私が子供の頃の暖房には、薪(まき)が使用されていた。小学生のころ(1958年~1964年)は、
秋になると毎日薪割をさせられていた。
夏が終わり、暑さも一段落した時を見計らって町内に、直径30cm、長さも30cmほどの太い木を
切った薪割用の木を売りに来る馬車が来ていた。冬は馬橇(ソリ)になる。馬橇に乗っけてもらって
登校したこともありましたよ。
各家庭では、それを購入しストーブにくべるために、さらに細く切らなくてはいけなかった。
それが、子供の仕事。まるで、マサカリ担いだ金太郎さんのように、すぐに焚けるように細か
く薪割をしたのだ。それを、何日もかけて割った薪を家の壁に積み重ねていく。手が届く位置で、
壁が見えなくなるまで並べる。それも、子供たちの仕事だった。
中学生ころ(1965年~1968年))になると、石炭が普及した。石炭売りのトラックが来て、物置の
石炭置き場に、今度はスコップで運ぶのが子供の仕事。煤(すす)で顔を真っ黒にしながら、運ん
だものだ。
小・中学校や高校は、石炭ストーブ。係りが決められていて、大きなバケツを持って石炭小屋に
行き、スコップで積んで教室まで運ぶのが役目。階段を登るのがきつかった。
ストーブの周囲だけ熱すぎて顔は真っ赤、ところがストーブから離れた位置の生徒は寒くてブル
ブル。窓際の生徒は、隙間から入り込む雪で、寒く震えていた。
そんな石炭を知っている人や使用していた人は、おそらく50代後半以降の人。若い人たちは知ら
ないでしょう。見たことも、もちろん使ったこともないはずです。触れたこともないでしょうね。
今日は、1960年代まで家庭では暖房用に使用していた石炭についてお話しします。
まずは、昨日紹介した九州は、福岡県田川市石炭歴史資料館の前庭にあった炭坑節発祥の地
の記念碑。

「月が出た出た 月が出た 三池炭鉱の上に出た あんまり煙突が高いので さぞやお月さん
煙たかろ サノヨイヨイ」で始まる炭坑節。

ここは、1970年代まで北海道と並らぶ筑豊炭田の中心地だった。石炭は全国各地で採掘
されたが、特に北九州の筑豊・長崎(それこそ世界遺産になる予定の軍艦島が有名)・大牟
田市などは大生産地だった。
筑豊とは、筑前の国と豊前の国を合わせた地区。田川は豊前の国。
遠賀川(おんががわ)を利用して石炭は運搬された。
遠賀川といえば、高校生の頃五木寛之の小説「青春の門」をよく読んでいたから名前は知って
いた。恐い土地柄のイメージが残っていたが・・・。
そういえば、1970年代「STBのすすめ」という貧乏旅人のバイブル的な本があったが、この本の
中で、「筑豊の元炭田地帯の駅では、絶対ステーションビバークしないで!」と出ていた。
つまり治安が悪く、夜駅で寝ていると非行少年などに強盗される恐れあり、と。

炭坑夫の像の下には石炭が置かれている。
公園となっている広場の遠くに二本の巨大な煙突が見えた。

近づいて見よう。

旧三井田川鉱業所 伊田堅坑第一・第二煙突。通称二本煙突と云われる高さ45.45mの巨大な
エントツ。国の登録文化財に指定されている。近代化産業遺産にもなっている。
蒸気機関の排煙用のエントツで1908年(明治41年)に築造された煉瓦造りのエントツで炭坑節
のモデルにもなった。

当時は、絶えず黒煙を吹き上げていた、というから空は真っ黒になっていたのだろう。
昭和39年(1964年)には使用禁止されているから、意外と早い段階でストップしている。

遠く北の方向の山(右側のこんもりした山)に注目して下さい。

香春岳(かわらだけ)の三つの山。奥から三の岳(511m)、二の岳(468.2m)、そして真平らに
削られているのが一の岳(250m)。昨日訪れた「採銅所駅」が麓にある。
ズームして見よう。

何と、セメントの原料である石灰石を採掘するために、以前600mあった山が半分以下の高さ
に削られたのだ。
「ひと山、ふた山、み山越え~」の炭坑節にも唄われた香春岳だが、メインの一の岳は無残な姿
を見せている。高品位の石灰石で出来た山なだけに昭和初期から採掘が行われたのだ。
当時は、環境保全などはまったく考えなかった時代だった。
手前の二つの緑生い茂る山は、ボタ山です。
石炭を掘った際に出て来る使えない捨石(ボタ)を捨て続けて出来た円錐状の山。北海道では、
ズリ山という。
廃鉱となって半世紀、今では草木が生い茂り自然の山のように見えるが、捨てられた石の山なの
だ。住宅街の近くにあるが、住宅の方が新しい。
以前は、ボタの中に混じっていた石炭が自然発火してボタ山が燃えることもあった、という。

旧三井田川鉱業所 伊田堅坑櫓。これも国登録文化財に指定されていて、近代化産業遺産
にもなっている。
地下深部の石炭を採掘する堅坑の巻き上げ機。1909年(明治42年)の完成。

田川周辺の石炭採掘の歴史は、記録によれば1623年というから江戸時代2代将軍徳川秀忠の
時代。小倉細川藩の文献に残っている。
石炭の運搬には、遠賀川を使い川船が用いられ下流に運ばれていった、という。
石炭は、今国内ではまったく生産されていないが、最盛期の三倍もの量を毎年輸入している現状
を忘れてはいけない。火力発電所や鉄鋼所などで産業用に、オーストラリアや中国などから輸入
しているのだ。
最盛期は、戦前から戦後すぐ。最後は1970年代まで。
戦前は、韓国併合(1910年)後、朝鮮半島からたくさんの若者を強制労働させるために移入させ
ました。北海道でも、常紋トンネルなどの建設現場で働かせ、時には人柱(山の神を鎮めるために
生きたまま埋める)までさせた、といいます。その証拠に、人骨が今でも出土しています。
ここでも、韓国人を強制労働させた負の歴史がありました。

韓国人徴用犠牲者の慰霊碑。多くの若者が強制的に連行されて、地下深い危険な現場で
働かせられ、捨てられていったのです。悲しい歴史もあるのです。
明日は、その現場で働き、それを絵に描いた「ユネスコ世界記憶遺産」にもなった山本作兵衛
(やまもと さくべい)さんの作品を中心に炭坑住宅などをに紹介します。
それでは、また明日!
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