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会津大塩駅近くにあった説明板。江戸時代前半、只見川の支流である滝沢川に
堰(せき)を造り、新たな水田開拓に尽力した人物を称えています。
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でも、廃屋が目立つ地区で、この「〇〇道」と書かれた碑の背後の人家も人は住んで
いなそう。
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桜は満開だけど、何せ人がいない。せいぜい、軽トラを運転するおじいさんが農作業
しているだけだ。ほんとに過疎な地区だと実感する。
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さて、会津大塩駅の次の会津塩沢駅へ行く手前にあるのが河合継之助記念館。
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2年前に次いで、2度目の訪問。
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長岡藩家老だった河合継之助(かわい つぐのすけ)は、幕末期に新政府軍と幕府軍の
戊辰戦争が勃発すると、武装中立を宣言する。しかし、新政府軍は認めず北越戦争
発展。

彼は、その指揮を執るが敗戦。傷ついた彼は、長岡から八十里越えの峠道を通りここ
只見へ。そのさなかに亡くなりました。

只見の人は、彼の人徳を偲び記念館を建設しています。
当時、日本に3丁しかなかったというガトリング機関銃。
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長岡では、河合継之助については賛否両論があるようです。なぜなら、最初から
新政府軍に付いていれば町が焼かれることはなかったのに、という彼を戦犯とする
考え。

しかし、当時の新政府軍は薩摩・長州の一方的な政権で、「徳川許すまじ」と強硬だ
った。だから中立は認められず、彼は東北の雄藩とともに奥羽越列藩同盟に加わり
戦いへと突入せざるを得なかったのです。

一時は、奪われた城を奪還するなど活躍したが、圧倒的な戦力を持つ薩長に敗北する。
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ここは、河合継之助始め彼を慕う人や彼の資料が展示されています。
上の写真は、河合継之助の部屋ですね。

下の説明は、河合継之助の一番弟子であるアサヒビール(大阪麦酒株式会社)創業者の
外山修造(そとやま しゅうぞう)氏のこと。長岡の生まれで継之助とともに行動しています。
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何と、阪神タイガースの名前の由来は、彼の幼名「寅太」から来ているとは!
知りませんでした。

死ぬ間際に詠んだ俳句です。これは、有名な句ですね。
八十里 こしぬけ武士の 越す峠
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銃弾で負傷した彼は、峠を越えて会津へ逃延びますが匿われていた農家で亡くなります。
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記念館の隣には、「山塩資料館」がある。
そういえば、ここの近くの駅は「会津沢駅」だし、その手前には「会津大駅」だったのは、
塩と関係するからでしょう。
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海からかなり隔たった山間部なのに、塩が採れたのは山塩だったから。
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製塩記念の碑もありますね。
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ということで、今日の最後は会津塩沢駅。
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ここも、待合室は閉鎖されているし、線路の周囲は雑草だらけで、まったく手入れして
いないことが分かります。
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明日は、終点の只見駅まで行くことにします。

それでは、また!

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