1月6日木曜日、天気は午前中快晴で、真冬の空気は冷たいけど澄み切った青空の下でウォーキングしてきたらとてもいい気持ちになりました。太陽が出ているところでは、凍結した道路も一部融けだしているし、冬太陽に当たるのは健康的でもあります。真冬の日光浴は良いことづくめ!ですね。
さて、オミクロン株の新型コロナは感染力が強力で、沖縄で7日は1000人近く感染者が出るとか、また明日国立競技場で行われる予定だったラグビーのトップ1は、埼玉のチーム(旧パナソニック)に選手の何人かが感染者が出たために中止になりました。これは、かなりショック!
これ以上続くと春の旅も考え直さなくてはいけないかも?心配です。もっとも、自分自身がしっかりと対策しなくてはいけないですけど。
ここは、車中泊した宮古市田老の三王岩。道の駅から車で1分ほどの場所にある公園で、国道から離れていてとても閑静だし、トイレも最新で清潔。景色も抜群で最高の車中泊の場所です。

10月15日は晴天で、この日はゆっくりと三陸海岸を探索できるぞ!と朝から良い気分。

朝、その公園で朝食。といっても、コーヒーと野菜ジュース、パンの質素なものですが。そこから車で10分くらいにある海岸へ。真崎海岸と呼ばれている風光明媚な場所。

波はほとんどなく穏やかそのもの。こんな海が、2011年3月11日にどうしてあんな津波を引き起こしたのか?不思議な気もしますが、ここでは歴史上何度も起きているのです。
それにしても、荒々しい海岸で、断崖絶壁の岩場の連続です。

田老では、グリーンピアの仮設住宅跡と仮設商店街跡を訪ねました。ここには何度も来て仲良くなったお店があったのですが、今はすべて閉鎖。営業しているお店は一つもありません。なぜなら・・・。

かつては、ここに数多くの仮設住宅があって大勢の人々が生活していたからです。彼らの生活の場として仮設商店街があったのです。が、今は、みな何処かへ移住。それは宮古市内か田老の高台に造成された住宅街か、または高齢者は子を頼って他の地へか?誰一人ここには住んでいません。

鵜の巣断崖と呼ばれる海岸へ。場所は田野畑村の南端、国道45号線から東の海岸へ行きます。

宮古市から北は隆起海岸で、海の底が50m~100mほど隆起してできた海岸線。宮古市から南は沈降海岸で、山と谷が地殻変動で沈み、リアス海岸になった海岸線。宮古市の北と南では海岸の地形が違うのです。写真で見えるこの風景、昔は高台が波打ち際だったのです。地殻変動で100mほど隆起したのです。

下を見ると、かつての海岸線を歩くトレイル道のトンネルが2か所ありますね。地震で崩壊して今は使用できないとか。こんな道を歩いていたとは!

鵜の巣断崖へは駐車場から、こんな素敵な道を歩いて5分ほど。落ち葉が踏みしめられた歩きやすい道。でも、「熊に注意」の看板あり!観光客が数人いて歩いて帰ってきたので大丈夫でしょう。

田野畑村の切牛地区にある江戸時代の三大百姓一揆の三閉伊一揆のリーダー弥五兵衛のお墓です。
三閉伊は盛岡藩(南部藩)のエリアで、釜石を含む三陸沿岸地域を指す地区。江戸時代後半に、盛岡に城を構える南部藩の圧政に抗い立ち上がった農民たちがいたのです。
詳しくは、こちらの説明板をお読みください。

切牛地区の弥五兵衛は、「小〇」の旗を掲げて一揆の指導者になります。「困る」のダジャレで考えたのですから、ユーモアもありますね。

弥五兵衛は、盛岡藩の刺客に襲われ打ち首にされますが、その後継者の田野畑太助が2回目の一揆を起こし成功したのです。

田野畑村には、郷土資料館があって一揆の歴史も詳しく展示しています。何度か訪問しているので、今回はスルーします。次回は田野畑村の三陸鉄道「島越駅」をお伝えします。
では、また!
さて、オミクロン株の新型コロナは感染力が強力で、沖縄で7日は1000人近く感染者が出るとか、また明日国立競技場で行われる予定だったラグビーのトップ1は、埼玉のチーム(旧パナソニック)に選手の何人かが感染者が出たために中止になりました。これは、かなりショック!
これ以上続くと春の旅も考え直さなくてはいけないかも?心配です。もっとも、自分自身がしっかりと対策しなくてはいけないですけど。
ここは、車中泊した宮古市田老の三王岩。道の駅から車で1分ほどの場所にある公園で、国道から離れていてとても閑静だし、トイレも最新で清潔。景色も抜群で最高の車中泊の場所です。

10月15日は晴天で、この日はゆっくりと三陸海岸を探索できるぞ!と朝から良い気分。

朝、その公園で朝食。といっても、コーヒーと野菜ジュース、パンの質素なものですが。そこから車で10分くらいにある海岸へ。真崎海岸と呼ばれている風光明媚な場所。

波はほとんどなく穏やかそのもの。こんな海が、2011年3月11日にどうしてあんな津波を引き起こしたのか?不思議な気もしますが、ここでは歴史上何度も起きているのです。
それにしても、荒々しい海岸で、断崖絶壁の岩場の連続です。

田老では、グリーンピアの仮設住宅跡と仮設商店街跡を訪ねました。ここには何度も来て仲良くなったお店があったのですが、今はすべて閉鎖。営業しているお店は一つもありません。なぜなら・・・。

かつては、ここに数多くの仮設住宅があって大勢の人々が生活していたからです。彼らの生活の場として仮設商店街があったのです。が、今は、みな何処かへ移住。それは宮古市内か田老の高台に造成された住宅街か、または高齢者は子を頼って他の地へか?誰一人ここには住んでいません。

鵜の巣断崖と呼ばれる海岸へ。場所は田野畑村の南端、国道45号線から東の海岸へ行きます。

宮古市から北は隆起海岸で、海の底が50m~100mほど隆起してできた海岸線。宮古市から南は沈降海岸で、山と谷が地殻変動で沈み、リアス海岸になった海岸線。宮古市の北と南では海岸の地形が違うのです。写真で見えるこの風景、昔は高台が波打ち際だったのです。地殻変動で100mほど隆起したのです。

下を見ると、かつての海岸線を歩くトレイル道のトンネルが2か所ありますね。地震で崩壊して今は使用できないとか。こんな道を歩いていたとは!

鵜の巣断崖へは駐車場から、こんな素敵な道を歩いて5分ほど。落ち葉が踏みしめられた歩きやすい道。でも、「熊に注意」の看板あり!観光客が数人いて歩いて帰ってきたので大丈夫でしょう。

田野畑村の切牛地区にある江戸時代の三大百姓一揆の三閉伊一揆のリーダー弥五兵衛のお墓です。
三閉伊は盛岡藩(南部藩)のエリアで、釜石を含む三陸沿岸地域を指す地区。江戸時代後半に、盛岡に城を構える南部藩の圧政に抗い立ち上がった農民たちがいたのです。
詳しくは、こちらの説明板をお読みください。

切牛地区の弥五兵衛は、「小〇」の旗を掲げて一揆の指導者になります。「困る」のダジャレで考えたのですから、ユーモアもありますね。

弥五兵衛は、盛岡藩の刺客に襲われ打ち首にされますが、その後継者の田野畑太助が2回目の一揆を起こし成功したのです。

田野畑村には、郷土資料館があって一揆の歴史も詳しく展示しています。何度か訪問しているので、今回はスルーします。次回は田野畑村の三陸鉄道「島越駅」をお伝えします。
では、また!
コメント