函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めた車中泊中心の「ぼうけんの旅」は今年で13 年目に突入。 車中泊の貧乏旅行の旅、今年で74歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 今年2026年も「ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです! 今年も「ぼうけんの旅」をよろしくお願いいたします。

2026年が明け今年は74歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!時々は自転車を積んでの軽バン一人旅の始まりです。

2015年07月




手打集落を離れ、下甑島の北端を目指すことにする。
島の形は、南北に細長く、とりわけ北部の鹿島に至る道の途中は尾根の上を走っているかのよう。
幅100mほどしかない険峻な、まるでナイフのエッジを上に道がある。
海岸は、ほとんどが断崖絶壁。砂浜海岸は、手打湾以外ほとんど見当たらない。
下甑島の面積約66平方キロメートル。山手線の内側と同じ。
周囲の海岸延長は84.8km。尾岳(604m)を最高峰とする400m~500mクラスの山地が連なる。
平野部はほとんどなく、水田は手打以外にはない。唯一の平坦な土地があるのが手打集落。
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島の中央部にあるフェリー発着場の長浜集落を過ぎて、中甑島が見える北端へと。
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険しい断崖が続く海岸線。
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鹿島の集落と港が見える。奥の岬は平瀬崎。

念仏発祥の地の碑があった。
1597年2月、薩摩藩は一向宗(浄土真宗)禁制令を出す。それは、明治維新後の1876年(明治9年)
まで続いた。
1672年、本土は上方の伊平というものが、信徒の依頼を受けてご本尊を奉迎している。
なぜ、薩摩藩は一向宗だけを禁教にしたのか?
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その理由は、
①一向一揆(1488年加賀の一向一揆など)に見られる信者の結束の強さに恐れをなした。
②身分制度を否定する教義を恐れた。
などがある。
いわゆる隠れ念仏だ。
隠れ念仏とは、権力から禁止された一向宗の信仰を、権力の目から逃れて信仰すること。
ここ鹿児島では、薩摩藩主の島津義弘から明治の時代までの280年間(1597~1876)、一向宗は
弾圧された。
五木寛之の「隠れ念仏と隠し念仏」(講談社の講談新書)に出ているが、一向宗が加賀の国を約
100年間に渡り自治支配したこと(加賀は「百姓の持ちたる国」といわれた)や本願寺の11代顕如
(けんにょ)が門徒に呼びかけ織田信長に対して挙兵し11年間も戦ったこと(石山戦争 1570~1580)、
などに恐れを懐いたからなのだ。

ここ甑島だけではなく、鹿児島県各地に見られる。それだけ、島津氏に対して抵抗していたのだ。
一向宗だけではなく、ここ甑島には隠れキリシタンもいた。島原の乱で敗れたキリシタンの残党が
島へ逃げて来ている。下甑島の南西端、手打集落から林道を通り3kmほどの釣掛埼には、1638年
捕えられ処刑されたキリシタンの殉教碑がある。

島の最北端、鳥の巣山展望台へ行く。
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中甑島へ橋を建設中。数年後には完成し、三つの島が完全につながる。橋が完成した時に、
もう一度来てみたい。ホントは上甑島へも行きたかったが、時間の関係で断念。でも、次はもっと
ゆっくりと旅したい。見どころ満載の島なのだ!
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藺弁田(いむた)瀬戸架橋という。
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カノコユリ灯台という別名を持つ鳥の巣灯台。カノコユリとは、初夏に咲く島の百合の花。
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さすがに、4月には咲いていない。
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続いて、鹿島断崖を見に行く。
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およそ8000年前の白亜紀の地層から形成された断崖や巨岩が連なる。
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そして驚いた鹿島断崖。海からの高さ200m、下甑島最大級の景観を誇る断崖だ。東シナ海からの
強烈な風・波に荒々しく削られた断崖絶壁が続く。
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人を寄せ付けない海岸線。「夜萩円山(よはぎまるやま)公園」と名付けられている。
ここは、つい先月、2015年3月に国定公園に指定されている。
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見ていて圧倒される。観光シーズンではないので観光客は誰一人いない。
まさに、この景観独り占めだ。
超ド級の大自然!
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遠くに中甑島が見える。この日、波もなく海は穏やか。漁船が瀬戸に向かって走って行った。
もう一度、鹿島断崖を見る。
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というわけで、手つかずの大自然が残る下甑島の断崖絶壁の海岸線を見ました。
明日は、鹿島の集落と見捨てられた集落、さらに片野浦集落を見ることにします。

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甑島の名前の由来ですが、中甑島北部にある甑の形をした巨岩を「こしき大明神」として崇拝して
いた、との古来からの伝承から甑島と名付けたそうです。
そもそも甑とは何なのか?というと、蒸籠(せいろう)」のこと。蒸籠とは、釜の上に載せて、赤飯
などを蒸す器具のこと。木製で円形の枠の底に、すのこを敷いたもの。と、国語辞典には書いて
ありました。

薩摩川内市に合併される以前の下甑村時代、というから昭和の時代ですが、ここ手打(てうち)
に村役場がありました。
なぜ、手打という名が生まれたか?それはここも平家の落人部落だからです。源平の合戦に敗
れた平家の残党が、ここ下甑島へ流れ着いたが山ばかりの土地にがっがりしていた。島を周り
ここ手打に広い土地があることが分かると、「ここは良いところだ」と手を打ったことから、手打と
いう地名となったそうです。
平家の落人に関しては、瀬々野浦集落にも伝説がありましたが、ここ手打にもありました。平家の
落人が漂着した時に、舟8艘を隠した、という「八艘穴」があるのです。

平家の落人部落は全国各地にあり、これまた旅する時の楽しみの一つになっています。
福島県の最南部の桧枝岐(ひのえまた)村しかり、熊本県八代市(旧泉町)の五家荘、石川県輪島
市の時国家など、平家の伝説が残る土地を旅するのは楽しいですね。

さて、手打には下甑島唯一の信号があります。
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ここの交差点。近くに手打小学校があり、子供たちに交通ルールを学ばせるためにと設置した
そうです。
そして、ここは小さな公園。それは、森進一さんの「おふくろさん」のメロディーが聞こえる公園。
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歌手の森進一さんのお母さんが、ここ手打の生まれです。赤いボタンを押すと、あのハスキーな
声で「おふくろさんよ~」の歌が聞こえます。
左上には、駐在所を表示していますね。
下甑島の人口は2010年(平成22年)で2780人。1920年(大正9年)が11535人、60年前の1950年
(昭和25年)が最大で13578人、ほぼ5分の1にまで減りました。今年国勢調査があるので、もっと少
なくなっているでしょうね。だから、集落ごとにあった小学校も閉校の憂き目になっています。
島で3校しかない小学校の一つ、手打小学校の児童数も52名。1学年1クラスです。

かつては、「手打1000軒、里1000軒」と呼ばれ、島最大の集落で最大4000人の人口があったそう
ですが、どこも過疎化の波に圧されて激減しているのが現状ですね。
里というのは、上甑島の港であり集落のことです。

江戸時代以前、島津氏の支配下になる前は鎌倉時代中期から小川氏による支配が13代も続いて
いて、手打には武家屋敷跡が残る通りがあります。
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美しい玉石垣が続く通りは200m以上も。
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南国の常緑広葉樹が1年中、枯れることなく緑色の葉を彩っている。
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歩いていて癒される道です。
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江戸時代は、薩摩藩の郷士たちが生活していたのだろうか?
ここ甑島は、薩摩藩の直轄地。地頭(領主)が派遣されて、手打には地頭仮屋が置かれていました。
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武家屋敷通りの案内と灯篭がありますね。ここで油に灯りをつけていたのでしょう。
油は椿かな?

以前は本土と船で結ばれていた手打港へと歩く。
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奥の山沿いに道があるが、それはかつての道。昨年、港のある長浜へのトンネルが完成して
林道となった。翌日、この林道を通り、大変な目にあったが、そのことについては後ほどお伝え
します。
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これが、かつてのフェリー桟橋。今は使用もされず錆びる一方。

中村さんにランチをごちそうになりました。同行したのは、下甑郷土館で務める若い女性と。
彼女は、地域協力隊として鹿児島県から派遣されている方。いろいろと島の話を聞けました。
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「夢」と書かれた看板のレストラン。なかなかシャレたところですね。
中村さん、ごちそうさまでした!


というわけで、下甑島最大の集落であり役場があり小学校と中学校がある手打を紹介しました。
中学校は、島で2か所。そのうちの一つがここ手打にある海陽中学校で生徒数18名。
まだまだお伝えできていない部分もあり、翌日に再び手打を訪ねて歩いたので、それまた近々
紹介します。

甑島での3日間は、夜中に少しだけ雨が降っただけで、あとは晴天続き。旅の神様は味方してくれ
たのですね。大揺れに揺れた島行きのフェリーだったけど、運行されて辿り着けたし、きっと甑島
の神様が呼んでくれたんだ!と自分勝手に解釈しています。
甑島、もっともっと素敵な場所があります。
明日以降も、甑島をどんどんお伝えしていきます。
では、また!

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鹿児島県薩摩川内市、下甑島の瀬々野浦で今回初めての民宿で夜を明かした。やっぱり、
布団は良いですね。
畳の上で、敷き布団と掛け布団、大の字になって寝れる幸せ。いつもは狭い車の中で寝袋で、
(それでも封筒型の寝袋だから少しだけ足を拡げて寝ていられるが)、8畳間テレビ付きの部屋
で東シナ海のさざ波を聞きながら、グッスリと寝れる幸せ!
窓を開けると、そこにナポレオン岩が見えるという、それだけでも最高のぜいたくを味わえた一晩
でした。

さて、昨日瀬々野浦を歩いていた時にお話しした方が中村さん。
いろいろとお話ししたく、翌朝お会いすることが出来、彼の家に案内されました。
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東京都足立区で中学校の校長先生で定年退職し、出身地の下甑島へUターンしてきたお方です。
手前にある分厚い本は、甑島の歴史を綴った「下甑村郷土史」。
かつて最盛期の頃の写真を見せていただきました。
左にあるのは、西山小学校のアルバム。閉校時に作成されたもので、中村さんのコメントもありま
した。
珈琲をいただきながら、たくさん瀬々野浦にまつわるお話を聞くことが出来感謝してします。
いろいろと知ることが出来たのは旅をする上での喜び、だから地域の人とお話しすることは大切な
ことですね。
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ここにも、平家の落人伝説がありました。
民宿から歩いてすぐの鷹の巣岩。平家の落人三家が瀬々野浦集落に落ち延びて来て、生きた
証として頂上の岩を3つに割ったという伝えられる不思議な奇岩です。
残念ながら、その鷹の巣岩は写真に撮ることは出来ませんでした。
後で調べて分かったもので、悔しい限り。もう一度訪れて見て見たい!です。

さて、中村さんに案内されて島を探索。
まず、最初に昔の峠道。
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本土側の青瀬集落までの徒歩1時間のコースがこの山道。道路がなく交通不便だった時代、
大人も子供も徒歩で峠を越えて青瀬の集落まで行ったのです。
峠付近に存在する「助八水」は、登山者にとって至福の水。今での流れ続けているとか。
最近、この道を整備したのが瀬々野浦の区長さんを務めているお方で、この日の夜中村さん
宅でお会いしお話しすることが出来ました。
お二人には、本当に感謝です。ありがとうございました!
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しんきろうの丘」へ到着。
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薩摩川内市に合併される以前は、島の南の手打(てうち)という集落に村役場があり診療所も
ありました。
そこの診療所のドクター平田清氏(故人)は、週に何回かここ瀬々野浦にも巡回しに来ていた
のです。
峠であるここで見たもの、それは東シナ海に浮かぶ蜃気楼。水平線のかなたにビル街を見た時
の不思議な感動を詠んだものです。
往診の 道すがら見し しんきろう
眼下に、ナポレオン岩がはっきりと見えました。
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まさに、Dr.コトーの島ですね。

さらに、手打に行くにあった岩穴。
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薩摩藩は、一向宗(浄土真宗)を禁止していたが、人々は隠れて信仰します。まさに隠れ一向宗
その岩穴です。

そして「孤島の野犬像」。
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かの西郷隆盛の愛犬(東京、上野駅近くの上の公園に西郷さんが連れている犬ですね)「ツン
は、実は薩摩犬。先祖は甑山犬(こしきやまいぬ)と呼ばれる甑島が原産の日本犬です。
戦時中に絶滅したといわれ、その甑犬(野犬)をテーマにある作家が描いた野犬にまつわる話。
それを児童文学にした作品三つ。それを記念して建てられました。
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移住記念碑
1784年、世にいう天明の大飢饉。江戸幕府10代将軍徳川家治の時代、老中の田沼意次が
仕切っていたころです。前年には浅間山の大噴火があったり、各地で豪雨による洪水が発生し、
東北・関東を中心に全国的な飢饉となり死者は約92万人。
江戸時代の三大飢饉の二つ、享保の飢饉(1732年、死者1.2万人)や天保の飢饉(1833年~
1839年、死者20万~30万人)と比較しても多すぎる犠牲者。
凶作・米価高騰による百姓一揆や打ちこわしが続発し、田沼意次の失脚となる江戸時代最大の
飢饉でした。
ここ下甑島でも飢饉となり、多くの住民がふるさとを捨て本土へと渡ります。
新天地を求めて薩摩の吹上浜に上陸し、徒歩で大隅の国へ歩き住み着くのです。
そんな悲惨な歴史があったのです。
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そして下甑の歴史と風土を収めた下甑郷土館
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1602年ころ、島へ上陸し長浜(フェリー発着港)でせいかつしてキリスト教を布教した、当時の
宣教師の司祭服が展示されています。
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クズダナシ(ビーダナシ)~甑島全島に自生するクズ(葛)のツルの戦意を原料にした織物。
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入場料は無料。
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敷地には典型的な島の家屋が建てられています。
左側の離れは、2世帯家族の中で、引退した老夫婦が終の棲家とする小さな家。
でも屋根一つで繋がっています。
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こちらが母屋。
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皐月がきれいに咲いています。
4月中旬だったけど、やっぱり南国ですね。

明日は、さらにここ手打の集落を紹介します。
ではまた!


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