咸臨丸(かんりんまる)とは、幕末期に江戸幕府が保有していた初期の軍艦の名です。木造、
3本マストの蒸気船。
咸臨とは、君臣が互いに親しみ合うことを意味していて、君主も国民も仲良く、ということですね。
洋式の軍艦として初めてスクリューを装備した軍艦で、幕府の船としては初の太平洋往復した
ことで知られています。
1855年(安政2年)オランダで建造され2年後の1857年日本へ送られ、長崎海軍伝習所の練習艦
へとなり、1860年には日米修好通商条約の批准書を交換するため、アメリカ軍艦のポータハン号
とともに浦賀から出港しています。
艦長は勝海舟、通訳にジョン万次郎、乗組員の中には福沢諭吉もいました。
1868年戊辰戦争では、榎本武揚の指揮で旧幕府側へつき、品川から脱走するが静岡の清水港
で新政府軍艦隊に敗北し、捕獲されます。
この時に、逆賊として放置された乗組員の遺体を清水次郎長が埋葬しています。
そこら辺が親分らしい。箱館戦争でも、逆賊とされて放置された旧幕府軍の戦死者を葬ったのは
箱館の任侠だった柳川熊吉でしたね。
死ねばみな仏、の精神で倒れた兵士たちを埋葬した両名は偉い!
維新後の1871年(明治4年)小樽へ向けて出航したが、途中の北海道木古内町泉沢沖で暴風雨
により遭難し、サラキ岬で破船し沈没。
まずは、国道228号線沿いにあるサラキ岬へ。

5月だと何万本ものチューリップが咲き乱れる公園だが、今は白銀の世界。
この鉄製の錨(いかり)は、1984年(昭和59年)にサラキ岬沖で発見された咸臨丸のもの。

3本マストの咸臨丸の模型が展示されていました。

江戸幕府が海軍士官を養成するために、長崎で設立した教育機関である長崎海軍伝習所の
一期生に勝海舟、五代友厚、二期生に榎本武揚、らが学んでいたのです。

遠くに慰霊碑があったけど、雪が深く行けず断念。
津軽海峡を望むサラキ岬は潮の流れも速く、9月といえども暴風雨で沈没してしまったので
しょう。

沖合に知内(しりうち)方面が望める。長い煙突から白い煙があがっているのは、北海道電力の
知内火力発電所。オーストラリアから石炭を運び発電している、という。

木古内と桧山の江差を結ぶ峠がある山間部は深い雪で埋まれている。遠くに隠れキリシタンが
処刑された十字架のある大千軒岳(1072m)が望める。江戸時代に隠れキリシタンは、ここまで
逃れてきたが発見されて処刑されています。

沈没した咸臨丸に乗船していたのは、陸奥の国今の宮城県の白石市で仙台伊達氏に仕えた
武士の一族の片倉小十郎の家臣団。
戊辰戦争で敗れ、白石城を没収され、北海道開拓のために移住。札幌市白石区にその名が
残っている。
1871年9月19日、片倉氏旧臣401名を乗せた咸臨丸は海の藻屑と消えて行った。

そんな歴史を学ばせるサラキ岬の咸臨丸のあるオランダチューリップ花園。
その先に、可愛らしい駅舎の泉沢駅がありました。

明日は、ここ泉沢駅と姉妹のような駅舎の札苅駅へと向かいます。
では、また!
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