1月21日木曜日、天気は晴れ。今日の最高気温はプラス7℃で、何と3月下旬並みの気温だそうです。日の当たる場所では10度を超えていて、雪は解けて道路はビショビショの状態で水たまりが出来るほど。
歩いていても、汗が出るくらいの暖かさ。今日かなり雪は解けるでしょうね。
そんな1月にしたら珍しいくらいの温暖な気候だから、久しぶりに西部地区を散策。本日は東(あずま)坂と弥生坂を歩き写真に収めてきましたので、それは後日紹介しますのでお楽しみに!
さて、基坂は元町公園のすぐ下南側に面した場所に建つのが、旧イギリス領事館。
白い壁と青い窓枠の洋館です。

幕末の1859年(安政6年)に建てられていて、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館です。
領事館とは、「大使館が通常はその国の首都に設置されるのに対し、在外自国民の保護や外交事務、情報収集、国際交流・広報の拠点として設置され、また戦争や災害などと云った不測の事態にはリスクを分散しつつ、大使館の機能をスムーズに移転できるような主要都市に設置されている」とか。
この建物は、1913年(大正2年)に出来、1934年(昭和9年)閉館まで機能していたのです。
現在は、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、カフェ「ヴィクトリア・ローズ」及び売店の「クイーンズメモリー」、さらに、今はコロナで休止していますがブライダルも行えるとか。
つまり、キレイなバラ庭園での結婚式も出来るのです。

館内は体験型展示を重点的に設置しており、領事執務室や家族居室は3代目領事のリチャード・ユースデン氏が使用していた様子を再現しています。実際に領事の椅子に座れたり、調度品に触れることも出来ます。入館料は大人300円。

外側にあるローズガーデンとショップは無料です。もっとも、冬期間はバラも咲いておらず雪もいっぱいなので庭園には入らず。結構、奥行きが深いですね。
夏、バラが一斉に花開く時期に訪問したいです。バラがきれいで、見ごたえありますよ。

坂の途中には、さまざまなモニュメントやオブジェがあって、目をいやしてくれます。
電柱や電線がなく、街路灯もシックでいいですね。奥に公会堂が見えていますよ。

広場のある向かいに渡って見ましょう。
宇須岸河野館(うすけしこうのだて)跡。
ここは函館の名前の由来ある場所で、箱の形をした土塁と掘を四方にめぐらしていた館で、15世紀中ごろに津軽の武将である十三湊(とさみなと)の安東氏に従った武士たちが蝦夷地へ。同行していた河野氏がここで館を築いたとか。室町時代の道南12館の一つでしたが、1457年のアイヌのコシャマインの戦いで陥落しています。なお、宇須岸(うすけし)の意味は、アイヌ語の「ウショロケシ」で湾の端という意味。

コシャマインの戦いとは、当時の和人たちが道南に12の館を築いてアイヌ人と交易していたが、乱暴と圧迫、卑劣な取引をしていて、それに対して首長のコシャマインが蜂起した事件。和人居留地の大部分を攻略し陥落させたが、上ノ国の花沢館領主である蛎崎氏に敗北。蛎崎氏は江戸時代に徳川家康から松前氏の名前をいただき、明治初期まで松前藩主となった人物です。
もともとは、ここは市立函館病院の跡地。
その地に立つのは、誰でしょう?ペリー広場とあるから、あのペリー?

アメリカ東インド洋艦隊司令長官のペリー(1794~1858)。幕末の1853年6月、軍艦4隻を率いて現在の東京湾の入口付近の浦賀(横須賀市)に来航。測量隊を江戸湾深く進めて、幕府を威嚇し、大統領の国書を強引に受理させました。当時の将軍は13代の家定になったばかりで、老中は福山藩主の阿部正弘でした。
翌年再び来航して、日米和親条約を調印させ日本の鎖国を終わらせ、そそして蝦夷地の寒村だったここ箱館を伊豆の下田とともに開港させたのです。

ペリーは、1854年2月10日午前11時30分、軍艦7隻を率いて横浜に完全武装した士官・水平・海兵隊ら500名と上陸し、出迎えた幕府の役人にその雄姿を見せつけたのでした。
条約締結後、その年の5月17日箱館へ。6月7日まで滞在します。
なお、ペリー像は函館以外に横須賀市久里浜と伊豆下田にもあるそうです。

20日間の滞在中に、ペリー艦隊の水兵2名が死亡。彼らは船見町にある外人墓地に埋葬されました。もちろん、当時は外人墓地何て言う名前はなく、ペリーに埋葬場所を求められて仕方なく土地を提供したのが現在の外人墓地だったのですが。

ペリー来航時の足跡が絵に描かれていますね。
なぜアメリカが日本に対して開港を求めたのか?その一つに、19世紀に入りアメリカでは北太平洋での捕鯨船の出漁増加があり、それに伴い船の難破や乗組員の日本漂着⇒彼らの現地での保護などが重要な外交課題として議論されてきました。当時工業化が促進されたアメリカでは、機械油として鯨油の需要が高まり、そこで捕鯨が行われていたのです。
だから、ペリーの黒船来航が初めてではなく、1837年にはモリソン号、1845年マンハッタン号が来ています。

そんなペリー像が建つ基坂には、可愛らしい女性の像もあって、ほっと一息つきます。

男の像もありますよ。

最後に、ここは諸術調所(しょじゅつしらべしょ)跡もあった場所。

学問所ですね。教育機関かな?幕末の時代に西洋の学問を学び人材を育てたところですね。有名な先生は伊予の国、大洲藩出身の武田斐三郎(たけだあやさぶろう)さんですね。
28歳の時にペリーとも会談しています。五稜郭の設計や建設、ここの教授にもなり、教え子には榎本武揚、前島密、井上勝などがいます。
そういえば、五稜郭公園内には武田斐三郎の顔が描かれた碑があって、バスガイドさんは彼の顔をなでると「頭が良くなる」とか説明するもんだから、彼の顔の部分だけがテカテカになっていて、みんな苦労しないで、あやかりたいんだな!と思ったものでした。
では、また!
歩いていても、汗が出るくらいの暖かさ。今日かなり雪は解けるでしょうね。
そんな1月にしたら珍しいくらいの温暖な気候だから、久しぶりに西部地区を散策。本日は東(あずま)坂と弥生坂を歩き写真に収めてきましたので、それは後日紹介しますのでお楽しみに!
さて、基坂は元町公園のすぐ下南側に面した場所に建つのが、旧イギリス領事館。
白い壁と青い窓枠の洋館です。

幕末の1859年(安政6年)に建てられていて、箱館ではアメリカ、ロシアに次いで3番目の領事館です。
領事館とは、「大使館が通常はその国の首都に設置されるのに対し、在外自国民の保護や外交事務、情報収集、国際交流・広報の拠点として設置され、また戦争や災害などと云った不測の事態にはリスクを分散しつつ、大使館の機能をスムーズに移転できるような主要都市に設置されている」とか。
この建物は、1913年(大正2年)に出来、1934年(昭和9年)閉館まで機能していたのです。
現在は、開港記念ホール、開港の歴史を伝える展示室、カフェ「ヴィクトリア・ローズ」及び売店の「クイーンズメモリー」、さらに、今はコロナで休止していますがブライダルも行えるとか。
つまり、キレイなバラ庭園での結婚式も出来るのです。

館内は体験型展示を重点的に設置しており、領事執務室や家族居室は3代目領事のリチャード・ユースデン氏が使用していた様子を再現しています。実際に領事の椅子に座れたり、調度品に触れることも出来ます。入館料は大人300円。

外側にあるローズガーデンとショップは無料です。もっとも、冬期間はバラも咲いておらず雪もいっぱいなので庭園には入らず。結構、奥行きが深いですね。
夏、バラが一斉に花開く時期に訪問したいです。バラがきれいで、見ごたえありますよ。

坂の途中には、さまざまなモニュメントやオブジェがあって、目をいやしてくれます。
電柱や電線がなく、街路灯もシックでいいですね。奥に公会堂が見えていますよ。

広場のある向かいに渡って見ましょう。
宇須岸河野館(うすけしこうのだて)跡。
ここは函館の名前の由来ある場所で、箱の形をした土塁と掘を四方にめぐらしていた館で、15世紀中ごろに津軽の武将である十三湊(とさみなと)の安東氏に従った武士たちが蝦夷地へ。同行していた河野氏がここで館を築いたとか。室町時代の道南12館の一つでしたが、1457年のアイヌのコシャマインの戦いで陥落しています。なお、宇須岸(うすけし)の意味は、アイヌ語の「ウショロケシ」で湾の端という意味。

コシャマインの戦いとは、当時の和人たちが道南に12の館を築いてアイヌ人と交易していたが、乱暴と圧迫、卑劣な取引をしていて、それに対して首長のコシャマインが蜂起した事件。和人居留地の大部分を攻略し陥落させたが、上ノ国の花沢館領主である蛎崎氏に敗北。蛎崎氏は江戸時代に徳川家康から松前氏の名前をいただき、明治初期まで松前藩主となった人物です。
もともとは、ここは市立函館病院の跡地。
その地に立つのは、誰でしょう?ペリー広場とあるから、あのペリー?

アメリカ東インド洋艦隊司令長官のペリー(1794~1858)。幕末の1853年6月、軍艦4隻を率いて現在の東京湾の入口付近の浦賀(横須賀市)に来航。測量隊を江戸湾深く進めて、幕府を威嚇し、大統領の国書を強引に受理させました。当時の将軍は13代の家定になったばかりで、老中は福山藩主の阿部正弘でした。
翌年再び来航して、日米和親条約を調印させ日本の鎖国を終わらせ、そそして蝦夷地の寒村だったここ箱館を伊豆の下田とともに開港させたのです。

ペリーは、1854年2月10日午前11時30分、軍艦7隻を率いて横浜に完全武装した士官・水平・海兵隊ら500名と上陸し、出迎えた幕府の役人にその雄姿を見せつけたのでした。
条約締結後、その年の5月17日箱館へ。6月7日まで滞在します。
なお、ペリー像は函館以外に横須賀市久里浜と伊豆下田にもあるそうです。

20日間の滞在中に、ペリー艦隊の水兵2名が死亡。彼らは船見町にある外人墓地に埋葬されました。もちろん、当時は外人墓地何て言う名前はなく、ペリーに埋葬場所を求められて仕方なく土地を提供したのが現在の外人墓地だったのですが。

ペリー来航時の足跡が絵に描かれていますね。
なぜアメリカが日本に対して開港を求めたのか?その一つに、19世紀に入りアメリカでは北太平洋での捕鯨船の出漁増加があり、それに伴い船の難破や乗組員の日本漂着⇒彼らの現地での保護などが重要な外交課題として議論されてきました。当時工業化が促進されたアメリカでは、機械油として鯨油の需要が高まり、そこで捕鯨が行われていたのです。
だから、ペリーの黒船来航が初めてではなく、1837年にはモリソン号、1845年マンハッタン号が来ています。

そんなペリー像が建つ基坂には、可愛らしい女性の像もあって、ほっと一息つきます。

男の像もありますよ。

最後に、ここは諸術調所(しょじゅつしらべしょ)跡もあった場所。

学問所ですね。教育機関かな?幕末の時代に西洋の学問を学び人材を育てたところですね。有名な先生は伊予の国、大洲藩出身の武田斐三郎(たけだあやさぶろう)さんですね。
28歳の時にペリーとも会談しています。五稜郭の設計や建設、ここの教授にもなり、教え子には榎本武揚、前島密、井上勝などがいます。
そういえば、五稜郭公園内には武田斐三郎の顔が描かれた碑があって、バスガイドさんは彼の顔をなでると「頭が良くなる」とか説明するもんだから、彼の顔の部分だけがテカテカになっていて、みんな苦労しないで、あやかりたいんだな!と思ったものでした。
では、また!
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