9月26日月曜日、天気は秋晴れ、最高気温で24℃と外出するには最高の日和です。このところ好天気が連日で、自分が旅する時はどうなるのか?このまま晴れが続いて欲しいけど、雨男の私としては悪天候になるんじゃないか、と心配ではあります。
まぁ、天気ばっかりは気にしても仕方がないので、こればっかりは天に任せるしかないですね。
さて、ここは酪農生産日本1の別海町の秘境でもある走古丹(ハシリコタン)。猫の集落か?と見間違えるほど猫ちゃんが多い。あの「猫の島」の宮城県石巻市田代島を思い出せます。
ここに写っているのは2匹だけだけど、自分がランチを食べている間は7匹以上集まってました。

風蓮湖の北側の砂州が走古丹地区で、東側が根室湾、西側が風蓮湖と海と湖に挟まれた細長い陸地です。写真は西側で、風蓮湖に面した港です。根室湾側は遠浅の砂浜海岸だから港は造れないのか?それとも冬は凍結するし、強風が吹き荒れるから港を造らなかったのか?

この奥もずーっと風蓮湖。ハシリコタンという地名、名前からしてアイヌ語風ですね。アイヌ語で「新しい村」という意味。コタンはよく聞きますね。集落とか村です。
歴史を見ると、昔に根室アイヌの首長であるチンペイが別海アイヌをここに移転させた、そうです。
和人の歴史は、1854年(安政元年)に藤野喜兵衛が、石川・岩手・青森の漁夫百数十人を募集して漁業を行ったが、冬の寒さに敗北し越冬できなかった、それが最初らしいです。
1854年と云えば、幕府とアメリカの間で日米和親条約が結ばれた年で、ペリーが箱館にやってきた年でもあります。

別海町長による「開基の碑」がありました。走古丹開基115年とありますよ。

江戸時代末期は松前藩の所領だったとか。松前藩と云えば、北海道の南端に位置しますが、ここも領有してたなんて、おそらく江戸時代の藩の中では最大級の領土を保持していた藩ではないでしょうか?
もっとも、取れ高に関しては5万石と少なく、何せ江戸時代の蝦夷地は米の生産が出来なかったのですから。それが、今や新潟県と並ぶ日本最大級のコメの生産地にして、美味しいお米が採れるようになったのですから、この150年での時代の移り変わりは激しいですね。

この碑のある場所には大きな建築物があって、おそらくここは元学校か?今は防災施設になっているよう。津波が襲って来た時には、逃げようがないですのでここの建物の最上階へ避難すのでしょう。何せ、10㎞四方に山はもちろんのこと、丘すらなく海抜ゼロメートル地帯ですから。

マンホールには「はしりこたん」の文字が。かつては村だったからか?絵はハマナスの花でしょう。

続いて30㎞以上北上して野付半島へ。半島に入る前から行政区域は別海町から標津(しべつ)町へ。
細長い砂州の上を走ると、半島の途中でとある石碑を発見!同じく、会津藩の旗も!
北辺防衛会津藩顕彰碑とあります。

幕末、ロシアの南下で蝦夷地が危うくなり、幕府は東北諸藩に防衛を任せます。200数十名の会津の藩士が警備のためにこの地に赴任したが、厳しい寒さで多くが亡くなったと云います。

会津藩は、幕末から明治にかけてホントにきつかった時代がありました。賊軍として会津の地を追われ斗南藩という名の、下北半島の米すら作れない地へ飛ばされましたからね。いまだに薩長憎しの気持ちがあるのは分かります。
この夏、東北の高校が山口県(下関)=長州藩の高校を決勝で破り初優勝しましたが、みちのく(奥羽越列藩同盟)が150年の怨念を晴らしたぞ!と思うのも少しは分かりますね。

ここは延長28㎞にも及ぶ細長い砂嘴(さし)の半島。砂嘴とは、漂砂現象で砂が堆積した地ですが、砂州と違うのは嘴(くちばし)型の地形で海は湾を構成。一方、砂州は湖を構成します。例えば、砂州は鳥取県の弓ケ浜とか、男鹿半島が八郎潟を囲んだの2つの砂州。函館山を結び付けた陸繋島とか・


遠くに灯台が見えているけど、車は行けない!

この先関係者以外進入禁止です。関係者とは、漁業に携わる人たちで観光客は行けない地です。

立派な角を持ったオスのエゾシカ。ズームして見ましょう。

黙々と草を食べるオスが5頭と、メス2頭がお座りしています。

で、次回は野付半島の突端まで行ってみることにします。

天気は曇り空でしたが、何とか雨は降らず。湿地帯を行くにはどうするのか?ビジターセンターがあって、そこで見学していて外に出たら、出発寸前のあるものを発見し、それに飛び乗ったのです。
それは、次回で紹介します。
では、また!
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まぁ、天気ばっかりは気にしても仕方がないので、こればっかりは天に任せるしかないですね。
さて、ここは酪農生産日本1の別海町の秘境でもある走古丹(ハシリコタン)。猫の集落か?と見間違えるほど猫ちゃんが多い。あの「猫の島」の宮城県石巻市田代島を思い出せます。
ここに写っているのは2匹だけだけど、自分がランチを食べている間は7匹以上集まってました。

風蓮湖の北側の砂州が走古丹地区で、東側が根室湾、西側が風蓮湖と海と湖に挟まれた細長い陸地です。写真は西側で、風蓮湖に面した港です。根室湾側は遠浅の砂浜海岸だから港は造れないのか?それとも冬は凍結するし、強風が吹き荒れるから港を造らなかったのか?

この奥もずーっと風蓮湖。ハシリコタンという地名、名前からしてアイヌ語風ですね。アイヌ語で「新しい村」という意味。コタンはよく聞きますね。集落とか村です。
歴史を見ると、昔に根室アイヌの首長であるチンペイが別海アイヌをここに移転させた、そうです。
和人の歴史は、1854年(安政元年)に藤野喜兵衛が、石川・岩手・青森の漁夫百数十人を募集して漁業を行ったが、冬の寒さに敗北し越冬できなかった、それが最初らしいです。
1854年と云えば、幕府とアメリカの間で日米和親条約が結ばれた年で、ペリーが箱館にやってきた年でもあります。

別海町長による「開基の碑」がありました。走古丹開基115年とありますよ。

江戸時代末期は松前藩の所領だったとか。松前藩と云えば、北海道の南端に位置しますが、ここも領有してたなんて、おそらく江戸時代の藩の中では最大級の領土を保持していた藩ではないでしょうか?
もっとも、取れ高に関しては5万石と少なく、何せ江戸時代の蝦夷地は米の生産が出来なかったのですから。それが、今や新潟県と並ぶ日本最大級のコメの生産地にして、美味しいお米が採れるようになったのですから、この150年での時代の移り変わりは激しいですね。

この碑のある場所には大きな建築物があって、おそらくここは元学校か?今は防災施設になっているよう。津波が襲って来た時には、逃げようがないですのでここの建物の最上階へ避難すのでしょう。何せ、10㎞四方に山はもちろんのこと、丘すらなく海抜ゼロメートル地帯ですから。

マンホールには「はしりこたん」の文字が。かつては村だったからか?絵はハマナスの花でしょう。

続いて30㎞以上北上して野付半島へ。半島に入る前から行政区域は別海町から標津(しべつ)町へ。
細長い砂州の上を走ると、半島の途中でとある石碑を発見!同じく、会津藩の旗も!
北辺防衛会津藩顕彰碑とあります。

幕末、ロシアの南下で蝦夷地が危うくなり、幕府は東北諸藩に防衛を任せます。200数十名の会津の藩士が警備のためにこの地に赴任したが、厳しい寒さで多くが亡くなったと云います。

会津藩は、幕末から明治にかけてホントにきつかった時代がありました。賊軍として会津の地を追われ斗南藩という名の、下北半島の米すら作れない地へ飛ばされましたからね。いまだに薩長憎しの気持ちがあるのは分かります。
この夏、東北の高校が山口県(下関)=長州藩の高校を決勝で破り初優勝しましたが、みちのく(奥羽越列藩同盟)が150年の怨念を晴らしたぞ!と思うのも少しは分かりますね。

ここは延長28㎞にも及ぶ細長い砂嘴(さし)の半島。砂嘴とは、漂砂現象で砂が堆積した地ですが、砂州と違うのは嘴(くちばし)型の地形で海は湾を構成。一方、砂州は湖を構成します。例えば、砂州は鳥取県の弓ケ浜とか、男鹿半島が八郎潟を囲んだの2つの砂州。函館山を結び付けた陸繋島とか・


遠くに灯台が見えているけど、車は行けない!

この先関係者以外進入禁止です。関係者とは、漁業に携わる人たちで観光客は行けない地です。

立派な角を持ったオスのエゾシカ。ズームして見ましょう。

黙々と草を食べるオスが5頭と、メス2頭がお座りしています。

で、次回は野付半島の突端まで行ってみることにします。

天気は曇り空でしたが、何とか雨は降らず。湿地帯を行くにはどうするのか?ビジターセンターがあって、そこで見学していて外に出たら、出発寸前のあるものを発見し、それに飛び乗ったのです。
それは、次回で紹介します。
では、また!
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