昨日2月17日朝、旧戸井線を写真撮影しようと、国道278号線を我が家から東へと車を
飛ばしました。
旧銭亀沢村の石崎地区へ差し掛かったところ、何やら20人ほどの人数で行列がありま
した。これは、お祭りか?

といっても、子供たちはいない。よく稚児たちの行列もありますよね。でも、歩道を行くのは
皆中年以降の男性ばかり。もっともこの日は平日で、子供たちは学校や幼稚園へ行って
いますね。といっても、子供の数はきわめて少ないですが。

スニーカーを履いた手前の男性はお浄めか?塩を撒いている。
函館市街地から東へ行くに従って、積雪量はどんどん減っていく。路面にはほとんど雪は
ない。歩道に少しだけ残っているだけだ。

神職の方が、軽トラックの荷台で太鼓を叩いているし、笛を吹いている方もいる。
軽トラには、幟が四方に付けられていて周りにも紅白の装飾が施されている。
ここ石崎地区は、昔石崎村でほとんどが漁業に従事している戸数200~300の地区。
沿岸部はご多分にもれず、どの地区も高齢者がかなり多い。

ご婦人が何かを差し入れていた。男性二人が担いでいるのは、コンパクトな賽銭箱みたいな
箱。箱の周りには、寄付者の名前がぎっしりと書かれている。
聞いて見たら、お米を差し出している、とのこと。
行列の一番後ろを走る軽トラックも、同様に賽銭箱にお米がびっしりと入れられている。

人々が、お米の入った白い紙袋を入れていっている。
行列が通り過ぎるのを拝んでいた方に聞いてみた。今日は、石崎八幡神社の春のお祭り
だそうだ。年に2回、春と夏2月17日と8月17日に行われる、とのこと。
早速、その石崎八幡神社へと行って見た。
今まで、この国道278号線を丹念にじっくりと調べてみたつもりだったが、調べれば調べる
ほど未知だったところが出て来る。
残念ながら、石崎八幡神社も名前すら知らなかったのだ。
国道から、少し50mほど山側に入るため気が付かなかったのかな?それに案内の看板も
なかった。
何とか探して、空地に車を止めて歩いていく。

奥に、社殿に続く急な階段が見える。右には「石崎八幡神社」の石碑がある。

ここで、ある高齢の方がいたので話をすることにした。
何と、「ここ石崎は、平家落人(へいけ おちゅうど)の人がいて、神社の鰐口(わにぐち)
を寄付しているんだ。700年の歴史があるんだ」と。
エッー、うそでしょう!と思ったけど、何人もの人が口々に同じことをいう。
その鰐口は、今函館市立博物館に収蔵されている、と。
後から調べて見ました。
確かに、その鰐口は市立博物館にあり「北海道指定有形文化財」となっている。
で、鰐口とは何か?というと、金属製の打楽器で本堂の梁などから下げて、布でよった太綱
で打ち鳴らす鈴を扁平にしたもの。
神社へ行くと、みなさん賽銭を入れる前に、正面の軒下から吊り下がった太い、まるで綱引き
にでも使用されるような縄を上下に揺らして鉦(かね)を鳴らしますよね。その鉦が鰐口です。

実はその鰐口、1813年(文化10年)石崎村脇ノ沢の旧山神社地から掘り出されたもので、
石崎八幡神社に掛けられていたもの、と分かりました。
直径17.7cm、厚さ6.3cmの青銅製の鰐口には、
「奉寄進夷嶋脇澤山神御寶 前施主 平氏盛阿弥 永享十一年三月日」とあります。
詳しく知りたい方は、石崎八幡神社または函館市立博物館のホームページをご覧になると
その鰐口の写真が分かります。
永享(えいきょう)十一年とは、1439年のこと。室町時代のことで、六代目の将軍足利義教(あし
かが よしのり)の時です。室町幕府が弱体化していき、各地で農民一揆が続発し、守護大名
が強大化、やがて戦国大名へとなります。飢饉や疫病が蔓延し社会不安となっていた時代
です。
平家は、その244年前の1185年壇ノ浦の戦いで滅亡していますが、平家の血を引く人々は
源氏の手が届かない辺ぴな場所へと逃げ延びます。いわゆる平家の落人部落。その場所は、
例えば、四国は徳島の山中の大歩危、小歩危といった人里離れた山峡の祖谷(いや)地方、
九州は宮崎県の椎葉(しいば)村、熊本県の五木(いつき)村。栃木県の湯西川だったり。
2年前に旅した能登半島の北端に近い輪島市、 下時国家や上時国家もそうでした。
だから、平氏(へいし)の盛阿弥(じょうあみ)も、津軽地方に平(たいら)を姓とする豪族らしく、
その分家が「しょっぱい川」である津軽海峡を渡って来たことは、十分想像出来ますね。
平家の名を持つ人々が、京都から遠く津軽へと逃げ延びて来ていたのです。
その平氏盛阿弥が脇ノ沢神社へ鰐口を寄進したことは、十分考えられることです。
まして、盛阿弥(じょうあみ)の名は、念仏信仰に端を発する一つの文化階層に多く用いられた
号らしく、地位の高い人物だったのでしょう。

たまたま、お祭りの行列を発見しその神社を訪ねて人にい聞いたら、以上のことが分かった
のです。
近くの国道は何十回も通過していましたが、ここの神社は素通りしていました。
知らなかったのです。平家の人間が、ここの神社に鰐口を寄進していたなんて!
話は、さらに続きます。それは明日。では
コメント
コメント一覧 (2)
1439年は、アイヌの戦いのための12館ができる少し前のことですね。
まだ安東氏も蝦夷地に渡って来てない時代ですから、簡単に言ってしまえば組織的な和人の最初の人達ということになりますか。 付近にアイヌがいたかは分かりませんが、摩擦は無かったのでしょうか?
さらに安東氏一族とも。
d
分かりません。何分資料が乏しいもので。
道南十二館のうち、志苔館だけは、14世紀後半から末にかけて築造されていませんか?
だから、平氏盛阿弥の渡る以前に城があった、のではないでしょうか?
知らないことが多すぎて、勉強になります!