テレビのニュースを見ると、本州の関東より南の太平洋側では30℃越えの気温だ
そうで、中には35度を超える猛暑日になっている地域もありましたね。

ものすごい暑さになっていますね。函館では、昼から雨で気温は20度を少し上回る
程度で、暑い!とは感じません。

夏に本州を旅するなんて、暑さに弱い自分としては考えられません。特に車中泊する
立場では。車の中で蒸し風呂状態で寝るなんて、苦しいだけ。

やはり、夏の旅は北海道です。

といっても、今は手術を控えて旅出来ない状況で、とってももどかしい。
多分8月辺りに心臓の手術があるので、そのリハビリもあるから年内は旅することは
出来ません。

今年の後半は、体力・精神力をつけて来年の「ぼうけんの旅」に備えるつもりです。

さて、まだ元気だった今年1月の真冬の函館山山麓の西部地区を散策した時の第2回
目は、函館を代表する作家の一人である亀井勝一郎の石碑から紹介します。
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「人生邂逅(かいこう)し 開眼し 瞑目す」と亀井勝一郎の自筆を
彫ったもの。

大三坂にあるカトリック教会の向かい側には亀井勝一郎誕生の地の石碑がありますが、
ここにあるのは文学碑。

私が中学生、または高校生の時の国語の教科書には、よく亀井勝一郎の文学作品が
取り上げていて、授業で紹介されていた記憶があります。

亀井勝一郎は、今から110年前の1907年(明治40年)に生まれ、函館中学(現在の
函館中部高校)から山形高校、東京大学へと進学し文学者へ、戦後は芸術院会員と
なり1966年(昭和41年)に亡くなっています。
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「終生、函館弁を使い、如何なる美食よりも故郷函館の食べ物を好んだという」
と書かれて書かれています。
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その場所は「あさり坂」。
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あさりとは、アサリ貝の名ですね。明治時代に函館に住んでいたイギリス人
のブラキストンがジョン・ミルンやアメリカ人のエドワード・モースと協力して
山麓で貝塚を発見。

その貝塚では、古代人が食べたアサリが数多く発見され、それで「あさり坂」と
命名されたそうです。

少し歩くと、こんな説明板がありました。
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石川啄木居住地跡とあります。

啄木は、1907年(明治40年)、先ほど紹介した亀井勝一郎の生まれた年でもありますね、
その年の5月5日に函館に来て、夫人の節子さん、娘の京子さんも遅れて岩手県から
来函、さらにお母さん、妹さんもやって来て一緒に住みます。

が、その年の8月25日大火が発生、9月には札幌へ移り住みます。結局、わずか4か月余り
しか住んでいません。

それでも彼のお墓が函館にあるのは、彼の希望であった「死んだら函館に埋めてくれ」と、
26歳2ケ月の短い生涯の中で4ケ月しか住まなかった函館を永眠の地として選んだからです。

その啄木が住んだ場所はというと。
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や





青柳町15番地。

青柳町と云えば、「一握の砂」にありましたね。

「函館の青柳町こそ悲しけり 友の恋歌 矢ぐるまの花」

少し歩けば、近くには「蔵」がありました。
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坂の名前は「青柳坂」。
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旧町名は、「春日町」。
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そんなわけで、マイナス10度の凍てつく函館の坂道をおっかなびっくり、へっぴり腰で
歩きました。

テレビでは、今日もファイターズ大敗です。今年の優勝は無理、どころか3位以内も不可能
でしょう。仕方がないですね、大谷が前半ほとんど出てないし、近藤も今季絶望ですからね。

それでも、テレビの前で応援してますが・・・。

では、また!