10月4日土曜日、天気は晴れで今日も25℃を超える夏日となって、最高気温は27℃になる予報です。朝夕は冷えてきていて、最低気温は20℃を下回り14℃。いつものルーティンで朝6時頃に体操・ストレッチをしますが、さすがに半袖では寒くなっています。それでも、体を動かせば暖かくなります。
日の当たる家の中は30℃を超えていて暖かく、こんな10月は今までにないくらいの温暖で、これも地球温暖化の影響でしょう。
昨日朝に湯川漁港へ散歩へ出かけましたが、釣り人がフグやサバ、チカの他に縞ダイを釣っていて、本来温暖魚は北海道にいなかったはずが、獲れるようになったんですね。漁師さんたちはブリやカツオさらにはイセエビまで獲れると話しているの聞くと、ホントに驚きです!
さて、奥尻島の思い出第2弾です。フェリーターミナルに上陸して、目的の一番だった道南リング主催のプロレス大会を応援して、レンタカーを借りてドライブへ。最初に立ち寄ったのが、ここ鍋釣岩。

天気模様が怪しくなってきましたね。実は明日のフェリーで帰る予定でしたが、明日は2便とも欠航し、もう1日滞在する羽目になってショックです(泣)。

鍋の取っ手に似ていることから名付けられたとか。高さは19.5mもあって、夜に来るとライトアップされキレイなんですが、実は夜は大雨の予報だから来れるわけはありません。

奥尻島の地図を見てみましょう。北が右端になっていて、島が横向き。下側が東海岸で、上が西海岸。人口(2000人ほど)のほとんどは東側。現在地は赤いポイントで、青の矢印がフェリー乗り場。拡大図を見てみます。

先ほどまで開催刺されていたプロレス大会は、フェリーターミナルの駐車場でした。奥尻地区が一番の市街地で、町役場や病院、唯一のコンビニであるセイコーマートがある地区。レンタカーもそこで借りました。そこから距離にして500m程の地点にあるのが鍋釣岩です。

南へ行くと島の最南端の地区である青苗へ行きます。我々の宿泊場所はそこにあるホテルで、「島じかん」という名の食事なし・素泊まりのみのホテル。一泊5500円でした。朝食がないので、セコマでパンを購入。ランチはプロレス開催の前に、奥尻地区の数少ない食堂で食べてきたからお腹は十分でした。

対岸の渡島半島せたな町大成区の山々には低く雲がかかっていて、天気が悪くなる予感がしますね。実はその通りで、この後は少しずつポツリ・ポツリと雨が降り出し、やがて大雨へ。夜間は風も強まり強風・豪雨へ。最初考えていたホテルや旅館・民宿に泊まれなければ車中泊でもするか?などと呑気なプランだったら、大変な目に遭っていたかも?
それに車でフェリーに乗船したら往復で4万円以上かかるので、金銭的にもキツかったから、車は江差港へ置いてきて、ホテルも何とか取れたから良かったのでした。

フェリーが見えていますね。プロレスラーたちは、本来は島に一泊してウニやアワビなどの奥尻名物にありつけたのですが、急遽午後3時のフェリーで江差港へ帰ることに。実は明日は函館で試合が組まれているから、帰れるうちに帰らなければすべてのスケジュールが狂ってしまうからです。

それに多くの選手は東京から来ているので、明日夜の函館空港最終便または明後日始発便の東京行の飛行機に乗れなかったから大変なことになりますからね。
ここで選手の紹介。左上が今回の奥尻大会の主催をした道南リング代表であるカツオ選手、右上が奥尻町役場職員で空手選手でもある満島章選手、清水来人選手と塚本竜馬選手、マスクマンのエル・ホルネット選手は東京から。ハイビスカスみぃ選手は琉球プロレス所属、優宇選手は仙台女子プロレス所属、龍寿選手は唯一道内で札幌から参戦。皆さん、遠くから駆けつけて来ているのです。

9時40分発で、12時着のフェリーは、帰りは午後3時発。プロレス大会は、12時に到着後すぐにトラックから荷物を降してリング設営し、午後1時から試合開始し、2時には終了しすぐにリング解体し撤収。何とか間に合ったようです。

自分たちは、もう一泊せざるを得なくなりましたが宿泊先は満室で、キャンセルが出なきゃ泊まれない状況。翌朝にキャンセルが出てホットしましたが、明日の宿泊を心配するほど追い込まれることになったのでした。
雨の中、最南端にある奥尻島津波館を見学。入館料は大人520円。

1993年(平成5年)7月12日午後10時17分、マグニチュード7.8の巨大な北海道南西沖地震が発生し、奥尻島は推定震度6に見舞われ、さらに直後に最大で高さ30.6mの津波が押し寄せてきたのです。

島の犠牲者は死者172名、行方不明者は26人に達する島始まって以来の大惨事でした。

ここはそれを記録した建物で、多くの物を見ることで当時を思い出させます。
函館でも震度5を記録し、我が家で当時ブラウン管テレビが台から落ちたし、本棚の本はほとんど落ちて来て、もし寝ていたら頭の上に落下して怪我したかも分からない状況でした。そして茶の間にったカップやグラス、皿などが仕舞われていた茶箪笥が倒れそうになり、しばらくの間両手で抑えていました。怖い時間が続き、何時まで続くのか?子供たち3人が寝ていたので大丈夫か?とても心配だったのです。幸い、子供たちが寝ている部屋には倒れる物はなく、3人ともスヤスヤ寝ていて安心しましたが。

次回はもっと詳しく、ここ奥尻島津波館を紹介いたします。
では、また次回にお会いできるのを楽しみにしております。
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日の当たる家の中は30℃を超えていて暖かく、こんな10月は今までにないくらいの温暖で、これも地球温暖化の影響でしょう。
昨日朝に湯川漁港へ散歩へ出かけましたが、釣り人がフグやサバ、チカの他に縞ダイを釣っていて、本来温暖魚は北海道にいなかったはずが、獲れるようになったんですね。漁師さんたちはブリやカツオさらにはイセエビまで獲れると話しているの聞くと、ホントに驚きです!
さて、奥尻島の思い出第2弾です。フェリーターミナルに上陸して、目的の一番だった道南リング主催のプロレス大会を応援して、レンタカーを借りてドライブへ。最初に立ち寄ったのが、ここ鍋釣岩。

天気模様が怪しくなってきましたね。実は明日のフェリーで帰る予定でしたが、明日は2便とも欠航し、もう1日滞在する羽目になってショックです(泣)。

鍋の取っ手に似ていることから名付けられたとか。高さは19.5mもあって、夜に来るとライトアップされキレイなんですが、実は夜は大雨の予報だから来れるわけはありません。

奥尻島の地図を見てみましょう。北が右端になっていて、島が横向き。下側が東海岸で、上が西海岸。人口(2000人ほど)のほとんどは東側。現在地は赤いポイントで、青の矢印がフェリー乗り場。拡大図を見てみます。

先ほどまで開催刺されていたプロレス大会は、フェリーターミナルの駐車場でした。奥尻地区が一番の市街地で、町役場や病院、唯一のコンビニであるセイコーマートがある地区。レンタカーもそこで借りました。そこから距離にして500m程の地点にあるのが鍋釣岩です。

南へ行くと島の最南端の地区である青苗へ行きます。我々の宿泊場所はそこにあるホテルで、「島じかん」という名の食事なし・素泊まりのみのホテル。一泊5500円でした。朝食がないので、セコマでパンを購入。ランチはプロレス開催の前に、奥尻地区の数少ない食堂で食べてきたからお腹は十分でした。

対岸の渡島半島せたな町大成区の山々には低く雲がかかっていて、天気が悪くなる予感がしますね。実はその通りで、この後は少しずつポツリ・ポツリと雨が降り出し、やがて大雨へ。夜間は風も強まり強風・豪雨へ。最初考えていたホテルや旅館・民宿に泊まれなければ車中泊でもするか?などと呑気なプランだったら、大変な目に遭っていたかも?
それに車でフェリーに乗船したら往復で4万円以上かかるので、金銭的にもキツかったから、車は江差港へ置いてきて、ホテルも何とか取れたから良かったのでした。

フェリーが見えていますね。プロレスラーたちは、本来は島に一泊してウニやアワビなどの奥尻名物にありつけたのですが、急遽午後3時のフェリーで江差港へ帰ることに。実は明日は函館で試合が組まれているから、帰れるうちに帰らなければすべてのスケジュールが狂ってしまうからです。

それに多くの選手は東京から来ているので、明日夜の函館空港最終便または明後日始発便の東京行の飛行機に乗れなかったから大変なことになりますからね。
ここで選手の紹介。左上が今回の奥尻大会の主催をした道南リング代表であるカツオ選手、右上が奥尻町役場職員で空手選手でもある満島章選手、清水来人選手と塚本竜馬選手、マスクマンのエル・ホルネット選手は東京から。ハイビスカスみぃ選手は琉球プロレス所属、優宇選手は仙台女子プロレス所属、龍寿選手は唯一道内で札幌から参戦。皆さん、遠くから駆けつけて来ているのです。

9時40分発で、12時着のフェリーは、帰りは午後3時発。プロレス大会は、12時に到着後すぐにトラックから荷物を降してリング設営し、午後1時から試合開始し、2時には終了しすぐにリング解体し撤収。何とか間に合ったようです。

自分たちは、もう一泊せざるを得なくなりましたが宿泊先は満室で、キャンセルが出なきゃ泊まれない状況。翌朝にキャンセルが出てホットしましたが、明日の宿泊を心配するほど追い込まれることになったのでした。
雨の中、最南端にある奥尻島津波館を見学。入館料は大人520円。

1993年(平成5年)7月12日午後10時17分、マグニチュード7.8の巨大な北海道南西沖地震が発生し、奥尻島は推定震度6に見舞われ、さらに直後に最大で高さ30.6mの津波が押し寄せてきたのです。

島の犠牲者は死者172名、行方不明者は26人に達する島始まって以来の大惨事でした。

ここはそれを記録した建物で、多くの物を見ることで当時を思い出させます。
函館でも震度5を記録し、我が家で当時ブラウン管テレビが台から落ちたし、本棚の本はほとんど落ちて来て、もし寝ていたら頭の上に落下して怪我したかも分からない状況でした。そして茶の間にったカップやグラス、皿などが仕舞われていた茶箪笥が倒れそうになり、しばらくの間両手で抑えていました。怖い時間が続き、何時まで続くのか?子供たち3人が寝ていたので大丈夫か?とても心配だったのです。幸い、子供たちが寝ている部屋には倒れる物はなく、3人ともスヤスヤ寝ていて安心しましたが。

次回はもっと詳しく、ここ奥尻島津波館を紹介いたします。
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