11月8日土曜日、天気は晴れですが最高気温は9℃で、10℃を下回り冷え込んだ朝を迎えています。道内は札幌市などで雪が積もり一面銀世界になっていますが、道南・函館は雪は降らず。朝散歩に出かけた時に山を見たら案の定山頂付近は真っ白で、昨夜は降雪があったんだな、と。
外を歩くと雪虫も増えて来ているのが分かるし、1日1日と冬へと進行しています。来年3月になるまでは、じっと耐える季節です。
さて、秋の旅の総集編は11回目。志賀町の道の駅「とぎ海街道」へ来ています。ここの地名は富来(とぎ)町で、260円と格安の温泉名も「とぎ温泉センター」だったので、調べたら2005年9月1日に、志賀町と富来町が合併して、志賀町になったのでした。

世界1長いベンチも紹介されています。全長460.9mは確かに長~い!日没から4時間はライトアップされるんですね。
ここで紹介されている他の地である巌門、旧福浦灯台は明日行くことになっています。

で、気になった石碑があったのです。それがこれ「岸壁の母」。

戦争が終わり、外地に出兵していた息子が帰って来るのを待つ「岸壁の母」の舞台は、確か京都府舞鶴市であったはず。ここと何の関係があるのかな?と疑問に思ったので、道の駅内にあるミニ資料館を見学。
実はこの写真のお母さんはここの出身で、シベリアから引き揚げてくる息子を舞鶴の岸壁で待ち続けていたのです。

右の写真は息子の新二と若き頃の母。左は36年間も待ち続けて高齢になった母。彼女の名は端野(たんの)いせさん(明治32年、1899年9月15日~昭和56年、1981年7月1日 81歳)。ここ富来町で生まれ、函館で青函連絡船の乗組員であった夫の端野清松と一人娘と暮らしていたが、昭和5年(1930年)に夫と娘を相次いで亡くす悲劇。函館の家主であった資産家の橋本家から新二という名の男の子を養子にもらい翌年の昭和6年に上京。
新二は立教大学へ入学するも中退し、軍人を目指して満州で関東軍の予備士官学校へ入学します。それが終戦前年の1944年のこと。同年ソ連軍の攻撃を受けて中国で行方不明になったそうです。

母のいせさんは、東京の大森に暮らしながら、新二の生存を信じて昭和25年から6年間も、ソ連ナホトカ港からの引き揚げ船が入港するたびごとに舞鶴の岸壁に立っていたそうです。

「岸壁の母」はいろいろな歌手が歌っています。最初は1954年に菊池章子さんから始まり、有名なのは二葉百合子さん(下の写真の右側)、他にちあきなおみさん、天童よしみさん、藤圭子さん、石川さゆりさん、坂本冬美さん(左の女性)などがレコードを出しています。

ということで、「岸壁の母」の関して、多くのことを学んだのでした。
モデルがここ富来町の出身であっったこと。そして一時は函館で幸せに暮らし娘もいたこと。辛いことは夫と娘が亡くなったこと。その後に養子をもらったこと。その子を実の子として可愛がり、戦地から引き揚げて来るのを36年間も待っていたこと。
「そうだったのか!」と思わず戦争の悲劇を感じたのでした。戦争は絶対に起こしてはいけないし、戦争で苦しむのは弱者である女性、高齢者、子供たちなのだから、戦争は絶対悪なのです!
では、また次回にお会いできるのを楽しみにしております。
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外を歩くと雪虫も増えて来ているのが分かるし、1日1日と冬へと進行しています。来年3月になるまでは、じっと耐える季節です。
さて、秋の旅の総集編は11回目。志賀町の道の駅「とぎ海街道」へ来ています。ここの地名は富来(とぎ)町で、260円と格安の温泉名も「とぎ温泉センター」だったので、調べたら2005年9月1日に、志賀町と富来町が合併して、志賀町になったのでした。

世界1長いベンチも紹介されています。全長460.9mは確かに長~い!日没から4時間はライトアップされるんですね。
ここで紹介されている他の地である巌門、旧福浦灯台は明日行くことになっています。

で、気になった石碑があったのです。それがこれ「岸壁の母」。

戦争が終わり、外地に出兵していた息子が帰って来るのを待つ「岸壁の母」の舞台は、確か京都府舞鶴市であったはず。ここと何の関係があるのかな?と疑問に思ったので、道の駅内にあるミニ資料館を見学。
実はこの写真のお母さんはここの出身で、シベリアから引き揚げてくる息子を舞鶴の岸壁で待ち続けていたのです。

右の写真は息子の新二と若き頃の母。左は36年間も待ち続けて高齢になった母。彼女の名は端野(たんの)いせさん(明治32年、1899年9月15日~昭和56年、1981年7月1日 81歳)。ここ富来町で生まれ、函館で青函連絡船の乗組員であった夫の端野清松と一人娘と暮らしていたが、昭和5年(1930年)に夫と娘を相次いで亡くす悲劇。函館の家主であった資産家の橋本家から新二という名の男の子を養子にもらい翌年の昭和6年に上京。
新二は立教大学へ入学するも中退し、軍人を目指して満州で関東軍の予備士官学校へ入学します。それが終戦前年の1944年のこと。同年ソ連軍の攻撃を受けて中国で行方不明になったそうです。

母のいせさんは、東京の大森に暮らしながら、新二の生存を信じて昭和25年から6年間も、ソ連ナホトカ港からの引き揚げ船が入港するたびごとに舞鶴の岸壁に立っていたそうです。

「岸壁の母」はいろいろな歌手が歌っています。最初は1954年に菊池章子さんから始まり、有名なのは二葉百合子さん(下の写真の右側)、他にちあきなおみさん、天童よしみさん、藤圭子さん、石川さゆりさん、坂本冬美さん(左の女性)などがレコードを出しています。

ということで、「岸壁の母」の関して、多くのことを学んだのでした。
モデルがここ富来町の出身であっったこと。そして一時は函館で幸せに暮らし娘もいたこと。辛いことは夫と娘が亡くなったこと。その後に養子をもらったこと。その子を実の子として可愛がり、戦地から引き揚げて来るのを36年間も待っていたこと。
「そうだったのか!」と思わず戦争の悲劇を感じたのでした。戦争は絶対に起こしてはいけないし、戦争で苦しむのは弱者である女性、高齢者、子供たちなのだから、戦争は絶対悪なのです!
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