6月20日月曜日、天気は晴れで気温は25℃を超す夏日になって、カラッとした夏らしい過ごしやすい1日です。本州では真夏日になっているところが多いみたいだし、湿度もあってジメジメした梅雨の季節ですが、函館は花も一斉に咲いているし、今が一番快適な季節です。
北海道を訪れる観光客も増えていて、付近のホテルは平日にも関わらずほぼ満員になるほどの賑わいです。インバンドが来ない今、国内客がどんどんやってきてお金を落として行ってくれれば函館の経済も潤うのですが・・・。
さて、4月19日の夜は秋田県大仙市の協和地区にある道の駅「きょうわ」で車中泊。夜間はとても閑静な場所でぐっすりと寝れたのですが、朝はマイナス1℃まで下がりフロントガラスは凍結しガチガチの状態へ。かなり寒い朝を迎えたのでした。
この日は行くところがあったのです。それは江戸時代に開発され、戦前までは国内屈指の銅鉱山だった荒川鉱山跡を訪れることです。
その前に、その資料館ともいうべき「大盛館」へ。まずは、建物の前にあったここで家族が働いていたという小説家の「松田解子(まつだ ときこ)」さんの石碑から。

松田解子さんいついては、次回のblogで詳しく紹介します。それに資料館は開館が9時なので、到着した時間は8時前。まずは、周囲を歩き直接荒川鉱山跡へと行くことにします。

荒川会という鉱山で働いていた人々の会で、亡くなった人を偲んで建てられた石碑です。

大盛館は、旧大盛小学校跡地を利用して建てられたもの。小学校跡地のレリーフがありますね。
荒川鉱山だけではなく、松田解子さん、さらにこの地区の民俗資料を集めた、いわば郷土資料館ですね。

創立百周年のレリーフもありましたが、何時のことか?年代が書かれていませんでした。
現在は、この周辺にはほとんど人家はありません。

次回のblogで資料室の中を紹介しますので、しばらくお待ちを。
天気は空を見てもお分かりのように、雲一つない青空で、早朝は放射冷却現象でかなり冷えこんだのでした。

車を走らせること2㎞程で、まずは荒川鉱山墓地へ。鉱山で亡くなった数多くの労働者の墓碑を想像します。

教寿院は亡くなった方を葬るためのお寺ですね。お坊さんもいたのでしょう。


たくさんのお墓があります。
ここは江戸時代前半の1700年に開発され秋田藩が直接支配する山として鉱山が開発されます。明治時代には有数の鉱山となって最盛期には4000人以上の鉱山労働者が働いていたといいます。

鉱山故に落盤事故も多く、多くの方が亡くなっていてお墓は延々と奥へ続いています。太陽が出ている時間帯だから一人で歩けるけど、これが夜だったら怖くて歩けません。

さらに車を走らせると、鉱山の本体が登場してきました。手前の沈殿池は、きれいに洗浄した残りの汚れた水を貯めた池でしょうね。

シックナー跡とあります。あちこちでシックナーを見てきました。例えば佐渡の相川の金山跡とかで。シックナーは遠心力で回して銅以外のモノを弾き飛ばす巨大な装置ですね。

1896年(明治29年)以後は三菱が鉱業権を所有して近代化が図られ、ここに鉱山町が形成されていったのです。ここには荒川村役場、郵便局、共同浴場、病院、そして劇場「共楽館」まで出来たのです。学校は先ほどの大盛小学校で、子供たちはここから2km歩いて通学していたのです。

劇場があったのは、どこも同じですね。今まで訪問した紋別市の鴻之舞鉱山や、秋田県小坂鉱山、釧路市の雄別炭坑などなど各地にありましたからね。

大盛小学校はピーク時には800人以上もの児童がいたといいますし、1897年(明治30年)には県庁のある秋田市よりも3年も早く電灯が導入されていたのです。周辺人口を含めると8000人を超す大きな町となっていたのです。

巨大な煙突が見えますね。

鉱山事務所跡。ここで事務員も多く働いていましたが、現場で働く人と事務方では待遇面でかなりの差があったのはどこも同じですね。

1935年(昭和10年)には資源が枯渇して縮小し、その5年後の1940年、まさに太平洋戦争が始まる1年前に閉山しています。足掛け240年の鉱山だったのです。

坑口跡もありましたが、かなり狭い坑口です。入るのは怖い。閉所恐怖症ではないけど、とても鉱山で働く気にはならないですね。やっぱり太陽が見える場所で働きたい!

こんな狭い入口から地下数百メートルまで降りるなんて・・・とても無理。



そういえば秋田県には鉱山跡が多いですね。今まで訪れたのでも鹿角市の尾去沢鉱山、北秋田市の阿仁銀山など幾つかで見てきました。秋田大学には全国的にも珍しい鉱山学部という鉱山を学ぶ学部がありますが、私が勤めていた時に教え子の一人がそこへ進学していったのです。父が鉱山で働いていて関心があった、と本人は言ってましたが。

クラブ跡なんて、夕張にありましたね。幹部たちの社交場である夕張鹿鳴館という建物が。多分、幹部たちが来客者をもてなすための施設だったのでしょう。鉱山長宅は豪華な建物だったことでしょう。

入口が閉鎖されていますね。

看板を読んだら、平成19年6月まで一般に開放されていたそうですね。15年前の2007年まで観光用の坑道が公開されていたのです。今は崩壊もあり危険で閉鎖されていますね。

ということで、荒川鉱山跡は面白いですね。見るところがたくさんあって興味津々です。まだまだ写真あるので次回にも紹介し、大盛館も併せて紹介していきます。
では、また!
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北海道を訪れる観光客も増えていて、付近のホテルは平日にも関わらずほぼ満員になるほどの賑わいです。インバンドが来ない今、国内客がどんどんやってきてお金を落として行ってくれれば函館の経済も潤うのですが・・・。
さて、4月19日の夜は秋田県大仙市の協和地区にある道の駅「きょうわ」で車中泊。夜間はとても閑静な場所でぐっすりと寝れたのですが、朝はマイナス1℃まで下がりフロントガラスは凍結しガチガチの状態へ。かなり寒い朝を迎えたのでした。
この日は行くところがあったのです。それは江戸時代に開発され、戦前までは国内屈指の銅鉱山だった荒川鉱山跡を訪れることです。
その前に、その資料館ともいうべき「大盛館」へ。まずは、建物の前にあったここで家族が働いていたという小説家の「松田解子(まつだ ときこ)」さんの石碑から。

松田解子さんいついては、次回のblogで詳しく紹介します。それに資料館は開館が9時なので、到着した時間は8時前。まずは、周囲を歩き直接荒川鉱山跡へと行くことにします。

荒川会という鉱山で働いていた人々の会で、亡くなった人を偲んで建てられた石碑です。

大盛館は、旧大盛小学校跡地を利用して建てられたもの。小学校跡地のレリーフがありますね。
荒川鉱山だけではなく、松田解子さん、さらにこの地区の民俗資料を集めた、いわば郷土資料館ですね。

創立百周年のレリーフもありましたが、何時のことか?年代が書かれていませんでした。
現在は、この周辺にはほとんど人家はありません。

次回のblogで資料室の中を紹介しますので、しばらくお待ちを。
天気は空を見てもお分かりのように、雲一つない青空で、早朝は放射冷却現象でかなり冷えこんだのでした。

車を走らせること2㎞程で、まずは荒川鉱山墓地へ。鉱山で亡くなった数多くの労働者の墓碑を想像します。

教寿院は亡くなった方を葬るためのお寺ですね。お坊さんもいたのでしょう。


たくさんのお墓があります。
ここは江戸時代前半の1700年に開発され秋田藩が直接支配する山として鉱山が開発されます。明治時代には有数の鉱山となって最盛期には4000人以上の鉱山労働者が働いていたといいます。

鉱山故に落盤事故も多く、多くの方が亡くなっていてお墓は延々と奥へ続いています。太陽が出ている時間帯だから一人で歩けるけど、これが夜だったら怖くて歩けません。

さらに車を走らせると、鉱山の本体が登場してきました。手前の沈殿池は、きれいに洗浄した残りの汚れた水を貯めた池でしょうね。

シックナー跡とあります。あちこちでシックナーを見てきました。例えば佐渡の相川の金山跡とかで。シックナーは遠心力で回して銅以外のモノを弾き飛ばす巨大な装置ですね。

1896年(明治29年)以後は三菱が鉱業権を所有して近代化が図られ、ここに鉱山町が形成されていったのです。ここには荒川村役場、郵便局、共同浴場、病院、そして劇場「共楽館」まで出来たのです。学校は先ほどの大盛小学校で、子供たちはここから2km歩いて通学していたのです。

劇場があったのは、どこも同じですね。今まで訪問した紋別市の鴻之舞鉱山や、秋田県小坂鉱山、釧路市の雄別炭坑などなど各地にありましたからね。

大盛小学校はピーク時には800人以上もの児童がいたといいますし、1897年(明治30年)には県庁のある秋田市よりも3年も早く電灯が導入されていたのです。周辺人口を含めると8000人を超す大きな町となっていたのです。

巨大な煙突が見えますね。

鉱山事務所跡。ここで事務員も多く働いていましたが、現場で働く人と事務方では待遇面でかなりの差があったのはどこも同じですね。

1935年(昭和10年)には資源が枯渇して縮小し、その5年後の1940年、まさに太平洋戦争が始まる1年前に閉山しています。足掛け240年の鉱山だったのです。

坑口跡もありましたが、かなり狭い坑口です。入るのは怖い。閉所恐怖症ではないけど、とても鉱山で働く気にはならないですね。やっぱり太陽が見える場所で働きたい!

こんな狭い入口から地下数百メートルまで降りるなんて・・・とても無理。



そういえば秋田県には鉱山跡が多いですね。今まで訪れたのでも鹿角市の尾去沢鉱山、北秋田市の阿仁銀山など幾つかで見てきました。秋田大学には全国的にも珍しい鉱山学部という鉱山を学ぶ学部がありますが、私が勤めていた時に教え子の一人がそこへ進学していったのです。父が鉱山で働いていて関心があった、と本人は言ってましたが。

クラブ跡なんて、夕張にありましたね。幹部たちの社交場である夕張鹿鳴館という建物が。多分、幹部たちが来客者をもてなすための施設だったのでしょう。鉱山長宅は豪華な建物だったことでしょう。

入口が閉鎖されていますね。

看板を読んだら、平成19年6月まで一般に開放されていたそうですね。15年前の2007年まで観光用の坑道が公開されていたのです。今は崩壊もあり危険で閉鎖されていますね。

ということで、荒川鉱山跡は面白いですね。見るところがたくさんあって興味津々です。まだまだ写真あるので次回にも紹介し、大盛館も併せて紹介していきます。
では、また!
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コメント
コメント一覧 (2)
鉱山は至る所にあったようですが、今では全部掘り尽くされて「鉱山跡」ばっかりですね。テレビで、番組は違うのですが同じ日に「石見銀山」が偶然に出てました。土地が荒れ果てている時に「義肢の道具」の会社を設立した夫婦のとこに松本清張が見学に来て、励まされた夫婦が清張の言葉の碑を建てたというのを以前に見ました。今回は古い昔の喫茶店や、石見の人を撮りに来ていました。閉山で全然人がいなくなったのかと思っていたら、結構土地の人がいて驚きました。
函Gさんは、よく先々のマンホールの蓋を載せておられますが、私は蓋があることも気づかず、自転車でスイスイ通り越していました。近ごろ気づくようになり、京都市は「御所車」の車輪文様だそうです。蓋いっぱいに小さく丸くかかれていてます。言われなければ「御所車」と分かりませんでした。
http://usagigasi1f2.starfree.jp/kyoutohu/kyouto/kyouto.html
明日は、いよいよ参院選の公示です。私は選挙演説や、選挙速報が大好きで、最後の1人が決まるまで見てます。仕事があっても、たいがい翌朝まで見てますね。楽しみです。ずっと以前ですが、投票会場の一番乗りに競争をしたこともあります。ミーハーです(笑)
野菜は本当に高くなりましたね。我が家の畑では20種類の野菜を作っていて、6月から10月までは食べれるので食費には大助かりです。特にこれから暑くなると夏の野菜のトマト、キュウリが毎日採れるのでうれしいです。
日本各地にある鉱山跡。現在採掘している鉱山は、数少ないでしょうね。ないわけではないけど、ほとんど輸入に依存しているのが現状ですからね。
選挙は1回も棄権したことはありませんが、今回も期待は出来そうにないですね。期待しないで期日前投票に行きます。多分、投票日は7月の旅に出ているので。