4月27日木曜日、天気は快晴で気温は最高で15℃。太陽が照っているから家の中では暖かいが、でも風があって外を歩くには上着が2枚は必要です。4月は残すことろ3日。天気予報では、明日から3日間は雨マークが出ていて外出するにはよくない天候で、GW前半の花見は無理みたい。
さて、春の旅2日目の4月8日の宿泊地は、道の駅「雄勝」。右側は雄勝湾に面した海で、高さ10mの防潮堤。左側の建物は、手前から雄勝硯伝統産業会館、展示室、トイレがあって、30台ほどの駐車場、奥は物産館や飲食スペースのある建物。写真背後にも広い駐車場があります。
自分が車中泊したのは建物の間の駐車場で、清潔なトイレは直ぐだし車の中からもWi-Fiが効いていて車中泊する旅人にとってはうれしい地です。

到着したのは午後3時過ぎだったので、雄勝硯伝統産業会館を見ていきましょう。閉館は4:30で、以前2回来ていていずれも閉館直前だったために見学できなかったので、今回は是非とも見たかったのです。

販売コーナーは無料ですが、中の展示室は200円の入館料が必要。
日本1の硯で、重さ500㎏。どなたが使うの?

様々な形の硯。雄勝は硯石の産地で、生産も日本1。皆さんも子供の時、習字や書道の時間に硯で墨を作りましたよね。

販売コーナーでは、値段を見てびっくり!8万円もするとは!

コースターでも3000円!以外と値段張るんですね。

やっと、5000円クラスの硯を発見。でも、名刺サイズで5500円とは!やっぱり高い。

1時間ほどじっくりと見学後、道の駅から海沿いに500mほど歩くと「雄勝病院跡地」へ出ます。
ここには、「2011年3月11日 東日本大震災 雄勝病院の慰霊碑」があります。
実は、春の旅出発前の3月にBS・NHKで「震災時の雄勝病院」を見て、是非とも訪れたかったのです。

震災前、海沿いのここには今のような高い防潮堤がなく、3階建ての雄勝病院が建っていました。津波がやってくる、と聞いたときに病院長はじめ職員24名は、すぐ裏山へ逃げれば助かったのに建物内に患者さんととどまったのです。

奥の更地が病院跡地。裏の山には逃げ道がありました。歩けば数分で高さ30m以上の地へ行けます。が、病院には寝たきりの100歳以上の患者さんや90歳代の高齢者の患者さんが数十名。職員全員で3階まで運んだのですが、津波は3階の高さをはるかに越えて襲来し患者・職員全員亡くなったのです。

今は海が全然見えないほどの高さの防潮堤があります。
津波は高さ15m以上もの高さになり、3階の屋根の上には車が載っかかるほどの威力。
ただ言わせてもらいたいのは、生末短い命の患者さんたちに対し、病院長はじめ医師、看護師、臨床検査技師や20代の看護助手など職員24名も犠牲になられたこと。
若い彼らは生き残り助かり、怪我した人々の命を救えたはず、と自分は思うのですが。

丘の上には慰霊塔があります。3本の大きな柱と11本の小さな柱は、3.11を表します。
テレビでは、職員の遺族の人の声もありました。それは自分と同じような考えで「あの日に逃げてれば、住民の命を救えるし震災後も病院を維持できるはず」と。
ただ、それを真っ向から言えない、とも。

職員たちは裏山へ逃げて助かった、ということは患者さんたちを見捨てた、と云われるのか?
私はそれはない!と思うのですが、小さな町でそれが出来たのか?となると分からないです。

慰霊碑を見れば20代や30代の将来のある若い看護師さんや、当日休みの看護師さんも駆けつけて来て亡くなるとという悲劇もありました。40代や50代の働き盛りの医者や技師たちも、同時に亡くなっています。

皆さんはどう思われますか?職員たちは患者さんたちを置いて逃げるべきだったのか?それとも患者さんたちとともに死を覚悟して病院内に留まるべきだったのか?

今は更地になり、雄勝半島の住民たちは石巻市へ行かなければ大きな病院で診察を受けれない現実があります。地方は過疎で学校も病院もつぶれ、都市部へ集中しています。
ここの裏山を越えると、あの子供たち70数名が犠牲となった大川小学校跡地です。
震災から12年経た今だから、BSで特集して遺族の声も聴けたのでしょう。
釜石の「津波てんでんこ」は、津波が来たら各自勝手に逃げろ!を意味しますが、逃げれない人、特に生末短い人がいたらどうすればいいのか?
では、また!
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さて、春の旅2日目の4月8日の宿泊地は、道の駅「雄勝」。右側は雄勝湾に面した海で、高さ10mの防潮堤。左側の建物は、手前から雄勝硯伝統産業会館、展示室、トイレがあって、30台ほどの駐車場、奥は物産館や飲食スペースのある建物。写真背後にも広い駐車場があります。
自分が車中泊したのは建物の間の駐車場で、清潔なトイレは直ぐだし車の中からもWi-Fiが効いていて車中泊する旅人にとってはうれしい地です。

到着したのは午後3時過ぎだったので、雄勝硯伝統産業会館を見ていきましょう。閉館は4:30で、以前2回来ていていずれも閉館直前だったために見学できなかったので、今回は是非とも見たかったのです。

販売コーナーは無料ですが、中の展示室は200円の入館料が必要。
日本1の硯で、重さ500㎏。どなたが使うの?

様々な形の硯。雄勝は硯石の産地で、生産も日本1。皆さんも子供の時、習字や書道の時間に硯で墨を作りましたよね。

販売コーナーでは、値段を見てびっくり!8万円もするとは!

コースターでも3000円!以外と値段張るんですね。

やっと、5000円クラスの硯を発見。でも、名刺サイズで5500円とは!やっぱり高い。

1時間ほどじっくりと見学後、道の駅から海沿いに500mほど歩くと「雄勝病院跡地」へ出ます。
ここには、「2011年3月11日 東日本大震災 雄勝病院の慰霊碑」があります。
実は、春の旅出発前の3月にBS・NHKで「震災時の雄勝病院」を見て、是非とも訪れたかったのです。

震災前、海沿いのここには今のような高い防潮堤がなく、3階建ての雄勝病院が建っていました。津波がやってくる、と聞いたときに病院長はじめ職員24名は、すぐ裏山へ逃げれば助かったのに建物内に患者さんととどまったのです。

奥の更地が病院跡地。裏の山には逃げ道がありました。歩けば数分で高さ30m以上の地へ行けます。が、病院には寝たきりの100歳以上の患者さんや90歳代の高齢者の患者さんが数十名。職員全員で3階まで運んだのですが、津波は3階の高さをはるかに越えて襲来し患者・職員全員亡くなったのです。

今は海が全然見えないほどの高さの防潮堤があります。
津波は高さ15m以上もの高さになり、3階の屋根の上には車が載っかかるほどの威力。
ただ言わせてもらいたいのは、生末短い命の患者さんたちに対し、病院長はじめ医師、看護師、臨床検査技師や20代の看護助手など職員24名も犠牲になられたこと。
若い彼らは生き残り助かり、怪我した人々の命を救えたはず、と自分は思うのですが。

丘の上には慰霊塔があります。3本の大きな柱と11本の小さな柱は、3.11を表します。
テレビでは、職員の遺族の人の声もありました。それは自分と同じような考えで「あの日に逃げてれば、住民の命を救えるし震災後も病院を維持できるはず」と。
ただ、それを真っ向から言えない、とも。

職員たちは裏山へ逃げて助かった、ということは患者さんたちを見捨てた、と云われるのか?
私はそれはない!と思うのですが、小さな町でそれが出来たのか?となると分からないです。

慰霊碑を見れば20代や30代の将来のある若い看護師さんや、当日休みの看護師さんも駆けつけて来て亡くなるとという悲劇もありました。40代や50代の働き盛りの医者や技師たちも、同時に亡くなっています。

皆さんはどう思われますか?職員たちは患者さんたちを置いて逃げるべきだったのか?それとも患者さんたちとともに死を覚悟して病院内に留まるべきだったのか?

今は更地になり、雄勝半島の住民たちは石巻市へ行かなければ大きな病院で診察を受けれない現実があります。地方は過疎で学校も病院もつぶれ、都市部へ集中しています。
ここの裏山を越えると、あの子供たち70数名が犠牲となった大川小学校跡地です。
震災から12年経た今だから、BSで特集して遺族の声も聴けたのでしょう。
釜石の「津波てんでんこ」は、津波が来たら各自勝手に逃げろ!を意味しますが、逃げれない人、特に生末短い人がいたらどうすればいいのか?
では、また!
コメント
コメント一覧 (2)
函Gさん風邪ですか?。体がシャンとしないと、どこに行くのも億劫ですよね。早く治してここに旅行記を続けて下さい。楽しみに待っていますから。311の地震の時に、どこの小学校の女性校長でしょうか。校舎の近くの土手の一番高いとこまで「早くあがれ~!」と叫んでいました。それで生徒は全員助かったようです。
●プロレスさんもお元気のようで、私と一緒で医療費に貢献していますね(笑)
風邪引きが長引き出発が遅れてますが、なんとか16日にはスタート出来そうです。喉が痛くて困ってます。