5月31日火曜日、天気は朝から雨で明日も雨みたい。自分は今日で60歳代最後の日、明日からはいよいよ70歳代へと突入です。もう既に国民健康保険証は「兼 高齢者受給者証」へと変わったし、明日からは支払いも2割負担で済みます。退職後もう9年が過ぎたのです。2013年3月31日付で定年を迎えた退職して早9年経過しました。
2017年の人生初の入院と初の手術、9時間半にも及んだ大手術、その後の電気ショックでの臨死体験などは「一度は死んだ人生」、そして「生まれ変わったもう一人の自分」。その年は旅は出来ず懸命にリハビリに励み、おかげで翌年から再び旅に出れたことにすべての人に感謝!と同時に残された時間を有効に使おう!と決意したのでした。
明日からは、70歳かぁ!今までとそれほど変わりはないけど、意識だけは「貴重な時間を大切にしよう!」との思いです。出来れば、父が79歳で亡くなっているのでそれを越えたい!とりあえずの目標は80歳超えです。それまで①車を安全に安心して運転して、②車中泊が元気に無事に出来る体力・気力で旅できること!これが今後の自分の旅の条件になっています。
ここは昨日紹介した世界でもトップクラスの超酸性度の高い「潟沼」のある宮城県北部の大崎市鳴子(なるこ)温泉。マンホールは「いで湯と こけしの里 鳴子」。かつては鳴子町でしたが、平成の大合併で2006年3月31日、周辺の松山町、三本木町、鹿島台町、岩出山町、田尻町とともに古川市と合併して大崎市へとなったのでした。行政の中心地は旧古川市にあります。

県境(中山峠 350m)を越えて、山形県最上町へ。峠から少し西へ下りた地でJR東日本の陸羽東線の堺田駅の近くの国道47号線沿いにあるのが「封人(ほうじん)の家」。
松尾芭蕉は1689年5月14日に岩出山(昨日の道の駅があった街です。)を出発し、鳴子温泉を経て尿前の関へと着きました。ここは国堺で、関所(仙台藩と新庄藩の堺。)があった場所です。
ここで、「奥の細道」では「・・・三日風雨荒れて、よしなき山中に、逗留す。」とあります。
それが、ここの家の有路家(ありじけ)住宅です。

そこは国堺を守る役人の家でしたが、「蚤(のみ) 虱(しらみ) 馬の尿(しと)する枕もと」を詠んだのでした。
これは、決して意地悪して馬小屋に泊まらせたわけではなく、江戸時代の当地は寒さも厳しく、家族同然の大切な馬を寒さから守ろう!と家人が生活する主屋で飼っていたことが理解できる句なのです。
山にはまだまだ雪が残っていますね。寒さも厳しく厚着をして行動しています。もちろん、タイヤは冬タイヤですよ。

堺田駅に行くと、「分水嶺」の看板。標高338mのここは山から流れてきた水が、ここで東(太平洋)と西(日本海)に分かれるのです。

日本海まで102.6㎞、太平洋まで116.2㎞。だいたい同じような距離を流れて大洋へ注ぐのですね。
日本海へと流れる川は「明神川から小国川と名を変え、最後は最上川の名で山形県酒田市で日本海へと流れます。一方、東へ流れる川は大谷川から江合川(荒尾川)へ、最後は北上川に合流して太平洋へと流れます。

もう一つの看板に説明してありましたね。地図を見ても分かります。

駅の看板も「奥羽山脈 分水嶺」とあります。

ホームにも残る雪。寒そうな雰囲気。実際寒かったです。

山刀伐(なたぎり)峠へ行こうとしたら、雪深く通行止め。停まっていたら、一羽の野鳥が飛んできて車から離れません。

可愛いなぁ!目つきは鋭いけど。

松尾芭蕉は、ここの難所を越えて山寺(立石寺)へと向かったのです。当時 は厳しい山奥で,親不知子・子不知(おやしらず・こしらず 越後と越中の境にある断崖絶壁の海岸線です。)と並ぶ難所だったのです。

水路を流れる雪解け水は、ゴウゴウと流れていて幅は60㎝くらいだけど飛び越すのも怖いくらい。

で、ここは引き返して国道を降りて向かった先は、まるで江戸時代のような温泉街。木造の3階建てや5階建ての旅館が立ち並ぶ古風な地でした。
それは次回のお楽しみ!
では、また!
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2017年の人生初の入院と初の手術、9時間半にも及んだ大手術、その後の電気ショックでの臨死体験などは「一度は死んだ人生」、そして「生まれ変わったもう一人の自分」。その年は旅は出来ず懸命にリハビリに励み、おかげで翌年から再び旅に出れたことにすべての人に感謝!と同時に残された時間を有効に使おう!と決意したのでした。
明日からは、70歳かぁ!今までとそれほど変わりはないけど、意識だけは「貴重な時間を大切にしよう!」との思いです。出来れば、父が79歳で亡くなっているのでそれを越えたい!とりあえずの目標は80歳超えです。それまで①車を安全に安心して運転して、②車中泊が元気に無事に出来る体力・気力で旅できること!これが今後の自分の旅の条件になっています。
ここは昨日紹介した世界でもトップクラスの超酸性度の高い「潟沼」のある宮城県北部の大崎市鳴子(なるこ)温泉。マンホールは「いで湯と こけしの里 鳴子」。かつては鳴子町でしたが、平成の大合併で2006年3月31日、周辺の松山町、三本木町、鹿島台町、岩出山町、田尻町とともに古川市と合併して大崎市へとなったのでした。行政の中心地は旧古川市にあります。

県境(中山峠 350m)を越えて、山形県最上町へ。峠から少し西へ下りた地でJR東日本の陸羽東線の堺田駅の近くの国道47号線沿いにあるのが「封人(ほうじん)の家」。
松尾芭蕉は1689年5月14日に岩出山(昨日の道の駅があった街です。)を出発し、鳴子温泉を経て尿前の関へと着きました。ここは国堺で、関所(仙台藩と新庄藩の堺。)があった場所です。
ここで、「奥の細道」では「・・・三日風雨荒れて、よしなき山中に、逗留す。」とあります。
それが、ここの家の有路家(ありじけ)住宅です。

そこは国堺を守る役人の家でしたが、「蚤(のみ) 虱(しらみ) 馬の尿(しと)する枕もと」を詠んだのでした。
これは、決して意地悪して馬小屋に泊まらせたわけではなく、江戸時代の当地は寒さも厳しく、家族同然の大切な馬を寒さから守ろう!と家人が生活する主屋で飼っていたことが理解できる句なのです。
山にはまだまだ雪が残っていますね。寒さも厳しく厚着をして行動しています。もちろん、タイヤは冬タイヤですよ。

堺田駅に行くと、「分水嶺」の看板。標高338mのここは山から流れてきた水が、ここで東(太平洋)と西(日本海)に分かれるのです。

日本海まで102.6㎞、太平洋まで116.2㎞。だいたい同じような距離を流れて大洋へ注ぐのですね。
日本海へと流れる川は「明神川から小国川と名を変え、最後は最上川の名で山形県酒田市で日本海へと流れます。一方、東へ流れる川は大谷川から江合川(荒尾川)へ、最後は北上川に合流して太平洋へと流れます。

もう一つの看板に説明してありましたね。地図を見ても分かります。

駅の看板も「奥羽山脈 分水嶺」とあります。

ホームにも残る雪。寒そうな雰囲気。実際寒かったです。

山刀伐(なたぎり)峠へ行こうとしたら、雪深く通行止め。停まっていたら、一羽の野鳥が飛んできて車から離れません。

可愛いなぁ!目つきは鋭いけど。

松尾芭蕉は、ここの難所を越えて山寺(立石寺)へと向かったのです。当時 は厳しい山奥で,親不知子・子不知(おやしらず・こしらず 越後と越中の境にある断崖絶壁の海岸線です。)と並ぶ難所だったのです。

水路を流れる雪解け水は、ゴウゴウと流れていて幅は60㎝くらいだけど飛び越すのも怖いくらい。

で、ここは引き返して国道を降りて向かった先は、まるで江戸時代のような温泉街。木造の3階建てや5階建ての旅館が立ち並ぶ古風な地でした。
それは次回のお楽しみ!
では、また!
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