5月21日金曜日、天気は朝から雨ですが、それ程の降水量ではありません。ニュースを見れば熊本県の球磨川ではあふれるくらいで洪水が心配されていますが、北海道は降水量は日本全体の中ではかなり少ない方で、川の氾濫はそうありません。
年間降水量で見ると、北海道は道内各地で差はありますが、大体1000mm前後から1200前後で、冬の雪も乾燥していて水に換算すると大した量ではないのです。因みに函館は年間1150mm、札幌は1100mm。
それに比べると、本州、特に九州は2000mmから3000mm前後(熊本1986mm、宮崎2509mm、奄美2838mm)で北海道の2倍から3倍近く、とりわけ梅雨の時期や台風の時期の雨の量は北海道の人間が想像つかないほどですし、それと地形が全然違います。
月別の降水量最大は、函館8月154mmに対し、宮崎の6月429mmで、函館の6月73mmに比べると梅雨の時期は6倍の降水量であることが分かります。
北海道の土地の大半は大平野や大平原の大地ですが、九州は一部の大都市(福岡、熊本、鹿児島など)以外の地は急峻な山岳地帯や丘陵地帯で、川はそんな山地の間を縫うように流れているのです。面積でいえば、北海道は九州のほぼ2倍、人口はほぼ3分の1(北海道527万人、九州・沖縄で1454万人)で、それが自然災害の差にも表れているのではないかな?と思うですが。
もっとも、5年前の2016年には十勝川が氾濫してかなりの被害を出しましたが、滅多に上陸しない台風が4度も来て、大氾濫したのです。最近は歓迎されない台風も来るようになりましたが、それでもパワーは九州に上陸するのと比べて衰えてからの上陸です。
北海道は、冬の暴風雪のかなり厳しいものですが、夏・秋の大雨や台風の被害はかなり少ない地なのです。
さて雨の話はこれくらにして、護国神社の新政府軍戦死者のお墓へ行きましょう。

お墓が50基以上ありますね。右奥には奥津城とあるから、神道式の墓のことですね。

函館護国神社祀職 真崎家之奥津城とありますので、代々の宮司であった、または神職の方だった真崎さん家の方々のお墓です。

一つ一つお墓を見ていきましょう。ここは弘前から従軍した竹中さんのお墓。弘前藩=津軽藩は戊辰戦争で当初は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦いますが、途中で新政府側につきました。箱館戦争には1年間にわたり戦いますが、箱館では25人の戦死者を出しています。竹中さんは、その一人だったのでしょう。
お墓は、ここ旧箱館招魂社以外に江差の招魂社にも墓石が建てられています。

こちらは大野藩というから福井県ですね。越前大野藩は現在の大野市に存在した石高5万石の藩で、江戸時代は越前松平家だったから親藩だったのですが、1682年に移されて土井家の地となり幕末まで続きます。
譜代大名だった土井家は、徳川家の幕府を支えるのかな?と思うけど、新政府側につくのです。
親藩でも譜代でも、戊辰戦争では幕府につくのは少なかったですね。越前大野藩もその一つでした。

こちらは備後福山藩の兵士の墓。備後福山藩は、広島県東部の福山市に城がある石高10万石。
江戸時代は長州毛利家に対する防御の地として、幕府は明治維新まで有力な譜代大名を配置し水野家、松平家、阿部家と続きます。大政奉還後に長州藩に攻められて敗北し、恭順。それからは新政府軍として箱館へも来て藩兵500人が上陸します。箱館戦争では死者25人、負傷者28人。

この3つの藩以外に、奥には薩摩藩の戦死者の墓もありました。遠路はるばる鹿児島から箱館やってきたのです。
もちろん、船で来たのですが青森まではどうやってきたのでしょうね。それも船でしょうか?
弘前の津軽藩以外は船でしょうか?それとも馬で?歩いて?どれだけ日数がかかることやら?

明治政府の海軍の戦死者の墓もありました。

五稜郭の戦いとも云われる箱館戦争は、1868年(明治元年)10月21日から翌年の1869年(明治2年)5月18日まで続いた戦争です。
なお、新政府軍の各藩の出兵数は、陸軍のみですが、弘前の津軽藩2207名、松前藩1684名、長州藩781名、備後福山藩63名、熊本藩396名、徳山藩300名、薩摩藩293名、築後藩24名、水戸藩219名、津藩199名、越前大野藩170名などでした。
およそ9500人の戦力で臨んだ新政府軍で、戦死者はおよそ300人。それに対し敗北した旧幕府軍は3500人の戦力に対し戦死者は1000人でしたので、圧倒的に新政府軍の完勝と云ってもいい戦いでした。

最後に、ここが箱館戦争の新政府軍戦死者の墓地であることを示す招魂場の碑。護国神社になる以前は招魂場また招魂社だったことは、何回か前のblogでもお伝えしました。
明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した死者を奉祀した各地の神社が建てられましたが、それが招魂場(招魂社)です。そして、ここ函館(当時は箱館)で明治維新が完成(=旧幕府軍の敗北)したのです。
だから、明治新政府軍として戦死した兵士たちを祀る場が必要だったのです。それがここでした。

ということで、箱館戦争のもう一つの舞台でもあった招魂社跡の護国神社。
全国から兵士たちが箱館やって来て、戦いが行われたのですね。その一方で、箱館で一儲けを狙う人たちもやって来ていたのです。それは、今までお伝えした明治期の豪商たち。
当時の箱館は、まさに歴史の大きな1ページを飾っていたのです。
では、また!
年間降水量で見ると、北海道は道内各地で差はありますが、大体1000mm前後から1200前後で、冬の雪も乾燥していて水に換算すると大した量ではないのです。因みに函館は年間1150mm、札幌は1100mm。
それに比べると、本州、特に九州は2000mmから3000mm前後(熊本1986mm、宮崎2509mm、奄美2838mm)で北海道の2倍から3倍近く、とりわけ梅雨の時期や台風の時期の雨の量は北海道の人間が想像つかないほどですし、それと地形が全然違います。
月別の降水量最大は、函館8月154mmに対し、宮崎の6月429mmで、函館の6月73mmに比べると梅雨の時期は6倍の降水量であることが分かります。
北海道の土地の大半は大平野や大平原の大地ですが、九州は一部の大都市(福岡、熊本、鹿児島など)以外の地は急峻な山岳地帯や丘陵地帯で、川はそんな山地の間を縫うように流れているのです。面積でいえば、北海道は九州のほぼ2倍、人口はほぼ3分の1(北海道527万人、九州・沖縄で1454万人)で、それが自然災害の差にも表れているのではないかな?と思うですが。
もっとも、5年前の2016年には十勝川が氾濫してかなりの被害を出しましたが、滅多に上陸しない台風が4度も来て、大氾濫したのです。最近は歓迎されない台風も来るようになりましたが、それでもパワーは九州に上陸するのと比べて衰えてからの上陸です。
北海道は、冬の暴風雪のかなり厳しいものですが、夏・秋の大雨や台風の被害はかなり少ない地なのです。
さて雨の話はこれくらにして、護国神社の新政府軍戦死者のお墓へ行きましょう。

お墓が50基以上ありますね。右奥には奥津城とあるから、神道式の墓のことですね。

函館護国神社祀職 真崎家之奥津城とありますので、代々の宮司であった、または神職の方だった真崎さん家の方々のお墓です。

一つ一つお墓を見ていきましょう。ここは弘前から従軍した竹中さんのお墓。弘前藩=津軽藩は戊辰戦争で当初は奥羽越列藩同盟に加わり新政府軍と戦いますが、途中で新政府側につきました。箱館戦争には1年間にわたり戦いますが、箱館では25人の戦死者を出しています。竹中さんは、その一人だったのでしょう。
お墓は、ここ旧箱館招魂社以外に江差の招魂社にも墓石が建てられています。

こちらは大野藩というから福井県ですね。越前大野藩は現在の大野市に存在した石高5万石の藩で、江戸時代は越前松平家だったから親藩だったのですが、1682年に移されて土井家の地となり幕末まで続きます。
譜代大名だった土井家は、徳川家の幕府を支えるのかな?と思うけど、新政府側につくのです。
親藩でも譜代でも、戊辰戦争では幕府につくのは少なかったですね。越前大野藩もその一つでした。

こちらは備後福山藩の兵士の墓。備後福山藩は、広島県東部の福山市に城がある石高10万石。
江戸時代は長州毛利家に対する防御の地として、幕府は明治維新まで有力な譜代大名を配置し水野家、松平家、阿部家と続きます。大政奉還後に長州藩に攻められて敗北し、恭順。それからは新政府軍として箱館へも来て藩兵500人が上陸します。箱館戦争では死者25人、負傷者28人。

この3つの藩以外に、奥には薩摩藩の戦死者の墓もありました。遠路はるばる鹿児島から箱館やってきたのです。
もちろん、船で来たのですが青森まではどうやってきたのでしょうね。それも船でしょうか?
弘前の津軽藩以外は船でしょうか?それとも馬で?歩いて?どれだけ日数がかかることやら?

明治政府の海軍の戦死者の墓もありました。

五稜郭の戦いとも云われる箱館戦争は、1868年(明治元年)10月21日から翌年の1869年(明治2年)5月18日まで続いた戦争です。
なお、新政府軍の各藩の出兵数は、陸軍のみですが、弘前の津軽藩2207名、松前藩1684名、長州藩781名、備後福山藩63名、熊本藩396名、徳山藩300名、薩摩藩293名、築後藩24名、水戸藩219名、津藩199名、越前大野藩170名などでした。
およそ9500人の戦力で臨んだ新政府軍で、戦死者はおよそ300人。それに対し敗北した旧幕府軍は3500人の戦力に対し戦死者は1000人でしたので、圧倒的に新政府軍の完勝と云ってもいい戦いでした。

最後に、ここが箱館戦争の新政府軍戦死者の墓地であることを示す招魂場の碑。護国神社になる以前は招魂場また招魂社だったことは、何回か前のblogでもお伝えしました。
明治維新前後から、また以降に国家のために殉難した死者を奉祀した各地の神社が建てられましたが、それが招魂場(招魂社)です。そして、ここ函館(当時は箱館)で明治維新が完成(=旧幕府軍の敗北)したのです。
だから、明治新政府軍として戦死した兵士たちを祀る場が必要だったのです。それがここでした。

ということで、箱館戦争のもう一つの舞台でもあった招魂社跡の護国神社。
全国から兵士たちが箱館やって来て、戦いが行われたのですね。その一方で、箱館で一儲けを狙う人たちもやって来ていたのです。それは、今までお伝えした明治期の豪商たち。
当時の箱館は、まさに歴史の大きな1ページを飾っていたのです。
では、また!
コメント