パソコンが上手く作動してくれるかどうか?それが気がかりです。購入して4年が過ぎようとしている
デスクトップ型のPCだけど、昨年あたりから思うように動かず、それでもウインドウズ10を入れてから
は少しは良くなった気がしたが・・・。
でも、やっぱり、ダメな時もありどうしようかな?と最近感じています。
PCには詳しくないので、以前は勤めていた時に若い人やそれこそ情報処理の先生に聞いたりして
何とか動かしていたけど、このPCそろそろ潮時かな?
さて、今日はトラブることなく動いてくれることを期待してブログ進めます。
一昨日の芦野公園駅から。

となりは、金木駅。
ここは、桜の名所としても知られていて、津軽半島屈指の桜の名所でもあり、桜100選にもなっている。

もちろん、今は桜の季節ではなくて秋だから桜の花は咲いていない。
昔の駅だったこの建物、レストランになっているが、さすがに朝早くて営業していない。
でも、素敵な駅舎だったのですね。

駅前は広く、ここに駐車して歩くことにする。芦野公園は、線路を跨ぐとすぐそば。

歩いてすぐに発見したのがこれ。津軽三味線発祥の地だったんだ。
津軽三味線と云えば、すぐに連想するののが高橋竹山。その元をたどれば、新潟地方の瞽女
(ごぜ)の三味線と云われる。
「ごぜ」とは、盲御前(めくらごぜん)という敬称に由来する女性の盲人芸能者のことで、北前船で
日本海各地の音楽が津軽に伝わって津軽民謡は独特の発達を遂げたようだ。
めくら、という言葉を使ったりしていた時代のことで、かなり差別的な表現ですが、今のような福祉
が発達していない時代では、自分の力で稼いで生きて生きていくしかなかったのです。
津軽では、「ボサマ」という男性視覚障がい者として、長く蔑まれてきた歴史がある。
津軽三味線の始祖は、19世紀後半の幕末、五所川原・金木地区に生まれた「仁太坊(にたぼう)」。
高橋竹山(1910年~1998年)は、津軽一地方の芸事だった津軽三味線を全国に知られた第一人者。
3歳の時に麻疹をこじらせて半失明へ。その後ボサマから三味線を教わり17歳から東北・北海道を
旅して稼いだ、という。
その昔、函館市民会館で一度彼の演奏を聞いたことがありました。それは、まさに魂(ソウル)を揺さ
ぶるような響きで、今でも脳裏に刻まれています。
すごい人物がいたんだな、と。
今は2代目高橋竹山が活動していますね。

後で、金木町の三味線会館へ行き、生の演奏を聴いてきます。
広々とした公園は、ゆっくりと歩くと1時間以上はかかる。
ふと発見した太宰の碑。

「選ばれしものの 恍惚と不安 二つ我にあり」
これ、有名ですね。
思い出すのは、20年以上前に格闘家でプロレスラーの前田日明(まえだ あきら)が格闘団体リングス
を開いた時の第一声。太宰のこの言葉を用いたのです。
実はこの言葉、太宰が生前もっとも好んで口にしていたフランスの詩人ヴェルレーヌの一節。
これが、太宰治の銅像。

彼の作品は「走れ メロス」とか「津軽」とか「人間失格」とか何冊か読んだことはあるけど、金持ちの
ボンボンのイメージがあったが、今回は彼の故郷を知り、彼の人生を知る旅でもある。
少しでも理解出来たら、と思う。
公園には大きな池もある。

青天の青空の下、池は青い空と白い雲を映し出している。

太宰治、本名津島修治(つしま しゅうじ)。1909年(明治42年)6月19日生まれ。1948年(昭和23年)
6月14日死亡。38歳。
結婚していながら、愛人とともに東京・玉川上水で入水自殺したことは有名な話ですね。
金木町の、県下有数な大地主の津島源右衛門と母の夕子の六男として誕生しています。
父は、衆議院議員や多額納税で貴族院議員も務めた地元の名士。
津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていたそうです。
頭は良く、青森中学(現青森高校)から弘前高校(現在の弘前大学)、そして東京帝国大学文学部の
フランス文学科に入学します。
在学中に、カフェの女中で人妻の田部シメ子と出会い、鎌倉の海岸で入水自殺を図っていますが、
シメ子だけが死亡し太宰は生き残っています。
よっぽど、入水が好きなんですかね。
1937年(昭和12年)に内縁の妻と毒物自殺未遂事件を起こしています。

ということで、かなりナーバスな、神経質な男性だったのですね。見るからにか細く、とても体育会系
には見えないですよね。

太宰のことを考えながら、この芦野公園を1時間ばかり歩いていました。
まずは、金木駅へ。ここは有人駅。

そして、ここから太宰治の生家であり斜陽館という名前の太宰治記念館へ。

ここと津軽三味線記念館と合わせたチケットが900円だったので、購入。
まずは、この大きな生家をじっくりと拝見する。
入母屋造りの建物で、1907年(明治40年)に落成している。実に108年も経っている。

高さ2m以上もある赤煉瓦の壁をめぐらしている。
生家の一部屋一部屋が広く、12畳と床の間がついて、それがいくつも連なっている。
それもそのはず、1階は11室278坪、2階は8室116坪、宅地680坪の大邸宅である。
国の重要文化財にも指定されている。

和風庭園も広々している。こんな家で、たくさんの使用人がいて乳母の下で幼少期を過ごしたんだなぁ。
六男といったけど、11人中の10番目。母は病弱だったので、乳母によって育てられている。
弘前高校時代から文学にいそしんでいて、芥川龍之介や泉鏡花の作品に傾倒していた。
こんな家で育ったことで、自らの階級に悩んでいたらしく当時流行のプロレタリア文学の影響も受けて
いて、同人誌も発行している。

そして、その後は三味線会館へと行く。

ここの話は、また明日!
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