5月29日土曜日、天気は今blogを作成中の午前9時半では曇りですが、昨夜から強い風を伴った激しい雨が降っていました。スマホがアラームを鳴らして警報を伝えていて、今日も明日も天気は悪そうです。
コロナ禍で世の中暗いことばかりでしたが、函館にもグッドニュースがありました。それは「北海道・北東北の縄文遺跡」がユネスコの世界文化遺産に認定される!との報道です。
函館には、南茅部地区に大船遺跡と垣ノ島遺跡があるから、青森の三内丸山遺跡や伊達の北黄金貝塚公園の遺跡などと並び、訪問客が増加するのでは!と期待しました。
が、市の広報では「緊急事態宣言中は閉鎖するとのこと」で、せっかくの明るいニュースなのに水を差された感じで残念です。いずれこのblogでも紹介したいと思っていますが。
さて、昨日お伝えした幕末に旧東照宮があった神山町。今はそこには神山稲荷神社があるだけで、昔あったという説明板があるだけ。それでは、北海道に1ヵ所しかない東照宮はどこにあるのか?それを探しに市の北東部、陣川町にある北海道東照宮を訪ねてみました。訪ねた日は2日前の5月27日です。今回はカメラに日付を入れてますので、訪問日が分かりますね。

場所は日本で2番目に上水道が完備した時の貯水ダムである笹流ダム(赤川ダム)からダム沿いに荒いオフロードの砂利道を上がること2㎞。そこは道路の森からヒグマが出そうな?ところです。
「ヒグマ出没、注意!」の看板もあり、市街地からは車でなければ来れそうにない場所です。
真っ赤な鳥居の奥の森がそうです。

広い駐車場に車を停めて真っ赤な大鳥居をくぐると、最初に目についたのがこの説明ポール。
小出大和守(1834~1869)本名は小出秀実(こいでほずみ)。江戸生まれの江戸育ち、旗本出身。土岐家の生まれで小出家へ養子へ出されて小出姓を名乗りました。
幕末、1862年に箱館奉行に任命され、1864年6月15日に函館山山麓の、現在の元町公園から新たに完成した五稜郭内の新奉行所に移り、翌1865年には五稜郭の守り神となる徳川家康を祀る東照宮を上山村に建立した人物です。

「みなみ北海道 最後の武士たちの物語」として、ここで取り上げているのが東照宮を造営した小出大和守です。

北海道には東照宮はここにしかありませんので、ここは函館東照宮というよりは北海道東照宮なのですね。
上村の東照宮は、蝦夷日光と云われるほど、日光東照宮のような豪華絢爛の神社だったのでしょうか?箱館戦争時に新政府軍により焼失されたので、当時のことは分かりませんが。

その下に、手水舎(ちょうずや)の写真がりますよ。

それを造った石工は、備前というから今の岡山県出身の喜三郎(1809~1861)さん。彼は石工棟梁として五稜郭や弁天台場の石垣工事を請け負っていたんですね。
さらに読むと、前回紹介した神山稲荷神社の鳥居も造っているし、亀田八幡宮と箱館招魂場(現在の函館護国神社)の狛犬も造っている、まさに石工職人、スペシャリストですよ。

この写真でしたね。昔は神山東照宮の参道だったのですね。東照宮があった場所に稲荷神社が建てられたのです。
その下の「東照宮」の扁額は、後に説明します。

数歩進むと、手水舎が参道の左手にありました。

大阪の御影石を使用した手水石。社殿は焼失したが、手水石や狛犬が残り、その後宝来町に移転後に
東照宮が再建されて使用されていたそうな。
函館奉行の下に藤原実とありますが、まず当時は箱館であり、函館の名はなかったし、姓が藤原とは全く分かりません。名前の実は別名で使用されていたそうで、それはいいのですが藤原の名が何処から出てきたのか?多分、ここの東照宮の間違いではないでしょうか?

よ組 三番組とあるのは当時の町火消しで、神山村から宝来町に運んだ記念に刻んだものとか。

明治19年11月5日 神山村ヨリ是運搬 と刻まれていますね。三番組 中 よ組の文字もありました。
これ、弾痕の跡を探したのですがなくて、「よ」の文字でした。

確かに、箱館奉行 小出大和守 とありました。

歴史を調べると、箱館の東照宮は箱館戦争後に社殿は焼失と何度も書きましたが、その後何処へ行ったのか?当時の函館市民は神山村は遠くて(市街地からは10㎞以上)歩いて行ける場所へと、山麓へ再建して欲しい、とのことで。
1874年(明治7年)に谷地頭に移転。谷地頭は、函館公園付近にある山麓の低地ですね。
1878年(明治11年)元町に移転。元町公園のある辺りでしょうか?
1879年(明治12年)宝来町に移転。しかし、1934年(昭和9年)3月の函館大火で焼失し、9月には再建
されていて、戦後も継続し60年近く宝来町で営まれます。
宝来町は、市電の電停でも紹介しましたが、函館山山麓の一番下にあたる部分で、大火前には遊郭があった場所。東京以北最大の商業地区だった銀座通りの並びでもあります。
その宝来町の津軽海峡に面する大森浜に近い場所に東照宮があったことは覚えていて、自分は何度も訪れています。結婚式も行われていたり、大きな神社だったのですが、車社会になって駐車場は少なく手狭なこともあったのでしょか?
1992年(平成4年)に現在の市街地からは10数㎞以上も北東部の山側にあたる陣川町、神山町からも3㎞、四稜郭からも2㎞北東側の、今から30年近く前の当時は自然の森が広がる人が訪れることもまばらだったと思われる陣川町に移転したのでした。
次回は、さらにこの東照宮を見学することにします。
では、また!
コロナ禍で世の中暗いことばかりでしたが、函館にもグッドニュースがありました。それは「北海道・北東北の縄文遺跡」がユネスコの世界文化遺産に認定される!との報道です。
函館には、南茅部地区に大船遺跡と垣ノ島遺跡があるから、青森の三内丸山遺跡や伊達の北黄金貝塚公園の遺跡などと並び、訪問客が増加するのでは!と期待しました。
が、市の広報では「緊急事態宣言中は閉鎖するとのこと」で、せっかくの明るいニュースなのに水を差された感じで残念です。いずれこのblogでも紹介したいと思っていますが。
さて、昨日お伝えした幕末に旧東照宮があった神山町。今はそこには神山稲荷神社があるだけで、昔あったという説明板があるだけ。それでは、北海道に1ヵ所しかない東照宮はどこにあるのか?それを探しに市の北東部、陣川町にある北海道東照宮を訪ねてみました。訪ねた日は2日前の5月27日です。今回はカメラに日付を入れてますので、訪問日が分かりますね。

場所は日本で2番目に上水道が完備した時の貯水ダムである笹流ダム(赤川ダム)からダム沿いに荒いオフロードの砂利道を上がること2㎞。そこは道路の森からヒグマが出そうな?ところです。
「ヒグマ出没、注意!」の看板もあり、市街地からは車でなければ来れそうにない場所です。
真っ赤な鳥居の奥の森がそうです。

広い駐車場に車を停めて真っ赤な大鳥居をくぐると、最初に目についたのがこの説明ポール。
小出大和守(1834~1869)本名は小出秀実(こいでほずみ)。江戸生まれの江戸育ち、旗本出身。土岐家の生まれで小出家へ養子へ出されて小出姓を名乗りました。
幕末、1862年に箱館奉行に任命され、1864年6月15日に函館山山麓の、現在の元町公園から新たに完成した五稜郭内の新奉行所に移り、翌1865年には五稜郭の守り神となる徳川家康を祀る東照宮を上山村に建立した人物です。

「みなみ北海道 最後の武士たちの物語」として、ここで取り上げているのが東照宮を造営した小出大和守です。

北海道には東照宮はここにしかありませんので、ここは函館東照宮というよりは北海道東照宮なのですね。
上村の東照宮は、蝦夷日光と云われるほど、日光東照宮のような豪華絢爛の神社だったのでしょうか?箱館戦争時に新政府軍により焼失されたので、当時のことは分かりませんが。

その下に、手水舎(ちょうずや)の写真がりますよ。

それを造った石工は、備前というから今の岡山県出身の喜三郎(1809~1861)さん。彼は石工棟梁として五稜郭や弁天台場の石垣工事を請け負っていたんですね。
さらに読むと、前回紹介した神山稲荷神社の鳥居も造っているし、亀田八幡宮と箱館招魂場(現在の函館護国神社)の狛犬も造っている、まさに石工職人、スペシャリストですよ。

この写真でしたね。昔は神山東照宮の参道だったのですね。東照宮があった場所に稲荷神社が建てられたのです。
その下の「東照宮」の扁額は、後に説明します。

数歩進むと、手水舎が参道の左手にありました。

大阪の御影石を使用した手水石。社殿は焼失したが、手水石や狛犬が残り、その後宝来町に移転後に
東照宮が再建されて使用されていたそうな。
函館奉行の下に藤原実とありますが、まず当時は箱館であり、函館の名はなかったし、姓が藤原とは全く分かりません。名前の実は別名で使用されていたそうで、それはいいのですが藤原の名が何処から出てきたのか?多分、ここの東照宮の間違いではないでしょうか?

よ組 三番組とあるのは当時の町火消しで、神山村から宝来町に運んだ記念に刻んだものとか。

明治19年11月5日 神山村ヨリ是運搬 と刻まれていますね。三番組 中 よ組の文字もありました。
これ、弾痕の跡を探したのですがなくて、「よ」の文字でした。

確かに、箱館奉行 小出大和守 とありました。

歴史を調べると、箱館の東照宮は箱館戦争後に社殿は焼失と何度も書きましたが、その後何処へ行ったのか?当時の函館市民は神山村は遠くて(市街地からは10㎞以上)歩いて行ける場所へと、山麓へ再建して欲しい、とのことで。
1874年(明治7年)に谷地頭に移転。谷地頭は、函館公園付近にある山麓の低地ですね。
1878年(明治11年)元町に移転。元町公園のある辺りでしょうか?
1879年(明治12年)宝来町に移転。しかし、1934年(昭和9年)3月の函館大火で焼失し、9月には再建
されていて、戦後も継続し60年近く宝来町で営まれます。
宝来町は、市電の電停でも紹介しましたが、函館山山麓の一番下にあたる部分で、大火前には遊郭があった場所。東京以北最大の商業地区だった銀座通りの並びでもあります。
その宝来町の津軽海峡に面する大森浜に近い場所に東照宮があったことは覚えていて、自分は何度も訪れています。結婚式も行われていたり、大きな神社だったのですが、車社会になって駐車場は少なく手狭なこともあったのでしょか?
1992年(平成4年)に現在の市街地からは10数㎞以上も北東部の山側にあたる陣川町、神山町からも3㎞、四稜郭からも2㎞北東側の、今から30年近く前の当時は自然の森が広がる人が訪れることもまばらだったと思われる陣川町に移転したのでした。
次回は、さらにこの東照宮を見学することにします。
では、また!
コメント
コメント一覧 (2)
一番わかりにくいのが、名だたる武将のいない室町時代です。10年もの戦で京都の町は焼け野原。呉座 勇一(ござ ゆういち)が書いた「応仁の乱」は40万部も売れたそうです。私は京都は飽き飽きなので、冬は「沖縄」夏は「北海道」に行きたいですわ。
「冬は沖縄、夏は北海道」で暮らすのは、最高ですね。自分もこの年になって都会を訪れるのはこりごりで、人混みは絶対に行きたくはないです。
出来るだけ田舎で人のいないところ。不便でも自然あふれる場所の方が住みやすい!と思うのですが。
そういう意味では、函館辺りはちょっと出ただけで自然いっぱいの場所がたくさんあるから住むには最適です。