
さて、古武井(こぶい)の集落は古武井川の周辺にあります。道の駅「なとわ・えさん」
を過ぎた国道278号線の左側には学校を示す道路標識が今も残っています。
それが、今日紹介する旧古武井小学校。
2004年、函館市に編入された年、恵山町は東西に広い町の4つある小学校を統廃合し、
旧尻岸内小学校をえさん小学校と改名し、一つにしました。日浦小学校、古武井小学校、
それとのちほど紹介する予定の恵山小学校、この三つの小学校は閉校となりました。
地域の子供たちは、今では東西20kmもある広い地域からスクールバスで通学しています。
古武井小学校もまた歴史がある学校です。明治10年というから1877年、この年西南戦争が
あった年です。西郷隆盛が明治政府から下野し、鹿児島で反乱を起こしたあの西南戦争で
す。そんな時代にすでに小学校は開校しています。
だから、2004年(平成16年)3月31日閉校するまでその歴史は127年あった、ということです。
恵山の歴史は、江戸時代の前半1660年4代将軍徳川家綱の時代、恵山(618m)の山頂に
すでに航海や漁業の安全を祈願した恵山大権現が奉られていた、というから道内ではかなり
古い。
村の発展は、1720年(享保5年)6月、下北半島の佐井村から西村善次郎が来住してから、と
恵山の歴史には出ています。が、考えれば、2000年前の縄文時代から人々は標高50mほど
の高台に集団で竪穴式住居を構え定着しています。その証拠に貝塚も発見しているし、下北
半島からはわずか20kmの距離、危険を冒して「しょっぱい川」の津軽海峡を渡って来た
人は何人もいたはずです。
さて、旧古武井小学校の校舎。

雑草が校舎にまとわりついているが、立派な校舎だ。閉校直後に訪問した時は、ホテルか
スポーツ合宿に利用すれば、十分活用出来る建物なのに、もったいないなと思っていたが、
やはりそれから10年も過ぎると痛みも出て来る。よく見ると校舎のあちこちにひび割れもある。

正面の時計は8時35分で止まったまま。このまま荒れ果てるのだろうか?
奥の体育館へと足を運んだ。横を見ると、まず北側の高台に2台の風力発電の巨大な
プロペラが回っていた。そして、以前夏に来た時グランドは草木が茫々だったが、何やら
パネルみたいなものが見えた。

そこで、校舎の西側から周って見たら、なんとものすごい太陽光発電のパネルが設置されて
いるではないか!

土手に上がって少しでも高い場所から写してみた。

ものすごいパネルの量だ。あとから調べてみたが、設置したのは2013年9月3日。3000㎡の
グランドに683kw、2856枚のパネル。年間発電量752,548kwというからかなりの大容量の
太陽光発電施設だ。

函館市の日商興産という会社が、函館市の遊休市所有地を20年間有償貸借して契約して
いる。確かに閉校となって土地を売却してしていなければ、市の遊休地である。それをこの
ような形で有効利用すれば、まさに一石二鳥だ。環境に優しい再生エネルギーが生産できるし
荒れ放題になっていたグランドも有効活用できる。
こんな形で再利用されれば、卒業生たちも「今はこんな形とグランドはなって生きているんだ!」
と感じるはずだ。

パネルは、真南を見ている。角度は30度くらいか?太陽光を受けるには、ちょうど良い角度。
この角度だと雪が付くこともない。

2階建ての校舎は、まだ健在。この建物も何かに利用出来ないものか?
閉校してからもう11年が過ぎようとしている。子供たちが遊んだグランドがこのような形で
有効に利用されていることを知って、少しはホットしました。
ただ、残念なことは近くの住宅街だ。何軒も同じような平屋の建物が続いていたが、御覧の
ように廃墟になっていた。

きっと、町が所有していた賃貸住宅だったかのか?または教員住宅か?居住者がいなくなって
10年、荒れ果てた姿をさらけ出していた。朽ちるまで放置しておくつもりなのか?
悲しい場面に出くわした一瞬でした。
明日は、さらに東へ。同じく閉校となった旧恵山小学校へと向かいます。
それでは、また次回




コメント
コメント一覧 (2)
偶然このページに辿り着いた者です。
写真にある教員住宅に
子供の頃住んでました。
廃墟になっても、まだ存在することが嬉しく、
コメントさせていただきました。
これからもブログ読んでいただけたらうれしいです。