2019年01月
我が町湯川紹介9回目~海のある風景その2、江戸時代の境界石碑発見!
1月17日木曜日、天気は暴風雪。昨夜からの雪は朝起きて見たら20㎝以上積もっていて、今朝は1時間雪かき。さらにまだまだ降りそうで、午後にも2回目の雪かきになるでしょう。気温も真冬日で、寒い日がしばらく続きそうです。
さて、津軽海峡を見ながら大森浜を歩くことの2回目。この日は、冬の海にすればかなり穏やか。ほとんど凪状態ですね。でも、冬の津軽海峡は荒れることはよくあること。
若いころ冬、青函連絡船で帰省していた時は、大型船の連絡船でもかなり揺れましたね。大揺れの時もあり、客室のあちこちで乗船時に配布されたビニール袋が役に立っていました。

2羽のオオハクチョウは、ついたり離れたりしながら悠然と波間に漂っています。

時には、そっぽを向いたり。

3歩(?)下がって、後を追いかけたり? 仲良しの夫婦?つがい何でしょうかね?

湯川漁港から500mくらいの場所。今まで歩いてきた足跡は、すっかり波に消されて見えず。
この辺りで海から離れ上へ上がってみたら、思わぬものを発見!

これより西は、尻沢辺村漁業・・・と彫られたかなり古い石碑。

元治という年号が見えますが、1864年から1865年までの幕末の時代です。時は、箱館が開港し外国人が押し寄せてきたころ。京都では新選組が池田屋事件(1864年6月)を起こし尊王攘夷派志士を襲い、
7月には長州藩の急進派が禁門の変を起こし、第一次長州征討が開始されています。
これは、そんなころに造られた石碑です。

是(これ)従(より)西は尻沢辺村、今の大森浜に面した函館西部地区のことで、特に函館山南東山麓の住吉町辺りでしょう。ということは、これより東は湯川村だということです。
きっと、漁業権の境目にこの石碑を設置したのです。
福武書店の漢和辞典を調べたら、「是」は「これ」と読み、「従」は「~より」と読み、「~から」の意味で、場所や時間の起点。とのことで、やはり、ここから西は尻沢辺村ということです。

イカ釣り船でしょうか?小さな漁船が陸揚げされていました。

下を見たら、朽ち果てた漁船が放置されています。決して、北朝鮮から漂流した難破船ではないですよ。

最後に、下北半島を見たら、冬にしか見られない蜃気楼がチョットだけ見えていました。
先っぽが海に浮かんで見えるでしょう。もっと冷え込んでくると、大型船が浮き上がったりして見えることもあるのです。
道東や道北では冬良く見える現象ですが、道南でもときたま見えることもあるのです。

今日のコタローです。

外は猛吹雪だなー。さむそー・・・。家のお父さんは、「コタロー!雪かき手伝えよ!」と言うけど、コタローは寒がりだから雪かきなんて無理!無理!無理!

どんどん積もり雪を見て、コタローはとっても心配。この寒さじゃ、野良の猫たちはどうやって寒さをしのいでいるんだろう?凍死しなきゃいいけど・・・。
コタローは、家の周りをうろついている野良たちのことを心配しているんだよ。

草でも食べて、ストレス発散!寒い時も暑い時もアソボーっと!

我が町湯川紹介8回目~海のある風景その1、大森浜を歩いていたら迷子のオオハクチョウ!
1月16日水曜日、天気は晴れ時々曇り。昨夜雨が降りそれが朝方凍結、道路はスケート場のような状態。その上に朝方雪が10cmくらい積もり、知らずに歩くと滑る!滑るでとても歩き辛い。今まで穏やかな天候だっただけに、今日から冬型の厳しい天候になりそうで、まだまだ春遠からじですね。
さて、我が町の紹介8回目は海。津軽海峡に面していて、温泉街のホテル群と湯川漁港は既に紹介済み。その湯川漁港から西へ、つまり函館山方向へと波打ち際を500mほど歩いてみました。

冬の冷たい海でも、カモメたちがいつも群れています。1羽狼なんてのは、無理なのかな?

餌は何なんでしょうね?時々、沖合に行って小魚でも獲って食べているのだろうか?
寒さは大丈夫?分厚い羽毛で覆われているから、寒さ知らず?それとも海水の上だと平気なんだろうか?

オホーツク海ではすでに流氷が来ているけど、さすがにこの辺りの海では見ることはないし、海が凍結したこともない。凍てついた日に川が全面凍結することはあるけど、海水が一部でも凍ったことは今まで一度もないですね。

それにしても寒々しい海です。こんな寒い時でも、ウインドサーフィンをする人はいるんですよ。
もちろんウエットスーツを着込んでいて、たまにここの海で泳ぐ(?)、漕ぐ(?)、乗る(?)もの好きな人がいます。寒くないんだろうか?好きなんですね。

遠くに下北半島が、うっすらとだけど見えていますね。

この辺りの海岸はすべて遊泳禁止。遠浅ではなく、すぐに深くなるし潮の流れが速いのです。
きれいな海ですが、学校でも泳いではいけない!と教えられていて、せいぜい波打ち際で遊ぶ程度です。

おーっと!オオハクチョウ2羽を発見!

以前、ここから6kmほど東の河川である汐泊川(しおどまりかわ)で発見したことはあります。
渡り鳥のオオハクチョウ、その時は河川敷に30羽以上いましたが、この時は2羽のみ。つがいでしょうかね?迷い込んだのかな?

近寄ったり離れたりしながら、仲良く水面を漂っています。
よーく見ると、羽毛は防水だから水を通さないし、体全体を覆っているので寒さも平気なんでしょうね。カモメといい水鳥は、寒さ知らずなんでしょう。

この日は、穏やかな海と空。湯川町はこの辺りまでかな?地図を見ると、海岸線はこの辺りまでが町のエリア。わが町湯川町は川あり、海あり、温泉あり。さすがに山はなかったですが、自然いっぱいの町です。

今日は久しぶりに雪かき。しばらくしてなかったけど、明日以降毎日しなければいけないかな?
それと、外は真冬日で寒い日が続きます。明後日はマイナス10℃以下になるとか?
まだまだ冬本番。
先日テレビで、千葉県館山市のお花畑が放送されていて、ケシの花の群落があってビックリ!
1月の中頃で花が咲いているなんて!…日本は広いですね。
今日のコタローです。

朝からオヤスミタイム。だって、昨日は夜暴れまくったんだから。一緒に寝ているお母さんの足や手をかじって、美味しかったよー!

だから、今朝は睡眠時間。カシャーンって、音聞こえたけど、何無断で撮影してるんだよ!


ボクは、眠いだけなんだよー!寝かせてよー!

昨日1/14成人の日は、新春落語会で初笑い!
1月15日火曜日、天気は曇り。昨日の成人の日の祝日、函館市青年センターで恒例の新春落語会が開かれ、行って初笑いして来ましたので紹介いたします。
場所は、市内中心部の五稜郭公園前電停から歩いて10分のオーシャンスタジアム、陸上競技場、テニスコートなどがある千代台町。青年センターのロビーにて開催。

いつものように、入場料は取らず投げ銭制。
開演は午後2時からだったので、家を1:20に出て車で10分、歩いて10分で到着。柱が邪魔ですが、左右にそれぞれ100席ずつほどで、開演後はほぼ満席の盛況でした。

トップバッターは、櫻家散散(さくらや さんざん) さん。
御年72歳で、今回がデビューと話しておりましたが、どうしてどうしてとても上手でした。
多分、学校の先生をなさっていた方でしょうね。今もボランティアで小学校で担任の補助をする指導員をしているとか。
昨年亡くなられた東屋夢助さんの最後のお弟子さんです。
東屋夢助さんは、1941年の東京生まれ。幼い頃から落語が好きで、明治学院大付属高在学中は、しょっちゅう上野の寄席「鈴本演芸場」へ通っていたそうです。卒業後、五代目柳屋子さんさんに弟子入り、7年間修行し前座名を栗の助と名乗ります。
25歳の時に芸に行き詰まり苦悩し、函館に移住。2年後に「東から歴史を作り上げ、夢を持って人を助ける」と東屋夢助と改名、出前落語活動を開始します。
それ以降市内で活動し、テレビやラジオ番組で人気を得て活躍しお弟子さんも出来ました。今回の出演者はすべてお弟子さんたちです。
生前は、アマチュア落語家を集めた「全国落語大学」学長を務めて、毎年開催していました。
昨年、2018年3月に77歳で亡くなられました。

4人目は、講談師の荒到夢形(こうとう むけい)さん。
地元函館では、誰もが知っている人気の講釈師。1960年秋田で生まれ、東京で学生時代を過ごし卒業後は北海道で高校の教員を務めて、定年前に退職しプロ活動。本名は荒井 到さん。
高校では、歴史の教鞭を取っていたのでしょうか?とても日本史や世界史に詳しい。特に函館の歴史、開港の辺りや明治・大正・昭和の初めの頃の函館をよく取り扱います。
今回は、150年の歴史にピリオドを打って1月31日に閉店する道内最古のデパート「棒二森屋百貨店」の創立者である渡邉熊四郎さんの自伝です。
我が町湯川紹介7回目~川のある風景その4、本流「松倉川」
1月14日月曜日、晴れの日が数日続いていて気持ちも穏やか。今日は成人の日で、20歳の若者たちが全国でお祝いさせていることでしょう。決して、くれぐれも暴れることのないように!
昨夜、ビデオに撮っておいたBS・NHKの「キミに最後の別れを~永遠なれラグビーの青春」(90分ドラマ)を見て、とっても感動!今年一番の素晴らしい作品でした。
戦争が混迷をして敗戦濃厚となっていった昭和18年10月、すべての大学スポーツは禁止。その中で東大ラグビー部と京大ラグビー部が、密かに定期戦を行ったのです。
英語は敵の言葉として話してはいけない時代、ラグビーは闘球部に変えさせられ、選手たちは学徒動員で戦地へ。その前に試合をしよう!と、両チームがひっそりと10月19日に行ったのです。
事実に基づいたドラマで、とても感動しました。チームは「One for all ,all for one」の精神で臨み、最後はノーサイドで、ラグビーは、最高のスポーツですね。
ということで、川のある風景の最後はラグビーに関係する場所を紹介いたします。
さて、本流「松倉川」を遡ります。「湯の川」との分岐点から上流へ100mほど行くと橋が架かり、そこから撮影したのが下の写真。
左の建物は、かつては地元スーパーの「ホリタ」、ダイエーに吸収されて、その後イオンへ。
右へ行くと。

そこには、ラグビー場が。冬期間は閉鎖されていますが、総天然芝で奥行きのあり観客席は3000人。アーチェリー場も併設しています。おそらく、北海道で最も古いラグビー場の一つではないでしょうか?
ここで、外国から招待されたチーム(アイルランド・クイーンズ大学)と北海道代表チームが戦ったこともあるし、トップクラスのチームの合宿も行われています。
20年ほど前には、日本代表チームが試合を行ったこともあるのですから。

奥に見える階段を登ると、ラグビー場と湯川3丁目が一望。右側に1870年(明治3年)9月12日に開校した湯川小学校がありますが、マンションや高い建物に隠れて良く見えませんね。
明治3年といえば、箱館・五稜郭の戦いが旧幕府軍の敗戦で終わった翌年のことですよ。4年間の義務教育が法文化されたのが、1879年(明治12年)の教育令後だから、それよりも9年も早い。
今年で創立149年。来年は創立150周年です。長い歴史があるんですね。私も私の子供たちも卒業生です。昨年は北海道命名150年だったから、それより遅れること2年しか経っていないのです。
松倉川は、道路沿いを画面の左から右へと流れています。

振り返ると、高台には野球場と奥にはサッカー場が。飛行機は、ここの真上100mももない上空を通過して函館空港へと向かいます。

一番高い場所から湯の川温泉街を見ると、ホテルとマンションが林立していますね。
地図を見ると1キロ四方ほどしかない湯川町ですが、たくさんの建物が集中していることが分かります。

少し内陸部へ目を移すと、マンション群が。ずーっと奥に五稜郭タワーも見えます。

ズームして湯川小学校を探すと、校舎の一部が見えてきました。
松倉川の源流は、遠くに見える「亀田富士」の別名の三森山(842.1m)と左の蓬揃山(500.9m)の間を流れ、横津岳連峰の一つ袴腰岳(1108.3m)の裾の湿原で、その長さは23.6km。
以前、オフロードバイクで川沿いの大船松倉林道を走って上流部へ行きましたが、谷沿いは深いV字谷を形成していて、とても険しい道のりだったことを覚えています。

湯川小学校から東は戸倉町で、かつては河川敷の水田地帯でしたが、今は広い駐車場を構えたショッピングモール街を形成。巨大なホームセンターのホーマック、道内最大のスーパーのアークス、しまむら、などたくさんのショップが立ち並んでいて、それらはすべて松倉川の川沿いに立地しているのです。

ということで、川のある風景は今日紹介した本流の松倉川で終えることにします。1つの町に、支流を含めて4本の川が流れている湯川町。鮫川、湯の川、湯の沢川、そして松倉川と。
今日のコタローです。

新聞を読んで、考え込んでいるコタローです。

旭川の古丹別で最低気温、マイナス29.8℃だって!氷点下30℃なんて信じられないねぇー。
コタローは凍えて死んじゃうよー。寒さに弱いんだから。

あーぁ、新聞読むと疲れちゃった。大きな欠伸をして、この後グッスリと寝よーっと!
寝る子は育つって、言うからね。コタローはますます大きくなっちゃうよー!

我が町湯川紹介6回目~川のある風景その3、「湯の川」後編 これ以上行けない場所には凍結した滝が!
1月13日日曜日、天気は予報では晴れのマークだったが、曇り。やっぱり、朝方は冷え込んでいてマイナス気温。昨日融けた雪が、凍りついていて歩きにくい。春にはまだまだ遠からじの北海道です。
さて、松倉川支流の「湯の川」を遡ります。写真に見える湯倉神社の横を流れて北上する「湯の川」。
地名の由来にもなっている川です。

湯倉神社は、大晦日の日にも詳しく紹介しているので、今日はここの神様だけを。下の写真を見て分かるように、3人の神様。3人と云っていいのかどうかは、知りませんが。
ここの歴史は、何度かお伝えしていますが、由緒のところに書かれていますね。

さて、雪道を歩くこと1時間以上。背中には汗まで出てきてこの寒さの中でも暑いこと、体が温まりました。川沿いに榎本町→上野町→高丘町→見晴町ときて、行き止まりへ。
そこには、これ以上は進めない凍結した滝が目の前に立ちはだかりました。

すごい光景!高さは3mくらいで、それほど高くはないがここを登ることは絶対に無理!

周囲を見渡しても、雪が凍結してツララとなって林立していますよ。

きっと、流れている水も冷たそう!

奥には廃屋も見えています。

「瀧の澤神社」と書かれた看板と廃屋。でも、川を挟んでいて渡れない。幅3mくらいだから走って飛び越えれないこともないが、あえて向こう側に行くこともない。逆に失敗したら、向こうの世界に行きかねないから止めときます。無理は禁物!

実は、ここ高宮神社の聖域でした。赤い鳥居は新しく平成10年代の年号が書かれていて、昔から存在した神社ではなさそう。
実際、私が子供のころにはなかった神社で、恐らく平成の時代に出来たはずで、せいぜい30年くらい前でしょう。本殿も立派な建築物で、もしかして21世紀に建てられたものでしょうか?

奥には、5つの神様を祀っている建物もありますね。

ということで、歩いて歩いて源流まで行かなくても、これ以上は進めない場所まで行きました。
我が町湯川からはみ出してしまいましたが、湯川の由来となった「湯の川」の川を遡ってたどり着いた場所ということで、ご勘弁を!
今日のコタローは鳥に興味があるようです。

朝からテレビの目に立ちはだかるコタローです。

鳥が飛んでいるから捕まえようとしているんだよ。でも、手を伸ばしても届かない。どうして?

いいなぁ!空を自由に飛べて。コタローも空を飛べたらいいのになぁー!

我が町湯川紹介5回目~川のある風景その2、松倉川の支流「湯の川」前編
1月12日土曜日、天気は快晴で真冬には珍しいくらい暖か。これだと、道路の雪はどんどん融けて車は走りやすい。札幌では、昨日は一気に数十㎝降雪があり、雪かきがたいへんだったとか。それに比べると函館は今年は雪も少なく、温暖な日が続いてうれしい!
さて、5回目は湯川の名の由来でもある「湯の川」を上流までたどります。今日はその前編で、明日はついに源流とまでいかないけど、歩いてたどり着ける限界まで行きます。
さて、松倉川の河口で左岸を見ると総ガラス張りの熱帯植物園が見えますね。温泉熱を利用して、熱帯地方の植物を育て猿を100匹以上飼育し公開しています。猿が温泉に入る光景は、世界中でここ函館と長野県湯田中温泉の2か所しかなく、インターネットで知った外国人がよく来ます。

50mほど上流へ行き、鮫川の橋を渡り次に松倉川に架かる橋へ行く途中、間にあるのが有名なラーメン屋「一文字」。こってり系の美味しいラーメン屋さんです。

橋を渡って松倉川の河口へ。西の方向を見ると、湯の川温泉街のホテル群が見えているし、函館山もクッキリ!

東の方向には亀田半島。手前はホテルと熱帯植物園。

上流へ少し行くと、温泉の排水が川へ流れていて湯華も出来ていますよ。

100mほど行くと二股へ。右が本流の松倉川。左がこれから向かう「湯の川」。

支流「湯の川」を上流へと。右にマンション群が見え、左には湯倉神社の赤い鳥居がチラッと見えていますね。

来た道を振り返る。右に高級旅館の「竹葉」があります。
よく芸能界やスポーツ界の有名人がお忍びで来ているとか?数年前になりますが、ここで働いていた知人が話していました。中にはテレビで知られている有名な不倫カップルもいたとか?
まぁ、勝手にどうぞ!どうでもいいことです。
左側の細い道を歩いて、二股の端っこまで雪を踏みしめ行きます。

膝まで埋もれながら、一般住宅の裏を通りたどり着きました。長靴を履いてきてよかった!
左が松倉川で、右が「湯の川」。

ここでも温泉の排水が流れていて、水が暖かいからか鴨が数羽戯れています。鴨の沐浴かな?

日本語の湯の川かな?と思っていたら、ユベツというアイヌ語から来ているとは!知らなかった。

さらに上流へ100mほど行くと、左側高台にある湯倉神社が見えてきます。

さらに100m上流へ行くと、二股へ別れていて左が「湯の沢川」、右が「湯の川」。
実は、この2本の川は1965年(昭和40年)まで鮫川に合流していたのです。ところが、同年洪水が発生し大氾濫。それで、松倉川へと水路を変更したのです。だから、この辺りの川は人口水路です。
当時、私は中学1年生でその氾濫を覚えています。連日の大雨で鮫川に流れ込む水量が増し、川からあふれ出した水が、今の函館アリーナ周辺をまるで湖のように覆ったのです。市電通りは完全に水を被って通行止め。それは、我が家の直ぐ近くまで来ていてかなり危なかったことを。

奥に少しだけ見える黄色の橋を越えると、湯川町ではなく榎本町になります。名の由来は、幕末の箱館戦争の幕府側代表の榎本武揚からきています。

明日は、この湯の川をどんどん遡ってこれ以上は行けない場所へと向かいます。
そこには、ホントにこれ以上遡れないものがあったのです。それはいったい何か?
明日をお楽しみに!

ということで、川のある風景「湯の川」。明日は源流への旅、何処まで行けるのか?歩いてはこれ以上は無理!という場所まで行きました。
では、また!
今日のコタローです。

今日は、朝からとってもあったかい日だね。だからコタローは、ご機嫌で遊びまわっているんだよ。

それは、とてもカメラに撮れないほどの動きだから、こうして動き疲れておとなしくしている時に、モデルになってあげているんだよ。誰もボクのスピーディーな動きにはついて来れないよ!

今日もよろしくね!
我が町湯川紹介4回目~川のある風景その1、松倉川の支流「鮫川」
1月11日金曜日、天気は晴れで快晴に近いほど青空が見えています。でも、風は冷たく気温も1日中真冬日。道路はツルツルで滑りやすく歩きづらい。
今日の地元紹介は、川の流れている風景。函館市内最大の河川である松倉川は、市内東部地区を流れ津軽海峡へと注ぐ全長23.6km、流域面積93.1平方キロメートルで、水源は横津岳連峰の一つ袴腰岳(1108.3m)の湿地帯から流れ出ている川です。
川の名前の由来は、この河川周辺の地名に戸倉・湯倉・石倉など倉のつく名があることから松倉となったそうな。アイヌ語からではないみたい。

この川の左岸、つまり東側が湯川3丁目。右岸、つまり西側が2丁目となっていて、川が境界になっています。
まずは、波打ち際へ出て見ましょう。晴天のこの日、波も穏やかで津軽海峡を挟んで対岸に下北半島が見えています。

川の先端は、ご覧のように護岸が海へと突き出ています。

右岸から見た函館山。湾曲した砂浜海岸は大森浜と呼ばれ、石川啄木の詩にも詠われていますね。
「潮かおる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇(ハマナス)よ 今年も咲けるや」

振り返って見ると、この松倉川はすぐに二股に分かれていますね。本流は右側で、左側が支流の鮫川。
川の左側、つまり西側が湯川1丁目。2つの川の間が2丁目。対岸の右側が3丁目と川が境界になってるのです。

今日は、その支流の鮫川を少しばかり遡ります。
名前の由来は、てっきり鮫が獲れたからと思っていたら、アイヌ語で和人を意味するシャモ(シャム)の音が転じてサメになった、といいます。

海が見える場所にホテル・旅館が立ち並んでいますね。さすがは、国内温泉ランキング第6位だけはあります。が、いわゆる温泉街は形成されておらず、歓楽街などはありません。
どちらかというと、住宅街にある温泉で、お土産物屋さんは見当たらず、ホテル内の売店を利用するか、または市電またはバスでで市内西部地区へ出かけて赤レンガ倉庫群などで購入するしかありません。

振り返ると、こちらもホテル群。黒っぽい高層ホテルは野口観光の超高級ホテルの「望楼」で、一泊5万円とか、とても宿泊する気にはなれないですね。
5万円あったら10日以上は旅出来そう!とケチな考えがすぐに浮かんできます。車中泊の旅ばかりしてきたから、ホテルに泊まるなんて発想が思いつかないのです。ここ数年で、完全に貧乏旅行者になり切りました。いいのか悪いのか?

ここにも、鮫川の説明がありましたね。

ということで、明日は松倉川のもう一つの支流である「湯の川」を遡ることにします。
では、また!
今日のコタローです。

今日は家の中にいれば、ポカポカ陽気で陽光でつい眠くなりますよ。だから、コタローは寝タローになっています。

窓辺でウトウト、スヤスヤ、グーグー。ネコもイビキをかくんだよ。寝息だけじゃないんだ。

あったかいし、家にいれば寒さなんてまったく感じられないんだ。だから、オヤスミ。
家の中は、もう春でーす!

我が町湯川紹介3回目~湯川のソウルフード、和菓子の老舗「やきだんご銀月」
1月10日木曜日、今日は110番の日だそうです。天気は晴れですが、昨夜は雪。それが、北海道にしては珍しく重い雪で、雪かきが大変。いつもは軽い乾いた雪が降るのですが、昨夜に限っては湿り気のあるどしっとした重たい雪でした。
さて、3回目となった我が町湯川の紹介は、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しい和菓子です。
湯川のソウルフードとも云われる(チョット大げさかな?)ほど有名ですし、函館市民なら誰でもが知っている和菓子屋「やきだんごの銀月」さんです。

こちらは、右がべこ餅で形が違うものを2つ。「べこ」とは牛のこと。牛の白黒まだら模様と似ているから名が付けられたのか?詳しくは知りませんが、東北や北海道でよく食べる和菓子ですね。
左は豆大福と草餅。それぞれ1個119円。売店の奥で製造していて、売店からも良く見えます。
手作りで、他では地元の湯川生協で少量販売しているけど、やっぱりここへ来なくちゃ!
我が町湯川紹介2回目~日本で一番?熱い公衆浴場「永寿湯」何と50℃!
1月9日水曜日、天気は晴れだが気温は相変わらずの真冬日。寒い日が続いています。
昨日は、湯川温泉が温泉ランキングで6位と紹介しましたが、ちなみに7位以下はというと、7位白浜温泉(和歌山県)、8位伊東温泉(静岡県)、9位秋保温泉(宮城県)、10位下呂温泉(岐阜県)だから
やっぱり、知名度のある全国の温泉の中での6位ということで、驚きと同時に誇れるものなんだな、と改めて見直した次第です。
さて、2回目となった我が町の紹介は、恐らく日本1?熱い温泉公衆浴場の「永寿湯(えいじゅゆ)」です。
昨日は、湯川温泉が温泉ランキングで6位と紹介しましたが、ちなみに7位以下はというと、7位白浜温泉(和歌山県)、8位伊東温泉(静岡県)、9位秋保温泉(宮城県)、10位下呂温泉(岐阜県)だから
やっぱり、知名度のある全国の温泉の中での6位ということで、驚きと同時に誇れるものなんだな、と改めて見直した次第です。
さて、2回目となった我が町の紹介は、恐らく日本1?熱い温泉公衆浴場の「永寿湯(えいじゅゆ)」です。

場所は、湯川町1丁目で、湯川松林の裏側。市内では、ほとんどの方が知っている、それはそれは熱い!公衆浴場です。北海道の銭湯料金440円で入湯出来ますが、とにかく熱い!こと。
お正月のNHK道内版のニュースでも取り上げられたほどで、放送では「45℃と50℃の2つの湯船がある」と。
数年前に自分が入った時は確か3つあって、それぞれ42℃、45℃、47℃とhot,hotter,the hottestと熱い湯、より熱い湯、もっとも熱い湯の3つあった記憶があります。
その後リニューアルして2つになり45℃と50℃の2つになったのでしょうね。
50℃なんて、人間が入れるのでしょうか?とても、熱すぎて私は入れません。45℃だって、たとえ入ったとしても長湯は絶対に出来ない!
自宅風呂の41℃に慣れて長湯している身としては、ぬるい方(?)の45℃でも入れないかも?
でも、高齢者の方の中には、熱い湯が好きな人がいるんですね。そういえば、以前の職場の先輩(60歳過ぎ)で「時々行っている」という方がいて、ある時若い後輩(20代)を連れていったそうです。
次の日、後輩は「絶対に、二度と行きたくない!」とこぼしていましたね。

ニュースでは、高齢者の方々が入浴しているシーンが写っていましたが、50℃の公衆浴場があるなんて、信じられませんね。皆さんの地域にはありますか?
となりは駐車場で、10台以上可能。そのとなりが湯元です。右側にある建物ですね。

ということで、湯川温泉街には誰でも入浴できる公衆浴場の温泉が他にも3か所ほどあります。
以前は、もっとあったのですが皆さん家庭風呂に入るようになったり、市内各所で温泉施設が出来て次々と廃業していき今では数えるほど。
ホテルや旅館の風呂には、料金は高いけど入れるところもありますが、やはり公衆浴場は地元の人たちが入浴する場所。自分は他の温泉を訪れた時は、出来るだけ公衆浴場を利用しています。
今日のコタローです。

だから、汗かきなんてシンジラレナーイ。「シンジラレナーイ」って、分かりますか?
北海道の人なら誰でも分かりますよね。あの伝説のヒルマン監督の優勝時の言葉ですね。
もしかしたら、来年栗山英樹監督が勇退した後釜にやって来るかも?
我が町湯川紹介初回~温泉と海と川の町、湯川温泉は、温泉ランキング6位!
1月8日火曜日、雪が降り朝はとても寒い日。7時前の窓ガラスを見ると、氷の結晶が窓に張り付いているほどです。

恐らく、マイナス8度前後くらいまで冷えたでしょう。朝方の太陽が差し込むまで、グッと冷えています。日中太陽がサンサンと輝きだすと、この結晶は解けて消えますがそれでも今日も真冬日。
当分寒い日が続きますね。
さて、今まで北斗市の紹介をしてきましたが、もちろん終わりではありませんが今日は趣向を変えて、我が町「湯川(ゆのかわ)町」を紹介することにします。今日はその記念すべき第1回目。
というのも、長旅に出れず、それでは身近の地元を紹介しよう!との思いからです。

まず、名前の通りで湯の川は温泉で持っている町。1丁目、2丁目、3丁目とありますが、合わせて紹介していきます。もちろん、温泉だけではなく海もあるし川もある。神社仏閣もあり、キリスト教会もあるし、自然も豊かだし、歴史あるものもいくつかありし、美味しいものもありますよ。
初回は、やはり温泉。函館市電「湯川温泉」電停から歩いて1分もかからない場所にある足湯から。
北斗市紹介第5回~有川大神宮、室町時代の応永(1394~1428)年号のある石碑
1月7日月曜日、天気は晴れで太陽の日差しが眩しい!でも、最高気温はマイナス1℃で真冬日。
今朝は寒かった!函館の最低気温はマイナス8.2℃。道内の最低を記録した道北の中頓別町では、何とマイナス26℃。まさに、しばれる気温です。
今日からは、ほとんどの会社は仕事始めで、学校も始業式と思います。北海道や北国の学校はもう少し冬休みが長く来週の成人式(1/14)の翌日以降でしょう。これからが冬本番で、2月にかけて降雪量はさらに増えるし、気温はさらに冷えていくから厄介だなぁー。
年を取るたびごとに、寒さが厳しくなるとイヤになります。昔は、雪が降って寒くなると「スキーに行くぞー!」と意気込んでいたのに・・・。
さて、北斗市役所の南側にある有川大神宮。道路に面していかにも年月が過ぎた大きな石碑がありました。それは、漢字だらけだし消えかかった部分もあってとても読めなかったです。
説明板には、「難解な漢文であることから由来記か?と見られてきた」と。
1月4日に紹介した第2回目では、「鎮座五百年祭碑」の写真が載せてあります。
そしてこの石碑、文中には「応永」という年号があるのです。

応永とは、1394~1428の34年間の年号で、室町時代前半4代将軍足利義持の時。
天皇が二人いた南北朝時代が終わって一つになり、室町幕府が確立し中国の明と勘合貿易が行われていた時代のことです。
豊臣秀吉の時代の1597年に創建された有川大神宮ですが、造られた年よりも170年も昔の時代のことが書かれていたのですから驚きです。
でも、時代的には15世紀は東北から蝦夷地への移住者が急増しアイヌ民族と対立していたから、あながち和人が住み着いていたことはあるはず。
実際、その後1457年にはアイヌの首長コシャマインが蜂起し戦いが行われているからです。
奥には、上磯奴・有川天満囃子展示室と資料館があって、北斗市の民俗文化財となっていますね。
冬はシャッターが降りて閉まっていますけど。

そのとなりが、ステージでしょうか?
〇に四つ目菱の家紋は、甲斐(山梨県)の武田氏が有名。菱模様は、池や河川に自生する水草を描いたものだそうです。
だからか、松前藩の先祖は武田信広で、武田の家紋の四つ菱を使っているのでしょう。

こちらは本殿。
武田信広は、1431年若狭の守護大名武田信賢の子として小浜で誕生。21歳の時に若狭を出奔し、みちのく南部へ、下北の大畑より蝦夷地へ渡り上ノ国の蠣崎(かきざき)家に身を寄せて婿養子となります。
1457年、コシャマイン父子を殺害しアイヌ軍は次つぎと敗退、蝦夷地における支配者となります。
その後、蠣崎氏は家康のお墨付きを得て松前氏と名を改名し、松前藩主となっていくのです。
なるほど、ここの歴史が段々分かってきましたよ。

横を見ると、稲荷大明神が。湯倉神社のような千本鳥居ならぬ十本鳥居すらなく、それどころか一つも鳥居がない稲荷大明神です。

その奥に、さらに奥の院でしょうか?狛犬とともに鎮座していました。

左となりは恵比寿様を祀っていますよ。稲荷大明神は五穀豊穣、恵比寿様は商売繁盛で、何とも贅沢な神様がたくさんいること!

手水舎は凍結していて、蛇口からは水は出ることはありません。北海道の水道は、冬は凍結するから外になるものは、秋の終わりに完全に水抜きして元栓を止めています。
石で出来た洗い場の横を見ると、「大正6年7月」の文字が。1917年のことで、今から102年前に造られたものですね。第一次世界大戦のさなかで、ロシア革命のあった年です。

御神木の銀杏の巨木。奥が社務所となっていて、おみくじや絵馬が売られていました。

有川大神宮を出てすぐとなり、小さな水路みたいな小川に架かる橋を渡ると、北斗キリスト教会があります。一軒家を改装して、1階が礼拝所、2階が住居としていて、小杉牧師が家族と共に生活しています。

ということで、有川大神宮の歴史は相当古いものがありましたね。
なお、最初に紹介した石碑は、「鎮座五百年祭碑」と書かれていましたが、この石碑は1895年(明治28年)日清戦争の戦勝記念と、伊勢神宮と同じような造りの新殿が落成した記念をともに祝った碑でした。
だから、今から124年前の碑だったのです。
その碑になぜ応永という年号が書かれていたのか?それは全く不明ですが・・・。
文選は、明治時代の書家として知られ当時の函館控訴院(今日の高等裁判所に相当)の院長を務めていた佐賀藩出身の西岡宣軒氏だということが分かっています。
今日のコタローです。

今日は寒かったねー。最低気温は氷点下8.2℃だなんて、外を見てるだけでブルブル震えが来るヨ。
寒いのは苦手。

家の中はあったかいけどね。今日は何してアソボーかな?
お日様が照っているし、暖房のある家の中はあったかいねぇー。野良たちは可哀そうー。
ボクは幸せネコだよー。

北斗市紹介第4回~キリスト教が黙認された1873年(明治6年)の3年後に創立された上磯ハリストス正教会
1月6日日曜日、天気は朝から雪。空はどんよりとした灰色、その空から純白な雪がゆっくりと落ちてきています。初めて雪を見た人は、何だろう?天から舞い降りた白い贈り物?
でも、手に取るとすぐに消えてなくなってしまう、はかないものと思うのでしょうか?
雪国の人たちは子供の時から雪を知っていますが、南国の人たちはそんな風に不思議に思うでしょうね。
もっとも、今日は最高気温でもマイナス気温で、外気はとても寒い。降ってくる雪を手に乗せても、すぐには消えず逆に雪の結晶がきれいに残ります。雪の形もいろいろあるんだな、と。
さて、北斗市紹介第4回目は、清川口駅から2kmちょっと北上した中野地区の農村エリアにポツンと建つ上磯ハリストス正教会です。
ハリストス正教会と云えば、函館山山麓の西部地区にある緑色の屋根と白い壁の教会をすぐに思いつきますが、実は北斗市上磯地区にもあるのです。

函館ハリストス正教会は、江戸時代末期の1860年、元町の現在地にロシア領事館とその付属聖堂が建立され、日本で初めてのギリシア正教会の流れを汲むロシア正教会の教会としての歴史を持ちます。
もちろん、当時は日本人のキリスト教信仰は禁止されたままで、ロシア人対象の教会として建てられたのです。それは、1854年の日露和親条約で箱館が開港し、多くの外国人(ロシア人)がやって来て住み着き始めたからです。
2代目の司祭のニコライは、1868年(明治元年)に日本人3名を密かに洗礼させ、日本の歴史上初めての日本人の正教会信徒が誕生します。当時日本人のキリスト教信仰は禁止されていて、分かれば処刑されていた時代です。

それは、旧幕府軍と新政府軍の戦争である戊辰戦争の最後の戦いである、箱館・五稜郭の戦いが行われていた年。勝利した新政府は、国策の基本を示す五箇条の御誓文を公布した翌日に、旧幕府の政策を継承する五榜の掲示を、高札という形で一般庶民に対して掲げます。つまり立て札で国民に知らせたのです。
その一つ「キリスト教の禁止」は、明治政府になっても継承していました。
と同時に当時の明治政府は、天皇の神格的権威を高めるため神仏分離令で各地に廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動を拡大させ、江戸時代に保護されていた仏教寺院を破壊させ、貴重な仏像や仏具が壊されたのです。
さらに神道の国教化を目指し、明治政府は神社を儀礼中心の公の施設として公認(神社神道)し、さらに教派神道を成立させ13派に対して公認制を採用します。その中には、黒住教・天理教・金光教などがありました。
が、西洋列強の圧力に押されてか、1873年(明治6年)明治政府はキリスト教禁止の高札を撤去し、キリスト教を黙認。教会は逃げも隠れもせずに、堂々と伝道活動が行われるようになりました。
それから3年後の1876年(明治9年)、道内ではあのクラーク博士が教頭として札幌農学校が設立された年ですが、函館のハリストス正教会のキリール・大村徳松により、この地に教会が創立され、伝教者
ダミアン・五十嵐東三郎とともに伝道が開始されます。
そして、地元の方3名が洗礼を受け、1887年(明治17年)には総ヒノキ造りの畳敷きの教会「有川昇天会」が出来るのです。有川は、この地の旧村名でしたね。

ギリシア正教会の八端十字架がありますね。カトリック・プロテスタントの十字架は、文字通り十字ですが、8つの端があるギリシア正教、それは上の短い横線が罪名、下のは足乗せ台。斜めになっているのは、キリストがゴルゴタの丘で処刑された時、一緒に2名の罪人がいて、一人はイエスを信じて改宗し天に昇りますが、もう一人は悪態をついて地獄へ落ちます。それで、斜めになっているのです。
だから、片方が上を向いて、もう片方が下を向いているのです。

1930年(昭和5年)には、上磯ハリストス正教会と今の名になり、1962年(昭和37年)には屋上にキューポラが出来、2代目の教会が完成。キューポラとは、函館と同じような玉ねぎ型の屋根と八端十字架ですね。そして、3代目現在の形になったのは1987年(昭和62年)のことです。
今回はこの後に上磯ハリストス正教会の墓地を訪れる予定でしたが、ご覧のように吹雪になり中止。道路も見えないくらいに降り続いていて、無理をすることないな次回また行こう、と断念。
後光が差している上磯ハリストス正教会。

ということで、明治初期キリスト教がやっと解禁された間もない時代に、上磯にギリシア正教会の教会出来たという歴史を知り感動を覚えました。
昨日は、官軍の戦死者の墓地を見学。逆に旧幕府軍の戦死者は無残にも死体が放置されていて、それを見かねて任侠の柳川熊吉は丁重に葬りました。それが函館山山麓の谷地頭の立待岬に近い碧血碑でした。
今日は、明治の初めにそれまで弾圧されていたキリスト教が黙認され、今まで全く伝道されなかった地において、初めて教会が出来たという、歴史的出来事を知ることが出来ましたね。
北斗市は、江戸時代末期は箱館同様に淋しい漁業主体の寒村でした。それが、1853年ペリーの来航によって鎖国は解け開国、箱館は開港し西洋文明が入る日本でもっとも新しい町へと生まれ変わっていったその時に、となり町の北斗市(上磯)もまた影響を受けたのです。
次回の第5回目は、有川大神宮で見落としていたところがあったので、補足する形でもう一度訪問して調べてみましたので、有川大神宮を取り上げることにします。
では、また!
今日のコタローです。

コタローは、歴史に関しては学校へ行っていないからサッパリ、ニャンとも分かりませーん。

それより寝てたり遊んだりの方が、ずーっと楽しいーよ~ん。
そしてら、お父さんから説教されました。最初の内は大人しく聞いていたけど、しょせんボクはまだ生後7か月の子供の身ゆえ、5秒も集中出来ないのです。

あーぁ、お説教はあきたよー。早くご飯食べたいなー!
お父さんも、プロレス観戦しながらの説教はダメだよ!コタローはプロレスに興味なんかないからねー。

北斗市紹介第3回~道南いさりび鉄道「清川口駅」付近で箱館戦争官修墳墓を探す
1月5日土曜日、天気は曇り時々雪。
函館市のとなり町である北斗市紹介の第3回目は、道南いさりび鉄道の清川口駅から。無人駅です。
朝9時に我が家を出た時は、雪は降っておらず散策日和かな?と安心して出かけけました。雪道を慎重に運転しながら40分ほどかけて北斗市役所の駐車場へ。
そのあたりから、チラチラと雪が天から舞い降りてきています。写真では分かりずらいですが。
海抜2mの表示が見えますが、函館湾からは500mも離れておらずしかも平坦地。それに北斗市を北から南へ流れる代表的河川である大野川からも300mほどの場所です。

たまたま道南いさりび鉄道の列車がやって来ましたね。ワンマンカーで前のドアからの乗り降りだから、後ろのドアには誰もいません。土曜日の午前10時前なので、函館市内へ行くお客さんが何人かいますね。
屋根にはパンタグラフがないから、ディーゼル車であることが分かります。上には電線があるから電車も走っているけど、それは津軽海峡線を利用した貨物列車でしょう。木古内駅までの道南いさりび鉄道では、確か電車はないはず。道南いさりび鉄道のマークは、多分?函館湾を表していますね。

清川口駅は、北斗市役所とかなでーる前。市役所は後ろの建物。

人口46500人の町北斗市は、2006年にここ上磯町と大野川の上流の大野町が合併して成立。
ここを経由して、北海道新幹線の新函館北斗駅まで路線バスがあるんですね。地元の函館バスが走っています。

が、ダイヤを見ると平日は上りと下りが2本ずつ。土曜・日曜にいたっては1本のみ。一体だれが利用するのでしょうか?
ほとんど市民の足になっていないバス。いくら車社会といっても、車のない高齢者や免許のない高校生たちは、この路線を利用不可ですよ。

「かなでーる」は線路を挟んで北側にある総合文化施設。大ホールや図書館などが入館。

地図を見て、来たかったのがここ。地図では「箱館戦争官修墳墓」と書かれていて、官軍のお墓があるのかな?と。「かなでーる」の向か側の通りを線路に沿って歩いて見ると、100mも行くとそれらしき場所へ。
Wikipediaで調べましたが、官修墳墓とは、戊辰戦争の際に官軍に従軍し戦死した人の墓で、全国に1013か所あるといいます。それらは、すべて官製墳墓明細帳に登録されたもので、明治時代に監守人を置き、維持費として国庫から支給していたとか。
最多県は、福島県で186か所。ゼロの県は、奈良県・静岡県・山梨県・島根県・和歌山県・徳島県・香川県・愛媛県・沖縄県の9県だそうです。
福島県が多いのは、会津若松城や二本松城の戦いで数多くの戦死者が出たからでしょうか?
ゼロの県は、戊辰戦争の戦場とならなかったから?
北海道は、最後に箱館・五稜郭の戦いがあって官軍の戦死者がいたので、このような官修墳墓があるのですね。

周囲は住宅街で、雪が積もっていて内部へは入れず。フェンスの外から見ると「種田家奥津城」のお墓が見えました。神道式の墓のこと。そういえば、函館市の護国神社を紹介した時にもありましたね。
普通、お墓と云えば仏教式のが多く、キリスト教のお墓もありますが、神道式は非常に珍しい。
種田家は、昨日のblogで紹介したように代々有川大神宮の宮司を務めた家。だからか、種田家之奥津城なのでしょうね。

それ以外にも墳墓はありましたが、雪に埋もれていてハッキリとは読み取れず。
種田家以外の名もあって、それは官軍の殉職者としてここ「官修墳墓」に入れられたのです。
そうか、護国神社にも弘前藩や大野藩、福山藩、薩摩藩の藩士たちのお墓があったけど、それも官修墳墓として国が維持していたのですね。官修墳墓の意味が、やっと分かりました。
ここは、雪が融けて春になったらもう一度来てみたい!と思いました。
今日のコタローです。

今日はたくさん遊んだなぁー。お客さんも来たし、プロレスラーのカツオ選手の来たから遊んでやったんだ。コタローは、みんなをエンジョイさせるエンターテイナーなんだよ。
おかげで喉が渇いたよ。

そんな時は、水分補給。部屋の中も乾いているいるし、インフルエンザ予防も兼ねて、と。

さすがに、インフルエンザの予防接種は受けていないけどね。
皆さんも風邪を引かない様にね。
水道水で喉をうがいした方がいいんだって!さっき、テレビで放送していたよ。うがい薬だと、効きすぎちゃって、悪いウイルスだけでなく良いウイルスまで流してしまうんだって。だから、塩素殺菌している水道水が一番うがいには良い!と。
北斗市紹介第2回~関ヶ原で敗れ、九州から蝦夷地へ逃げ延びた落ち武者の旧家
1月4日金曜日、天気は曇り。
今夜は、新日本プロレスが1.4東京ドーム開催する日。CSのテレ朝2では全試合生中継する予定なので、午後5時からしっかりと見させてもらいます。昨日までは、駅伝・ラグビーでテレビ観戦、今日・明日はプロレスと正月はテレビの前で動かず。これじゃ、体がなまってしまいますね。
そろそろ体を動かして春の旅に備えなくては!と少しは反省。
さて、函館市の西隣の町北斗市の紹介第2回目です。北斗市役所の向かい側にある歴史ある建造物を見たら、何と!1600年の関ヶ原の戦いで西軍として戦い敗れて本州を北上し、下北半島の佐井村から北海道に渡って逃げ延びた落ち武者の旧家だったので、驚き驚きのビックリ仰天!

種田家といって、説明板を読んだら「九州秋月家の庶流、種田氏が有川村へ」とありますね。
秋月家と云えば、日向の国(宮崎県)の高鍋藩の藩主秋月氏であるし、筑前(福岡県)にも秋月藩がありましたね。
明治維新後の士族の反乱で「秋月の乱(1876年)」は有名な出来事です。
一応西軍に属していたけど、西軍危うしと見ると東軍に加わり反乱。戦後は徳川家康にその功績を認められて日向高鍋藩として存続しています。(変わり身が早い!)
が、財政がひっ迫していてリストラされたサムライが多くいたそうです。
つまり、そのリストラされた中の一人であり庶流だったため(次男・三男など分家筋、または私生児)に、落ち武者となって九州から本州を北上し下北の佐井村から津軽海峡を渡ってきたのでした。
その後は、ここ有川村(北斗市の前身の上磯町のさらに以前の村、合併に次ぐ合併で北斗市へ)の村の神様である有川大神宮の宮司を務め、豪商として財を成し、8代目の種田金十郎は「渡島王」と呼ばれたとか。渡島(おしま)は、今は半島の名や道南の一支庁を指しますが、当時は北海道全体を指す言葉で、文字通り「渡る島の王様」の勢いだったのでしょう。
箱館・五稜郭の戦いでは、新政府側について松前藩を味方し戸切地陣屋を築いたり会計方をして財政支援していたのです。

そこで、向かい側にある有川大神宮へ。代々種田家が宮司を務めていた有川村の村社です。

祭りの時に使う神輿の倉庫、となりは資料館や舞台になっていますね。

創建が1597年で、関ヶ原の戦いの3年前。種田家はその後にやって来ていますね。
江戸時代中期の1727年には、種田藤宮が建物を修理したとの記録もありますよ。
北斗市でもっとも古く上磯の総鎮守、とあります。

この通りを歩いていたら、古民家発見!北海道では珍しい瓦屋根の旧家ですね。
格子の窓・玄関など、見ただけで歴史的建造物です。

和風庭園の松の木は、こも巻きされているし、雪囲いもされていて維持されていますね。

庭園の裏側からパチリ。

旧福士邸とありました。

3代目の福士長次郎氏が、1919年に建てた木造2階建て純和風建築の家ですね。まさしく大正期の歴史的建造物で、本州の宮大工さんによって建てられたといいます。
当時は、福士御殿と呼ばれていたとか。戦後は、旧町長の公宅とともに公民館として使用されていた歴史がありますね。
ということで、北斗市の歴史、意外(失礼!)と昔からの長い歴史がることを改めて知りました。
これからも、北斗市を訪れ新たな発見をしたいな!と思った次第です。
今日のコタローです。

家のお父さんから、難しい話を聞かされてもサッパリ分からないよ。歴史の勉強なんてしたことないんだから。話を聞いていたら眠くなっちゃたよ。欠伸が出るなぁー。

ご飯も食べたことだし、ひとまず寝よーっと。

皆さん、オヤスミナサイ。今年もネコ生の5分の4は寝て過ごすぞぉー!





































