昨年夏、長崎県対馬と壱岐の離島へ旅した時の記録その5をアップします。

ここは対馬市(以前の厳原(いづはら)市のこと、市町村合併により全島1市
の対馬市となった)の中心から歩いてすぐにある万松院(ばんしょういん)という名の
お寺である。対馬藩(最盛期は10万石あった)の藩主である宗(そう)家の菩提寺だ。
菩提寺(ぼだいじ)とは先祖代々の位牌を納めてある寺のこと。

下に見えるのは、本堂奥の間に安置されている徳川歴代将軍の位牌である。
なぜ、江戸にあるはずの将軍の位牌がここにあるのか?それは12回に渡り
朝鮮使節団が対馬にやって来た時に、対馬藩が幕府に代わり国事行為を行う
ために設けたからだ。1645年に位牌を置いたが、一つは家康、もう一つは2代目
秀忠で、後には3代家光以後の歴代将軍の位牌を設置した。
もっとも位牌は、家康を神とする東照宮が建立されて納められていたが、明治維新で
東照宮が廃止され、位牌は撤去されここ万松院へ移された。
高さ98.5cm。金箔の輝きは当時の日本と朝鮮の外交交渉の質の高さがうかがわれる。

三具足(みつぐそく)。それは右の鶴と亀を合わせたろうそく台、狛犬で装飾された
香炉、左にあるのが細かい彫刻のある花瓶の三つである。
現在1組だけが残されており、当時の見事な朝鮮工芸であることが分かる。
朝鮮国王が藩主の死に際し、墓前にこの聖堂の三具足をそえ、それが今残っている。
「朝鮮国王より寄贈の三具足です」と書かれている。

万松院の正面。1615年、20代目の宗義成(よしなり)が、父の義智(よしとも)
の菩提寺として創建した寺を1622年に万松院と名を改めたことでその名がある。

朝鮮と日本は古代から交易が盛んに行われていたが、豊臣秀吉の二度に渡る
朝鮮侵略(1592年の文禄の役・1597年慶長の役)により国交が途絶えた。
家康の江戸幕府は、国交を回復しようとして対馬藩を仲立ちにし交渉を重ね、
1607年朝鮮国王は日本に使節を派遣した。これが朝鮮通信使の始まりである。
だから対馬藩の果たした役割は大きいことが分かる。

昔の面影をとどめる建物としては、対馬最古の建物である山門の左右にある仁王尊

対馬藩は朝鮮の釜山に倭館(日本人館)を構え、ここで使節団を歓迎し、
江戸までのすべての道のり(往路・復路とも)を警護・案内した。
これが1811年までの約200年間に12回繰り返された。
通信使一行は総勢400人から500人にも及び、学者・画家・医者・文人などもおり、
文化交流を始め学問、海外情報聴取が盛んに行われた。

御霊屋(おたまや)は境内にあるお墓群で、石灯籠の坂道を登ると宗家10万石
の貫禄十分な、壮大なお墓がたくさんある。
代々の藩主のお墓、夫人たちの墓、側室、子供たちの墓まである。

石灯籠が並ぶ山の斜面に作られた坂道の脇にお墓が建てられている。


万松院の大杉 以前墓地や長い参道の坂道には20余りの大きな杉の木があった。
が、相次ぐ台風の襲来もあって倒れたり、傷んで枯れたりして今は3本だけが
残っているに過ぎない。
それでもこの杉、幹周りは5m、高さは35mあり、1966年県指定の天然記念物とされた。

というわけで、今回は対馬の歴史を少しだけ学習しました。37度の暑さの中
滅多に北海道からは訪問できない場所なので精力的に歩いて周りました。
対馬・壱岐の旅はまだまだ続きます。また近いうちにアップします。

ここは対馬市(以前の厳原(いづはら)市のこと、市町村合併により全島1市
の対馬市となった)の中心から歩いてすぐにある万松院(ばんしょういん)という名の
お寺である。対馬藩(最盛期は10万石あった)の藩主である宗(そう)家の菩提寺だ。
菩提寺(ぼだいじ)とは先祖代々の位牌を納めてある寺のこと。

下に見えるのは、本堂奥の間に安置されている徳川歴代将軍の位牌である。
なぜ、江戸にあるはずの将軍の位牌がここにあるのか?それは12回に渡り
朝鮮使節団が対馬にやって来た時に、対馬藩が幕府に代わり国事行為を行う
ために設けたからだ。1645年に位牌を置いたが、一つは家康、もう一つは2代目
秀忠で、後には3代家光以後の歴代将軍の位牌を設置した。
もっとも位牌は、家康を神とする東照宮が建立されて納められていたが、明治維新で
東照宮が廃止され、位牌は撤去されここ万松院へ移された。
高さ98.5cm。金箔の輝きは当時の日本と朝鮮の外交交渉の質の高さがうかがわれる。

三具足(みつぐそく)。それは右の鶴と亀を合わせたろうそく台、狛犬で装飾された
香炉、左にあるのが細かい彫刻のある花瓶の三つである。
現在1組だけが残されており、当時の見事な朝鮮工芸であることが分かる。
朝鮮国王が藩主の死に際し、墓前にこの聖堂の三具足をそえ、それが今残っている。
「朝鮮国王より寄贈の三具足です」と書かれている。

万松院の正面。1615年、20代目の宗義成(よしなり)が、父の義智(よしとも)
の菩提寺として創建した寺を1622年に万松院と名を改めたことでその名がある。

朝鮮と日本は古代から交易が盛んに行われていたが、豊臣秀吉の二度に渡る
朝鮮侵略(1592年の文禄の役・1597年慶長の役)により国交が途絶えた。
家康の江戸幕府は、国交を回復しようとして対馬藩を仲立ちにし交渉を重ね、
1607年朝鮮国王は日本に使節を派遣した。これが朝鮮通信使の始まりである。
だから対馬藩の果たした役割は大きいことが分かる。

昔の面影をとどめる建物としては、対馬最古の建物である山門の左右にある仁王尊

対馬藩は朝鮮の釜山に倭館(日本人館)を構え、ここで使節団を歓迎し、
江戸までのすべての道のり(往路・復路とも)を警護・案内した。
これが1811年までの約200年間に12回繰り返された。
通信使一行は総勢400人から500人にも及び、学者・画家・医者・文人などもおり、
文化交流を始め学問、海外情報聴取が盛んに行われた。

御霊屋(おたまや)は境内にあるお墓群で、石灯籠の坂道を登ると宗家10万石
の貫禄十分な、壮大なお墓がたくさんある。
代々の藩主のお墓、夫人たちの墓、側室、子供たちの墓まである。

石灯籠が並ぶ山の斜面に作られた坂道の脇にお墓が建てられている。


万松院の大杉 以前墓地や長い参道の坂道には20余りの大きな杉の木があった。
が、相次ぐ台風の襲来もあって倒れたり、傷んで枯れたりして今は3本だけが
残っているに過ぎない。
それでもこの杉、幹周りは5m、高さは35mあり、1966年県指定の天然記念物とされた。

というわけで、今回は対馬の歴史を少しだけ学習しました。37度の暑さの中
滅多に北海道からは訪問できない場所なので精力的に歩いて周りました。
対馬・壱岐の旅はまだまだ続きます。また近いうちにアップします。
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