6月13日日曜日、天気は晴れで気温は25度以上に上昇し、真夏のような暑さです。恐らく今年一番の暑さでしょう。外の作業は午前中はまだ出来たけど、午後からは無理。家の中では涼しい潮風が入り過ごしやすいけど、太陽の下を歩くのは苦行みたいなもので、のんびりと家の中にいます。
もっとも、函館辺りで「暑い!暑い!」なんて言っていては、とても真夏の本州を旅することなんて出来っこありません。それに道内内陸部の方が函館よりもズーっと暑いのだから、このくらいの暑さは大したことはありません。
さて、奉行所内部の2回目です。大広間を見て武器置所を経て廊下へ。

中庭の説明があります。採光や汚水処理を目的としているとか。ここから見える太鼓櫓の高さは16.65ⅿあると。高さにすると、5階建て以上の高さになりから見晴らしは良好ですね。

うーん、いかにも高い建物です。ここで、敵を発見して太鼓を鳴らして知らせたのですね。
復元した建物の屋根には、3万8千枚の瓦が使用されたそうです。発掘調査では築造当時の瓦は、越前産の赤褐色の瓦で葺かれていたことが分かっています。それを忠実に再現しているのですから、すごーい!

御役所調役の部屋。一番広い部屋で、45畳あるそうです。大広間は4つの部屋で合わせて72畳ありましたが、ここは1部屋で45畳もあります。それが4部屋続いていて、ここはその1つ目。
今は、ここを歴史発見ゾーンとして展示室になっていて、箱館や五稜郭の歴史を学ぶことが出来ます。

外から光が漏れていますね。縁側を挟んで外庭が見えます。

ここの部屋、横幅は9ⅿもあって、部屋を支えているのは長さ10ⅿ直径60㎝の松の木の梁在本が架けられているとか。

御役所調役の部屋とは?奉行・組頭の次に位置する、いわばNO.3の役職の仕事部屋ですね。
一番下っ端が足軽で、その次が同心、その上が与力だから、江戸時代の時代劇を見るとその通りの順列なんですね。

復元されたのは3分の1で、外庭にはかつてあった建物の跡だけが記されています。ここは、相当広い建物であったことが分かります。

それにしても、松の木が良い絵になっています。


青い図画が復元された建物で、黄色の図面はかつてあった建物。だから復元されたのは3分の1しかないのですね。やっぱり、全体を復元するとなると、かなり予算が必要になるし、人手もかかるからでしょうね。

先ほどの梁の様子が分かります。長さ10ⅿ幅60㎝の松の木を梁材として2本使用。この梁材、見るからにかなり重そうです。

さて、歴史を見ていきます。
1854年3月に江戸幕府はアメリカと和親条約を締結し、伊豆の下田と蝦夷の箱館を開港します。鎖国が終わりました。
4月に早速ペリー艦隊が箱館港に入り、函館山や港の調査をしています。
それまでの箱館は、松前や江差よりも小さな漁業主体の寒村だったのです。
開港して外国人が大勢やって来るのに対し、幕府は函館山山麓に奉行所を設置し、初代奉行に竹内下野守(たけのうち しもつけのかみ)をに任命します。

函館山の麓、現在の元町公園に初代奉行所を建てますが、さっそく箱館奉行は「ここでは船から大砲で攻撃されるから、奉行所を内陸部の亀田地区への移転、と港出入りの船を監視できる弁天台場を設置すること」を幕府へ申し出ています。
1854年7月には2代目の奉行である堀織部正(ほりおりべのしょう)赴任します。

地図を見ると、弁天台場の位置と奉行所の移転が分かりますね。
1856年7月3代目奉行の村垣淡路守(むらがき あわじのかみ)が任命され赴任します。奉行が3名体制になったそうです。
1857年5月、武田斐三郎が亀田で測量を開始します。8月には松川弁之助が築造工事を開始しています。

武田氏や松川弁之助は、やること早い!随分とスピーディーに事を進行させますね。それだけ、北の守りは大切だったということでしょうか?外国から国を守る必要に迫られていたから?費用も相当掛かったことでしょうね。


1860年11月には、五稜郭の北側に役所の住宅、今でいうなら官舎が30軒完成しています。
亀田川から水を引き、五稜郭の堀へ給水する上水道工事が開始されます。
1862年、五稜郭内の奉行所建物の建築工事が開始。
ということで、どんどん事は進行していったのです。
次回は、3回目となる箱館奉行所。では、また!
もっとも、函館辺りで「暑い!暑い!」なんて言っていては、とても真夏の本州を旅することなんて出来っこありません。それに道内内陸部の方が函館よりもズーっと暑いのだから、このくらいの暑さは大したことはありません。
さて、奉行所内部の2回目です。大広間を見て武器置所を経て廊下へ。

中庭の説明があります。採光や汚水処理を目的としているとか。ここから見える太鼓櫓の高さは16.65ⅿあると。高さにすると、5階建て以上の高さになりから見晴らしは良好ですね。

うーん、いかにも高い建物です。ここで、敵を発見して太鼓を鳴らして知らせたのですね。
復元した建物の屋根には、3万8千枚の瓦が使用されたそうです。発掘調査では築造当時の瓦は、越前産の赤褐色の瓦で葺かれていたことが分かっています。それを忠実に再現しているのですから、すごーい!

御役所調役の部屋。一番広い部屋で、45畳あるそうです。大広間は4つの部屋で合わせて72畳ありましたが、ここは1部屋で45畳もあります。それが4部屋続いていて、ここはその1つ目。
今は、ここを歴史発見ゾーンとして展示室になっていて、箱館や五稜郭の歴史を学ぶことが出来ます。

外から光が漏れていますね。縁側を挟んで外庭が見えます。

ここの部屋、横幅は9ⅿもあって、部屋を支えているのは長さ10ⅿ直径60㎝の松の木の梁在本が架けられているとか。

御役所調役の部屋とは?奉行・組頭の次に位置する、いわばNO.3の役職の仕事部屋ですね。
一番下っ端が足軽で、その次が同心、その上が与力だから、江戸時代の時代劇を見るとその通りの順列なんですね。

復元されたのは3分の1で、外庭にはかつてあった建物の跡だけが記されています。ここは、相当広い建物であったことが分かります。

それにしても、松の木が良い絵になっています。


青い図画が復元された建物で、黄色の図面はかつてあった建物。だから復元されたのは3分の1しかないのですね。やっぱり、全体を復元するとなると、かなり予算が必要になるし、人手もかかるからでしょうね。

先ほどの梁の様子が分かります。長さ10ⅿ幅60㎝の松の木を梁材として2本使用。この梁材、見るからにかなり重そうです。

さて、歴史を見ていきます。
1854年3月に江戸幕府はアメリカと和親条約を締結し、伊豆の下田と蝦夷の箱館を開港します。鎖国が終わりました。
4月に早速ペリー艦隊が箱館港に入り、函館山や港の調査をしています。
それまでの箱館は、松前や江差よりも小さな漁業主体の寒村だったのです。
開港して外国人が大勢やって来るのに対し、幕府は函館山山麓に奉行所を設置し、初代奉行に竹内下野守(たけのうち しもつけのかみ)をに任命します。

函館山の麓、現在の元町公園に初代奉行所を建てますが、さっそく箱館奉行は「ここでは船から大砲で攻撃されるから、奉行所を内陸部の亀田地区への移転、と港出入りの船を監視できる弁天台場を設置すること」を幕府へ申し出ています。
1854年7月には2代目の奉行である堀織部正(ほりおりべのしょう)赴任します。

地図を見ると、弁天台場の位置と奉行所の移転が分かりますね。
1856年7月3代目奉行の村垣淡路守(むらがき あわじのかみ)が任命され赴任します。奉行が3名体制になったそうです。
1857年5月、武田斐三郎が亀田で測量を開始します。8月には松川弁之助が築造工事を開始しています。

武田氏や松川弁之助は、やること早い!随分とスピーディーに事を進行させますね。それだけ、北の守りは大切だったということでしょうか?外国から国を守る必要に迫られていたから?費用も相当掛かったことでしょうね。


1860年11月には、五稜郭の北側に役所の住宅、今でいうなら官舎が30軒完成しています。
亀田川から水を引き、五稜郭の堀へ給水する上水道工事が開始されます。
1862年、五稜郭内の奉行所建物の建築工事が開始。
ということで、どんどん事は進行していったのです。
次回は、3回目となる箱館奉行所。では、また!
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