3月12日金曜日、天気は晴れで最高気温は12度まで上昇するとか。市内の積雪はすでにゼロで、北海道内では一番雪解けが早かったです。さすがに、道南で一番南にある都市ですからね。早く春にならなくては!といっても、道内、幌加内町の朱鞠内ではまだ積雪2mとかで、いつになったら零になるのやら?
昨日は東日本大震災から10年。10年前のあの時何をしていたのか?私はまだ勤務中で6時間目の授業中でした。函館は震度5強の激しい揺れで、生徒たちはパニックに。何とか収まって校舎もつぶれず生徒のケガもなく冷静になれましたが、生徒たちを帰した後にテレビで見た津波には言葉を失いました。
それ以降、退職したら三陸へ行こう!と決意し、2年後退職した直後の4月に「ぼうけんの旅」がスタート。岩手県、宮城県を南下して南三陸町で5日間ボランティア活動したのがきっかけで、毎年のように東北を訪れています。
今年も4月になったら出かける予定でいますが、コロナはどうなるのか?それが気がかりです。
さて、あさり坂から今日はお伝えします。

1878年(明治11年)、「コロナ禍の函館42」で紹介したイギリス人お雇い外国人で地震学を教える東京帝国大学教授のジョン・ミルンとアメリカ人動物学者のエドワード・モースが函館に来て、在住のイギリス人貿易商にして博物学者のブラキストンと協力して貝塚などを発掘調査します。この坂の周辺でも調べたら、縄文人たちが食べたアサリの貝殻が数多く発見されたのです。それで、名付けられたのが「アサリ坂」。
坂の下、市電通りには1901年(明治34年)開業したすき焼きで有名な1階に牛肉屋と、2階にレストランを構えた「阿佐利本店」があります。名前は、坂の名から名付けたのでしょうか?

昔、ここで夕食(すき焼き)を食べたことがありますが、値段もそれなりでしたが、確かに美味しい!
それ以来行ってはいませんが、もう一度食べたい味であることは確かです。
それにしても、歴史ある建物 というよりは、かなり古い木造建築物です。

坂を少しばかり上がると、地元では有名な手作り豆腐のお店「佐々木豆腐店」があります。ここの豆腐、とっても美味しいんですよね。

ロードヒーティングは全く入ってなく、全面雪だらけの坂道。

上って突き当りの右側にあった小公園にある「亀井勝一郎文学碑」。

「人生 邂逅し 開眼し 瞑目す 亀井勝一郎」
1907年(明治40年)函館元町に生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部で学び、評論家、思想家として活躍。若い時は共産主義に傾倒して、治安維持法で検挙されたことも。日本プロレタリア作家同盟に参加も。
函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を話し、故郷の味を好み、終生函館を愛した作家でした。

この小公園がある場所は複雑な道で、護国神社坂とアサリ坂を結ぶ横道が斜めになっていて、小さな直角三角形の場所にあるのです。で、ここも周囲を見渡せば蔵があちこちに見られます。

横道を歩き、最後の坂の青柳坂へと向かいます。が、その途中でも蔵。壁がちょっとはがれていますが。

青柳坂の手前にあった「石川啄木居住地跡」。この辺りに彼と彼の家族、妻節子さんと娘京子との親子3人水入らずの、貧しくとも幸せな1か月の生活を送った場所なのです。

といっても、1907年(明治40年)5月5日に函館に来た啄木は、8月25日の大火で避難。その後も函館は何度も大火に見舞われているので、この周辺は当時と大きく様変わりしているはずです。
函館の 青柳町こそ 悲しけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
こころざし 得ぬ人々の あつまりて 酒飲む場所が 我が家なりしかな

ここにも蔵。奥に見える校舎は、最近校名が潮見中学校から青柳中学校へと変わった、西部地区では唯一の中学校。西部地区では、すでに愛宕中学校、船見中学校、この2校が合併した西中学校までが廃校しています。

ということで、最後の坂である「青柳坂」へ。

ご覧のように、北西側の魚見坂から始まって、今は一番南東側の青柳坂まで来ました。
船見坂ではピンク色の銭湯「大正湯」を、幸坂ではロシア領事館跡を、姿見坂では江戸末期からの遊郭「山上遊郭」を探したけど全く形跡はなし、弥生坂では函館の学習院と呼ばれた弥生小学校を、基坂では公会堂、旧イギリス領事館を、日和坂では伝統的建築物をたくさん見て、八幡坂は京都の三寧坂や長崎のオランダ坂といった超有名な坂に勝り日本の坂第1位でしたね。
大三坂は、元町カトリック教会など教会群のある日本の道100選の坂でした。二十間坂はコンクリート製の東本願寺の寺院を見て、南部坂は戦前からある超レトロなエレベーターのある旧丸井デパートを、
そしてここ数日は護国神社坂、今日はアサリ坂と。いよいよ最後の坂の青柳坂です。

坂の由来は、ここに書かれている通り。

次回は最後の坂「青柳坂」をゆっくりと下って紹介していきます。
では、また!
昨日は東日本大震災から10年。10年前のあの時何をしていたのか?私はまだ勤務中で6時間目の授業中でした。函館は震度5強の激しい揺れで、生徒たちはパニックに。何とか収まって校舎もつぶれず生徒のケガもなく冷静になれましたが、生徒たちを帰した後にテレビで見た津波には言葉を失いました。
それ以降、退職したら三陸へ行こう!と決意し、2年後退職した直後の4月に「ぼうけんの旅」がスタート。岩手県、宮城県を南下して南三陸町で5日間ボランティア活動したのがきっかけで、毎年のように東北を訪れています。
今年も4月になったら出かける予定でいますが、コロナはどうなるのか?それが気がかりです。
さて、あさり坂から今日はお伝えします。

1878年(明治11年)、「コロナ禍の函館42」で紹介したイギリス人お雇い外国人で地震学を教える東京帝国大学教授のジョン・ミルンとアメリカ人動物学者のエドワード・モースが函館に来て、在住のイギリス人貿易商にして博物学者のブラキストンと協力して貝塚などを発掘調査します。この坂の周辺でも調べたら、縄文人たちが食べたアサリの貝殻が数多く発見されたのです。それで、名付けられたのが「アサリ坂」。
坂の下、市電通りには1901年(明治34年)開業したすき焼きで有名な1階に牛肉屋と、2階にレストランを構えた「阿佐利本店」があります。名前は、坂の名から名付けたのでしょうか?

昔、ここで夕食(すき焼き)を食べたことがありますが、値段もそれなりでしたが、確かに美味しい!
それ以来行ってはいませんが、もう一度食べたい味であることは確かです。
それにしても、歴史ある建物 というよりは、かなり古い木造建築物です。

坂を少しばかり上がると、地元では有名な手作り豆腐のお店「佐々木豆腐店」があります。ここの豆腐、とっても美味しいんですよね。

ロードヒーティングは全く入ってなく、全面雪だらけの坂道。

上って突き当りの右側にあった小公園にある「亀井勝一郎文学碑」。

「人生 邂逅し 開眼し 瞑目す 亀井勝一郎」
1907年(明治40年)函館元町に生まれ、弥生小学校、函館中学校、山形高等学校、東京帝国大学文学部で学び、評論家、思想家として活躍。若い時は共産主義に傾倒して、治安維持法で検挙されたことも。日本プロレタリア作家同盟に参加も。
函館にはあまり帰らなかったが、終生函館弁を話し、故郷の味を好み、終生函館を愛した作家でした。

この小公園がある場所は複雑な道で、護国神社坂とアサリ坂を結ぶ横道が斜めになっていて、小さな直角三角形の場所にあるのです。で、ここも周囲を見渡せば蔵があちこちに見られます。

横道を歩き、最後の坂の青柳坂へと向かいます。が、その途中でも蔵。壁がちょっとはがれていますが。

青柳坂の手前にあった「石川啄木居住地跡」。この辺りに彼と彼の家族、妻節子さんと娘京子との親子3人水入らずの、貧しくとも幸せな1か月の生活を送った場所なのです。

といっても、1907年(明治40年)5月5日に函館に来た啄木は、8月25日の大火で避難。その後も函館は何度も大火に見舞われているので、この周辺は当時と大きく様変わりしているはずです。
函館の 青柳町こそ 悲しけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花
こころざし 得ぬ人々の あつまりて 酒飲む場所が 我が家なりしかな

ここにも蔵。奥に見える校舎は、最近校名が潮見中学校から青柳中学校へと変わった、西部地区では唯一の中学校。西部地区では、すでに愛宕中学校、船見中学校、この2校が合併した西中学校までが廃校しています。

ということで、最後の坂である「青柳坂」へ。

ご覧のように、北西側の魚見坂から始まって、今は一番南東側の青柳坂まで来ました。
船見坂ではピンク色の銭湯「大正湯」を、幸坂ではロシア領事館跡を、姿見坂では江戸末期からの遊郭「山上遊郭」を探したけど全く形跡はなし、弥生坂では函館の学習院と呼ばれた弥生小学校を、基坂では公会堂、旧イギリス領事館を、日和坂では伝統的建築物をたくさん見て、八幡坂は京都の三寧坂や長崎のオランダ坂といった超有名な坂に勝り日本の坂第1位でしたね。
大三坂は、元町カトリック教会など教会群のある日本の道100選の坂でした。二十間坂はコンクリート製の東本願寺の寺院を見て、南部坂は戦前からある超レトロなエレベーターのある旧丸井デパートを、
そしてここ数日は護国神社坂、今日はアサリ坂と。いよいよ最後の坂の青柳坂です。

坂の由来は、ここに書かれている通り。

次回は最後の坂「青柳坂」をゆっくりと下って紹介していきます。
では、また!
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