今日は、日本史の江戸時代に起きた民衆の止むに止まれず立ち上がった歴史を見て
いきたい、と思います。
江戸時代は、武士が民衆を支配した時代。それを支えたのは人口の9割以上を占めた
農民でした。それも土地を持たない小作人。彼らは生産した農作物の4割以上を年貢と
して納めていたのです。
いわゆる「四公六民」。4割が税金、6割が生活資金。それが時には五公五民にもなったり、
酷い時には六公四民だったりすると、お百姓さんは苦しくて生活出来ません。
それが、ここでは「六公四民」が当たり前で、享保時代の津山藩の御触書では
①百姓は雑穀を常食とし米を食うべからず
②女子供は雑穀と云えど腹一杯食うべからず
③餅はついてはならぬ、酒を飲んではならぬ
と生活に関わる規則に、農民たちが連名で守ることを約束させられていたのです。
そんな時は、命がけで立ち上がりました。それが一揆です。
江戸時代、飢饉が発生した時など全国各地で、命を懸けて決起した一揆が多発しました。
その中でも、三大百姓一揆と云われるのが、岩手県の三閉伊郡の一揆、岐阜県郡上一揆と
ここ岡山県真庭市の中山(さんちゅう)一揆でした。
ということで、今日はその山中一揆を見ていきたいと思います。
まずは、新見市からさらに東へ走り真庭市へ。その中心地の勝山から山中へ。今夜の寝床
である湯原温泉を目指します。その途中国道313号線の見尾集落で見かけた一揆の指導者
の一人である弥治郎の実家。

時は江戸時代中頃、享保11年(1726年)のこと。享保と云えば、8代将軍の吉宗の享保の
改革が有名ですね。ここは津山藩の支配下で、藩主の松平氏は年貢を厳しく取り立てる
圧政を繰り返していました。

それに対して、農民は生命と生活を守るためについに立ち上がったのが、ここ旭川上流地域
の山中と呼ばれる一帯です。

この日は、暗くなってきたため、一旦調査を断念し湯原温泉へ。ここには露天風呂(砂湯)も
あり無料で入浴出来ますが、昼間温泉に入ったので入浴せず、河川敷の駐車場で車中泊
することに。

朝は、相当冷え込みました。さすがに、山の中というだけあります。だから山中地方と
呼ばれたのですね。
朝6時に起床し、「義民の丘」と呼ばれる運動公園へ。その坂の途中に義民碑がありました。
まずは、昭和60年(1985年)に作成された山中一揆の説明文から。今から31年も前なので
字も薄れてきていて読みにくい。

左に「山中一揆 義民之碑」、右に捕らえられ殺された51名の慰霊碑。

現在は真庭市に合併された旧湯原町の湯原温泉から、5kmほど南下した場所にあります。

「山は 合掌 川を 一揆に 語りつぐ」

この一揆の指導者は、牧村の徳右衛門、見尾村の弥治郎たちで、6000人もの農民を
結集させて、藩の代官と数日間交渉し藩に認めてもらいました。

しかし、藩は農民を裏切り(どこもそうですが、侍ほど噓つきはいません)武力鎮圧に
踏み切り、無抵抗同然の一揆勢を逮捕し主要なメンバーを打ち首など51名を斬殺した
のです。

当時の岡山県知事が書いています。
津山藩の城、津山城は日本三大平山城とも云われ、その維持費は莫大なもの。
1603年に森忠政が18万6500石で藩主へ、4代95年間にわた岡山県北東部の美作
(みまさか)全域を支配していました。が、改易になり1698年に松平氏が10万石で入り
ました。徳川家の系譜を引く家系で、生活は浪費の連続。そのツケは農民へ押しつけら
れたのでした。

牧集落を見逃し、真賀温泉へ。ここは2015年春の旅で「殿の湯」に入浴したことがありました。
「殿の湯」とは、津山藩の殿様が湯に浸かった湯船のこと。
300円のその風呂に入れますが、そこは階段を登った先。

ここがそう。一般が200円なのに100円高い。それでも、独占してお風呂に入りました。

となりには神社まであります。朝から拝んでいる方も。

左に旭川が流れていて、岡山市へ、それは岡山城のすぐ脇を流れ瀬戸内海へ注ぎます。
狭い土地に隙間なく旅館が立ち並んでいます。

見尾集落へ行き、昨日の弥治郎生家の場所へ。

人家は30軒くらいか、刈り取られた田んぼ。

弥治郎は、逮捕を逃れ左の山の洞窟にしばらく隠れていたといいます。地元の方たちが
食べ物を運んでいたそうです。そこを、「弥治郎獄」と呼んでいます。
周辺を散策すると、小高い丘にあった弥次治郎に関する碑。

当時は苗字がない時代。でも明治に入り樋口姓へ。
生家のとなりが樋口さんという家で、話すと家に上げていただきいろいろとお話を伺うこと
が出来ました。

苔むした碑の土台に時代を感じるとともに、弥治郎の無念さが伝わってくるような気がします。

弥治郎の子孫である樋口さんから教わり、リーダーだった徳右衛門の牧集落へ戻ります。
まずは、徳右衛門の墓前へ。

牧集落を歩いて、人に聞いて訪ねた徳右衛門の子孫である「山中一揆義民顕彰会」の
会長さんをしていらっしゃる植木紋次郎さんとお会いできました。

自宅にあげさせていただき、奥様からコーヒーとお菓子をご馳走になり「山中一揆」の本まで
頂戴致しました。
長い間、お話しできてとても嬉しかったですし、本当にありがとうございました。
お話しの中で、「義民サミット」(今は皆高齢化して中断しているとのこと)があって、全国で
一揆があった場所で会合を持っている、とのこと。植木さんは、岩手県三陸海岸の田野畑村
まで行かれた、といいます。私も行っているだけに、田野畑村の話では盛り上がりました。
これが、その「山中一揆」を説明した本です。
ということで、今から300年近い前の江戸時代郷土と郷土の人たちを守るために命を懸けて
立ち上がった農民たちがいたのです。彼らは民衆の一人として、闘い訴えたのです。
多くの犠牲者が出ましたが、今その行動は義民として、「義」ある無名の民と称えられて
います。
そんな日本史の教科書には、登場しない隠れた歴史を垣間見られた時間を持てたことが
嬉しかったです。
明日は、この後真庭市勝山の商家通り「美しい街並み」へ向かいます。
それでは、また!


コメント
コメント一覧 (5)
とても詳しく書いてくれて、また、地の人たちとの出会いについて書いたのはすばらしい。うらやましい!
広島在住とのこと、国道313号線を真庭市勝山から北上すると真賀温泉の少し南に見尾集落が、真賀温泉の北に牧集落があります。いずれにしてもゆっくりと走ればすぐに発見できると思いますよ。
読んでいただき嬉しいです。
山中一揆の本はどこかてに入るでしょうか?限定版だったでしょうね。
田羽根の後藤氏
黒田で亡くなった方はいませんでしょうか?
ご協力出来ず、力になれず申し訳ありません。