1月29日火曜日、天気は晴れ。気温も最高気温がプラス3℃で、日中は暖かく雪どけも進みそう。
さて、久しぶりに北斗市の紹介の続きをしていきます。
先日は、北斗市の神社と教会をお伝えしましたが、今日は清川口駅を下車してすぐの通りに3軒連続してお寺さんがあったので、北斗市の寺町として紹介することにしました。
まずは、曹洞宗のお寺「廣徳寺」から。見ただけでかなり広い境内。

入ってすぐ右側にあったお地蔵さん。手前の六地蔵は分かりますが、奥の少し大きな地蔵さんの顔が
かなり素朴というか変な顔立ちですね。

本堂の前は、除雪した雪が山のように積まれていますよ。

その左側に墓地があって、一番大きなのが「種田家」の墓。
さすがに、北斗市の前身である上磯町の主的存在だった種田家。以前にも紹介しましたが、関ヶ原の戦い(1600年)で敗北した西軍の武将の片割れで、逃げて逃げて蝦夷地へ。海を渡ってここへやって来て住み着き400年、江戸時代はここの主だったのですから。

お堂と説明板がありました。石坂武兵衛一族の墓とありますよ。

八王子千人同心の一員だった石坂武兵衛。八王子千人同心とは、戦国時代の甲斐武田家が滅亡後に徳川家康によって庇護された下級武士や豪農で組織された集団で、天領であった武蔵と甲州の境を警備していた治安維持部隊でした。
それが、1800年に集団で蝦夷地へ移住し、現在の苫小牧市や白糠町の基礎を作ったといいます。
さらに、八王子のある多摩郡からは、幕末千人同心の中から新選組に参加する者も現れた、といいます。
そういえば、土方歳三は八王子のとなりの日野出身でしたね。近藤勇もそうでした。
蝦夷地に渡った、そのメンバーの一人が石坂武兵衛で、彼はここ北斗市周辺の開墾事業に従事したのでした。そういえば、北斗市の前身の旧大野町には「北海道米発祥の地碑」がありますので、コメ作りに精を出したのかもしれません。

続いて浄土宗の禅林寺。

ここは本堂。左の松の木がかしがって伸びていて、おもしろい形。倒れそうですよ。

3軒目は、浄土真宗大谷派の東光寺。

実は、ここには会津藩のお侍さんの奥方だった人のお墓があるのです。
それは、会津藩士太田藤蔵の妻としか分かっていません。

江戸時代末期、ロシアはシベリアから不凍港を求めて南下し樺太・千島列島へ。幕府は、主に東北諸藩に命じて北方警備をさせました。会津藩の守備エリアは①別海から標津(しべつ)~知床半島南から根室半島北側まで、②網走から雄武~オホーツク海側。
そして、箱館や戸切地(へきりち)村(上磯の前身の村名)には会津陣屋が置かれ、ここには40名が勤めていたのでした。その中の一人の妻が亡くなり、そのお墓があるのです。

鉄筋コンクリート造りの本堂。

説明板は、このお堂の裏側にありました。

ということで、北斗市の寺町を紹介しました。
今日のコタローです!


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