築は、1912年(明治45年)、1922年(大正11年)、そして1987年(昭和62年)に現在の社殿
が完成しています。
そのことを、記録した案内板が境内にありました。
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最後に、扉が開いていましたので拝んだ後に1枚だけ室内を撮影しました。
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けっして大きくはないが、掃除も行き届いた厳かな神社です。
漁村ですから、海上での安全と大漁を祈願しているのかな?
そんなことを感じた川濯神社でした。
それでは、また次回!

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何度もお伝えしている旧石崎村。江戸時代、いやそれ以前の戦国時代、15世紀に
和人が「しょっぱい川」である津軽海峡を渡ってきて定住してから400年近く、1902
年までは石崎村でした。その後は、近隣の村々と合併し、銭亀沢村へ。それも1966
年函館市に編入されて、今は函館市石崎町。
人口は、1000人を越えるのか?その前後では?300戸あるかないかの漁業主体の
函館市市街地の東のはずのれ集落です。
そんな小さな集落でも3軒のお寺が連なる寺町があったのです。

まずは前回、フランス式の積み方をした赤茶色の煉瓦造りの壁の古民家の横にある坂を
登ると最初に現れるのが、
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浄土宗のお寺。無量功山 勝願寺
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六地蔵尊がありました。
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15世紀の前半に「しょっぱい川」を渡って来た和人の中には、源氏に敗れた平家の落人も
いました。平家の残党の一部は津軽まで逃げ延び、さらには海峡を渡って北海道までやって
来たのです。
その頃の、ここ石崎村は津軽や下北から渡って来た和人の漁民たちが少数ではあるけど
住み着き、土着のアイヌ人たちと一緒に暮らしていたのです。
そんな中で、平家の落人はお寺に鰐口を寄進したのです。その鰐口が、今も残り「函館市立
博物館」に展示されています。

北海道の和人の歴史の発祥の地でもあるここ旧石崎村、2軒目のお寺がここ。
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浄土真宗のお寺です。
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大恩山 観意寺

三軒目が曹洞宗のお寺。石崎山 善寶寺
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ここにも六地蔵尊がありました。
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というわけで、小さな漁村にも3軒のお寺があって寺町を形成していたのです。
では、また次回!

一昨日から暴風雪が荒れまくっていた北海道、温暖なはずの道南・函館でも今日昼過ぎまで風が強く、吹雪模様でした。
が、午後からは久しぶりに太陽が顔を出し明るい日差しとなってひと安心。
春が待ち遠しいです。
そんな中うれしいことに、我が家の庭に本州から渡って来た野鳥の群れが寄ってくれました。

電線に200羽以上の鳥が止まっていました。何かな?

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この写真では数羽しか見れませんが、実際には200羽を越える鳥たちが一斉に飛び立つ姿を見て、驚いてしまったほどです。
ズームして見ましょう。

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庭にも降り立ち、雪に覆われた地面をほじ繰り返しています。

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何を食べているのだろうか?
この鳥、図鑑で調べてみました。スズメ目のアトリ科、シメという鳥です。
太いくちばしで木の実を割る、ずんぐりした鳥で北海道で繁殖し、本州以南で越冬する。渡りの時期に群れをつくる。と書いていました。大きさは19cmで、スズメよりは一回り大きく、ヒヨドリよりは小さい。
集団で庭にあった何かを食べている。20羽以上もベランダの近くまでやってきたが、カメラを構えると、すぐに逃げる。とても敏感な鳥だ。
時間をかけて、やっと数枚撮ったけど、上手に撮れていませんね。

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木に留まった時にパチリ。もちろん標準ではなく、望遠で撮影。

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しばらくしたら、四十雀(シジュウカラ)もやって来た。

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胸の黒いネクタイ模様がトレードマークの鳥で、全長15cm、餌を求めて飛んで来たのでしょうか?図鑑では、市街地でも普通に見られる鳥だそうです。
これからも、多く見られるといいな!
繁殖期にはつがいで縄張りを守るので、もっと暖かくなる季節が楽しみです。
何だかんだで、3月も12日が過ぎて春近し!を思うこの頃です。部屋の中のランも紫色の花を咲かせています。

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というわけで、春の訪れが待ち遠しい函館からお伝えしました。
それでは、また次回!ごきげんよう!!

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