昨日は、山梨県甲府市や高知県四万十市で最高気温40.7度を記録し、2007年8月
以来の40度越えでした。体温より高いなんて、まるでサウナに入って生活しているよう
なものですね。因みにその6年前は日本観測史上最高気温40.9度を埼玉県熊谷市
岐阜県多治見市で記録しました。
もっとも世界の最高気温は、イラクのバスラで記録した58.8度です。極端に乾燥した砂漠
気候での記録だけに、高温多湿の日本と違ってはいますが、信じられないですね。
昨日の函館の最高気温は、今季最高の28.3度でした。30度を越える今季初の真夏日を
予想していましたが、意外と涼しかったです。といってもけっこう大雨の後だっただけに蒸
してはいましたが。

 夕張市を後に、峠を越えて岩見沢市へと向かう道道38号線の険しい峠を下ると昔、万字
炭鉱のあった場所。
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万字小学校閉校記念碑が。しばらく閉校となった校舎がそのまま放置されていたが、ここは
豪雪地帯。傷みも激しく、5年ぶりに訪ねた今年は校舎は撤去され、更地となっていた。
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開校70周年と彫られているが、開校は1906年(明治39年)の9月21日、閉校は1990年
(平成2年)3月31日なので、閉校してからすでに23年も経っています。
明治時代に大手の旧財閥系(三井、三菱、住友など)ではなく、独立系炭鉱会社の朝吹氏
が経営する会社が開発を進めていたそうです。その朝吹氏の家紋がであったので、万字
炭鉱と名付けました。が、山間部の辺地で石炭の輸送が困難で、夕張で事業を展開していた
北海道炭鉱汽船株式会社(北炭)が1903年(明治36年)に事業を譲り受け、夕張炭鉱方面
に輸送路を敷くことで生産拡大を図ったのです。
1914年(大正3年)には後の国鉄万字線となる軽便鉄道も開通して、岩見沢とつながりました。
しかし、1976年(昭和51年)閉山しました。

万字から少し下った大平郷にあった開拓の碑。
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万字炭鉱が生産を開始した明治時代晩年、富山県から入植者が来て開拓、その後万字線が
開通すると人口も増え、農作物は万字炭鉱で働く人々へ販売し暮らしの糧となっていたそうです。
1932(昭和7年)には戸数30戸を越えましたが、万字炭鉱閉山で今は数えるほどになりました。
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さらに下った旧朝日駅のあったところに万字線鉄道資料館がありました。
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1985年(昭和60年)に廃線となりました。万字炭鉱閉山4年後のことです。
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というわけで、石炭の斜陽化で衰退した町は夕張だけではありません。周辺のいわゆる
石狩炭田を構成していた町村は軒並み人口激減し、過疎となっています。学校も廃校し、
残っているのは、昔炭鉱住宅だったところに住んでいる高齢者ばかり。沿線の住民はお
年寄りばかりです。さみしいかぎりです。
明日は明るい町へと向かいます。それでは、また