なかなか体力が回復出来ない。やはり、ノロウイルスに感染し体重が4日間で一気に
5KGも落ちたことが原因かも知れない。
毎日少しずつリハビリを兼ねて散歩したりサイクリングしているが、快晴となった今日3月
12日は図書館へと往復7KMほど自転車で走ったが、心臓がバクバクして心拍数がかなり
上昇した。
これじゃ、2017年春の旅に出発することは不可能。車中泊中心の旅で、歩いたり登ったり
の「ぼうけんの旅」は無理だ。3月は、少しずつでも体を動かして体力をつけなくちゃ!
今までにないことで、一人焦っていますが、こんな時こそ「トランキーロ!あっせんなよ!」
の精神で、4月がだめなら5月スタートをめどに体力を回復していきます。
ということで、仕方がない。昨年の春の旅の総集編今回で59回目を迎えましたが、残りも
まだまだあるので続けることにして、次の旅の出発までご覧になってください。
前回は、酒田市の旧松山町にある松山城大手門、下の写真で終わりました。

桜が散って、地面をピンク色に染めてますね。
鶴岡市に本拠を構える庄内藩の支藩である松山藩。酒井忠勝が越後高田藩(上越市)、
信濃松代藩(長野市)を経て出羽の国の庄内藩初代藩主となってきたのが、1622年の
こと。
出羽庄内藩13万8000石の藩主として移封されてきた。その三男である忠恒(ただつね)
が、1647年当時17戸だけの寒村だった中山村に分封されたのが、ここの始まりである。
その後、中山を松山に改名し2万5000石となり、松山城の築城が認められ、大手門に
鯱(しゃち)を上げることが許された。
この大手門、1782年に完成したが、1790年落雷のため焼失。2年後、酒田の豪商本間家
(あとで、酒田市の本間家を訪ねます。江戸時代は、日本一の地主だったとか?)の寄進
により再建されたのが今の大手門。

もっとも、築城は1781年から7年間費やされたが、完成にまでは至らなかった。
現在、松山城跡は松山歴史公園となって整備されている。

松山藩酒田家は8代、初代忠恒から8代忠匡(ただまさ)までで、7代忠良(ただよし)の
時代に戊辰戦争を迎えた。もちろん庄内藩とともに奥羽越列藩同盟に加わり、薩長の
新政府軍と戦ったが、敗北。

完成しなかった松山城の堀。

公園内には、松山で活躍した人物の像がいくつ置かれています。
例えば、」松山藩の家老だった松森胤保(まつもり たねやす)。
彼は庄内藩の藩校「致道館」で学び、藩政を改革。幕末、薩摩藩邸焼き討ちの指揮を執り、
戊辰戦争では参謀を務めるほどの人物だった。

それでは、松山文化伝承館へ。確か360円だったかな?

酒田家に伝わる武具甲冑を中心に、松山藩の歴史を紹介していたり、松山にアトリエを
構えて活動した画家の真下慶治の作品が展示されています。

大手門のしゃちほこもありますね。
公園内には、松山城址館もあって、こちらは無料。

能の舞台も作られていて、ここは地元の人たちの発表会などを行う建物。
他に研修室が4つもあって、さすがに文化盛んな土地柄です。


ということで、明日はここ松山でもう一つの歴史を感じる場所、600年の歴史を持つ
總光寺へと行きます。
では、また!
←応援クリック ありがとうございます!
現在、松山城跡は松山歴史公園となって整備されている。

松山藩酒田家は8代、初代忠恒から8代忠匡(ただまさ)までで、7代忠良(ただよし)の
時代に戊辰戦争を迎えた。もちろん庄内藩とともに奥羽越列藩同盟に加わり、薩長の
新政府軍と戦ったが、敗北。

完成しなかった松山城の堀。

公園内には、松山で活躍した人物の像がいくつ置かれています。
例えば、」松山藩の家老だった松森胤保(まつもり たねやす)。
彼は庄内藩の藩校「致道館」で学び、藩政を改革。幕末、薩摩藩邸焼き討ちの指揮を執り、
戊辰戦争では参謀を務めるほどの人物だった。

それでは、松山文化伝承館へ。確か360円だったかな?

酒田家に伝わる武具甲冑を中心に、松山藩の歴史を紹介していたり、松山にアトリエを
構えて活動した画家の真下慶治の作品が展示されています。

大手門のしゃちほこもありますね。
公園内には、松山城址館もあって、こちらは無料。

能の舞台も作られていて、ここは地元の人たちの発表会などを行う建物。
他に研修室が4つもあって、さすがに文化盛んな土地柄です。


ということで、明日はここ松山でもう一つの歴史を感じる場所、600年の歴史を持つ
總光寺へと行きます。
では、また!
コメント