6月30日木曜日、天気は曇り時々小雨がぱらつき、太陽が顔をしばらく出ていないまるで梅雨のようなジメジメした日です。早く夏らしいカラッとした風が爽やかな天気になってもらいたものです。
北海道では珍しいほどの大雨で旭川では川が氾濫したし、江差では避難している方もいたりで、道内を旅している人たちは困っているでしょうね。せっかく本州の猛暑を避けて来たのに、毎日雨じゃ旅するのも辛いでしょうね。
さて、4月の旅の最終回です。ここ五所川原市蘆野公園を散策しています。この像は、ご存じ津軽出身の太宰治です。

芦野公園駅。

旧駅舎のこちらはカフェになっています。

公園内には、ミニ動物園がありそのうち1頭だけ紹介します。シロクマさんです。オオカミのように見えますね。寝ていたので「こっち向いて!」と云ったら。

ジロリとこっちの方を向いたのです。シロクマにしては、一部黒っぽいところもあるけど、何といっても爪が鋭い!すごく長い爪です。これでやられたらひとたまりもないですよ。

八重桜がきれい!

ソメイヨシノもきれい!

で、この後は南下して旧浪岡町の浪岡城跡へ行きます。浪岡町は2005年4月1日に青森市と合併しています。それでも、奥羽本線の浪岡駅があるし、道の駅「なみおか」もあるし、城跡もあるのです。まずは、郷土資料館へ。
こちらは、広場にあった旧豪農の家。

正面に見えたこの建物、旧浪岡小学校です。立派な校舎ですね。1928年に建てられたもので、もうじき100年。現在は資料館として一般開放されています。後ほど校舎を案内します。

隣接しているこちらは、「浪岡町中世の館」で、浪岡城跡(国の指定史跡です)から発掘された遺物や資料を展示しています。

まずは、校舎内を歩きます。まさに、昭和の学校の雰囲気を十分醸し出していますね。窓枠や廊下、教室など懐かしいなぁ~。

で、車ですぐの浪岡城跡へ。平安時代末期から城があったといいます。
鎌倉時代の少し前、岩手県平泉には奥州藤原氏が中尊寺金色堂で知られる平安朝とは独自の国を築いていました。義経らが逃げてきて一時匿われていましたね。それに対して兄の頼朝は兵を派遣して衣川の戦い(1198年4月)で義経を討ったのが一応史実とされています。

源義経が身を寄せていた平泉の藤原泰衡に逆に攻められて自死したのが衣川の戦いで、同時に一緒に行動していた弁慶も亡くなっていますが・・・(泰衡は頼朝の圧力により裏切ったのです)。その泰衡の弟(父の秀衡の六男)の頼衡が義経の処遇を巡って兄の泰衡と対立し、ここ浪岡へ逃れて来て浪岡氏を名乗り支配した、と伝えられています。
もう少し分かりやすく説明しますと、藤原清衡は平安時代後半に東北の支配者となります。平泉を拠点に清衡→基衡→秀衡と奥州藤原氏が3代続き平泉文化が栄えたのでした。金が産出されていたのも大きな特徴です。
しかし、源頼朝は藤原氏を倒して奥州を平定して全国制覇し、初の武家政権を打ち立てたのでした。
その藤原氏の末裔がここへ逃げてきた、ということです。

室町時代に入ると、南朝の有力者であった北畠親房の末裔が同じく南朝の南部家を頼りに浪岡の地へ来て、浪岡氏を名乗って支配した、と。
南北朝の対立時代も、平家の落人ではないけど各地に逃げ延びて来た人々もいるのですね。
そういえば、函館市の石崎地区は平家の落人が逃げ延びて来た地区です。津軽から海を渡って来たそうですから。

戦国時代に入ると、弘前藩初代藩主の大浦(のちに津軽氏を名乗る)為信によって急襲され落城。江戸時代は津軽藩に属することになったのです。
戦国時代も敗れた武将たちは逃げ延びます。これまた今でも各地に末裔たちがいるのです。
福島県の秘境と言われる桧枝岐(ひのえまた)村は、3つの落人が住む村と言われていますね。一つは平家の末裔、もう一つは南朝方の末裔、そして戦国時代の敗退した武将たち。だから、桧枝岐村には3つの姓が大半なのです。「星さん」・「平野さん」・「橘さん」。

周辺は、江戸へ向かう羽州街道の宿場町として整備され地理上の需要拠点の一つになっています。





ということで、4月の旅はこれにて終了。この後は青森港へ行き、フェリーに乗って無事に帰宅したのでした。
次回からは、夏の旅始まります。
7月2日からスタート予定ですので、お楽しみに!
では、また!
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北海道では珍しいほどの大雨で旭川では川が氾濫したし、江差では避難している方もいたりで、道内を旅している人たちは困っているでしょうね。せっかく本州の猛暑を避けて来たのに、毎日雨じゃ旅するのも辛いでしょうね。
さて、4月の旅の最終回です。ここ五所川原市蘆野公園を散策しています。この像は、ご存じ津軽出身の太宰治です。

芦野公園駅。

旧駅舎のこちらはカフェになっています。

公園内には、ミニ動物園がありそのうち1頭だけ紹介します。シロクマさんです。オオカミのように見えますね。寝ていたので「こっち向いて!」と云ったら。

ジロリとこっちの方を向いたのです。シロクマにしては、一部黒っぽいところもあるけど、何といっても爪が鋭い!すごく長い爪です。これでやられたらひとたまりもないですよ。

八重桜がきれい!

ソメイヨシノもきれい!

で、この後は南下して旧浪岡町の浪岡城跡へ行きます。浪岡町は2005年4月1日に青森市と合併しています。それでも、奥羽本線の浪岡駅があるし、道の駅「なみおか」もあるし、城跡もあるのです。まずは、郷土資料館へ。
こちらは、広場にあった旧豪農の家。

正面に見えたこの建物、旧浪岡小学校です。立派な校舎ですね。1928年に建てられたもので、もうじき100年。現在は資料館として一般開放されています。後ほど校舎を案内します。

隣接しているこちらは、「浪岡町中世の館」で、浪岡城跡(国の指定史跡です)から発掘された遺物や資料を展示しています。

まずは、校舎内を歩きます。まさに、昭和の学校の雰囲気を十分醸し出していますね。窓枠や廊下、教室など懐かしいなぁ~。

で、車ですぐの浪岡城跡へ。平安時代末期から城があったといいます。
鎌倉時代の少し前、岩手県平泉には奥州藤原氏が中尊寺金色堂で知られる平安朝とは独自の国を築いていました。義経らが逃げてきて一時匿われていましたね。それに対して兄の頼朝は兵を派遣して衣川の戦い(1198年4月)で義経を討ったのが一応史実とされています。

源義経が身を寄せていた平泉の藤原泰衡に逆に攻められて自死したのが衣川の戦いで、同時に一緒に行動していた弁慶も亡くなっていますが・・・(泰衡は頼朝の圧力により裏切ったのです)。その泰衡の弟(父の秀衡の六男)の頼衡が義経の処遇を巡って兄の泰衡と対立し、ここ浪岡へ逃れて来て浪岡氏を名乗り支配した、と伝えられています。
もう少し分かりやすく説明しますと、藤原清衡は平安時代後半に東北の支配者となります。平泉を拠点に清衡→基衡→秀衡と奥州藤原氏が3代続き平泉文化が栄えたのでした。金が産出されていたのも大きな特徴です。
しかし、源頼朝は藤原氏を倒して奥州を平定して全国制覇し、初の武家政権を打ち立てたのでした。
その藤原氏の末裔がここへ逃げてきた、ということです。

室町時代に入ると、南朝の有力者であった北畠親房の末裔が同じく南朝の南部家を頼りに浪岡の地へ来て、浪岡氏を名乗って支配した、と。
南北朝の対立時代も、平家の落人ではないけど各地に逃げ延びて来た人々もいるのですね。
そういえば、函館市の石崎地区は平家の落人が逃げ延びて来た地区です。津軽から海を渡って来たそうですから。

戦国時代に入ると、弘前藩初代藩主の大浦(のちに津軽氏を名乗る)為信によって急襲され落城。江戸時代は津軽藩に属することになったのです。
戦国時代も敗れた武将たちは逃げ延びます。これまた今でも各地に末裔たちがいるのです。
福島県の秘境と言われる桧枝岐(ひのえまた)村は、3つの落人が住む村と言われていますね。一つは平家の末裔、もう一つは南朝方の末裔、そして戦国時代の敗退した武将たち。だから、桧枝岐村には3つの姓が大半なのです。「星さん」・「平野さん」・「橘さん」。

周辺は、江戸へ向かう羽州街道の宿場町として整備され地理上の需要拠点の一つになっています。





ということで、4月の旅はこれにて終了。この後は青森港へ行き、フェリーに乗って無事に帰宅したのでした。
次回からは、夏の旅始まります。
7月2日からスタート予定ですので、お楽しみに!
では、また!
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