普通、お墓の色は黒か濃い灰色など自然な色を使用していますよね。日本だけ
ではなく、世界のお墓でもそう。キリスト教の十字の形をしているお墓でも白い木を
使っていますね。
そんなお墓がもし真っ赤かの色を塗っていたら、目立つし驚きの眼で見られるで
しょう。例えば、こんなお墓があったら・・・

1894年(明治27年)函館にやって来た信濃助治(しなの すけじ)は着ていた衣類すべて
帽子・コート・足袋のはてまで赤ずくしでした。時代は、日清戦争の最中、11月「日本勝利」の
知らせを北海新聞の号外で函館市民にまいて「天下の号外屋」と称して売り出し、「赤報」と
呼ばれていたそうです。
本人は、赤い心は偽りの無い心、それは日本武道の精神を表すとして、常にすべて赤い色を
用いたそうです。

それにしても、すごいお墓ですね。ここは外国人墓地がある、火葬場に向かう坂道にあります。
下の写真は「有無両縁塔」。

説明文を見ると、1864年(維新の4年前)、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない
遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔、と書かれています。
そういえば、函館駅から南へ500mほど行った松風町という地名がありますが、通称「大門」
と呼ばれている地域です。大きな門があったところですが、その門とは、遊郭の入り口のこと
なのです。戦後、禁止されるまで続いていたのです。
1859年、日米通商修好条約で開港になると、日本各地から商人が、またロシア・アメリカ・イギ
リス・フランスなど世界中から外国人が来て遊郭も賑わいを見せたそうです。
お墓には「遊女」の文字も見えます。そんな、悲しいお墓でもあります。手前には地蔵さんも鎮座
しています。

「万平塚」は、1906年(明治39年)頃、函館にいた名物男の乞食さんの名前「万平」のお墓
です。石川啄木の歌にも歌われていますね。
この時代の函館は、日本中からいろんな人物がやって来ていたことが分かります。

堀川町という町名がありますが、堀川乗経から来ています。函館港に注ぐ亀田川を大森浜へ
進路を変えた人物でもあります。当時は、機械などない時代ですべて人力で掘ったのです。

イギリス人ジョン・ミルンは日本の地震学の祖ですね。堀川乗経の娘トネと結婚しています。

というわけで、今日は真っ赤なお墓などを紹介しました。こんなお墓もあるのですね。
それにしても、開国時や明治・大正の時代の函館は大きな町だったことが分かります。
実際、当時は東京以北では仙台に次ぐ、東日本を代表する大都会だったのです。もち
ろん札幌よりも。今では、すっかり地方中都市へなってしまいましたが。
札幌は、東京以北では最大の192万人、横浜(370万人)、大阪(266万人)、名古屋(223
万人)に次ぐ第4位の人口があります。昨日の新聞に載っていましたが、全国の地価調査
で、道内では唯一上昇している都市です。悲しいかな、函館は最盛期34万人いましたが、
現在は28万人を割り27.7万人です。かつては人口数ベスト10入りしていましたが、今では
やっと40番目くらいか?首都圏の都市にどんどん抜かれています。統計では10年後には
20万人を切るとのこと・・・新幹線の駅が出来たとしても心配が多過ぎる
それでは、また明日
ではなく、世界のお墓でもそう。キリスト教の十字の形をしているお墓でも白い木を
使っていますね。
そんなお墓がもし真っ赤かの色を塗っていたら、目立つし驚きの眼で見られるで
しょう。例えば、こんなお墓があったら・・・

1894年(明治27年)函館にやって来た信濃助治(しなの すけじ)は着ていた衣類すべて
帽子・コート・足袋のはてまで赤ずくしでした。時代は、日清戦争の最中、11月「日本勝利」の
知らせを北海新聞の号外で函館市民にまいて「天下の号外屋」と称して売り出し、「赤報」と
呼ばれていたそうです。
本人は、赤い心は偽りの無い心、それは日本武道の精神を表すとして、常にすべて赤い色を
用いたそうです。

それにしても、すごいお墓ですね。ここは外国人墓地がある、火葬場に向かう坂道にあります。
下の写真は「有無両縁塔」。

説明文を見ると、1864年(維新の4年前)、当時の遊郭の経営者たちが、引き取り手のない
遊女などを供養するために、合同で建立した供養塔、と書かれています。
そういえば、函館駅から南へ500mほど行った松風町という地名がありますが、通称「大門」
と呼ばれている地域です。大きな門があったところですが、その門とは、遊郭の入り口のこと
なのです。戦後、禁止されるまで続いていたのです。
1859年、日米通商修好条約で開港になると、日本各地から商人が、またロシア・アメリカ・イギ
リス・フランスなど世界中から外国人が来て遊郭も賑わいを見せたそうです。
お墓には「遊女」の文字も見えます。そんな、悲しいお墓でもあります。手前には地蔵さんも鎮座
しています。

「万平塚」は、1906年(明治39年)頃、函館にいた名物男の乞食さんの名前「万平」のお墓
です。石川啄木の歌にも歌われていますね。
この時代の函館は、日本中からいろんな人物がやって来ていたことが分かります。

堀川町という町名がありますが、堀川乗経から来ています。函館港に注ぐ亀田川を大森浜へ
進路を変えた人物でもあります。当時は、機械などない時代ですべて人力で掘ったのです。

イギリス人ジョン・ミルンは日本の地震学の祖ですね。堀川乗経の娘トネと結婚しています。

というわけで、今日は真っ赤なお墓などを紹介しました。こんなお墓もあるのですね。
それにしても、開国時や明治・大正の時代の函館は大きな町だったことが分かります。
実際、当時は東京以北では仙台に次ぐ、東日本を代表する大都会だったのです。もち
ろん札幌よりも。今では、すっかり地方中都市へなってしまいましたが。
札幌は、東京以北では最大の192万人、横浜(370万人)、大阪(266万人)、名古屋(223
万人)に次ぐ第4位の人口があります。昨日の新聞に載っていましたが、全国の地価調査
で、道内では唯一上昇している都市です。悲しいかな、函館は最盛期34万人いましたが、
現在は28万人を割り27.7万人です。かつては人口数ベスト10入りしていましたが、今では
やっと40番目くらいか?首都圏の都市にどんどん抜かれています。統計では10年後には
20万人を切るとのこと・・・新幹線の駅が出来たとしても心配が多過ぎる

それでは、また明日
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