函館発  ぼうけんの旅

旅が大好き!2013年4月から始めて「ぼうけんの旅」は今年で12年目に突入。 車中泊中心の貧乏旅行の旅、今年で72歳を迎えいつまで続けれるのか?今のところ体力・気力はバッチリ。 いよいよ「2025 年ぼうけんの旅」は4月「春の旅」からスタートです!

2025年が明け今年は73歳を迎えて、体力的には厳しくなってきている車中泊の旅。いつまで出来るのか?まずは75歳を過ぎるまでは続けていきたい!と。未知の地を訪ねて、行くぞ!軽バン一人旅の始まりです。

2016年01月

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昨夜は、サッカ-のリオ予選Uー23の日本代表が宿敵韓国に3-2で逆転勝ちし、アジアの
頂点に立ちましたね。0-2だったが、後半に入って逆転するなんて実にハラハラさせる試合だ
った。サンフレッチェ広島の浅野琢磨選手が2ゴール。まさに逆転勝利の立役者!でした。

深夜まで観戦・応援していいて、今日は完全に寝不足。
きっと、昼寝をすることでしょう。

さて、上磯駅から。
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ここも、橋上駅で跨線橋の上に駅舎と待合室があります。旧上磯町の上磯の名の由来は、
函館市の西部(上)の海岸(磯)に位置していたことからとされる。

開業は、1913年(大正2年)9月15日で、今年は103年を迎える。
位置する町名が変わっている。飯生町といって、最初は何と読むのか?分からなかった。

いなり」町と読む。かつては、江差線や松前線の急行も停車する、函館駅を除くと一番大きな
駅だったが、今は駅員が一人だけ。それでも、無人駅にはなっていないのはまだましか。

松前線は、1980年(昭和55年)に、江差線は2014年(平成26年)に廃止された。

跨線橋の上の駅。あちこちに新幹線3.26開業のポスターが貼られれている。
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函館方面を見る。横津岳連峰の雪を頂く山々が見える。かつては、スキー場があったが
10年以上も前に廃業してしまった。原因は雪不足。
今年のように、大雪だと長い間営業出来るが、この10年間は暖冬で完全に雪が不足して
いて営業期間が短く利益にならなかったのだろう。
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一方、これから向かう木古内方面を見ると太平洋セメントの工場が見える。
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なお、石灰石からセメントや生コンを生産するのは、石炭の火力。前回紹介した函館湾2km沖に
設けられたシーバース(海上桟橋)へベルトコンベアでセメントを送った帰り道は、石炭運搬船
で運ばれた石炭を運び、ここの工場へ。ここで石炭を燃焼させてエネルギーに使用しているから
ですね。

だから、高い煙突から上がるのは石炭の燃えた煙ですね。
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それと、ここの工場では産業廃棄物の処理も行っている。その作業中に出た煙かも知れない。
さらに、工場内では自家発電も行っていて47600kwの発電能力を持っている。

この数字は、工場のフル稼働の85%で、やはり電力を大量に消費する大工場では自前で電力を
生産することが必要だからでしょう。

駅前商店街を見よう。
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中央奥に見えるのが、函館湾2km沖合のシーバース。
駅前商店街は閑散としていて、歩く人もいない。シャッターの下りっ放しの店も多い。
それに、これだけ雪が積もっていては歩き辛いので、高齢者は外出しないのかも。

駅のとなりにあった建物では、青空市が行われていた。新鮮な海産物などが販売されている。
何せ、目の前が海なのだから。
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ちょうど、昼時だったので12時の時報の代わりのオルゴールが鳴った。それが、ベルとこの
天使(?)のような像の女の子から。
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最後に、この少女の像をアップで。
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よく見ると、可愛らしい、というよりおぞましい顔をしているし、耳が鬼みたいに尖っている。

耳を澄ませている姿は、兵庫県の元県会議員だった野々村竜太郎に似ている?
でも、彼は右耳だけに手を当てていましたね。 スタジオジブリの作品「耳をすませば」の主人公 
月島 雫(しずく)には、ほど遠いフェイス。
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後ろになびく長い髪は、まるで雲みたい。 まるで、浅草隅田川の対岸で見たアサヒビール本社
となりのスーパードライホール屋上にある不思議なオブジェみたい!

あれは、アサヒビールの創業100周年を記念したフラムドールという「金の炎」だけど、とても
似ている!

正午を知らせる素敵なメロディーだったので、雪を踏みしめて撮影しに近づいただけに、
すごい像を発見!したなの感がありました。

それにしてもキモ可愛い女の子でした。まるで、北斗市のユルキャラのずーしーほっきーのよう。

ということで、明日からはここ上磯駅から8.8km離れた茂辺地(もへじ)駅へと向かいます。



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今日1月30日(土)、雪も止んで青天の日、路面は凍結して走りづらいが久しぶりにドライブ、
2度目の道南いさりび鉄道の各駅巡りのプチ旅をしてきました。


さすがに国道228号線は除雪が行き届いていたが、一番やっかいなのは市内の道路で、除雪
した雪が道の両側に山となっているし、除雪をやり残した雪が凍結しアイスバーンと化している。

市内を抜けるのに一苦労。いつもより時間をかけて北斗市へ。

まずは、七重浜駅東久根別駅の中間にある「第15号台風海難者慰霊碑」を見学。
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冬は除雪してなく、近くの大型温泉施設に駐車し歩いて現場へ。長靴を履いてこなかったので、
立ち入ることは出来ず。遠くから写しました。
アップして見よう。
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1954年(昭和29年)9月26日、道南地方を直撃した台風15号(のちに洞爺丸台風へ)で起きた
国鉄青函連絡船の海難事故の死亡者1430名の霊を慰めるために、翌年の1955年8月25日に
建立された碑だ。

洞爺丸(1155名)の他、第11青函丸、日高丸、十勝丸、北見丸の4隻も沈没し、乗組員275名の
命を奪っている。
まさに、タイタニック号の事故に次ぐ海難史上2番目の大惨事となった。

さて、前回清川口駅で訪れなかった場所へ行く。それが、有川大神宮
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朝は気温がまだ低く、道路標示ではマイナス2度を記録していた。シャッターを押す指が
冷たくかじかむ。もっとも今朝は、マイナス9℃でこの冬一番の寒さ。
神社の前に説明する看板があった。
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何と!創建は1597年というから、豊臣秀吉の朝鮮出兵の2回目である慶長の役があった年。
秀吉は翌年死亡し朝鮮半島から撤退したが、そんな時代に創建されている。

北斗市で、もっとも古く上磯の総鎮守というから、上磯地区の守り神
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神輿(みこし)の倉庫。ここの神輿は「嘉永6年(1853年)、大坂の心斎橋通り・本町、
鎌田常右衛門綱の作」と記されていて、六角形の荘厳なもので、北斗市の文化財に指定されて
いる。
写真の右側に一部かけているが、鎮座500年の石碑がある。
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上磯奴(かみいそやっこ)・有川天満囃子(ありかわてんまんばやし)の展示資料館だが、
冬は閉鎖されているのは仕方がないか。
そのとなりは、祭りの時のステージか?
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伊勢神宮に倣って20年ごとに改修をしているということだったが・・・。
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ということは、今見ているのは平成に入ってから造られた社殿かな?
額を見る。
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でも、平成の時代の建物ではなさそうだ。さらに20年前いや40年前の昭和前期あたりか?
恵比須様を奉っているところもある。
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周辺を歩いていたら、思わぬ建物を発見した。それが、この看板。
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北斗市の旧家の種田家。何と!1600年の関ヶ原の戦で敗れた九州築後の国(福岡県)秋月家
流れをくむ系統という。
九州から流れ流れて、ここへきて代々有川大神宮の宮司をしていた。

江戸時代積丹半島の古平で漁業を請け負っていたり、清川陣屋(戸切地陣屋)を造営したり、箱館
戦争では新政府側に付いた松前藩の会計方をするなど、まさしく地元の有力者だ。
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ブロック塀の向こうに古民家があった。かなりの時代物だ。
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敷地内には、新築の家があり現在はそこで生活しているのでしょう。これは倉庫代わり?
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ということで、清川口駅をもう一度訪問し新しい発見をしました。
明日は、上磯駅へと向かいます。
今日は、天気も良く終着の木古内駅まで、じっくりと探訪し楽しんできました。
追って、紹介しますのでお楽しみに!


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昨日は、前日深夜からの降雪が28cmあり積雪は58cmになり、札幌市の53cmを越えてしまい
ました。北海道新聞夕刊には、道内各都市の積雪量が載っていて、最大は俱知安121cm、小樽
で64cm、旭川で47cmと、それを見ると函館は道内でも雪の多い町となっています。

今年は例年の2倍以上の降雪で、しかも毎日のように真冬日が続き、融けることが少ない。降雪量
は、今年もう2mを軽く越している。もちろん、それがすべて積雪量になるわけではなく、融けては
積もりを繰り返しているが、道の脇には除雪して山となって積もった姿は確かに例年以上だ。
12月は暖冬で、今年は雪かきはしなくて済むな、と思っていたが甘かったです。

昨夜は、道路はツルツル路面。ブラックアイスバーンと化して、まるでスケートリンク場だ。みんな
ノロノロ運転で時速10km程度のスピードで、ゆっくり慎重に走っていた。

もういい加減に雪は結構、冬が終わり春が来て暖かい日を迎えたい。

さて、清川口駅の続きです。
駅の眼の踏切を越えると、すぐに大きな建物が見える。
それが、北斗市総合文化施設のかなでーる
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「かなでーる」は奏でるから来ていて、音楽ホールの意味。その証拠に、大ホール1000席、
小ホール300席を備えている。
それとと公民館、図書館や郷土資料展示室を兼ねる施設。

北斗市は、2006年(平成18年)2月1日に、上磯町と大野町が合併し北斗市へ。
人口は2015年9月で47644人。およそ住民の半数以上は、函館市へ通勤・通学するため函館市
ベッドタウン的存在だが、大野町は、土地の大半が平野で、稲作地帯。
道内最大クラスの米どころは、「きらら397」や「ふっくりんこ」、「きたくりん」などのブランドで、今や
「ササニシキ」や「コシヒカリ」と並んで最高級の美味しさに成長している。

かつては、北海道の米はまずい!のイメージが付きまとったが、温暖化が進む今は道内産の米は、
本州米と何ら遜色はなく、逆に美味しさが増していて日本1の米どころとなっている。

一方、上磯町は太平洋セメントの企業城下町。およそ従業員700人ほどの工場は、「無尽蔵の
石灰石の宝庫」と呼ばれる峩朗(がろう)鉱山がある限り存続していくでしょう。
それと海に面していることから、漁業も盛ん。
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だから、北斗市内に出来た北海道新幹線の駅は、何といっても北斗の名を入れろ!と主張して
いた。駅の所在地は、函館本線渡島大野駅に出来るので、函館市は「新函館駅」を、一方北斗市
は「北斗新函館駅」を主張し、もめていたが結局「新函館北斗駅」となった。

本来なら函館駅まで来て欲しかったが、2030年札幌延伸もあって少しでも短縮したのだろう。
函館市にとっては、ひとまず14年間は新幹線を利用したお客さんを独占できるが、札幌まで
行くとどのくらい降りるのか?心配な部分がある。通過駅になって欲しくない。

清川口駅から函館湾へ出てみました。
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波穏やかな湾内の向こうに、函館山が見える。ズームして見よう。
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山の裏側が良く見える。フェリーに乗ると、間近に見えて険しい山肌がはっきりと分かるが、ここ
からも少しは分かる。山の東側は、なだらかな裾野が広がり市街地が形成されたが、西側は山
から降りるのも大変な急傾斜。

それでも、昭和30年頃までは集落があって、寒川(さむかわ)と云って富山県からの移住者が
主に漁業をして住み着いていた。市街地への道はなく、けもの道のみで、多くは船で行き来して
いた。
今は、石垣が残っているだけ。

沖合にセメントを運ぶためのシーバースがある。
全長2000メートルの海上桟橋だ。
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工場から6.2km以上離れた場所にある峩朗鉱山からベルトコンベアーで石灰石が運ばれてきて、
工場でセメント原料や生コンクリートを生産している。
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工場が右端に見えますね。
工場は、東京ドーム10個分の広さで46.7万平方メートル。広大な敷地の中でセメントは、東日本
最大の生産を誇っている。
峩朗鉱山では、年間750万トンの石灰石を採掘し、工場で450万トンのセメントを、300万トンの
生コンクリートを生産している。

「無尽蔵の宝庫」と呼ばれる峩朗鉱山は、今後100年分は採掘可能らしい。
シーバースの途中をズームして見る。
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運搬船が停泊していますね。
今はベルトコンベアーだが、以前は鉱山から工場までは電気機関車で運搬していた。
1923年(大正12年)から1988年(昭和63年)までの65年間は、電気機関車で、工場へ、
生産された商品は小さな運搬船で沖合に運んでいたそうだ。
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それが、全長2kmの沖合に12mの大水深の海上桟橋が出来、おかげで大型専用船の出荷が
出来るようになった。
最大6万トンクラスの大型輸送船の着桟が可能だ。

ということで、北斗市はまさに太平洋セメントの企業城下町といってもいいほど。この海上桟橋は
シンボル的存在です。

明日は、その上磯駅へと向かいます。

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今日の朝刊では、道南いさりび鉄道の説明会が開かれ、運賃はJRより3割値上げすることが
書かれていました。それと気になるのは、時刻表を見ると全列車19本の内の10本が、函館発
上磯止まりで、次の茂辺地駅から終着の木古内駅までは9本しかないことが分かりました。

やはり、利用者の多い函館上磯間を重視しています。当然でしょうが、朝夕の通勤・通学客を、
優先した結果ですね。

さて、久根別駅は五稜郭駅から6.5km離れた駅で、ここも無人駅。ただ、保線区の人たちは何人
働いていて詰所もありました。冬は、除雪などの作業がありますからね。
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目の前の駅舎は、待合室だけ。がらんとした部屋には4連の椅子が2つ、計8脚のみ。
手前には、かつてキップの販売がされていた窓口があったが、今は閉鎖されています。
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結構広くて、卓球台だと4つくらい置けそう。

アイヌ語の「クンネ・ベツ」、黒い川に由来している。近くに大野川が流れていて、それが黒い川
だったのか?

駅の開業は古く、1913年(大正2年)のことで103年の歴史がある。ここの駅舎は、1991年(平成
3年)に改築されている。
ホームに立ってみよう。
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跨線橋があって、ホームは二つ。手前の建物の左側が保線区の詰所。

続いて隣の駅の清川口駅
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開業は、1956年(昭和31年)というから比較的新しい駅だ。今年で60年を迎える。
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ホームに立っていたら、たまたま列車がやって来た。1両でも列車とは、これいかに?
でも、電車とは言いません。なぜなら、屋根にはパンタグラフがない。
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上を走る電線は、津軽海峡線の特急のみ使用。ローカル線はディーゼルで、つまり汽車。
その証拠に、車体にはこの記号がある。
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キハ、「」は気動車のキ。「」は普通車のハ。ちなみに「」はグリーン車。
キハ40系気動車は、1977年から1982年にかけて日本国有鉄道が製造した一般形気動車
(ディーゼル)。極寒地向けの仕様です。
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電気を使っておらず、エンジンを使って動いています。
残念なのは、乗客が一人のいなかった、ということ。乗る人も降りる人もいなく、車内には誰も
いなかった。日曜日の午後とはいえ、客が誰もいないとは・・・。
まるで、空気を運んでいるみたい。
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これは、第3セクターになっても厳しいぞ!何とかしなくては。地元の人だけに頼っていたんじゃ
だめだ。三陸鉄道や津軽鉄道のように観光客をたくさん呼べる鉄道にしなくちゃ。


駅舎内と見ると。
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今年のファイターズの応援大使のポスターが貼られていた。北斗市は、今年キャプテンの
大野奨太キャッチャーとピッチャーのウワッチこと上沢直之。今まで背番号2を昨年現役を
引退した中嶋聡さんから受け継いだ27へ変えている。

今年は、優勝して下さいよ!特にウワッチ、大谷翔平投手と同じ1994年生まれの今年22歳
なのだから頑張らなくちゃ!
(大谷は1994.7.5)、上沢は1994.2.6で、学年は上沢が1年先輩。)

ずーしーほっきーのポスターもありましたね。
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清川口駅の名前の由来は、ここから5km以上離れた場所に、江戸時代末期に清川陣屋があった
ことから名付けられている、と思われます。陣屋とは、役所みたいな場所。

清川陣屋、別名戸切地(へきりち)陣屋。1854年(安政元年)江戸幕府は外国船警備のために
松前藩に命じて築造し、6門の砲座を持ったたもので、四稜の星形をしている。
わずか4か月で完成したのは、同年ペリーが再来日し、日米和親条約を調印し箱館が開港した
から。

1868年(明治元年)、榎本武揚や土方歳三の旧幕府軍が森町鷲の木に上陸し、ここへ進撃した
時は、松前藩士たちは勝ち目がないと分かり、自ら陣屋に火を放ち焼き払い敗走している。

駅のとなりには北斗市市役所がありました。
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2006年(平成18年92月1日、上磯町と大野町が合併し北斗市へ。山梨県に北杜市があるけど
こちらは、北斗の拳の北斗。北斗七星の北斗。
最盛期の人口は5万人。最新は4.7万人。
農業と鉱業の町でもあります。

明日は、もっと詳しく北斗市をお伝えします。


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ついに、沖縄でも雪が降りましたね。今年最大の寒波は、九州だけではなく奄美大島や沖縄
の島でも初雪を降らせ、九州の鹿児島や長崎でも10cm以上の降雪がありました。

日頃雪に慣れていない地域の人たちは、困惑していることでしょう。ニュースを見たら、雪かきは
初めてやったとか、雪道は怖くて運転出来ない、などといったコメントが多かったです。

ホームセンターでも、雪かきは置いてないそうですね。あったとしてもわずかで、すでに売り切れ
とか。驚いたのは、エアコンはクーラーのみでヒーターが付いていないのにはビックリでした。

早く冬が終わって、春が来て欲しいですね。待ち遠しいです!

さて、昨日の七重浜海水浴場から見た風景の一コマ。
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函館湾の向こうに見えるのは、業界最大手の太平洋セメント株式会社の上磯工場
1998年に、秩父小野田セメント(1994年秩父セメントと小野田セメントが合併)と日本セメント
(1947年、浅野セメントから改称)の両社が合併し設立された太平洋セメントの工場です。

現在稼働しているセメント工場としては国内最古のもの。1884年(明治17年)上磯セメント製造
が設立されますが、経営不振で6年後の1890年(明治23年)北海道セメント(株)へ。
その後、1918年(大正7年)浅野セメント(株)へ吸収合併されています。

そういえば、私が子供のころは高い煙突に「アサノセメント」と書かれていたのを思い出します。
年間750万トンの石灰石採掘量を誇る峩朗(がろう)鉱山(背後の山です)から全長6.2kmの
長距離ベルトコンベアにより石灰石を直接工場へ運び、年間390万トンのセメントを生産して
いるとのこと。

詳しくは、数日後の上磯駅のところで紹介します。

それでは、七重浜駅の次の駅である東久根別駅へ行きましょう。
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開業は、比較的新しく1986年(昭和61年)11月1日で、今年で30周年を迎えます。
周辺は、新興住宅街。だから、函館市内へと通勤する方や市内の高校へ通う高校生のために
出来た駅でしょう。ホームは1つだけで、もちろん無人駅。北海道では、どこでも見かける貨車
を改造した駅舎。

ホームに立ちましょう。木古内方面を望む。看板の裏側には団地が建ち、線路の周辺も住宅街。
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函館方面を見ても同様ですね。
朝は、多くの高校生が利用しています。

なぜなら、北斗市には上磯高校大野農業高校の2校があるのみ。しかも、上磯高校は
規模が小さく、大野農業がかなり郊外にある。

だから沿線の高校生は、汽車通学して市内へ。市内は、先の函館水産高校(北斗市)だけで
はなく、私立8校(函館ラサール、函館大有斗、函館大柏稜、函館白百合、遺愛女子、清尚学院
函館大妻、函館大谷)、国立は1校で函館高専。

公立7校(函館中部、市立函館、函館西、函館稜北、函館商業、函館工業、それと編入された
南茅部町の南茅部高校)があり、だから多くの北斗市内の高校生は汽車通学を余儀なくている
のです。
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それと市内には、短大2校(函館短期大学、函館大谷短大)と大学4校(北海道大学水産学部、
北海道教育大学函館分校、公立はこだて未来大学、函館大学)、専門学校は10校以上
あり、
毎日通っている学生も多いことでしょう。

狭い駅舎の中を覗いて見ましょう。
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今はJRの券売機。あと60日後には、道南いさりび鉄道へとなりますね。
料金は、少し値上がりするそうです。

早速、開業に合わせてポスターが貼られていました。
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ロゴマークは、函館湾を表していますね。三日月の形に見えるのは、函館山。
本社は函館市内。
英語表記では、南北海道鉄道会社となっていますね。いさりび(漁火)の英語のfishing fire 
fire for luring fish at night  ですが、どうして使用していないのでしょうか?

わざと「いさりび」を消した?

住民対象に、今週説明会が開かれるポスターが掲示されていました。
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というわけで、今日は東久根別駅を紹介しました。平日の朝は、多くの高校生の通学列車と
なるのです。つまり、汽車通。

電化しているけど、走る列車はディーゼルだから電車ではなく汽車。
電車は、津軽海峡線の特急や貨物。普通列車は青函トンネルを走っていませんものね。

明日は、久根別駅へと向かいます。


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昨日行われたラグビー・トップリーグの決勝戦、パナソニックVS東芝の試合は最高に面白かった
ですね。最後は1点差でパナソニックの3連覇で終わりましたが、手に汗握る白熱した展開でした。

試合を決めたのは、キックの精度でパナのルーキー、24歳のヘイデンパーカー。一度もミスること
なくすべてのPGを決め、それが1点差での優勝となりました。

何と、彼は今リーグ戦27回蹴ってすべて決めるという五郎丸選手以上の正確さ、大会のMVPにも
選出されました。

3位決定戦のヤマハVS神戸製鋼も良かったですね。ラグビー人気がこのまま伸びてくれれば良い
のですが、残念なのは、地上波で1局も放送しなかったこと。BSで民放が、あとはCSのJスポーツ
だけ。結局、見たい人はCSを見るしかないのか?もっと多くの人に見てもらうためには地上波で
流して欲しい!2019年のラグビーワールドカップに向けてたくさんの人がファンになってもらいたい!
です。

さて、道南いさりび鉄道の旅・七重浜駅の2回目は、137年の歴史ある伝統を誇る函館水産高校から。
駅から歩いて3分ほどで、駅からも南の方向に見えています。

祝 全国大会出場 ボート部 相撲部 新聞部」とありますが、とりわけボート部の木村君は道内
トップだけではなく、U19強化選手にもなりさらに上位8名の仲間入りし、2020年の東京オリンピック
の有力な選手の一人です。

お父さんは、1992年バルセロナ・オリンピックの選手でもあり、実現すれば親子でオリンピック選手
になるという、すごい父子!期待したいですね。
011



















歴史を見ると、何と137年前の1879年(明治12年)に私立学校として創立され、4年後の1883年
(明治16年)函館県立函館商船学校と改称されています。

それが、3年後に北海道庁立函館商船学校へ、さらに1888年(明治21年)国立の函館商船学校へ。
1890年には東京商船学校函館分校となり、一旦1935年には廃止されます。

同年4月1日、施設・設備をそのまま継承して北海道庁立函館水産学校へ、戦後の1948年(昭和23
年)北海道立水産高等学校となりました。
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現在は、海洋技術科など4つの科を持つ道南唯一の水産高校。
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共同実習船「若竹丸」(666トン)と「北鳳丸」(664トン)を所有しています。
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相撲部もあるなんて、珍しいですね。都会の学校では、相撲部は生徒が入部せず廃部になって
いますが、いまだに続いているなんてすごい!
琴奨菊に続く日本人優勝力士を誕生させてもらいたい!です。なんて、無理な注文ですね。

校舎の横には、こんな案内板が。
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この道が本願寺道路だったとは!驚きです。
名前は知っていたが、ここにあるなんて知らなかった。江戸時代の末期に開拓のために造られた
道路です。
幕府に申し出て、布教と開拓をしたのです。その時の開拓道路がこの道。
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今は舗装されているけど、当時は土の道で雪の量も多かったはずです。寒さも今以上で
極寒の中で開削したのでしょうね。

さて、松前方面への国道228号線を横切り海へ出ます。
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この日は穏やかな海岸だが、昨日お伝えしたように1954年(昭和29年)9月26日は、大荒れの
海でした。それもそのはず台風15号が函館湾を直撃したのだから。

この海で、1155名の犠牲者が出たのです。いわゆる洞爺丸事件です。
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ここは現在、七重浜海水浴場となっていて市民にとって夏場の数少ない海で遊べる場。

遠くに400mほどの丸山が見える。麓にトラピスト男子修道院がありますね。
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手前が駐車場、奥にレストハウスがある。
波打ち際へ出てみましょう。
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貝殻の破片が無数に落ちています。これはホッキ貝かな?ホッキガイは北斗市のキャラクター
でもありますね。ずーしーほっきーという名前で、今や全国区の人気です。
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今は誰一人いない冬の海。
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明日は、となりの駅である「東久根別駅」へと向かいます。


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今から62年前の1954年(昭和29年)9月26日のことです。台風15号が函館を襲い、出航した
ばかりの青函連絡船の洞爺丸を沈没されたほか、仲間の船も沈没し死者・行方不明者含め
1155名が亡くなるという大惨事が起きました。いわゆる洞爺丸台風です。

タイタニック号に次ぐ大惨事でもあります。タイタニック号の事件は映画にもなっているので、
よく知られていますが、1912年4月15日処女航海の北大西洋上で氷山と衝突し、死者1513名
(いろいろな数字在り)を出した最悪の海難事故ですね。

それが、今日紹介する七重浜(ななえはま)駅のすぐそばの海の函館湾内です。その海について
は明日以降にお伝えする予定です。

まずは、駅から。
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実は、駅舎は写真でお分かりのように橋上駅舎となっています。跨線橋の階段を登っていった
上の、線路を跨ぐ渡り廊下の中に駅があって、券売機もそこにあります。

手前の建物は、昔の駅舎で今はJR労働組合の建物となっていて、一般の人入れません。
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この駅舎だった建物は、1979年(昭和54年)木造駅舎から鉄筋平屋建てへと改築したもの
だが、その7年後には廃止されている。

駅の名前は「ヌアンナイ」、アイヌ語で「豊かな沢」という意味。七飯(ななえ)駅と混同する
ために、七重浜駅と浜の名を付け(確かに海が近いし、砂浜の海水浴場がある)、七飯の
飯を重へと変えている。

跨線橋を渡る前に、元駅舎を振り返る。今は使用されていない駅舎。
002



















建物には入らないようにフェンスがある。
北海道新幹線の北海道側最初の駅がある木古内駅方面のホームの隙間は、1mくらいで
非常に狭い。
003



















一応除雪はしているけど、屋根はホームに届かず雨降りや吹雪の時は大変だ。
004



















この駅があるのは、函館市ではなく北斗市。人口5万人弱。函館市側の五稜郭駅から2.7km
の距離にあり、1926年(大正15年)6月21日に駅が出来ているから、今年で90年を迎える。

向こう側が函館方面。五稜郭駅から函館本線と別れて江差線へ。ここは津軽海峡線と共用
しているが、江差線の名を使ってはいるが江差までのローカル線は、2014年5月15日で廃止
されている。サヨナラ江差線は2014年5月のブログを読むと分かります。是非、目を通して下さい。

函館駅を出発すると、あと62日で道南いさりび鉄道の最初の単独駅となる。函館駅と五稜郭駅
はJRと共同使用するからです。

津軽海峡線は、青函トンネルの完成に伴い完成したもので全線電化している。レールの上を
走る線を見ても分かりますね。しかし、江差線を走る列車は電車ではなくディーゼル車。
005



















駅員が不在の時間帯(平日夜と日曜・祝日)はシャッターが降りている。この日は日曜日。
跨線橋の上に小さな駅舎あるのがお分かりですね。
006



















待合室には椅子も10脚ほど置いてある。

路線図を見てみましょう。ピンク色の七重浜駅。木古内駅まで10駅。
道南いさりび鉄道全体では、13駅というこじんまりしたローカル私鉄ということになる。
007



















駅の横には立派な建物があった。
れいんぼー」と書かれた七重浜住民センターのビル。
駅は質素でも、住民向けの建物は金をかけていて豪華。
008



















最後に、駅の主か?守り神か?駅に居座っている猫ちゃんをパチリ。
010



















近づいたら逃げて立ち止まった時に、「こっち向いて!」と声をかけたら振り向いてくれた。
可愛いですね。

今日は、何とかミスもなくPCが動いてくれました。PCのミスというより自分の技量不足なん
ですけどね。60過ぎの手習いのブログに同情して下さい(苦笑)!

明日は、この七重浜駅の周辺を歩くことにします。



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最初に、お詫びと訂正があります。前回紹介した函館の西洋レストラン「五島軒」が、日本初の
カレーとコーヒーの店というのは断定出来ず、正式ではありません。

五島軒が函館で開業したのは、1879年(明治12年)4月のこと。初代社長若山惣太郎氏が西洋
料理の店「レストラン五島軒」を開きます。屋号の五島は、初代料理長の五島栄吉の名をとって
付けられました。

なお、五島は長崎県の五島出身らしく、地名から五島と名乗ったということです。
五島は、ロシア正教会の函館ハリストス正教会で、ロシア料理を習得してカレーを覚え調理して
メニューに出したのが始まりらしいです。

さて、日本初のカレーの歴史を調べるた結果、次のような記録が残されていました。
時系列に紹介すると、
・1870年(明治3年) 日本初の物理学者の山川健次郎がアメリカ留学の船上で(当時飛行機は
ありませんでしたね)、ライスカレーが出され、「食う気になれず」と日記に書かれています。

・1876年(明治9年) ボーイズビーアンビシャス(少年よ大志を抱け)の言葉を残したアメリカ人
クラーク博士は札幌農学校の指導者として来日します。北大の前身ですね。
全寮制で、授業はすべて英語、ランチは1日おきにライスカレーが出されたそうです。
一説によると、ライスカレーの命名はクラーク博士とか?

ですので、五島軒開業はその後の1879年(明治12年)ですので、日本初ではありません。
申し訳ありません。訂正いたします。

なお、ネットで検索しましたら服部学園が、日本初のカレーとして1885年(明治18年)カレー・オン・
ザ・ライスとして、いわゆる一つの皿にカレーとごはんを一緒に出したのが始まり、としていますが
15年は遅いですね。

コーヒーに関しては、日本初は5代将軍徳川綱吉の時代(1680年~1709年)に、唯一の開港地で
ある長崎の出島で、オランダ人にコーヒーが振舞われた、の記録があります。

その後、黒船来航時西洋文化が流入し、長崎・箱館・横浜などの開港地で西洋料理のメニューの
一部としてコーヒーが出されています。

1823年ドイツ人医学者のシーボルトは出島のオランダ商館の医者として来日していますが、
日本人蘭学者たちがコーヒーをたしなめずにいて、それに対して「日本人があまりコーヒーを飲ま
ないのは、すすめ方が悪いからだ。コーヒーが身体に良いことを説明すれば、もっとコーヒーを
飲むようになるだろう」と国外追放(シーボルト事件 1828年)後、帰国して著した「日本」(1832年
刊)に書かれています。

ということで、訂正します。

さて、今日は函館駅の次の駅である「五稜郭駅」から。
063



















駅の名前といい、駅の看板といい、どう見ても五稜郭公園に近い駅と思いますよね。
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一文字一文字が五稜の形で表現しているし、そのデザインからしても誰しもが、ここから歩いて
すぐかな?と。

ところが、公園はここから3.5km以上も離れていて、歩くと1時間はかかりそう。車で行っても20分
近く要します。どうして、ここを五稜郭駅と名付けたのでしょう?

ホームに出てみましょう。

ここで、PCがおかしくなって写真が取り込めなくなりました。スミマセン。 もう、5年使用しているからそろそお迎えが来たのでしょうか?参りました・・・。
066



















同じ画像が何枚もありますが、消去出来なくなり申し訳ありません。
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065



















気を取り直して、再び作り直します。
067



















3月26日からは、JRの線を利用して函館駅発のいさりび鉄道がここで分かれ七重浜駅へと
向かいます。
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駅前を見ると。大型家電の量販店が、道路の両側で競っています。
駅の向かい側にあるのが、ビックカメラコジマ。
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国道5号線沿いの100m離れた場所にヤマダ電機があります。
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ということで、明日は次の駅であり、函館市から離れ北斗市の駅になる七重浜駅を紹介します。



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2日間にわたる雪かきで、ついに腰に来ました。それは、昨日と今日整骨院通い。
先生の話だと、雪かきで腰を痛めた患者さんの多いこと、やはり、普段慣れていない重い雪の
雪かきは、函館市民にとって重労働で足腰を痛めた人がたくさんいたのですね。


さて、今日も函館駅前通り商店街の老舗のお店を紹介します。

それは、市内唯一の帽子専門店の「赤帽子屋」。
西部地区の十字街にに創業した年は、明治19年 1886年のことです。前年に史上初の内閣制度
が出来、伊藤博文が内閣総理大臣となっているし、同年には北海道庁が設置されています。

そんな時代は、函館がもっとも華やかなりし頃であり、東京以北最大の都市と云われていた時でも
ありました。
やがて、函館駅前に支店を出し本店の代わりを務めていきます。最盛期は北洋漁業のピークの
ころで、全国から船乗りが集まった時代です。それは、戦前から20世紀の初めから昭和30年代
までしょうか。
072



















昔の写真を見ると、歩道には雪除けの雁木があったけど、もう取り外れています。
昨日紹介した、お餅を製造・販売する弁慶力餅も雁木の下で営業していたけど、今は通りの
一部のみ残っているだけです。

それだけ雪が少なくなってきたから?それにしては今年降り過ぎですけど・・・。
073


































店主オリジナルの帽子を含めて500点ほどの帽子が店内を飾っています。
向こう側の壁面には、華やかな時代に撮られた写真が貼られていました。
071



















昭和初期のころかな?

さて、北海道最初のコーヒー焙煎機ということで、1935年(昭和10年)製のものが飾られて
いる美鈴コーヒー店。
076


































写真が縦になっていてスミマセン。

箱館は、日本初のコーヒーが飲まれた町でもあります。維新前からコーヒーが居留外国人たちに
よって飲まれていたのです。
西部地区にある日本初の西洋レストラン「五島軒」は初のコーヒーだけではなく、日本初のカレー
が出されたところでもありますね。
077



















赤レンガのお店の前に置かれています。

さて、駅前を歩いていたら、いかにも怪しげな小路がありました。
074


































手前にはビールの樽か?ほとんどのお店はシャッターが降りた、それは開店の時間が早いの
ではなく、雪かきもしていないからお店が閉じているのを意味している、そんな小さな飲み屋
さんが何軒もある小路でした。

八木澤高明さんの著「青線ー売春の記憶を刻む旅」(スコラマガジン社)によると、売春防止法
(1957年4月施行)以前に非合法で行われていた地域の俗称で、函館にもあって調べた結果
が著されています。

青線とは?
所轄の警察署が、売春行為を許容・黙認した区域を地図上で赤い線で囲み特殊飲食店街、
俗に赤線と呼んだのに対して、営業許可なしに営業した地域もあって、それが青線で囲まれ
た地域だったのです。

八木沢さんは、全国の「赤線」、「青線」を調べて旅していて、特に港町は全国どこでも、それは
離島にまで「青線」はあったそうです。

今までのブログでも紹介したように、函館の西部地区函館山山麓の蓬莱町は、明治時代「吉原
以北最大の
遊郭」と呼ばれていたし、昭和初期から戦後売防法施行までは市内松風町の「大門
が知られています。
075


































それは、大きな門が入口を示したからです。
ここが、いわゆる「青線」かどうかは知りませんが彼の著書には函館の駅前飲食店街の一部が
登場してくるのです。

なにせ、ここはその大門のすぐ近くなのですから。
111



















北海道新幹線カラー、バリアフリーの市電ですね。こちら側が駅前通りで、市電の向かい側、
ドラッグストアの「ツルハ」がある地域が、昔大門と呼ばれていた地域です。
もっとも、市民は今でも大門と呼んでいますが。
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ツルハの場所と、向かいの建物のある場所に、二つ大きな門があったのですね。

「青線」は、先ほども書いたように全国にあったのですが、今まで旅した場所にもあったのです。
それは2015年9月の「秋の旅」で訪れた山形県東根市の神(じん)駅がそう。
戦前陸軍の基地があって、戦後はGHQが占領しアメリカ兵が大勢いた駅だったのです。

実は、木造駅舎を訪ねて行ったのですが、ただの何ともない駅にガッカリしたのですが、後に
本を読んでかつての歴史を知り、駅周辺を歩かなかった自分にガッカリしたという、残念な思い
がありました。

さて、明日は函館駅を出発し次の駅を訪問します。こうご期待!



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2日間にわたり大雪をもたらした冬の巨大低気圧。今朝は一転し、気温も上昇晴れ渡りました。
まずは、この2日間の大雪をご覧ください。
といっても、函館は、北海道でも降雪量は少なく、温暖だからまだましな方です。

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上は、我が家の庭。雪捨て場となって、1m以上も積もっています。
向かいにる駐車場。1台も停まっていないのは、雪かきをしておらず、入れず出れずで、持ち主は何処かへ停めたか、歩いて職場へいったのか?

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近くの家。屋根からの落雪で、危険な状態です。

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下のプロパンガスが危ない。

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町内を散歩してみましょう。

歩道は、とっても歩き辛く長靴でないと厳しい。

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それでも、足湯はやっている。誰もいなかったけど、熱い湯がこんこんと湧いていた。

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並木の松の木が折れていたのは、重い雪だったから。滅多に降らない重い雪は、枝を折ってしまった。

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さすがに、幹線道路は除雪が行き届いているし、国道は歩道も除雪されている。

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近くの松林公園へ行きました。

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なかなか幻想的な風景。
でも、枝が折れたり根本から倒れている木もある。

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郵便配達の方は、冬でも走る。スパイク付きの特別なタイヤをつけて真冬もなんのその、積もった雪の上を走って配達しています。
ご苦労様です。

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ということで、昼間はプラス気温になったけど、また夕方からはマイナスで、溶けた雪は凍結するでしょう。
車の運転は大変です。
まぁ、いつもの冬の光景ですが。北国、雪国でではよくあることです。

春の到来を待ちましょう!

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日本中を襲った冬の低気圧は、特に北海道では大雪となりました。函館でも、ここ数年は暖冬
だったけど、久しぶりの大雪で、しかも重い雪を何度も雪かきして、もうたくさんです。
風も強く、オホーツク地方や根室地方では依然豪雪と強風・波浪の警報が出ています。
低気圧が去るのを待つしかありませんね。北海道では、冬はじっと耐える季節です。

さて、道南いさりび鉄道の始発駅の函館駅。その駅前通りである市電の走る道沿いにある駅前
商店街の一角にあるのが、明治40年というから西暦では1907年創業の、109年の歴史を誇る
和菓子屋の弁慶力餅三晃堂です。

そこまで歩く途中に寒さに震える子供の像を発見。マフラーをしている。
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駅から歩くこと5分。
看板に書かれているおいなりさんは、お店のそれこそ看板商品。酢飯作りから揚げの煮込み、
包み込むまですべてを自前でまかなっている。
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店の正面2階には赤い鳥居があり、左側には巨大な石が鎮座している。サイドには、赤色の
橋の欄干があって、まるで高知市の播磨屋橋(はりまやはし)のミニ版みたい。
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お店の看板は凛々しい弁慶。五代にわたって、100年以上もつきたてのお餅と和菓子を販売
してきた。
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白、赤、草餅、豆餅など6種類の大福餅の他に、函館では元祖となるイチゴ大福やクルミ餅など
品揃えは多彩。
添加物は一切使用せずに餅をつき、あんを炊き、商品を作る。

立ち寄ったのは、午後。もうすでに大方は売れているが、ショーウインドーを覗くと少しは残って
いる。
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イチゴ大福もありました。
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べこ餅もありました。
ここで、何個か購入し、家で食べます。

その帰り道にも子供のモニュメント発見。
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この子はスカーフを巻いている。

駅近くにあったこの子は、帽子をかぶりウールのマフラーをしていて暖かそう。
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赤いマフラーが可愛いですね。
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でも、よく見たら裸足でした。寒そう・・・。この子だけ裸足なのはなぜ?ソックスを履かせたけど、
どうしたら履けるのだろうか?
上から冬着を着させることは出来るが、靴下は無理ですね。

我が家の帰って、大福を食べました。買ったのは以下の品物。
113



















左上がイチゴ大福べこ餅2個。
下の段、左が草大福でこしあん、真ん中がピンクの大福もちでしろあん。右があんのない豆餅
家族で美味しくいただきました。

明日も駅前通りの老舗商店を紹介します。では、また明日!



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昨夜からの大雪は、30cm以上積もり累計で60cm以上になり朝から雪かきで大忙しでした。
雪捨て場所も既にいっぱいで、何処へ捨てればいいのやら?もうすでに雪捨て場は1mを越えたところ
も出てきました。

しかも、今回のは重い雪で捨てるのは一苦労。北海道の雪は、パウダースノーで軽くフワフワ
した雪だったけど、今回のは非常に重く東北や北陸地方の人々が雪かきに苦労しているのを
実感しました。とにかく重く、腰に来る。

8時から10時まで、何とか2時間の作業を終えひとまず午前の部は終了。でも、降り続く雪は
午後の部もありそう。

さて、道南いさりび鉄道の始発駅の函館駅。その駅前の建つ老舗百貨店の棒二森屋デパート
を今回紹介します。
078



















この取材は1月17日で、雪の降る前の話です。今では、駅前も多分真っ白!道路もアスファルト
は、雪で覆われて見えないはずです。

壁にアルファベットでボーニモリヤと書かれていますね。

1934年(昭和9年)3月21日の函館大火は市街地の3分の1を焼き尽くし、死者2166名、類焼家屋
11105棟、市民の心にも大きな傷跡を残した未曽有の大火でした。
亡くなられた方の中には、溺死917名(津軽海峡に面した大森浜に避難したところ炎と激浪の挟み
撃ちになって逃げ場を失った者)や凍死した217名もいる大惨事だったのです。

西部地区の末広町で商売を営んでいた金森森屋棒二萩野の二つの百貨店は、この火災に遭い
ます。
金森森屋は創業明治2年、1869年のことで箱館戦争のあった年です。北海道初の洋品店を開き、
商船・倉庫・不動産・砂糖・書籍・時計・洋服・薬品・食料品・雑貨等幅広い事業を展開していました。

一方、棒二萩野呉服店は、明治22年というから1889年のこと、上磯(現北斗市)から函館へ進出し、
1931年(昭和6年)10月、当時としては珍しいシャンデリアのある催事場、レストラン、エレベーターを
完備した4階建て500坪を越える本格的なデパート業に参入してきています。

大火後、そのライバル関係にあった地元資本の両社は、商業の中心が函館駅前に移動してきたことから、思い
を一にし、函館駅前に斬新な大規模のデパートを建てよう、と合併します。そして、両者の名をとって株式会社棒二森屋が設立されました。
商標はボーニ。資本金は30万円でした。

それは、大火の2年後1936年(昭和11年)6月12日。
翌年モダンなデザインのデパートが建築されオープンします。設計者は函館出身の建築家の
明石信道氏で、函館中学(現在の函館中部高校)から早稲田大学理工学部建築学科を卒業
し、早大の教授になるお方。
103


































1936年から6度に渡り店舗を拡張しますが、それはすべて明石氏の手になるもので、
彼はさらに別館のボーニアネックスビル(1982年、昭和57年9月竣工)も手掛けています。
昨日駅前で見たビルですね。旧ビルと新ビルは3階と5階で回廊で繋がっています。

建物の内部で撮影は出来ないものの、入口の熊のオブジェは創業時から鎮座するもので
市民のアイドル的存在です。
これだけは撮影できます。
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上は入口を入って左側に置かれているもの。
右側のは、これ。
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両者とも車掌であったり、客室乗務員のユニフォームを着ていますね。

建物をぐるりと歩いて見ましょう。創業時からの何かがあるかも知れない。
まず、目に付いたのがビルの一角にあるラッキー・ピエロ
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函館B級グルメの王様で、市民はもちろんのこと、旅人なら誰でもご存じ。名物のチャイニーズ・
ハンバーガーを始め何でも美味しいし、リーズナブル、おまけにボリュームもたっぷり。
私個人的なオススメは、オムライス!です。一人分で二人食べれます。
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夏だったら、外でベンチに座ってソフトクリームやラッキーシェイクを食べるのもいいけど、
さすがに冬はベンチはブルーシートで覆われていますね。

外観の一部には、創業時からのデザインが今も残っています。実に80年前のもの。例えば、
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これ。右側から読みますね。上の灯りも創業時のもの。かなりの年代物で、青錆が出ているが、
良い味を出してます。
その横には、
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縦にアルファベットでボーニモリヤと。

こんな大理石のベンチもあります。目の前にバス停があって、それを待つ人が座っている時も。
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函館市民が、愛称を込めてボーニさんと呼ぶデパートの包装紙は昔からスズラン。
そのデザインが壁に描かれていました。
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煉瓦の中にスズランが描かれています。
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下をよくよく見ると、設計者の明石信道氏のサインがありました。
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信道は「Shindo」と書かれているところを見れば、「しんどう」さんと読むのですね。
1966年の10月に記したもので、昭和41年のこと。

昭和12年の完成後、29年、30年、31年、36年、41年、49年と6度も増改築を行っているので、
このデザインは、5回目の改築時のものと分かります。

というわけで、駅前商店街の老舗デパート棒二森屋を紹介しました。
明日は、駅前の古くから営業しているお店を紹介します。

雪かきで腰が痛くなりました。腰痛ベルトして、ゆっくりやっていますが、何せ我が家のある小さな
道路幅4mの通りは高齢者ばかり。おばあさんの一人住まいが3軒と老夫婦が1軒、それに空き家
が3軒。最近廃業したクリニック(以前は業者の方が雪かきに来ていたが)の駐車場は雪の山。
温泉街のすぐ外の、市内では高級とまではいかないけど、利便性の良い閑静な住宅街なのに、
まるで限界集落です。
住民のだれも雪かきは出来ません。

仕方なく、この界隈で一番の若手(?63歳なのに)の私が一手に引き受けて大きな道路まで雪
かきします。除雪の入る道路まで東は30mほど、西は10mほど。それと我が家の駐車場、玄関も
含めて。
非常に重い雪で、きつかった!雪かきボランティア求む!といっても誰も来ないけどね。

もう雪は勘弁してもらいたいですね。早く春が来てほしい!

では、また明日!

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3月26日の北海道新幹線開業まで、本日1月18日であと68日を残すところとなりました。
と同時に、同日開業するのがJR江差線から経営を引き継いで、第3セクターとして独立する
道南いさりび鉄道(本社函館)です。

函館始発ですが、路線は五稜郭駅-木古内駅間の37.8kmがその運営を任されます。
開業まで、あと2か月と少々。そこで、深い雪に埋もれていて、春いまだに遠い開業前の各駅を
巡るプチ旅に出ました。

まずは、始発駅の函館駅から。
実は、函館駅は道南いさりび鉄道の管理下に置かれているわけではなく、JRの駅。それでも、
始発駅であり、終着駅でもあるのは道南の拠点駅だからだし、何といっても道南最大の町だし
高校生の通学や買い物、病院が集中しているから。

その函館駅を見ることにしましょう。
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11月末にブログに登場した時は、右側は工事中でフェンスで覆われていました。一体何を造って
いたのか?というと。親子が四つん這いになった姿(?)でしょうか。そんなオブジェでした。

昨日訪れたので開業まで69日となっているが、本日であと68日目。
いよいよ海を越えて新幹線がやって来ます。
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冬らしく、クリスマス・ファンタジーから2月まではイルミネーションの飾りつけをしている。
函館では、はこだてイルミネーションと題して八幡坂をはじめとする西部地区をイルミネーション
で彩っているし、五稜郭でも凍てつく五稜郭公園の堀を一周する形でイルミネーションが輝いて
いる。

きっと、それに合わせて駅前の通りも彩ったのだろう。
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夜になるときれいだろうな。残念ながら、昼間はその姿だけ。
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夜、この通りの下を歩けたらな、と。
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駅をバックに駅前を見ると、工事中のところも含めてホテルが多い。
やはり、新幹線開業に合わせて大勢やってくる観光客を見越しているのか?
駅前だけではなく、五稜郭地区、温泉街の湯川地区も新築、増築、改築工事の真っ最中。
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クレーンが見えるのは、現在工事中の高層ビル。元は和光デパートという地元の商業ビルだった。
4階までは商業施設で、5階から19階まではマンションというタワービル。新幹線開業に間に合わせ
ようとしていいたが、地盤が悪く延びてしまった。

ちょうど偽装杭打ちの件もあったからなのか?それとも砂地の地盤のせいなのかも知れない。
もともと陸繋島だから、漂砂現象で出来た土地。地盤は決して固くない。海抜1mほどの土地だ
からしっかり地盤を固めるのに時間を費やしたのでしょう。

右に見える「」のマークは、明日紹介する棒二森屋デパート

歩いて駅前に行って見よう。
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たまたま通過中の電車は、その工事中の「函館マーク・タワー」の広告市電。完成するのは
来年か?
電停も新しくなっていた。
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素敵なデザインの電停。
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これだと雨や雪に濡れずに済みますね。駅前のカップルの話は、ほとんどが中国語。毎日台湾から
の飛行機が到着しているので多いはず。どこでもいますね。日本人の若いカップルは何処へ行った
のやら?
冬用のウエアに身を包んでいるが、台湾では必要ないはず。もしかしたらレンタル?

向かい側に渡って見よう。
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この電車は、低床のバリアフリー電車。
やっぱり、エコでゆっくりと走る市電は良いですね。ピーク時は5分ずつ、それ以外でも10分ごとに
走っているので時刻表を見る必要もなし、端から端まででも1時間もかからない。

今まで、路面電車札幌、富山、東京(都電)、岡山、広島、松山、高知、長崎、熊本、鹿児島など
で乗車したけど、市内をゆっくりと巡る旅には最適の乗り物ですね。
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手前の建物は、棒二森屋デパートのアネックスビル。奥の建物と3階と5階が回廊で繋がって
います。
さすがに、駅前は交通量が多く除雪も行き届いている。道路に雪はほとんどありませんね。
でも、少し道をそれると雪はたくさん積もっていて除雪がされていない地域もあります。
今日は暴風雪警報が出されていて、午後から猛吹雪か?

もう、雪はたくさんです!

さて、明日はこの歴史あるデパートと明治時代からの老舗商店をいくつか見て行くことにしましょう。



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いよいよ函館博物館の最終回、明治時代の函館だけではなく江戸時代の箱館も見て行き
ます。
まずは江戸時代、ペリーが来航する以前の蝦夷地と呼ばれた辺境の地のただの寒村だった
箱館は、さびしい漁村でした。その当時、大坂や瀬戸内海の港町から日本海に出て点々と日本海
側の港町を経由して北の地へ、風や潮の流れを利用してやって来た北前船がありました。

その船は一般に、弁財船(べんざいせん、弁才船または弁済船とも書く)と云われ、中世末期の
安土桃山時代から江戸時代全般、明治時代にかけて日本での国内海運に広く使われた大型の
木造帆船のことでした。北前船もまた弁才船です。

箱館へは、18世紀後半から明治時代までの100年間、日本海経由でやってきています。
その中の一人に、淡路島出身の高田屋嘉兵衛がいます。蝦夷地での交易に大きな可能性を
見出し、1798年に箱館で「高田屋」を開業し、北方漁業の開発など様々な偉業を成し遂げて
いて、まさに箱館の立役者です。
DSCF3410


































風を受けるため、かなり大きな帆を持つ船だった。その後の蒸気船のようなスクリューもないし、
エンジンもない。まさに自然エネルギーだけを利用した船だ。

それと暖流である対馬海流の潮の流れも利用していた。

箱館からは、昆布サケなどの海産物を輸送し、一方本州からは日用品が輸送された。
当時の北海道では寒さに耐える稲がなかったからですね。
主食のコメは本州からの輸送に頼るしかなかったのです。
DSCF3411



















当時の箱館は、山の山麓それも湾沿いに町が発達していました。結構山の中腹まで家屋があった
ことが、この絵から窺うことが出来ますね。
DSCF3412



















箱館・五稜郭の戦い(1868年~69年)以前、日米和親条約(1854年)で伊豆の下田とともに
開港し、その7年後に描かれた春の景色です。

ロシア病院が描かれているのは、1854年12月に日露和親条約が調印され、欧米ではもっとも
日本に近く、その中でも極東に近い箱館にロシア人がやって来たからでしょう。
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同年の8月には日英和親条約も調印されている。
2年後の1856年12月には、オランダとも和親条約が調印されている。
DSCF3414



















アメリカの旗が描かれているのは、ペリーがやって来た時代の1854年。
1854年1月ペリーは浦賀に再来航し、3月に条約を締結し、早くも4月15日箱館へやって来ます。

翌日の16日から港内の測量を行い、当時の松前藩役人と会談を行っています。

この地図では、湾内に停泊するアメリカ軍の蒸気船5隻が描かれていますね。
DSCF3415



















ペリー一行は、箱館市中を見学し、ショッピングまで楽しんでいます。また、動植物を多数
採取して調査もしています。

悲しい出来事もあって、部下の水兵が2名病死しています。2人は仲間によって弔われ、函館山
山麓の船見町にある外国人墓地に葬られ、そのお墓は海を見ていて建っています。

きっと、若い水兵は異国の地に来てホームシックにかかったのでしょうね。彼らのお墓はアメリカ
の方向を向いていて祖国へ帰りたい、と思わせているのでしょう。
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明治時代の地図を見ると、市街地は山の山麓から一番くびれた部分まで人家が形成されて
いるのが分かりますね。
五稜郭の近くを川が流れていて、その川の名は亀田川

江戸時代は函館湾に注いでいて、川が運ぶ土砂で湾を埋め立てるため水路を変える必要が
あった。そこで、南の津軽海峡に面した側に変えたのが直線の水路。
それによって、函館湾は大型船も入港できるようになったのですね。
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その結果、湾内には大きな船が停泊しているのが分かるし、沖合には堤防もありますね。
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当時を知る面白い地図ですね。
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最後に、函館の豪商だった杉浦嘉七、彼は「福島屋」の三代目でアイヌ人から入手した多くの
資料を寄付しています。
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その中の一つに、何と三弦琴、ロシアのバラライカがありました。
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よく見ると、三味線のように3本の弦が張られていますね。

ということで、6回にわたり函館博物館を見学し大いに勉強になりました。
極寒の冬、車中泊の旅が出来ない時期だからこそ、地元のことを少しでも学習出来たら、と思い
博物館へ行ってきましたが、とても参考になりました。

旅をしていて、関心のある地では、現地の博物館や資料館へは出来るだけ見学しています。
歴史や文化を知る上で、役に立つことがたくさんあるからです。
これからも、旅先の博物館、資料館などを訪れたい!と強く思っています。

では、また!


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函館山から見て左側は港、それに対して右側つまり津軽海峡に面した側は、砂浜海岸が広がって
緩やかなカーブを描いて亀田半島最南端の汐首岬まで続いている。
大きな扇状の海岸線のはるか向こう側には、晴れた日下北半島の山々が望める。快晴の日には、
尻屋崎まで見えることもある。

一方、目をすぐ下に転じる函館山南端の立待岬が見え、手前には市民手作りの函館公園があって、
海側に面しているのが住吉町。
その海岸近くの町住吉町には、何と!今から1万年ほど前の縄文時代早期に人々が生活していた
のです。

日本史の資料集を見ても分かりますが、日本全国に広がって存在していた縄文文化遺跡は、北海道
でも各地に点在しています。とりわけ、道南は多く先月紹介した南茅部町大船遺跡は、道内唯一の
国宝である中空土偶が発見された遺跡でもある。

その南茅部町の大船遺跡は縄文中期で、紀元前3000年前ころ。地球が温暖な時期で、海水面が
上昇し、現在の海抜50m付近が海岸線だった。

しかし、縄文早期の始まる紀元前8000年ころは現在と同じ海抜だったのですね。その後は、どんどん
温暖化が進み青森県の三内丸山遺跡は縄文前期と中期にまたがりますが、海抜は50m~80mほど
に位置しています。縄文早期に比べると、地球は暖かくなったのですね。

暖かくなると海水面は上昇し、寒くなると海水面は下がります。21世紀前半の今は地球温暖化の時期
で、海水面の上昇によって様々なことが危惧されていることはお分かりですね。
インド洋や南太平洋のサンゴ礁で出来た標高の低い島国が、その存在が消えかかる心配に侵されて
いることを。


さて、住吉町の縄文遺跡からは、底が鋭い尖底(せんてい)土器が発掘されています。
戦前の1929年(昭和4年)に調査された時は、日本最古の土器と云われたこともあったそうです。

その底が尖った土器が、函館博物館に展示されていた。
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尖底(せんてい)深鉢型(ふかばちがた)土器で、炉の周辺のやわらかい土に底部をさして使用
する。主な用途は煮炊きで、まだ狩猟・採集時代の縄文早期の人々は、山で採ってきた山菜や
狩りで獲た動物の肉を、この土器で煮たのだろう。
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戦後の1950年(昭和25年)の発掘調査では、土器が4点、石器が12点も発見されている。
文様は、貝殻によって刻まれたもの。縄文時代だからといって、土器が必ずしも縄の痕ではない。

そして、これは面白い。
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人の顔が刻まれた小さなオブジェ。

下の土器は、函館空港付近の中野遺跡で発掘された、今から4000年ほど前の縄文前期の
平底(ひらぞこ)深鉢土器。そこが平らである。土器を竪穴住居内の平坦な底面に設けた炉に
置くため、安定のよい平底に進化している。
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東北地方や関東地方では、類似の土器が発掘されていることから、おそらく東北人が海を渡り
住み着いたのであろう。
アイヌの人たちは、津軽海峡を「しょっぱい川」といっていたが、縄文人はその「川」の潮の流れを
利用して渡り着き、道南各地に彼らの文化を植え付けていった。

ここ住吉町遺跡は、その一番最初のものなのです。

というわけで、今からおよそ10000年も以前の縄文時代の早期に、函館山山麓に住み着いた
人々がいたことに驚きました。


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