5月27日木曜日、天気は午前中は晴れで午後からは曇り、夜になると雨とのこと。昨夜は、晴れ渡った夜空にスーパームーンの満月の皆既日食が見事に見えました。
東京辺りでは曇っていて見えなかった、というネットの記事がありましたが、函館では最高の夜空でハッキリと見えていて、最初は三日月ような形からドンドン新月のように消えていき、やがて赤い巨大な月へ、その後は少しずつ明るくなり最後は満月へと変化。
晴れ渡った夜空の天空ショーは素晴らしかったのでした。
知り合いの台湾人からライン届いて「中国の昔はなしでは、赤い月が現れると縁起が良い!」と。
東京辺りでは曇っていて見えなかった、というネットの記事がありましたが、函館では最高の夜空でハッキリと見えていて、最初は三日月ような形からドンドン新月のように消えていき、やがて赤い巨大な月へ、その後は少しずつ明るくなり最後は満月へと変化。
晴れ渡った夜空の天空ショーは素晴らしかったのでした。
知り合いの台湾人からライン届いて「中国の昔はなしでは、赤い月が現れると縁起が良い!」と。
しっかりと見れたから、きっと良いことがありそうな予感!がします。
さて、ここは神山町の旧東照宮と権現台場跡。江戸時代後半、ここに東照宮が置かれる前は上山村でしたが、江戸末期に東照宮が出来ると村民は「神が来るのだから神山村としよう」と。それで、今も神山町の名があるのです。
なお、「権」とは「仮の」という意味で、仏が神の形をとって「現れた」ことから、まさに家康でも秀吉でも信長でも、さらには武田信玄でも、上杉謙信でも神になるのです。まさに日本は八百万(やおおろず)の神の国(!?)、誰でも神になれる可能性がある!のですよ。

東照宮とは、江戸幕府を開いた徳川家康を神と祀る神社で、1864年に五稜郭が完成した時にその鬼門の方角である北東に守護神として東照宮を造ったのです。それは蝦夷東照宮の名にふさわしいものだったとか。その場所がここだったのです。
その時に、蝦夷三官寺の一つである日高管内の様似町にある等澍院という天台宗のお寺にある東照大権現を分けてもらったそうです。
神山開基三百年碑がありました。

1684年というから江戸時代の前半に、ここ神山(当時は上山)の地に、現在の青森県七戸のお百姓さんである佐四郎が鍬を入れたのが始まりとか。そんな古い時代からここに入植者がいたんですね。

東照宮があった時代に砲台も造られたので、ここを権現台場と呼んだそうです。
それは、箱館戦争時の1869年(明治2年)、旧幕府軍が本拠地の五稜郭とその背後の備えで急増した四稜郭との間にある箱館東照宮に砲台を設けたから、そう名付けられたのでしょう。
しかし、同年に新政府軍の攻撃を受けて東照宮は焼失します。その後は何か所か転々と移転しますが、東照宮に関しては次回のblogで紹介します。

大鳥居は無事に残っていて、向かって右の柱には「元治二年」の文字が彫られていました。1865年のことです。といっても、この年の2月には慶應という元号に変わるので、1月か2月の初めに鳥居は造られたものです。

向かって左の柱には「四月十七日」の文字が見えますが、これは旧暦のことですね。
なお、この鳥居を造られた石工は、五稜郭や弁天台場の石垣つくりを担当した者で、箱館戦争の破壊されずに今も残っているのです。その石工は誰なのか?はそれも次回の東照宮のテーマで見て行きますね。
参道をふさぐように変な形で伸びている松の木がありますね。

現在は、神山稲荷神社が建てられていて、建物は比較的新しそうに見えます。
が、創建は神山に入植した佐々木佐四郎が、1686年(貞亨3年)故郷である青森県(当時は南部藩)七戸から蝦夷地に移住するにあたりご神体を持ってきたそうで、ここにそれを奉納し祠を建立したのが始まりです。1864年入植しているから、その2年後ですね。
なお、当時の将軍は5代目の「犬将軍」と呼ばれた、あの悪法の「生類憐みの令」を出した徳川綱吉の時代です。

初代の社殿が来たのは、1796年(寛政8年)だから、祠の時から100年以上も後のことです。建てたのは亀田八幡宮の宮司だったそうです。そんな歴史を見れば、函館山山麓の当時の箱館の他、五稜郭がある亀田地区やさらに北東の上山村にも結構な人々が本州から渡って来て開墾していたのですね。

今は住宅街に変わってしまっていますが、当時は完全な農村地帯でヒグマも出るような場所だったのではないか?と思われます。
これは例大祭の時の舞台でもあったのかな?お祭りのステージで、カラオケでも行われたのでしょう?

変形松の木が目立ちますね。

後でネット検索したら、「神山稲荷神社裏手には台場があった当時の土塁の一部が残っています」という記事を見つけ、この時に発見できなかったことが悔やまれます。次回訪れたら是非見つけたいです。

道を挟んだ場所に「忠魂碑」発見。戦争で亡くなった兵士たちの碑ですね。神社には、つきものの碑です。

ということで、四稜郭から始まり東照宮跡、権現台場跡、神山稲荷神社と。それでは、現在の東照宮はどこにあるのか?と。
疑問をそのままにしておくのは嫌なので、次回は東照宮へと足を運びます。
函館には、いろいろな歴史の足跡があるのですね。これだから調べるのは面白いのです!
「百聞は一見にしかず!」読んで調べて、実際に行って見て、聞いて納得!が「ぼうけんの旅」のモットーで、それが自分のスタイル!
では、また!
さて、ここは神山町の旧東照宮と権現台場跡。江戸時代後半、ここに東照宮が置かれる前は上山村でしたが、江戸末期に東照宮が出来ると村民は「神が来るのだから神山村としよう」と。それで、今も神山町の名があるのです。
なお、「権」とは「仮の」という意味で、仏が神の形をとって「現れた」ことから、まさに家康でも秀吉でも信長でも、さらには武田信玄でも、上杉謙信でも神になるのです。まさに日本は八百万(やおおろず)の神の国(!?)、誰でも神になれる可能性がある!のですよ。

東照宮とは、江戸幕府を開いた徳川家康を神と祀る神社で、1864年に五稜郭が完成した時にその鬼門の方角である北東に守護神として東照宮を造ったのです。それは蝦夷東照宮の名にふさわしいものだったとか。その場所がここだったのです。
その時に、蝦夷三官寺の一つである日高管内の様似町にある等澍院という天台宗のお寺にある東照大権現を分けてもらったそうです。
神山開基三百年碑がありました。

1684年というから江戸時代の前半に、ここ神山(当時は上山)の地に、現在の青森県七戸のお百姓さんである佐四郎が鍬を入れたのが始まりとか。そんな古い時代からここに入植者がいたんですね。

東照宮があった時代に砲台も造られたので、ここを権現台場と呼んだそうです。
それは、箱館戦争時の1869年(明治2年)、旧幕府軍が本拠地の五稜郭とその背後の備えで急増した四稜郭との間にある箱館東照宮に砲台を設けたから、そう名付けられたのでしょう。
しかし、同年に新政府軍の攻撃を受けて東照宮は焼失します。その後は何か所か転々と移転しますが、東照宮に関しては次回のblogで紹介します。

大鳥居は無事に残っていて、向かって右の柱には「元治二年」の文字が彫られていました。1865年のことです。といっても、この年の2月には慶應という元号に変わるので、1月か2月の初めに鳥居は造られたものです。

向かって左の柱には「四月十七日」の文字が見えますが、これは旧暦のことですね。
なお、この鳥居を造られた石工は、五稜郭や弁天台場の石垣つくりを担当した者で、箱館戦争の破壊されずに今も残っているのです。その石工は誰なのか?はそれも次回の東照宮のテーマで見て行きますね。
参道をふさぐように変な形で伸びている松の木がありますね。

現在は、神山稲荷神社が建てられていて、建物は比較的新しそうに見えます。
が、創建は神山に入植した佐々木佐四郎が、1686年(貞亨3年)故郷である青森県(当時は南部藩)七戸から蝦夷地に移住するにあたりご神体を持ってきたそうで、ここにそれを奉納し祠を建立したのが始まりです。1864年入植しているから、その2年後ですね。
なお、当時の将軍は5代目の「犬将軍」と呼ばれた、あの悪法の「生類憐みの令」を出した徳川綱吉の時代です。

初代の社殿が来たのは、1796年(寛政8年)だから、祠の時から100年以上も後のことです。建てたのは亀田八幡宮の宮司だったそうです。そんな歴史を見れば、函館山山麓の当時の箱館の他、五稜郭がある亀田地区やさらに北東の上山村にも結構な人々が本州から渡って来て開墾していたのですね。

今は住宅街に変わってしまっていますが、当時は完全な農村地帯でヒグマも出るような場所だったのではないか?と思われます。
これは例大祭の時の舞台でもあったのかな?お祭りのステージで、カラオケでも行われたのでしょう?

変形松の木が目立ちますね。

後でネット検索したら、「神山稲荷神社裏手には台場があった当時の土塁の一部が残っています」という記事を見つけ、この時に発見できなかったことが悔やまれます。次回訪れたら是非見つけたいです。

道を挟んだ場所に「忠魂碑」発見。戦争で亡くなった兵士たちの碑ですね。神社には、つきものの碑です。

ということで、四稜郭から始まり東照宮跡、権現台場跡、神山稲荷神社と。それでは、現在の東照宮はどこにあるのか?と。
疑問をそのままにしておくのは嫌なので、次回は東照宮へと足を運びます。
函館には、いろいろな歴史の足跡があるのですね。これだから調べるのは面白いのです!
「百聞は一見にしかず!」読んで調べて、実際に行って見て、聞いて納得!が「ぼうけんの旅」のモットーで、それが自分のスタイル!
では、また!
コメント
コメント一覧 (5)
今朝がたも、またテレビで「魂のタキ火 癒しの炎」をやってました。ただ赤々と燃えるタキ火のアップだけなんですが、あのパチパチの音に本当に癒されます。これを考えた人は偉いなぁと、いつも感心しています。
碑文も撮って下さっているので、拡大して読んだりしていると、本当に自分が現地を周っている時のようで、函館の空気も思い出せます。
有り難うございます🌺
p.s. 2年前にガラケーからスマホに変えて良かった〜とつくづく思います😉
今月というから5月の連休後に函館を観光なさったのですね。昨年からのコロナ禍で、観光客は激減していて、特にインバウンドの来函はゼロで観光で持つ函館経済には大打撃になっています。今の状態では、なかなか他の土地を訪れるの他は困難ですね。
自分も旅をしたいのですが、ワクチンを打ってからにしたいと思っています。
スマホは持ち運べるPCですので、ガラケーよりは使いこなせればとても重宝ですね。旅では調べたり、地図を見たり、blogを書いたりで、とっても大事な相棒です。
京都では、残念なことに曇天で皆既月食見れなかったのですね。
石碑でもピカピカに磨かれていると、撮影者が鏡のように写るんですよ。
「神山開基三百年碑」には、自分の姿が映っていましたね。
恥ずかしい限りです。