6月21日月曜日、天気は朝から雨が断続的に降っていて、ここ1週間は太陽が顔を出す時間が先々週に比べると極端に少なくなっています。6月前半は快晴が続いて上天気でしたが、それがピタッと止まったような感じです。水曜日まで雨模様の天気で、梅雨のような気分が落ち込む天候です。
さて、奉行所を後に五稜郭を出ることにしましょう。

一の橋を渡って五稜郭タワーへ行く手前にある説明板。
結局、旧幕府軍は薩長中心の新政府軍と戦う大義名分が欲しかったのでしょうね。それは「徳川家の存続をかけての戦い」をするためだったのです。だから新選組残党の土方歳三も、はるばる蝦夷地にやってきたのです。
でも、「新しい時代が始まった」とありますが、権力者が徳川家から薩長中心に代わっただけで、下々の人間は相変わらず虐げられる時代が続いたのですが・・・。

函館山からの夜景は、世界三大夜景にもなるほどだから昼の風景を含めてミシュランは3つ星を付けていますね。
ただ残念なことは、「自然一流、食事も一流。だが、おもてなし二流、意識は三流。」という自虐的な言葉が北海道にありますが、それは道民の観光客に対しての意識の低さです。
特に、函館に関しては地元民が函館の良さを知らなすぎます。子供の頃、小学校で函館の歴史を学び観光に関しての学習もしているのに、観光客に対し「ここは何にもねぇとこだ。」とか、尋ねられても「歴史など分からねぇ。」と答える地元民がいることが、あまりにも悲しい。
素晴らしい観光資源があるにも関わらず、「何もない」とはひどすぎます。もっと、函館の良さを知ってもらいたい!と強く望みます。

ここにもモニュメントが。土方歳三と大鳥圭介ですね。二人の説明はもういいでしょう。今までに十分取り上げて来ましたからね。
そういえば、先日NHKの「ブラタモリ」で北海道特集があり、函館も紹介されていました。函館山は火山の島だったこと、砂州によってつながった陸繋島であることなど。地元にしてみれば、とてもうれしい番組でした。

堀の外側にも小さな堀がありましたけど、これは何?よく見ると水門みたい。ここで水の量を調整していたのかな?

箱館戦争供養塔もありました。旧幕府側だけではなく新政府側にも、多くの戦死者も出ましたからね。

五稜郭タワー内部を見学しよう、としたけど臨時休館中。20日まで閉じていましたが今日から再開しますが、残念なことに今日は雨で、それに悲しいことに観光客は極めて少ないのです。例年だとインバウンドが大勢来ているのに。

ガラス越しに土方歳三と当時使用された大砲。徳川家と錦の御旗の2つ幟がありますね。

堀の周囲を散策します。ここは1周1815ⅿ。ランニングしている人もウォーキングしている人も多いです。泳いでいる人は? いませんね。ここは遊泳禁止です。
昔、戦前のことですが、付近に旧制の函館商業中学があって、そこの学生たちがここをプール代わりに泳いでいた写真がありました。昔は冬期間氷を採って販売していたし、水がきれいだったのでしょうね。
今は、誰かが外来種の魚のブルーギルをリリースしたらしく、それが繁殖し年に何回か外来種を釣るボランティア活動が行われています。鯉と亀は以前からいますけどね。

五稜郭築城工事を残場監督した松川弁之助の記念碑です。

越後の国、今の新潟県三条市で大庄屋の六男として生まれた弁之助は、50歳を過ぎてから蝦夷地に渡り五稜郭建設工事に携わったのです。五稜郭付近に「松川町」の名がありますが、それは彼から取った町名なのです。土台が五稜郭の形をしていてカッコいいですね。

函館には、他に町名として榎本武揚から取った「榎本町」、中島三郎助(江戸幕府浦賀奉行与力から蝦夷共和国箱館奉行並)から中島町、タレントの時任三郎の曽祖父で維新後の函館県令を務めた時任為基(旧薩摩藩士)から取った時任町などがありますが、さすがに土方町はないですね。残念・・・。
梁川町という町がありますが、碧血碑を建てた幕末の任侠である柳川熊吉から来ているのかな?と思ったら榎本武揚の雅号に由来するそうで、違いました。
他に町名を調べると、木の名前がありますね。杉並町、松川町(弁之助から取ってますが)、松陰町、柏木町、松風町、柳町など。
川の名がついた町名も多いです。私が住んでいる湯川(ゆのかわ)町、上湯川町、大川町、石川町、堀川町、新川町、豊川町、東川町、吉川町、赤川町、陣川町など。
ということで、五稜郭に関することはこれで終了です。次回からは別な地を紹介していきます。
では、また!
さて、奉行所を後に五稜郭を出ることにしましょう。

一の橋を渡って五稜郭タワーへ行く手前にある説明板。
結局、旧幕府軍は薩長中心の新政府軍と戦う大義名分が欲しかったのでしょうね。それは「徳川家の存続をかけての戦い」をするためだったのです。だから新選組残党の土方歳三も、はるばる蝦夷地にやってきたのです。
でも、「新しい時代が始まった」とありますが、権力者が徳川家から薩長中心に代わっただけで、下々の人間は相変わらず虐げられる時代が続いたのですが・・・。

函館山からの夜景は、世界三大夜景にもなるほどだから昼の風景を含めてミシュランは3つ星を付けていますね。
ただ残念なことは、「自然一流、食事も一流。だが、おもてなし二流、意識は三流。」という自虐的な言葉が北海道にありますが、それは道民の観光客に対しての意識の低さです。
特に、函館に関しては地元民が函館の良さを知らなすぎます。子供の頃、小学校で函館の歴史を学び観光に関しての学習もしているのに、観光客に対し「ここは何にもねぇとこだ。」とか、尋ねられても「歴史など分からねぇ。」と答える地元民がいることが、あまりにも悲しい。
素晴らしい観光資源があるにも関わらず、「何もない」とはひどすぎます。もっと、函館の良さを知ってもらいたい!と強く望みます。

ここにもモニュメントが。土方歳三と大鳥圭介ですね。二人の説明はもういいでしょう。今までに十分取り上げて来ましたからね。
そういえば、先日NHKの「ブラタモリ」で北海道特集があり、函館も紹介されていました。函館山は火山の島だったこと、砂州によってつながった陸繋島であることなど。地元にしてみれば、とてもうれしい番組でした。

堀の外側にも小さな堀がありましたけど、これは何?よく見ると水門みたい。ここで水の量を調整していたのかな?

箱館戦争供養塔もありました。旧幕府側だけではなく新政府側にも、多くの戦死者も出ましたからね。

五稜郭タワー内部を見学しよう、としたけど臨時休館中。20日まで閉じていましたが今日から再開しますが、残念なことに今日は雨で、それに悲しいことに観光客は極めて少ないのです。例年だとインバウンドが大勢来ているのに。

ガラス越しに土方歳三と当時使用された大砲。徳川家と錦の御旗の2つ幟がありますね。

堀の周囲を散策します。ここは1周1815ⅿ。ランニングしている人もウォーキングしている人も多いです。泳いでいる人は? いませんね。ここは遊泳禁止です。
昔、戦前のことですが、付近に旧制の函館商業中学があって、そこの学生たちがここをプール代わりに泳いでいた写真がありました。昔は冬期間氷を採って販売していたし、水がきれいだったのでしょうね。
今は、誰かが外来種の魚のブルーギルをリリースしたらしく、それが繁殖し年に何回か外来種を釣るボランティア活動が行われています。鯉と亀は以前からいますけどね。

五稜郭築城工事を残場監督した松川弁之助の記念碑です。

越後の国、今の新潟県三条市で大庄屋の六男として生まれた弁之助は、50歳を過ぎてから蝦夷地に渡り五稜郭建設工事に携わったのです。五稜郭付近に「松川町」の名がありますが、それは彼から取った町名なのです。土台が五稜郭の形をしていてカッコいいですね。

函館には、他に町名として榎本武揚から取った「榎本町」、中島三郎助(江戸幕府浦賀奉行与力から蝦夷共和国箱館奉行並)から中島町、タレントの時任三郎の曽祖父で維新後の函館県令を務めた時任為基(旧薩摩藩士)から取った時任町などがありますが、さすがに土方町はないですね。残念・・・。
梁川町という町がありますが、碧血碑を建てた幕末の任侠である柳川熊吉から来ているのかな?と思ったら榎本武揚の雅号に由来するそうで、違いました。
他に町名を調べると、木の名前がありますね。杉並町、松川町(弁之助から取ってますが)、松陰町、柏木町、松風町、柳町など。
川の名がついた町名も多いです。私が住んでいる湯川(ゆのかわ)町、上湯川町、大川町、石川町、堀川町、新川町、豊川町、東川町、吉川町、赤川町、陣川町など。
ということで、五稜郭に関することはこれで終了です。次回からは別な地を紹介していきます。
では、また!
コメント
コメント一覧 (8)
五稜郭を丁寧に紹介頂き有難う御座いました。一緒に訪問している気分を味わえました。私が先月9日に行った時は五稜郭タワーに登れて、展望台フロアで箱館戦争の各場面をフィギュアで展示、説明されているのを見ました。市内も一望出来て楽しめました。
私の友人は人見町に家がありますが、この町名も人名からでした。
函館は本当に魅力ある観光都市だと思いました。
花当てクイズのコメントに書きましたが、黃ロウバイの名前は誤りで キンロバイ 金露梅 だと思います。
調べてみてください。
つい先日、NHKの「美の壺」と言う番組で「地球儀」をやっていて、私も「地球儀を買おうかなぁ」と思っていたとこでした。映画「利休」で、ポルトガル人が利休に地球儀を渡すシーンがありました。
いつもコメントありがとうございます。
私は、子供の頃(小学生時代)にいつもクラスの友人と「地名あてっこ」をして楽しんでいました。
地図を見るのが大好きで、子供のころから世界中の国を覚えて(当時は100ヶ国程度でしたが)いて、日本の47都道府県は3年生か4年生の時にすらすら言えて、それで大学も史学地理学科を専攻して、地理と歴史の教師へ。まさに趣味と実益を兼ねて収入を得、夏冬の休暇には長い旅をしていたわけです。