2月14日日曜日、天気は晴れで今日は今冬一番の最高気温になる予定で、最高気温8度とか。日の当たる場所では二けたになり、雪解けは一層早まりそう。このまま春に突入してくれればいいのですが、そうはいかないのが北国で、今週はまた寒波の襲来で積雪があり寒さの出戻りです。
さて、寺町通りのトップバッターである東本願寺船見支院の墓地を見学して、最初に目に留まったのがこの「武田斐三郎と妻の美那子の墓」。
武田斐三郎(1827~1880)は、箱館にとっては恩師のような存在。四国は伊予の国大洲藩の出身で、幕末に洋式城郭の五稜郭を設計・建築した人物で、科学者にして教育者、明治時代は陸軍軍人。緒方洪庵の適塾の卒業で、あのペリーとも会見していて、ペリーは斐三郎の学識の深さを褒めたたえた、といいます。

妻の美那子は10歳年下。二人のお墓がここにあるとは知りませんでした。

そして、以前お伝えした日本洋式帆船の第1号「箱館丸」の建造者にして、かつては高田屋嘉兵衛の造船所の船大工をしていた続豊治、彼のお墓もここにあったのですね。

一番奥には、「御廟」という立派な大きなお墓がありました。
ここは本山のある京都市にある大谷派の親鸞聖人御廟と同じ造りで、遠い本山に行かなくてもここでお参りすることが出来る、といいます。京都以外で御廟があるのは函館だけだそうです。
雪かきをしていた人がいて尋ねると「教祖や住職、さらには共同墓地にもなっている」とのことで、たまたま中年女性3人組が参拝に来ていました。ご供花には新しいものもありますね。

こちらが本堂。

続いてとなりの実行寺(じつぎょうじ)へ。門柱を見ると日蓮宗のお寺ですね。

説明を読むと、始まりは江戸時代の前半の明暦元年の1655年。

ピンク色の壁が素敵ですね。右奥には閉校となった西小学校の校舎が見えています。

入ってすぐ左側には七福神の一つである大黒様が祀られています。戸を開けて中に入りましょう。

厳粛な雰囲気で、きちんと手を合わせて参拝しました。神様に見られているような。だから、賽銭泥棒なんて、罰当たりもいいところですよね(怒)!

幕末にフランス軍艦の乗組員のための療養所になっています。というのも、乗員に壊血病が蔓延したため箱館奉行は彼らの上陸を許可し、ここのお寺に収容されたといいます。その間65日、フランス人は箱館で過ごすことになったのです。だから日仏親善函館発祥と書かれているのですね。

日蓮ではないですね。日持上人とあります。13世紀の人物で、日蓮六老僧の一人。布教で、箱館にやって来たそうです。

続いてとなりの称名寺へ。始まりは1644年というから江戸時代の前半で実行寺よりも11年も早い。

説明を読むと、ここにも高田屋一族や日本最初の官立気象観測所を開設した福士成豊、日魯漁業の創設者の堤清六ら有名な方のお墓がありますね。でも、墓地内は雪が深くて歩きづらく残念ながら今回は断念しました。

こちらも鉄筋コンクリート造りのお寺ですね。

おっ、土方の供養碑もありますね。

高田屋嘉兵衛顕彰碑には、淡路出身の嘉兵衛のことが書かれています。箱館を小さな寒村から大きな都市にさせる貢献をした大人物です。

こちら土方歳三と新選組隊士の供養碑。お花は枯れていますが、土方歳三に関する場所には、いつも花が添えられていて、全国からファンが来ていることが分かります。ここだけではなく、碧血碑や戦死した場所である若松町の最期の地碑とかに。やっぱり、イケメンはいつの時代もモテるのです!

第二次世界大戦では函館も空襲の被害を受けました。これはその慰霊碑です。

ということで、幸坂から魚見坂までの横道は寺町通りになっていて、3か所のお寺巡りをしてきました。春のお彼岸にはまだ時間もあり、墓地は深い雪に埋もれていて早く春の到来を待ち望んでいるかのようです。冬の間はお参りしている人はおらず、純白の雪で覆われていて、訪れる人もまばらです。
次回は、なくなりつつある銭湯、西部地区で唯一といってもいいくらい営業している超レトロでとっても素敵な銭湯を紹介いたします。
では、また!
さて、寺町通りのトップバッターである東本願寺船見支院の墓地を見学して、最初に目に留まったのがこの「武田斐三郎と妻の美那子の墓」。
武田斐三郎(1827~1880)は、箱館にとっては恩師のような存在。四国は伊予の国大洲藩の出身で、幕末に洋式城郭の五稜郭を設計・建築した人物で、科学者にして教育者、明治時代は陸軍軍人。緒方洪庵の適塾の卒業で、あのペリーとも会見していて、ペリーは斐三郎の学識の深さを褒めたたえた、といいます。

妻の美那子は10歳年下。二人のお墓がここにあるとは知りませんでした。

そして、以前お伝えした日本洋式帆船の第1号「箱館丸」の建造者にして、かつては高田屋嘉兵衛の造船所の船大工をしていた続豊治、彼のお墓もここにあったのですね。

一番奥には、「御廟」という立派な大きなお墓がありました。
ここは本山のある京都市にある大谷派の親鸞聖人御廟と同じ造りで、遠い本山に行かなくてもここでお参りすることが出来る、といいます。京都以外で御廟があるのは函館だけだそうです。
雪かきをしていた人がいて尋ねると「教祖や住職、さらには共同墓地にもなっている」とのことで、たまたま中年女性3人組が参拝に来ていました。ご供花には新しいものもありますね。

こちらが本堂。

続いてとなりの実行寺(じつぎょうじ)へ。門柱を見ると日蓮宗のお寺ですね。

説明を読むと、始まりは江戸時代の前半の明暦元年の1655年。

ピンク色の壁が素敵ですね。右奥には閉校となった西小学校の校舎が見えています。

入ってすぐ左側には七福神の一つである大黒様が祀られています。戸を開けて中に入りましょう。

厳粛な雰囲気で、きちんと手を合わせて参拝しました。神様に見られているような。だから、賽銭泥棒なんて、罰当たりもいいところですよね(怒)!

幕末にフランス軍艦の乗組員のための療養所になっています。というのも、乗員に壊血病が蔓延したため箱館奉行は彼らの上陸を許可し、ここのお寺に収容されたといいます。その間65日、フランス人は箱館で過ごすことになったのです。だから日仏親善函館発祥と書かれているのですね。

日蓮ではないですね。日持上人とあります。13世紀の人物で、日蓮六老僧の一人。布教で、箱館にやって来たそうです。

続いてとなりの称名寺へ。始まりは1644年というから江戸時代の前半で実行寺よりも11年も早い。

説明を読むと、ここにも高田屋一族や日本最初の官立気象観測所を開設した福士成豊、日魯漁業の創設者の堤清六ら有名な方のお墓がありますね。でも、墓地内は雪が深くて歩きづらく残念ながら今回は断念しました。

こちらも鉄筋コンクリート造りのお寺ですね。

おっ、土方の供養碑もありますね。

高田屋嘉兵衛顕彰碑には、淡路出身の嘉兵衛のことが書かれています。箱館を小さな寒村から大きな都市にさせる貢献をした大人物です。

こちら土方歳三と新選組隊士の供養碑。お花は枯れていますが、土方歳三に関する場所には、いつも花が添えられていて、全国からファンが来ていることが分かります。ここだけではなく、碧血碑や戦死した場所である若松町の最期の地碑とかに。やっぱり、イケメンはいつの時代もモテるのです!

第二次世界大戦では函館も空襲の被害を受けました。これはその慰霊碑です。

ということで、幸坂から魚見坂までの横道は寺町通りになっていて、3か所のお寺巡りをしてきました。春のお彼岸にはまだ時間もあり、墓地は深い雪に埋もれていて早く春の到来を待ち望んでいるかのようです。冬の間はお参りしている人はおらず、純白の雪で覆われていて、訪れる人もまばらです。
次回は、なくなりつつある銭湯、西部地区で唯一といってもいいくらい営業している超レトロでとっても素敵な銭湯を紹介いたします。
では、また!
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