手打集落を離れ、下甑島の北端を目指すことにする。
島の形は、南北に細長く、とりわけ北部の鹿島に至る道の途中は尾根の上を走っているかのよう。
幅100mほどしかない険峻な、まるでナイフのエッジを上に道がある。
海岸は、ほとんどが断崖絶壁。砂浜海岸は、手打湾以外ほとんど見当たらない。
下甑島の面積約66平方キロメートル。山手線の内側と同じ。
周囲の海岸延長は84.8km。尾岳(604m)を最高峰とする400m~500mクラスの山地が連なる。
平野部はほとんどなく、水田は手打以外にはない。唯一の平坦な土地があるのが手打集落。

島の中央部にあるフェリー発着場の長浜集落を過ぎて、中甑島が見える北端へと。

険しい断崖が続く海岸線。

鹿島の集落と港が見える。奥の岬は平瀬崎。
念仏発祥の地の碑があった。
1597年2月、薩摩藩は一向宗(浄土真宗)禁制令を出す。それは、明治維新後の1876年(明治9年)
まで続いた。
1672年、本土は上方の伊平というものが、信徒の依頼を受けてご本尊を奉迎している。
なぜ、薩摩藩は一向宗だけを禁教にしたのか?

その理由は、
①一向一揆(1488年加賀の一向一揆など)に見られる信者の結束の強さに恐れをなした。
②身分制度を否定する教義を恐れた。
などがある。
いわゆる隠れ念仏だ。
隠れ念仏とは、権力から禁止された一向宗の信仰を、権力の目から逃れて信仰すること。
ここ鹿児島では、薩摩藩主の島津義弘から明治の時代までの280年間(1597~1876)、一向宗は
弾圧された。
五木寛之の「隠れ念仏と隠し念仏」(講談社の講談新書)に出ているが、一向宗が加賀の国を約
100年間に渡り自治支配したこと(加賀は「百姓の持ちたる国」といわれた)や本願寺の11代顕如
(けんにょ)が門徒に呼びかけ織田信長に対して挙兵し11年間も戦ったこと(石山戦争 1570~1580)、
などに恐れを懐いたからなのだ。
ここ甑島だけではなく、鹿児島県各地に見られる。それだけ、島津氏に対して抵抗していたのだ。
一向宗だけではなく、ここ甑島には隠れキリシタンもいた。島原の乱で敗れたキリシタンの残党が
島へ逃げて来ている。下甑島の南西端、手打集落から林道を通り3kmほどの釣掛埼には、1638年
捕えられ処刑されたキリシタンの殉教碑がある。
島の最北端、鳥の巣山展望台へ行く。

中甑島へ橋を建設中。数年後には完成し、三つの島が完全につながる。橋が完成した時に、
もう一度来てみたい。ホントは上甑島へも行きたかったが、時間の関係で断念。でも、次はもっと
ゆっくりと旅したい。見どころ満載の島なのだ!

藺弁田(いむた)瀬戸架橋という。

カノコユリ灯台という別名を持つ鳥の巣灯台。カノコユリとは、初夏に咲く島の百合の花。

さすがに、4月には咲いていない。

続いて、鹿島断崖を見に行く。

およそ8000年前の白亜紀の地層から形成された断崖や巨岩が連なる。

そして驚いた鹿島断崖。海からの高さ200m、下甑島最大級の景観を誇る断崖だ。東シナ海からの
強烈な風・波に荒々しく削られた断崖絶壁が続く。

人を寄せ付けない海岸線。「夜萩円山(よはぎまるやま)公園」と名付けられている。
ここは、つい先月、2015年3月に国定公園に指定されている。

見ていて圧倒される。観光シーズンではないので観光客は誰一人いない。
まさに、この景観独り占めだ。
超ド級の大自然!

遠くに中甑島が見える。この日、波もなく海は穏やか。漁船が瀬戸に向かって走って行った。
もう一度、鹿島断崖を見る。

というわけで、手つかずの大自然が残る下甑島の断崖絶壁の海岸線を見ました。
明日は、鹿島の集落と見捨てられた集落、さらに片野浦集落を見ることにします。

























